15.5dB ◇ あの日の音(side story 久我)
事務所のスタッフに囲まれて、凪は深く頭を下げた。
「これまで、本当にありがとうございました」
その姿を、俺は少し離れた場所で、壁に寄りかかりながら眺めていた。
はじめて凪と出会ったのは、蝉の声がしつこく響く夏の終わり頃。
その頃の凪はまだ15歳で、中学3年生だった。
SNSにアップした自作の曲がバズり、国内だけでなく海外にまで広がって話題になっていた。
うちの事務所のアーティスト連中も「天才だ」「化物だ」と騒ぎ立て「絶っ対に聴いてください!」と鼻息荒く迫ってくる。
まあこれも仕事のうちだしな、と曲を再生した瞬間──
すう……と息を吸い込む音と、流れはじめたメロディーに、全身にぶわりと鳥肌が立った。
重なって層を成していく楽器の音が一体感となって、音の銀河に包まれるような感覚。
空間を広げていくように漂う音。その空間を切り裂いていくように、爆発的に響く声。
ロック、ポップス、エレクトロ……どれとも言えないジャンルの融合。
どれかに寄るのではなく、複数のジャンルが自在にミックスされ、独自のバランスで唯一無二の音楽が出来上がっている。
歌詞の合間に漏れる呼吸すら、コイツはおそらく曲として意図的に組み込んでいる。
(なんだよ、こりゃ……)
いったいどんな人間がこんな音楽を作ってるのか、と興味が湧きはじめたとき「コイツのマネージャー、お前に任せるから」という社長の言葉とともに、凪は現れた。
女ウケしそうな整った顔立ちに真っ白な肌、色素の薄い髪と瞳。
タッパはあるものの、ひょろっとしていて頼りなさそうな身体つき。
年季の入ったギターケースを抱え、おどおどした顔で立ち尽くしている。
(本当にこんなガキが、あの曲を……?)
半信半疑で見つめる俺の視線に、凪は居心地の悪そうな表情を浮かべている。
「中学卒業したら上京する予定だから、まあ面倒見てやってくれや」と笑う社長。
まあ大人しそうだし、これなら世話をかけさせられることもねぇだろう。と安堵していた俺の考えは、すぐに覆されることになる。
まず、コイツは曲を作り始めると周りの声なんざ耳に入らない。
真っ暗な部屋の中。瞳孔が開ききった目でパソコンのソフトに曲を打ち込んでいる姿を見たときは、正直ホラーかと思った。
俺の呼びかけに気づきもせず、椅子の上で片膝を立て、何やらぶつぶつと呟いている。
(こぇえよ……!音楽ゾンビかよ……)
床には書きなぐられた歌詞と楽譜が散乱し、目の下にはくっきりクマができていた。
結局この日、コイツは徹夜で曲を作り続け、翌日デスクに突っ伏した状態で寝落ちしていた。
また、ある日のこと。
3日以上連絡が途絶えたことで、合鍵を使って部屋を訪れるも、そこに家主の姿はない。
ただ、あのものぐさ引きこもり野郎が外出するとも思えねえ。
慌てて部屋を探してみたら、キッチンで力尽きて寝てやがった。
小さな寝息を立てて、まるで子供みてぇに。
思わずほっと息をつくも、次の瞬間には怒りが湧き上がってくる。
(この野郎……!未成年を預かってるこっちの身にもなれ!)
怒りのままに頭をはたくも、まったく起きやしねえ。
呆れつつもベッドまで運び、パソコンの前に戻れば、画面には【完成版】の文字。
どうやら曲が完成し、空腹に気付いてキッチンに向かったはいいものの、そのまま力尽きたらしい。
試しに再生ボタンを押すと、流れ出したのは宇宙に放り込まれたようなあの音。
(やっぱりコイツ、バケモンだな……)
さらに印象深かったのは、中学卒業前に凪の家族、事務所関係者とともに今後の進路に関して話し合いをしたときのことだった。
「高校?行きませんよ」
(オイオイ、マジかよ……)
まだ15のガキ。普通なら高校生活に少なからず憧れを持ったり、進路に悩んだりするところを、凪はためらうことなく「行かない」と断言した。
世の中の「普通」なんざ一切気にせず、ただ音楽だけを信じて突き進む潔さ。
誰もが夢見るであろう高校生活という青春時代を、全て手放せる覚悟。
年下のガキのくせに、かっこいいと思ってしまった。
(……しゃーねぇな。だったら俺も全力で支えるしかねぇだろ)
凪の行動に驚かされる出来事はまだまだ続く。大御所相手の現場でもそうだった。
音楽業界で知らない人間はいないベテラン作曲家に「この音はこっちのほうがいい」と言われても、凪は譲らなかった。
「俺の曲はこの音じゃないと成立しません」
年上のプロたちを前にしても臆することなく反論する姿に、スタジオの空気が凍りつく。
(勘弁してくれ……相手は音楽界の重鎮だぞ……!)
俺は肝を冷やしたが、結局その場にいた全員が最終的に凪の意見を受け入れた。
アイツが言葉以上に「音」で納得させちまったからだ。
その瞬間、確信した。
コイツはただのガキじゃない。天才なんて生易しい存在じゃない。
自分の音をどこまでも貪欲に追い求める、怪物なのだと。
このときのことがきっかけなのか、ある日凪は唐突にこう言った。
「音楽は俺一人で作るので、スタッフさんは手配してもらわなくても大丈夫です」と。
自分の音楽を突き詰めるために、人に頼りたくなかったんだろう。
けど、それじゃだめだ。
(コイツを一人にしてたら、そのうち絶対つぶれる)
だったら支える環境を作るのは俺の役目。
まずは、アイツが思う存分音楽に集中できるように専用スタジオを用意した。
出入りできるスタッフは、凪の音楽と人間性を理解して、なおかつ実力も兼ね備えた人間だけ。
信頼できる仲間を口説き、業界のベテランに凪の音を聴かせて頭を下げ、少しずつ制作チームを固めていった。
そうして気づけば8年。
誰一人欠けることなく、同じ顔ぶれで凪を支え続けてきた。
チーム全員が、アイツの「最高の音」を引き出すためだけに動いている。
それが俺にとって、何よりの誇りだった。
思い返せば、一番衝撃を受けたのはあの日だったかもしれない。
アイツが本物の怪物だと、骨の髄まで思い知らされた瞬間だ。
それは、初のライブ本番に向けたリハーサル中のことだった。
楽器隊が音合わせをしている最中、凪がふいにマイクを握り、言葉を紡ぎ出すように歌い始めた。
最初は誰もが様子をうかがっていたが、すぐに凪の声に導かれるように、ベースが低音を刻み、ドラムがリズムを重ねる。
ギターが和音を響かせた瞬間、凪はピアノに座り、和音を切り替えながら短く指示を飛ばした。
「ベース、もう少し沈ませて」
「ドラム、ここは抜いて」
メンバーは顔を見合わせつつも、その指示に応えていく。
すると、さっきまで何もなかった空気に、少しずつ輪郭を持った旋律が生まれていった。
コードが厚みを増し、声と絡み合ってひとつの物語を描き出す。
たった数分で、まるで最初から用意されていたかのような新曲の1番が完成していた。
その異様な光景に、リハ会場のスタッフも息を呑む。
「うん……いけそう。今から2番作るので、今日のライブで最後にコレ歌います」
凪は、当然のことのようにそう言った。
(はぁ!?……マジで言ってんのか!?)
本番まであと1時間。セットリストはすでに決まっていて、こんな冒険は普通なら絶対にありえない。
だが凪は真剣そのものの目で前を見据えていた。
そして、その日のステージで本当にやり遂げた。
観客は凪の声に釘付けになり、最後には割れるような拍手で会場が揺れた。
(……責任、背負える奴なんだな)
あの瞬間、俺は腹を括った。
どんな無茶でも、こいつがやるなら俺が支える。
その曲は後日レコーディングされ、正式に完成版としてリリースされた。
発売されるや否やチャートを駆け上がり、爆発的なセールスを記録する。
リハで何気なく生まれた曲が世代を超えて口ずさまれるほどの名曲となり、あの日の空気を知るスタッフやバンドメンバーは皆、感慨深そうに語った。
「あの瞬間に立ち会えたのは、奇跡だった」と。
そして今。
俺は少し離れた場所からアイツを見守っている。
15で出会ったガキが、こうして自分の言葉で区切りをつけ、仲間に感謝を伝えている姿を。
(……ったく。大きくなりやがって)
口には出さねぇが、目尻がゆるむのを止められなかった。