2dB ◆ 共鳴のはじまり
あの日、彼女に傘を差し出したことを、凪はずっと引きずっていた。
──いや、正確には、彼女のあの〝ことば〟を、だ。
《振動。あとは景色とか、表情とか。音はなくても、感情で感じている気がします》
〝音楽とは何か〟
そんな問いは、とうの昔に通り過ぎたつもりでいた。
だが、音のない世界で、彼女は誰よりも繊細に〝音〟を感じている。
「……あの子の目に映る世界を、曲にしてみたい」
ぽつりと、そんなことを考えてしまう。
***
撮影は、午後から始まった。
ロケ地は、都内の高層スタジオビル。
全面ガラス張りの空間に、機材の立てる硬い音、スタッフたちの慌ただしい声、意味のない雑談といった〝ノイズ〟が反響している。
凪は、ひとりエレベーターで地上に降り、ビルの外へ出た。
外気に触れた瞬間、まとわりつく喧騒から解放され、視界がすっと晴れる。
軽く息を整えて通りを歩き、ふと目に入った小さなカフェの扉を開ける。
カラン、とドアベルの代わりに、柔らかな木の香りと、控えめなジャズの音色が凪を迎えた。
店内は静かだ。数人だけが席に座り、それぞれの時間を過ごしている。
──そして、そこに彼女はいた。
カフェのいちばん奥。
窓際の光の中で、静かにページをめくる少女。
光を反射して艶やかに流れる黒髪。白く細い指先。
そして、あのときと変わらない、静けさを纏った瞳。
──なぜだろう、目が離せなかった。
(……あの子だ)
思考より先に、身体が動く。
凪は一瞬だけ足を止め、ためらいがちに、彼女の向かいの席へ腰を下ろした。
顔を上げた彼女の瞳が、凪を捉える。
その瞳が、かすかに揺れた。
だが、すぐに──ふわっと花が咲くように笑う。
それは驚きの〝記憶〟ではなく、再会を喜ぶ〝確認〟のような微笑みだった。
彼女はスマホを取り出し、指を滑らせて文字を打つ。
《こんにちは》
凪もつられて笑みを返し、スマホを取り出す。
なのに、すぐには言葉が出てこない。
画面を開いたまま、しばらく指が止まる。
彼女は、じっと凪を見つめている。
その曇りのない視線に、凪はかすかに照れたように唇を歪め、ようやく文字を打ち込んだ。
《また会えたね。偶然》
こくんと頷いたあと、スマホを一度伏せて、少し間を空けて、ふたたび文字を綴る。
《不思議ですね。またお会いできるような気がしてました》
彼女の言葉に、凪の胸の奥が静かに熱を持った。
(……俺も、だ)
そんな言葉は、画面には打てなかった。
詩音は、凪の顔にどこか見覚えがあるような気がしていた。
テレビか、雑誌か。
そんな感覚が一瞬だけよぎったが、不思議とそれ以上、深く考えようとは思わない。
目の前にいるこの人は、あの日、傘を差し出してくれた。
自分のことを何も知らないまま、そっと手を伸ばしてくれた、優しい人。
だから、それ以上の情報はいらなかった。
何気ないやり取りが、数分だけ続く。
ふたりのスマホはやがて沈黙に包まれた。
そして、凪がふと画面に文字を打つ。
《俺、ちょっとだけここで撮影してる。音楽関係のやつ》
〝音楽〟──その言葉に、彼女の表情がわずかに変わった。
(音楽をしてる人なんだ)
けれど、それが〝誰なのか〟までは繋がらない。
彼女はそれ以上、何も訊かなかった。
その〝無言〟が、凪には少しだけ救いだった。
立ち上がる前に、凪はもう一度スマホを手に取る。
今度は迷いなく、文字を綴った。
《また会えたら、その時はもっと話そう。音のこと、君のこと》
彼女は、こくりと頷いた。
そして、少しだけ口元を緩めて──まるで照れ隠しのように、ふっと笑った。
名前は、その日もまだ、交わされなかった。
それでも、ふたりの間に流れていた静けさは、たしかに豊かな〝音〟を持っていた。
***
スタジオへ戻る道すがら、周囲の視線とざわめきが集まり始めているのを感じる。
(ああ、また〝XENO〟を見る目に変わっていく)
だが、彼女だけは──
俺を〝見ていない〟まま、ちゃんと〝見ていた〟
名前も、音楽も、肩書きも知らない、ただの俺を。
「……あの子に〝知られたい〟って、初めて思ったな」
XENOとして、じゃなくて。
〝永倉凪〟として。
音は聴こえなくてもいい。
でも、俺の曲が──
あの世界で、生きられるなら。
その願いが、音もなく、胸に染み渡った。
人通りのない裏通りへ足を向けると、車の音も遠のき、風だけが吹き抜ける。
どこか澄んだ空気が、火照った頭を冷やしていくようだった。
ふと、ポケットの中で、スマホが小さく震えた。
画面には、スタッフからの催促の通知がいくつか並んでいる。
だが、すぐには開かずに、胸ポケットにしまい込んだまま空を仰いだ。
いま思い返すのは、さっきのカフェで交わした言葉たちだ。
声のない会話。静かな視線のやりとり。
そして、彼女があの雨の日にスマホに綴った、あの文章。
《振動。あとは景色とか、表情とか。音はなくても、感情で感じてる気がする》
(……あの言葉、やばいくらい頭に残ってる)
風景の中に音を見出し、感情が波のように〝届く〟
〝音楽って、なんだろう〟
その根源的な問いを、また一から投げかけられた気がした。
──名前、訊けばよかったか。
いや、訊けなかった。あの沈黙の後では。
それは、崩してはいけない静けさだったから。
もし訊いていたら、その響きは、どんなふうに届いたんだろう。
名前ひとつで、人の輪郭は変わる。
それでも──今は、知らないままでよかった。
言葉でも、声でもなく。
目の奥にあったものを、ちゃんと見つめられた気がしたから。
目と目が合ったあのときの沈黙が、いまも胸に淡く残っている。
(……なんだったんだろうな、あの感覚)
けれど。
けれど、もし。
もう一度会えたなら──
「……ちゃんと、伝えたい」
独り言のようにこぼれた声が、ひどく小さく響いた。
スマホを取り出し、ボイスメモを起動する。
「……今日のカフェでのこと。あの子は、耳が聴こえない。
なのに、音楽を〝感じてる〟と言った。振動、景色、表情……。
音がなくても届くなら、それこそが〝音楽〟の本質じゃないのか?
俺は今まで、何を歌ってきたんだろうな……」
ボイスメモは再び静寂に沈む。
だが、胸の奥では何かが確かに、音を立てていた。
(あの子に……見てほしい)
俺が、どんな音を鳴らすかじゃない。
〝君の世界に、俺の音が届くかどうか〟
──ただ、それを知りたくなった。
「……そうだ」
凪は再びスマホを握り直し、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「もしまた会えたら、レコーディングに……あの子を、誘ってみよう」
音を〝感じる〟彼女に、音の〝作られる場所〟を見せてみたくなった。
もしも、彼女の静かな世界に、ほんの少しだけでも〝音の景色〟を届けられるとしたら。
それはきっと、歌じゃなくて、願いだった。
名前は知らない。
それでも、互いの内側に確かに残る〝なにか〟があった。
音でも、言葉でもなく──触れずに通じ合った〝余白〟のようなもの。
この静けさの先にあるものを、まだふたりのどちらも、見えてはいなかったとしても。
それはきっと、はじまりの一部だった。
***
カフェを出たあとも、詩音は手の中のスマホを見つめていた。
画面には、さっきまでのやりとりが静かに光を放っている。
詩音の胸に残っていたのは、彼が自分のスマホに打ち込んだ最後のメッセージだった。
《また会えたら、その時はもっと話そう。音のこと、君のこと》
(……〝君のこと〟)
そのひと言が、じんわり胸にしみていく。
会話というにはあまりに静かで、短い時間だった。
それでも、何かが確かに通じ合った、と詩音は思う。
スマホを閉じると、画面を滑った指先に、彼の残したあたたかさが、まだほんのりと宿っているようだった。
声も、名前も、知らないまま。
けれど、気配だけが、不思議と胸に残っていた。
〝知りたいと思うこと〟と〝訊かないままでいること〟
似ているようで、本当はまったく違うその繊細な距離感を、詩音はずっと前から知っていた。
ただ触れるのではなく、触れないまま相手を見つめるような、その距離が心地よくもある。
胸元にしまったスマホが、少しだけ重みを増したように感じる。
まるで、言葉にならない想いを、彼から預かっているみたいだった。
彼がどんな人なのか──
わたしは、まだ何も知らない。
けれど、もしも、もう一度会えたら。
その時は、この心地よい〝余白〟を、もう少しだけ埋めてみたい。
それはきっと、言葉じゃなく。
感情の静かな余韻で、そっと、満たしていくもの。