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23dB ◆ 0dBの設計図

スタジオの片隅に、凪はひとり座っていた。

スクリーンにはいくつもの複雑な波形データと、色彩設計のシミュレーション、そして人体の骨格図が同時に映し出されている。

振動、光、映像、香り、温度──それらすべてが、ある一つの心拍のリズムに合わせて、緻密に交差していた。


「……まだ、足りない」


ぽつりと、凪は呟く。

頭の中には、アメリカで詩音と共に過ごした一年半の、膨大な感覚の記憶が再生され続けていた。

彼女が「同じ?」と尋ねた、あの日の音階。

彼女が涙を流した、あの音楽の振動。

あれだけじゃ、届かない。

俺が届けたいのは、単なる「音の代替品」じゃない。

耳が聴こえなくても、この世界のすべてが、どれほど豊かで美しい音楽に満ちているか。

それを、伝えたい。


「凪。さっきのセッション、再チェックするか?」


エンジニアの工藤の声に、凪はゆっくりと振り返る。


「ああ、あとで。……もう少しだけ、調整させてください」


その目は、どこか現実ではない、遥か遠くの世界を見ていた。

スクリーンに映るのは、触覚スピーカーの周波数データと、照明の色彩理論。

それらすべてが、彼の頭の中で、一つの壮大な交響曲として構成されようとしていた。


「なあ、凪」


重ねて声をかけてきたのは、長年凪と組んできたディレクターだった。


「音楽で〝振動〟ってのは、今までもあった。クラブの重低音とかな。

でも〝耳が聴こえない人〟のためのライブって、本気でどうするつもりなんだ?」


凪は、ためらいもなく口を開く。


「〝聴こえること〟を正解にするから、難しくなるんです」


そして、スクリーンを指差した。


「俺たちが目指すのは〝感じられること〟そのもの。

それに俺は……世界でたった一人に、最高のライブを届けたいだけなんで」


その言葉に、ディレクターは息を呑んだように黙り込んだ。


***


凪は一人、黙々と動いていた。

医療機器のベンチャー企業、骨伝導技術の世界的権威、触覚フィードバック技術のトップ開発者、そして、詩音のリハビリでお世話になった言語聴覚士のチーム。

凪は自らの足で彼らを訪ね、たった一つの想いを伝えて回った。


「音を〝振動〟に変えるだけじゃ、足りない。

光、映像、香り、温度、触覚……人間の五感すべてを使って、たった一人のために、最高の音楽を届けたいんです」


誰もが、最初は戸惑った。


「……そんなこと、前例がない。可能なのか?」


凪はゆっくりと、しかし燃えるような確信をもって頷いた。


「できます。俺が、やります」


***


その数週間後。

所属事務所の大会議室に、各分野のトップランナーたちが、半信半疑の顔で集められていた。

その前で、凪はホワイトボードにプロジェクト名を記す。


【SILENT BEAT】

──聴こえなくても、響く世界へ。


「これは、ライブではありません。音楽の形をした〝体験〟です」


凪は集まった専門家たちに語り始めた。


「会場の床、壁、椅子、すべてに異なる周波数の振動スピーカーを埋め込みます。

バスドラムの衝撃は背中から、ベースラインのうねりは足元から、ピアノの和音は指先から。

身体の各部位で、異なる楽器の〝音〟を感じられるように。

照明は、音楽に同期させるんじゃない。コード進行と連動させます。

Cメジャーのコードが鳴れば、空間は温かいオレンジ色に染まる。

Aマイナーに転調すれば、切ないブルーに変わる。

観客は光の色で、曲の感情を〝視る〟ことになる。

骨伝導ヘッドホンからは、俺の〝呼吸〟の音だけを流します。

ブレスの深さ、息遣いの震え。それこそが、歌の最も生々しい感情だから。

脳波センサーも導入します。観客の興奮や感動といった脳波データをリアルタイムで解析し、会場の光や振動にフィードバックさせる。

観客の感情が、演出の一部になるんです」


唖然とする専門家たちを前に、凪は続けた。


「予算は、青天井です。必要な機材、技術、研究費は、すべて俺の個人資産から出します。

対象は聴覚障害者の人たち。その人たちのためだけに、この空間を無料で解放したい」


「耳が聴こえる人には?」


プロデューサーの一人が尋ねた。


「別会場で、有料のライブビューイング配信を。

その収益は、次の開発や障害者の子供たちの支援に回します」


静まり返った空間に、誰かの吐息が漏れる。


「……凪くん。それはビジネスじゃない。ただの慈善事業だ。

君は自分のすべてを失うかもしれないんだぞ?」


凪は目を伏せ、そして小さく笑った。


「いいんです。──俺は、彼女と出会って、人生で初めて〝たった一人〟のために曲を作った。

そしたら、その人が俺の〝世界〟のすべてになった。

……ただ、それだけなんです」


***


打ち合わせが終わり、スタッフだけが残った部屋で、凪はひとり窓の外を見つめていた。

スクリーンや書類に囲まれ、机の上にはまだプロジェクトの資料が散らばっている。

でも、頭の中では、もう全ての数字や図表は消え、詩音と過ごした一年半の記憶だけが静かに流れていた。


(彼女が見てきた世界──俺はあれを、もっと鮮やかにしたいと思ったんだ)


凪はそっと息をつき、ぽつりと呟く。


「……詩音に出会ってから、ずっと考えてたことなんだ」


その場にいた全員が、思わず凪の横顔を見つめる。


「今度の記者会見で、この【SILENT BEAT】の開催を発表する」


凪はそれ以降何も言わずに、窓の外に視線を移す。

夕陽に染まる街並みがガラスに揺れ、その光の奥で、彼の瞳はどこか遠くの未来を見据えているようだった。

そして、愛おしそうに、少しだけ寂しそうに、微笑んだ。


「詩音が見てる世界の音は、俺が創るよ」


その手は、まるでピアノの鍵盤を探すように、宙をそっと撫でていた。


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