26dB ◆ 静寂が鳴るとき
日本に帰国してから、約一年半。
詩音は大学3年生としての夏を迎えていた。
すっかり慣れたキャンパスを、少しだけ仏頂面をした涼と歩く。
《……涼くん、過保護すぎ》
詩音が呆れたように、でも嬉しそうに微笑みながらスマホに文字を打つ。
大学に復学して以来、涼は詩音に言い寄ってくる男たちを、その鋭い目つきとオーラだけでことごとく退けてきた。
その過保護っぷりは、今や学内でも有名になっている。
《凪兄からも「詩音に極力男を近づけるな」って言われてるから》
《みんな、わたしが障害者だから気を遣って声をかけてくれるだけだよ?》
詩音は首をかしげ、スマホを軽く傾けて涼に見せた。
涼は肩をすくめ、前を向いたまま画面を打つ。
《……もうすぐだね、凪兄のライブ》
詩音が顔を上げると、涼は真剣な目で画面を見つめながら続けた。
《俺の友達、全員チケット落選したって言ってた。
世界中が注目してるって、テレビでも毎日やってるよ。
姉ちゃんは、今どんな気持ち?》
詩音はスマホを胸の前で抱え、ほんの少し頬をゆるめた。
《……うん。すごく、楽しみ》
《だよな。彼氏の〝人生を懸けたライブ〟だもんな》
その文字を見た瞬間、詩音の胸の奥に、ふわりと熱が広がった。
そうだ。これは、ただのライブじゃない。
凪くんが、わたしのために創ってくれた、新しい世界の始まりなのだ。
***
同時刻、ライブ本番を数日後に控えた巨大なアリーナ。
そのステージ上に、凪は立っている。
スポットライトが焚かれ、客席はまだ暗闇に沈んでいた。
流れる汗を手の甲で拭い、彼はマイクスタンドを強く握りしめる。
その姿は、詩音や家族の前で見せる、穏やかな「永倉 凪」とは違う。
髪は無造作に乱れ、目の下には音楽に身を捧げた証として深い隈が刻まれていた。
だが、ひとたびマイクスタンドを握り、ステージの中央に立った瞬間──
空気が変わる。
その瞳に宿る光、全身から放たれるオーラは、まぎれもなく世界を魅了するアーティスト「XENO」そのもの。
「……各セクション、最終チェックお願いします!」
ディレクターの声が、インカムを通して響く。
床、壁、椅子に埋め込まれた何百もの触覚スピーカー。
脳波と連動する照明システム。
骨伝導ヘッドホンから流れる、凪の呼吸音の最終調整。
客席後方には、歌詞と音楽のイメージをリアルタイムで翻訳する、手話パフォーマーたちの姿がある。
初めての挑戦だらけの現場は、期待と不安、そして得体の知れない高揚感に包まれていた。
「……なあ、凪」
最終調整の合間、マネージャーの久我が、心配そうに声をかける。
「ほんとに、やれるのか。こんな、誰もやったことのないライブ……」
その不安は、ここにいる全員の胸にも広がっていた。
凪は、ゆっくりと振り返る。
そして、ステージ上にいる数十人のスタッフを、ひとりひとり見渡した。
口元に、ふっと穏やかな笑みを浮かべる。
「……みんな、不安か?」
その声は、マイクを通さずとも会場の隅々まで響き渡るような、不思議な力を帯びていた。
「当たり前だよな。俺たち、前例のない地図のない航海に出ようとしてるんだから」
凪は、目を閉じる。
「でも、俺は怖くない。
……なぜなら、このライブの正解は、俺たちの頭の中にはないからだ。
正解は、たった一人──この音を受け取ってくれる、彼女の中にしかない」
再び目を開いた凪の瞳には、神が宿ったかのような光が灯っている。
「だから、俺たちはただ信じればいい。俺が、彼女を信じて創るこの音を。
そして、この無謀な挑戦についてきてくれた仲間たちを。
……俺は、あんたたちを信じてる」
その言葉に、息を呑むスタッフたち。
「さあ、行こうか」
凪は、マイクをそっと口元に引き寄せる。
「世界で一番静かで、一番美しい音を、創りに」
その宣言に、誰からともなく力強い拍手が湧き上がった。
不安はもう、どこにもない。
今はただ、これから始まる革命への熱狂的な期待だけが満ちている。




