18dB ◆ 君と開くゲート
渡米を翌日に控えた、静かな夜。
凪の部屋には、この日のために新しく設置されたモニターと、それに繋がった大きめのタブレットが淡い光を放っていた。
(前にスタジオでスタッフさんが用意してくれたやつだ)
詩音は、その心遣いに胸が温かくなるのを感じる。
ソファに深く腰かけ、寄り添うように座る二人。
モニターに映し出されているのは、高知の永倉家から届いた字幕付きのビデオレターだった。
双子の妹たちが中心となって作ってくれたのだという。
画面の中で美優と真優が、少し照れくさそうに、でも満面の笑みで手を振っている。
『凪兄、詩音ちゃん、元気ー?
いよいよアメリカ行くんやね。身体にだけは、気をつけてよ!』
『こっちのことは心配せんでええから!あんたらは、二人のことだけ考えちょって!』
次に映し出されたのは、凪の父親だった。
いつもの豪快な笑顔はそこになく、海の男らしい真剣な表情でまっすぐにカメラを見つめている。
『凪。お前が選んだ道なら、おとんは何も言わん。
ただな、海っちゅうのは凪ぐ時もあれば、荒れる時もある。
人生もそれと同じやき。これから先どんな大波が来ても、お前がその子の防波堤になっちょけ。
……ええか、絶対に守り抜けよ』
その力強い言葉に、詩音は思わず涙ぐんだ。
そして、最後に映し出されたのは、凪の母親だった。
『凪。あんたが生まれた日はね、ちょうど台風が過ぎた後で、海が嘘みたいに静かでな、穏やかな夏の朝やったんよ。
それで〝凪〟って名付けたがよ。この子が、誰かの心の荒波を鎮める、穏やかな存在になりますように、って思うてな』
おかんはそこで一度言葉を切り、優しい目で詩音の方を見た、気がした。
『……ほんなら、あんたは詩音ちゃんを連れてきた。
……凪いだ海でしか聴こえんような、綺麗な名前の子をやねぇ。
おかんはな、これは運命やと思うんよ。
あんたたちは出会うべくして、出会ったんやと思う。
だから何も心配せんでえい。2人で、幸せになりなさい』
ビデオレターを見終わった詩音の頬を、涙が静かに伝っていた。
凪の母の言葉が、心の奥深くにしまい込んでいた、自分の名前の記憶を呼び覚ましたから。
詩音は泣きながら、それでも懸命に笑って、凪にスマホのメッセージを見せた。
《わたしのお母さんも、同じようなことを言っていました》
《わたしが生まれたとき、耳が聴こえないことがわかって、絶望したって》
《でも、それでも……この子が文字や振動、いろんなものから音を感じ取って生きられるように、って……
祈るように〝詩音〟って名前をつけてくれたそうです》
《ずっと、皮肉な名前だと思ってた。でも、違ったんですね……》
《この名前は、凪さんのお母さんが言ってたように、あなたと出会うための、繋がるための名前だったのかもしれない》
そのメッセージを読んだ凪の瞳からも、一筋の涙がこぼれ落ちた。
たまらなくなって、彼は詩音を強く、強く抱きしめる。
「……ありがとう」
何度も、何度も、凪はそう繰り返した。
ありきたりな言葉に聞こえるかもしれない。
でも、その一言に、彼の想いのすべてが詰まっていた。
「生まれてきてくれて、ありがとう。俺と出会ってくれて、ありがとう。
あの雨の日に、あの場所にいてくれて、ありがとう。
詩音は、耳は聴こえないかもしれないけど〝無音〟で生きてるわけじゃない。
〝0dBの世界〟の豊かさを、俺に教えてくれてありがとう。
詩音と出会ってから過ごした時間は、何にも代えがたい時間だった……」
顔をぐしゃぐしゃにして、泣きながら想いを告げる凪。
モニターに映し出されるその言葉を、詩音は涙で滲む目で追い続けた。
あふれる感情を整理しきれず、タブレットに触れることもできない。
ただただ、凪の腕の中で、声を殺して涙を流し続けた。
そうして静かに、二人の夜は更けていった。
***
翌日、羽田空港。
出発ロビーの喧騒の中、詩音の母と弟の涼が、2人を見送りに来ていた。
「身体にだけは、本当に気をつけるのよ。何かあったら、すぐに連絡して」
心配そうに言う母親に、詩音はスマホで《お母さんも、涼くんも、元気でね》と返す。
その隣で、凪は涼に向き直っていた。
「涼。母ちゃんのこと、しっかり支えてやれよ。
でも、自分の進路とかお前自身のことも、ちゃんと大事にしろ。
何か困ったことがあったら、いつでも連絡してこい。時差とか気にすんな」
「……凪兄に言って、どうにかなるのかよ」
ぶっきらぼうにそう返しながらも、涼の口元は、どこか嬉しそうに緩んでいた。
そして、凪は最後に、詩音の母の前に立つ。
「お母さん。ずっと、言いたかったことがあって……
詩音を産んでくれて、本当に、ありがとうございます」
あまりにもまっすぐな言葉に、母の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
詩音も、隣で静かにもらい泣きしている。
涼は、照れくさそうに視線をそらした。
やがて搭乗の時間が訪れると、二人はそれぞれのスーツケースを片手に、手を繋いで搭乗口へと向かう。
詩音と凪の耳元には、それぞれが送り合ったアクセサリー。
ガラス窓の向こうから差し込む光を浴びて、二つのアクセサリーが、きらりと対になって輝いていた。
その背中が見えなくなるまで、母はずっと涙を拭い続ける。
そんな母の背中を、涼が少しだけ大人びた手つきで、優しくさすっていた。