20dB ◆ 海を越えて、君と
アメリカ、ロサンゼルス。
乾いた空気と、どこまでも広がる青い空。
窓の外には、日本のそれとは違う形をした街路樹が並んでいる。
詩音は真新しいアパートの窓辺に立ち、見慣れない風景をじっと見つめていた。
背後から寄り添った凪が、詩音の肩にそっと手を添える。
《ここが、今日から俺たちの家だよ》
凪がXENOとして持つ影響力と資産を注ぎ込んで手配した、セキュリティのしっかりしたアパート。
最新医療センターのすぐ近くにあり、家具も生活必需品も、すべて医療コーディネーターが事前に整えてくれていた。不自由は何一つない。
けれど、ここから始まる未来が、あまりにも大きすぎて──詩音は期待と同じくらい、大きな不安を感じていた。
凪は、そんな詩音の肩を優しく抱き寄せ、すぐにノートパソコンを開いた。
《約束通り、さっそく連絡しよう》
ビデオ通話の画面に、佐々木家のリビングが映し出される。
『詩音!凪くん!着いたのね!』
モニター越しに、詩音の母の心配そうな、でも嬉しそうな顔が見える。
隣では、涼が少し照れくさそうに手を振っていた。
詩音も笑顔で手を振り返す。
凪が通話画面の向こうの二人に、力強く頷いた。
「はい、無事着きました。部屋も完璧です。
これから毎日こうして連絡しますから、何も心配しないでください」
***
病院の、無機質な待合室。
凪は祈るように、固く手を握りしめていた。
数時間前、詩音は医療通訳の女性と共に、手術室へと入っていった。
凪としての力も、XENOとしての名声も、この場所では意味を持たない。
彼は、ただ愛する人の無事を願うだけの、一人の無力な男だった。
(……詩音)
心の中で、何度も名前を呼ぶ。
脳に、直接電極を埋め込む手術。
医師から説明されたリスクが、何度も頭をよぎる。
もし、何かあったら。
もし、あの優しい笑顔が、永遠に失われてしまったら──。
それは、自分の音楽が世界から消えることよりも、ずっと恐ろしい。
長い、長い、時間が過ぎていく。
やがて手術室の扉が開き、出てきた医師の少しだけ疲れた、けれど穏やかな表情を見て、凪の全身から一気に力が抜けた。
数日後、凪は再び医師と向き合っていた。
隣には、医療通訳の女性が座っている。
「手術は成功です。ですが、ここからが本番です」
医師は、脳の模型を指差しながら説明を始めた。
「彼女の脳に届くのは、私たちが聞いているような〝音〟ではありません。電気的な〝信号〟です。
例えるなら、生まれたばかりの赤ちゃんが、初めて外国語のシャワーを浴びるようなもの。
最初はただのノイズにしか感じられないでしょう。
その一つ一つの信号が、何を意味するのか。
鳥の声なのか、人の声なのか、音楽なのか……それを、脳に一から教えていく必要があります。
それは、新しい言語を学ぶより、ずっと根気のいる作業です」
***
リハビリテーション室で、詩音は初めてインプラントのスイッチを入れた。
──その瞬間、詩音の目に恐怖の色が浮かぶ。
頭蓋骨の内側で直接鳴り響く、静電気のような、耳鳴りのような、ただの信号。
意味を持たない、暴力的なノイズの奔流。
詩音はパニックを起こしたように、両手で耳を塞ごうとする。
だが、音は耳からではなく、頭の中から直接やってくる。
《大丈夫。大丈夫だよ、詩音》
凪が彼女の手を強く握り、スマホで何度も語りかける。
《最初はみんな、そうなんだって。
これから、この信号の〝意味〟を脳に教えていけばいい。
一緒に、頑張ろう》
凪の手を握り返した詩音は、滲んだ涙を拭ったあと、力強く頷く。
そこから、長く根気のいるリハビリが始まった。
毎日、詩音のリハビリに付き添う日々。
彼はキーボードを持ち込み、言語聴覚士と相談しながら、独自のプログラムを作った。
「しおん。これは、低いドの音の信号。この信号が、ドだよ」
「こっちは、高いド。信号の高さ、少しだけ違うのがわかる?」
ミュージシャンとしての彼の絶対音感が、詩音が信号の「違い」を認識する、唯一の手がかりだった。
上手くできず、詩音が泣きながら首を横に振る日もある。
そんな日は、凪は言葉を飲み込み、彼女を強く抱きしめて過ごした。
窓の外で、季節が何度も巡っていく。
照りつけるようなカリフォルニアの太陽が、少しだけ穏やかになり、珍しく雨が続く冬が来て、やがて庭の植物が色鮮やかに咲き誇る春が訪れた。
二人は凪の誕生日を祝い、詩音の誕生日を祝い、この国でささやかな記念日を重ねていった。
その間も、凪は毎晩、佐々木家とのビデオ通話を欠かさなかった。
そしていつかの高知の時のように、二人の日常を撮りためては、LINEグループにアルバムを作り続ける。
【LAでの日々① -スーパーマーケット編-】
【LAでの日々② -公園の散歩-】
【LAでの日々③ -リハビリ室の詩音-】
写真の中の詩音は、時に疲れ、時に涙ぐみながらも、凪のカメラに向かって、いつも小さく微笑んでいた。
そして、数ヶ月が経ったある日。
凪がいつものように、キーボードで「ドレミ」と弾くと、詩音は少しだけ首をかしげた後、おそるおそるスマホに文字を打った。
《……今の、昨日と、同じ?》
その言葉を見た瞬間、凪と、言語聴覚士・通訳の三人が、同時に息を呑んだ。
彼女が初めて、信号の違いを、音階として認識した瞬間だった。
凪の瞳から涙がこぼれ落ち、縋り付くように詩音を抱き寄せる。
その夜のビデオ通話で、凪は泣きながら詩音の母と涼にそのことを報告した。
画面の向こうで、母も泣き、涼も照れくさそうに顔を背けながら、目元を拭っていた。
***
その後もリハビリを繰り返し、そして……1年半という月日が、流れようとしていた。
すっかり見慣れたロサンゼルスの街並み。
アパートの部屋には、荷造りを終えた段ボールが積まれている。
窓の外を見ながら、詩音は隣にいる凪の横顔を見つめた。
インプラントが拾う、機械的で不明瞭な〝声の響き〟と、彼の唇の動き。
その2つを、必死に頭の中で組み合わせる。
そうして初めて、詩音は凪の言葉をおぼろげながら理解できるようになっていた。
「……なんだか、さみしい、ね。なぎ、くん」
まだ発音がおぼつかず、完璧ではない。
だから、複雑な会話や長い会話をするときは今でもスマホを使う。
けれど、こんな風に短い言葉であれば、詩音は自分の声で会話ができるようになった。
詩音の肩を抱き寄せた凪は、スマホに文字を打つ。
《うん。あっという間だったな……
この街で、俺たちは本当にいろんなものを乗り越えたと思う》
詩音も、頷きながらスマホを打つ。
《たくさん泣いたし、たくさん笑った。
……凪くんが、ずっと一緒にいてくれたからだね》
凪は詩音の手を取り、その指に自分の指を絡めた。
《俺の方こそ、ありがとう。詩音が、諦めないでくれたからだ。
君の隣で、俺も、新しい音楽を見つけられた》
この1年半、活動休止期間中にもかかわらず、彼は曲を作り続けた。
彼の内側では、かつてないほど豊かで、優しくて、そして強い音が鳴り響いていたからだ。
それは、詩音という〝音〟だった。
それは、二人の記録の〝音〟だった。
繋いだ手はそのままに、肩を寄せ合って、微笑み合う。
長くも、短くも感じた1年半。
この海を越えた先で、二人は恋人から、本当の意味でのパートナーとなっていった。
アメリカでの暮らしを終えた二人は、明日、日本に帰る。
新しい音を携えて。新しい人生を、始めるために。