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1dB ◆ 0dBの君へ ―音のない世界で、君と出会った―

※この作品は「カクヨム」と「小説家になろう」にて同時に公開しています。

SNS、その他のURLはこちら↓

https://lit.link/0db_hibi


※更新は毎週金曜日と土曜日の夜21時です。

風の気配に、ふと足を止める。


4月の街は、まだ冬の眠気を引きずっていた。


靴音だけが遠ざかる通学路。

駅の雑踏から漏れ出る熱量だけが、わずかに季節の変わり目を告げている。


満員電車を何本も乗り継いで、詩音は駅の改札を抜けた。

春だというのに肌寒く、曇った空がどこまでも重く垂れ込める。


耳の奥に広がるのは、いつもと変わらぬ静寂。

けれど、彼女の世界は〝無音〟ではなかった。


頬を撫でる風。

地面を這うように伝わる振動。

前を歩く人の上着が揺れるのも、光の濃淡が変わるのも──すべてが固有の〝音〟として、彼女に届いていた。


音は、耳で聴くものとは限らない。

感じるもの。受け取るもの。

身体で、景色で、心で。


大学の帰り、小さな古本屋に立ち寄った。


ひんやりとした紙袋を抱えて、アーケードの道をひとり歩く。

活字の香りが、まだ指先に残っているようだった。


駅前の広場へ出ようとした、そのとき──


ぽつり。


水が、頬に落ちた。


空を見上げると、白い光を含んだ雨粒が、音もなく降り注いでいる。

世界に一枚、薄い膜が張られたように、すべての輪郭が鈍くなっていく。


傘はない。


詩音は慌てて駆け足になり、アーケードの屋根の下へ滑り込んだ。

紙袋をかばいながら肩をすくめ、もう一度空を仰ぐ。


春の雨。

冷たくもないのに、体温をじんわりと奪っていく不思議な水滴。

音がないぶん、その雫が服に染みる感覚が、どこまでも繊細に伝わった。


──ふいに、頭上が暗くなった。


他の誰とも違う、重くて静かな振動が、すぐそばで止まる。

視界の端が、ほんの少し揺れた。


詩音が横を向くと、そこにひとりの青年が立っていた。


黒く、大きな傘が、彼の手からそっと差し出されている。


長身。ややくすんだ銀髪。

黒のマスクからのぞく、眠たげなまなざし。

ダボっとした黒のパーカー。細めの肩に似合わない、しっかりとした佇まい。


180cmは優に超えているはずなのに、不思議と〝無防備〟に見えた。


彼は、口元をわずかに動かす。


「入んなよ、びしょ濡れになんぞ」


詩音は、彼を見上げたまま、瞬きを忘れた。

声が耳に届かないのは当然だった。

彼の声が小さいからではない。

詩音の世界には、そもそも〝音〟という概念が存在しないのだ。


それでも、彼の表情や口の形──そのすべてから、どこか無作法な優しさが滲み出ていた。

それが、詩音の心にじわりと何かを広げていく。


彼女は、反射的に微笑む。

戸惑いと、礼儀と、少しの照れが混ざった表情で。

そして、指先を口元に添えたあと、自分の耳を静かに指差す。


ゆっくりと、音を出さずに、唇の形だけで伝える。

小さい頃から何度も練習した、その言葉の形で──


〝聴こえません〟


青年の目が、ふいに揺れた。

その目の奥で、何かがほどけ、止まる。


「……まじで?」


マスクを少しずらし、ぽつりと呟く彼の声。

詩音には聴こえない。


それでも……〝何かを言っている〟と確かに伝えてきた。


彼はポケットからスマホを取り出すと、勢いよく文字を打ち始める。

その拍子に、スマホに付けられた使い古しの、少し間の抜けた顔をした猫のキーホルダーが揺れた。


液晶画面がこちらにくるりと向けられる。


《えっ、じゃあマジで俺の声、今ひとっっっつも聴こえてなかったの?》


詩音はふっと笑った。言葉ではなく、表情で。


こくりと頷くと、彼はなぜか、納得したような目をして再びスマホに向かう。


《じゃあ、音楽とかは?音、どうやって感じてるの?》


──その問いに、詩音のまなざしが一瞬、揺れた。


〝音楽〟という言葉。

それはいつだって、彼女にとっては遠いものだった。


今までにも、似たような質問を受けたことはある。

だが、彼の目は違っていた。


哀れみでも、興味本位でもない。

ただ〝知りたい〟という真っ直ぐな眼差しがそこにあった。


詩音はバッグから自分のスマホを取り出し、慎重に文字を打つ。


《振動。あとは景色とか、表情とか。

音はなくても、感情で感じている気がします》


その画面を見せると、彼の目が大きく見開かれた。


「……っげ、まじか……」


また呟いた。

しかし、今度は口元を手で覆ってしまったため、詩音には読み取れない。


(……なんて言ってるんだろう?)


彼の沈黙は、長くも短くも感じられた。


やがて、一度だけポケットの中で手を握りしめると、彼はゆっくりとスマホに視線を落とし、真っ直ぐな動作で文字を打った。


《……そうなのか。わかった》


一拍おいて、もう一言。


《じゃあ、俺が──君にもっと音楽を教える》


詩音は画面を見たまま、首をかしげた。


(音楽を……教える?)


その言葉の意味は、まだ掴めない。

それでも、胸の奥がふわりとあたたかくなる。


自分の心臓の鼓動が、今まで感じたことのない種類の〝振動〟として、全身に伝わっていくようだった。


名前も知らない彼との、春の雨の午後。

傘の下には、確かにひとつの〝ぬくもり〟が芽生えていた。


***


傘を預け、数歩外へ出た瞬間──

ばしゃ、と容赦ない雨粒が頬を打った。

思わず顔をしかめ、肩をすくめる。


振り返ると、彼女が焦ったような顔で何かを伝えようとしていたが、それを受け取る前に、足はもう自然と先を急いでいた。


別に、見返りを求めたわけじゃない。

ただ、なんとなく。あの子が濡れずに済めばいいと思っただけ。


(……いや、本当にそれだけか?)


そんな自問自答が、頭の片隅をよぎる。


ずぶ濡れのまま立ち尽くし、胸の奥から何かがふっと漏れた。


「……なにやってんだ、俺」


空に向かって、ぽつりと独り言を落とす。

肩にかけたパーカーはすでに重く、冷たい水が首筋を伝う感覚が気持ち悪い。

だるい。寒い。我ながら、意味がわからない。


だが、心の中では──

さっき彼女がくれた〝ことば〟が、繰り返し響いていた。


《振動。あとは景色とか、表情とか。音はなくても、感情で感じてる気がする》


〝音はなくても、感情で感じてる〟


まるで、まだメロディにもなっていない、生まれたばかりのフレーズの断片。


その文章が、言葉というより一つの〝響き〟として、頭の中をリフレインする。


歩道橋の下で、ようやく足を止めた。


人通りはほとんどなく、耳についたままのワイヤレスイヤホンからは、何も流れていない。

ただ、世界のノイズを遮断するためだけの壁。


車の走行音、遠くの駅の喧騒、意味のない広告の音声。

そういう余計なもの全部を消してくれる雨音だけが、じわじわと世界に広がっていく。


この、ノイズのない雨の音は、嫌いじゃなかった。


濡れた髪をかき上げながら、凪はスマホを取り出す。

使い慣れたボイスメモを立ち上げた。

誰にも聞かせず、曲の断片を吹き込むための、ひとりごと用のアプリ。


「……音が聴こえないのに〝感情で感じてる〟か……」


(あの子には、この世界がどんなふうに見えてるんだ?)


「……それがもし、音楽だったとしたら──」


(だめだ、分からないことだらけだ……)


ぽつりぽつりと、言葉を置いていく。


その言葉がいつしか旋律になり、意味のないリズムが生まれる。


それは、楽器の音でも、人の声でもない。

ただ、心が揺れたときにだけ生まれる、衝動に近い〝感覚〟


彼女の瞳の色が、まるで音のように鳴っている気がした。


まっすぐで、揺らめいていて──

それでもどこか、静かに凪いでいた。

自分が今までステージの上から見てきた、何千ものライトの光より、ずっと深い色だった。


(君の世界に、俺の音がどう響くかなんて、わからない。

でも、知りたいと思った。教えてほしい、と)


どうしてそんなことを思ったのか、自分でもうまく説明できない。


いつもの自分なら、間違いなくスルーしてた。

関わらずに、通り過ぎてたはずだ。


それでも──


彼女の「聴こえない世界」は、雑音まみれの自分の「音のある世界」に、静かに入り込んでくる。


あらゆるノイズを遮って、心の芯に、まっすぐに届くように。


「……やばいな、これ、絶対曲になる」


苦笑が、雨音に滲んだ。


びしょ濡れの靴音が、アスファルトに鈍く響く。


スマホを胸ポケットにしまうと、左胸にほんの少しだけ、重みが残った。


名前も、連絡先も、何も知らない。

それでも、あの子と出会ってからのほんの数分間に、

ずっと忘れていた〝原点〟みたいなものが、自分の中に戻ってきた気がした。


音は、届かなくてもいい。

でも、伝わるものがある。確かに。


彼女と出会ってまだ数分。


その静かな世界で、もう新しい音が、生まれ始めていた。


***


彼の気配が消えたあとの雨音は、ほんの少しだけ強く感じられた。


詩音はアーケードの屋根の下で、ただ立ち尽くす。


彼が差し出した傘──

それが、自分の手に残されていると気づいたのは、数秒遅れてからだった。


驚いて振り返っても、彼の背中はもう人混みにまぎれて遠ざかっていく。


(……あの人、自分は濡れて……?)


思わず傘の柄を握りしめる。


ずしりとした重み。少し冷たいプラスチックの感触。

自分を守ってくれた名も知らない人の気配が、まだそこに残っているようだった。


胸の奥が、静かに、けれど確かにざわめく。

それは、何かが〝鳴っている〟ような感覚だった。


彼の口元は、最後、何かを言っていた。


手で隠されていて、読み取れなかったけれど。

だから、何を言われたのかはわからない。


それでも、スマホの画面に映された言葉だけは、鮮明に胸に残っている。


《じゃあ、俺が──君にもっと音楽を教える》


(……どういう意味だったんだろう)


首をかしげながらも、嫌な気持ちは少しもしない。


むしろ、心の奥がじんわりと温かかった。


誰かと物理的に触れ合ったというよりも、誰かの心に、自分の存在が〝届いた〟ような、そんな満たされた感覚。


詩音はスマホの画面を閉じ、濡れかけた紙袋を胸に抱き直す。


手に残るのは、まだ乾ききらない、黒い傘の感触。

それが、彼がここにいた唯一の証だった。


足元で、アーケードのタイルが控えめなリズムを刻む。


自分の小さく軽やかな足音だけが、この静けさの中の、確かな〝音〟だった。


世界に音は、やっぱりない。

それでも──


今まで感じていた静けさとは、どこか質が違っていた。


***


その夜。


ベッドに横たわってからも、雨の気配が残像のように心を揺らしていた。


昼間に出会った、あの青年。

表情は淡々としていたのに、目の奥はずっと何かを語りかけてくるようだった。


彼の言葉よりも先に、その瞳の揺らめきが、一つの旋律となって心に焼き付いている。


(……音楽、みたい)


詩音は静かに目を閉じる。


〝音がない〟ということは、時に優しく、時に寂しい。

けれど、今日だけは──


無音の世界に、確かに誰かの言葉が、その熱量が、残っていた。


名前も知らない。また会える保証もない。


だけど、もし。


もし、またどこかで会えたなら──


あの人は、どんな〝音楽〟を教えてくれるんだろう。


そんなことを思いながら、詩音はまぶたの裏に、春の雨をそっと映す。


音は、なかった。


けれど、その静けさの中で──

たしかに、音のような記憶が、やさしく、胸の奥で鳴っていた。


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