27dB ◆ SILENT BEAT ―音が聴こえなくても、響く世界へ―
──ライブ会場。
その空間には、いつものような開演を待つ観客のざわめきはなかった。
あるのは、期待に満ちた、静かな熱気。
会場の床、壁、そして一つ一つの座席にまで埋め込まれた無数のスピーカーは、音を鳴らすためではなく、ただ〝振動〟を伝えるためだけに存在している。
ホール内の巨大な音響設備は最小限に抑えられ、代わりにステージを取り囲むように設置されたLEDスクリーンが、青白い光の粒子を空間に漂わせていた。
その光の明滅は、舞台裏で精神を集中させている凪の心臓の鼓動と、リアルタイムで同期している。
メイン会場、最前列のど真ん中。
詩音は母と弟の涼に挟まれて、静かにその席に座っていた。
手渡された骨伝導ヘッドホンを、そっと耳にかける。まだ、何も聞こえない。
けれど、床から、椅子から、微かな振動が伝わってくる。
それは、この会場そのものが一つの巨大な楽器として、今まさに目覚めようとしている予感だった。
詩音は、思わず胸元でネックレスを強く握りしめた。凪がくれた、自分の心音の波形。
そして、耳元で静かに光るイヤーフックに、そっと手を添える。
(凪くん……)
関係者席に座る涼は、目の前の光景にただ圧倒されていた。
姉のために、たった一人のために、世界的なアーティストがこれだけの世界を創り上げた。
その事実が誇らしくて、少しだけ悔しくて、どうしようもなく胸が熱くなる。
(……凪兄、最高にかっこいいよ)
その声は、誰にも届かない。でも、それでよかった。
やがて、会場の照明が、ふっと落ちる。
完全な暗闇と、静寂。
そして──。
ドン、という衝撃が、腹の底から突き上がってきた。
音ではない。純粋な振動。バスドラムの一打が、椅子の背もたれを通して、詩音の背中を直接叩いたのだ。
それに呼応するように、ステージの床から、無数の光の柱が天に向かって伸び上がる。
【SILENT BEAT】が、始まった。
ステージの中央には、凪が立っていた。
銀色の髪を揺らし、全身でリズムを刻む。
その姿は、もはや「永倉凪」ではない。
音楽の神がその身に宿ったかのような、孤高のアーティスト「XENO」。
骨伝導ヘッドホンから、凪の〝呼吸〟だけが、直接詩音の頭蓋骨に響いてくる。
深く、息を吸い込む気配。
そして、歌い出しと共に熱い息が吐き出される、その微かな震え。
それは、声というフィルターを通さない、彼の感情の、あまりにも生々しい奔流だった。
ベースラインのうねりは足元から、ピアノの和音のきらめきは指先から、ギターの鋭いカッティングは肩から。
身体の各部位が、それぞれ違う楽器の振動を受け止め、詩音の身体そのものが一つのオーケストラになっていく。
Cメジャーのコードが鳴れば、会場は温かいオレンジ色に染まり、Aマイナーに転調すれば、切ないブルーの光が満ちる。
詩音は、光の色で、曲の感情を視ていた。
ステージの両脇では、手話パフォーマーたちが、歌詞の世界をもう一つの舞踊として表現している。
それは、単なる翻訳ではない。喜び、悲しみ、怒り、愛。
そのすべてが、彼らの指先から、表情から溢れ出し、音楽の一部となっていた。
詩音は、生まれて初めて音楽の洪水の中にいた。
温度、光、振動、香り、そして目の前のステージで歌う〝彼〟という存在──
そのすべてが〝音楽〟として、五感のすべてに叩きつけられてくる。
詩音は、思わず胸元を押さえた。
聴こえないのに、こんなにも響いている。
(……すごい。音が聴こえないからこそ、音じゃないものが全部、音楽になるんだ)
彼女の目に、涙が滲んだ。それでも、笑っていた。
いま、自分は世界でいちばん豊かな〝音楽〟の中にいる──そう、確信していた。
客席のあちこちでは、静かな奇跡が起きていた。
生まれつき音を知らない少年が、床から伝わるバスドラムの振動に驚いて、隣にいる母親の手を強く握る。
長年、ライブを諦めていた老夫婦が、手話パフォーマーの指先が紡ぐ歌詞の世界に、静かに涙を流している。
誰もが、生まれて初めて「音楽の当事者」になっていた。
疎外されることなく、ただ、その中心にいる。
振動で伝わる凪の息遣いに、固唾をのむ。
光の色の変化に、心を揺さぶられる。
これは、XENOからの「施し」ではない。
自分たちのための、自分たちが主役の、本物の音楽だった。
一方、その熱狂はライブビューイング会場にも、まったく違う形で伝播していた。
そこにいる健常者のファンたちは、スピーカーから流れるXENOの完璧な歌声を聴いていた。
だが、それだけではなかった。
スクリーンに映し出されるのは、メイン会場の観客たちが、光と振動に身を委ね、恍惚とした表情で涙を流す姿。
自分たちが「聴いている」音楽を、彼らが全身で「感じて」いる。
その光景が自分たちの聴覚そのものを、根底から揺さぶってくる。
「……やばい、なんか、鳥肌が……」
「今まで聴いてたXENOの曲と、全然違って聴こえる……」
「音って、耳だけで聴くもんじゃないんだな……」
健常者である彼らは、生まれて初めて「音が聴こえる」という自分たちの感覚がいかに限定的であったかを、思い知らされていた。
***
ライブの終盤。
最後の曲が終わり、ステージの中央には凪が一人、静かに立っていた。
光がゆっくりと消え、静寂の中に彼の〝呼吸〟だけが、振動を通して観客一人一人に直接響いている。
やがて、背後のスクリーンに、凪の手書きの文字が映し出された。
《今日、ここに来てくれて、本当にありがとう》
《俺は、ずっと自分の音楽がどこまで届くのか、試したかった。世界中の人に、俺の音を聴いてほしかった》
《でもある日、たった一人に届かないことを知った。世界中の誰に届いても、たった一人に届かないなら、そんな音楽に意味はないと思った》
凪は、客席のその一点を、まっすぐに見つめている。
詩音は、彼と視線が合っていることを確信した。
《だから、俺は決めたんだ。聴こえる音楽を作るのを、一度やめよう、と。
彼女が感じている世界。その静寂を、その振動を、その光を、俺も知りたかった》
《このライブは、その1年半の、俺と彼女の旅の記録です》
《そして今日、ここで鳴っているすべての〝音〟は、俺からたった一人の大切な人へのラブレターであり、聴覚障害のあるみんなに贈る〝新しい可能性〟です》
その言葉が映し出された瞬間、詩音は溢れ出す涙を止めることができなかった。
隣で母が、その肩を優しく抱きしめてくれる。
涼が俯きながら、何度も拳を握りしめているのが見えた。
凪は耳元にそっと触れる。指先に伝わる冷たい感触。
詩音が凪に贈った〝from 0dB to you.〟のフレーズ。
《きみの静寂は、俺の音》
《きみがくれた、この0dBの世界から、俺の新しい音楽は始まりました》
《だから、ありがとう。詩音》
《新しい世界を見せてくれて》
《ここにいるみんなに、出会わせてくれて》
その言葉を最後に、ステージは完全な暗闇に包まれた。
***
ライブビューイング会場。
永倉家は、巨大なスクリーンに映し出される息子の姿を、固唾をのんで見守っていた。
「……あいつ、本当にやりやがった……」
おとんが、震える声で呟く。
「ええ顔、してるわあ……」
おかんの目には、大粒の涙が浮かんでいた。
美優と真優は、ただ、声を殺して泣いていた。
会場の外には、チケットを手に入れられなかった何千人ものファンが集まっていた。
音漏れは、一切ない。
それでも彼らは、会場から伝わってくる地面の微かな振動と、壁面を彩る光の変化だけで、中の熱狂を感じ取っていた。
誰もが祈るように、その場から動かなかった。
そして、メイン会場。
ライブの終わりを告げる暗闇の中、拍手は起こらなかった。
その代わり、客席の全員が両手を高く掲げ、指をキラキラと揺らしていた。
手話で「拍手」を意味する、光の喝采。
その音のない熱狂の中心で、凪は一人、静かに涙を流していた。
届いた。
いや、共に創り上げたのだ。
聴こえなくても、響く世界を。
凪はマイクを通さず、客席の詩音にだけ、唇の動きで伝えた。
「愛してる」
詩音は涙で濡れた顔のまま、世界で一番、美しく微笑んだ。




