21dB ◆ ただいまの温度
一年半ぶりに降り立った羽田空港は、懐かしい匂いと、無数の〝音〟の気配に満ちている。
到着ゲートを抜けた瞬間、詩音は人混みの中に、二つの見慣れた影を見つけた。
母と──少しだけ背が伸びて、大人びた顔つきになった、弟の涼。
詩音の足が、自然と速まる。
「お、かあさん。りょう、くん」
少しだけ掠れて、まだおぼつかない発音。
それでも、彼女が人生で初めて、自分の意志で紡いだ家族を呼ぶ声だった。
その声を聞いた瞬間、母の瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
詩音は、少し気恥ずかしそうにスマホの画面を見せた。
《ずっと呼んでみたかった……》
「……おかえり、詩音……!」
感極まった母は、詩音とその隣に立つ凪を、二人まとめて強く強く抱きしめた。
その腕の温かさに、詩音も泣きながら何度も頷く。
涼はそんな母の後ろで、俯きながら肩を震わせている。
詩音は驚いて、隣に立つ凪にスマホを打って見せた。
《涼くんが泣いてるところ、ほとんど見たことないのに》
姉のその言葉を、涼は横目で見てしまったのだろう。
ぐっと唇を噛み、乱暴に目元を拭った。
(当たり前だろ)
涼は心の中で呟く。
(母さんも、姉ちゃんも、俺が守らなきゃって思ってた。
支えなきゃ、泣いちゃ駄目だって、ずっとそうしてきたけど……もう、いいんだな)
何年もの間、彼が一人で張り続けてきた意地と覚悟が今、姉の「ただいま」の一言で静かに溶けていく。
凪は、そんな涼の隣にそっと立つと、その肩を強く、しかし優しく抱いた。
そして、他の誰にも聞こえないような小さな声で、ぽつりと呟く。
「……よく、頑張ったな」
その一言に、涼はもう、声を抑えることができなかった。
空港から佐々木家へ向かう車の中。
母は事前に大学の事務とやり取りしていた復学の手続きについて、細かく説明してくれた。
「……だから、詩音は4月から涼と同じ学年になるのよ。大学2年生ね」
その言葉に詩音はぱっと顔を輝かせ、隣に座る涼を見て笑った。
《わたし、4月から涼くんと同じ学年になるんだね!》
そして、話題は自然と涼の進路のことへ移っていく。
「そういえば、涼も詩音と同じ大学なのよ」
母の言葉に、詩音は目を丸くする。
アメリカ滞在中、涼は自分の進路について、ずっとはぐらかしていたから。
「福祉工学……だったかしら?支援技術を開発するエンジニアになりたいんですって」
補聴器や、人工内耳、音を視覚化するアプリ、手話の翻訳AI。
そういった、障害のある人を助けるための技術開発に、携わりたいのだと。
(……どうして、それを)
詩音の疑問に答えたのは、母だった。
「凪くんと出会って、色々と考えたみたいなの。
『音がなくても伝わる世界を作りたい』って。
凪くんがきっかけだったのがちょっと恥ずかしくて、黙ってたんですって。かわいいわよね」
詩音は、助手席に座る涼を後ろからじっと見つめた。
彼は照れくさそうに窓の外を見ている。その耳が、少しだけ赤い。
詩音はそっとスマホに文字を打ち、涼の目の前に差し出した。
《ありがとう、涼くん》
その画面をちらりと見た涼は、一瞬だけ唇をきゅっと結び、そして、ぶっきらぼうに「……別に」とだけ呟いた。
その日、凪は佐々木家で一緒にご飯をご馳走になることになった。
キッチンでは、母と詩音が楽しそうに並んで食事の支度をしている。
リビングからは、涼と凪が対戦ゲームに熱中する声(というより、涼の叫び声)が聞こえてくる。
「うわっ、ちょっ……!凪兄、強すぎだろ!」
「いや、涼が油断しただけだって」
その光景に、詩音は母と顔を見合わせ、自然と笑みを交わした。
食卓には、温かい家庭料理が並ぶ。
当たり前のような、でも一年半ぶりのかけがえのない日常。
もうすっかり家族の一員のように、凪はその輪の中に溶け込んでいる。
夕食を終えると、凪は名残惜しそうに玄関に立つ。
今夜からまた一人で眠るのだという事実が、詩音には少しだけ寂しかった。
(……だって、アメリカにいる間ずっと一緒にいたんだもん)
凪も同じ気持ちだったのだろう。
「……また、な」
そう言って、詩音の頭を優しく撫でた指先が、ひどく名残惜しそうだった。




