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15dB ◆ ここに戻る日まで

スタジオのエントランスをくぐると、いつもと同じ、けれどどこか違う空気が凪を迎えた。

この場所に初めて来たのは、15歳のとき。

右も左もわからず、緊張で握りしめたギターケースの冷たさだけを鮮明に覚えている。


──あれから、もう8年。

振り返れば一瞬のようで、けれど積み重ねてきた日々の重さは確かにここにある。


今日ここに来た理由は、今まで支えてくれた人たちへ感謝を伝えるため、そして──活動休止の報告をするため。


凪は隣に立つ詩音の手を引き、ゆっくりリビングルームへと足を進めた。

普段は限られた人間しか立ち入れないこの静かな空間も、今日だけはエントランスまで賑やかな声が漏れ聞こえている。

そのざわめきに足を止めかけ、凪は小さく息を吸い込む。

鼓動の速さだけが、体の内側で強調されるようだった。


凪が扉を押し開けると、談笑していたスタッフたちが立ち上がり、笑顔で迎え入れてくれた。

女性スタッフが軽く手を振り、親しげに「詩音さん、こっちにどうぞ〜」と声をかけてくる。

案内された先には、タブレットとそれに繋がったモニター。

そして大きめのスピーカーのようなもの。


「今日はいろんな人が来るから、集音スピーカーを設置してみたんです。

音声認識アプリも入れたから、みんなが話してること、ちゃんとモニターに文字起こしされますよ!」


そう言って微笑んだスタッフの気遣いに、凪は軽く頭を下げる。

詩音は最初こそ緊張した表情を浮かべていたが、モニターに映し出される文字をじっと見つめながら、スタッフたちの笑顔や雰囲気に少しずつ表情を和らげていった。


ここにいるスタッフの多くは、凪が15歳の頃からの付き合いだ。

音楽の現場を共に駆け抜けてきた仲間であり、いまや家族のような存在でもある。


「凪、お前……ほんとに行くんだな」


背後から声をかけてきたのは、エンジニアの工藤だった。

数えきれないレコーディングを共にしてきた、凪の音を知り尽くす人物。

深い皺が刻まれた目元に、不安と期待が入り混じった色が宿っている。


「はい。無理を言ってばかりでしたけど……最後まで力を貸していただいて、本当にありがとうございます」


凪は息を整えてから、腰を折るように深く頭を下げた。

工藤はしばらくその姿を見つめ、懐かしそうに口角を上げる。


「15で東京出てきて、気がつきゃ……立派になったもんだなぁ。

あの頃なんか椅子の端っこにちょこんと座って、まともに目も合わせられなかったのにな」


「……俺、あのとき緊張で膝がずっと震えてましたからね」


凪が照れ笑いを浮かべると、工藤も「そうだったな」と小さく笑った。

周囲にも柔らかな笑いが広がり、その場にひととき穏やかな空気が流れる。


その静けさを破るように、背後のドアが音を立てて開いた。


「あっ、社長!」


誰かの声が漏れる中、社長は言葉を返さず、ひらりと手を振って応じた。

それから凪をまっすぐ見据え、ふっと笑うと、そのままソファに腰を下ろす。

その存在だけで、場の重心が変わったように感じられる。


「で?今日は正式に報告ってことでいいんだな」


「はい。これまで関わってくださった皆さんに、ちゃんと顔を見て伝えたくて……」


凪はわずかな沈黙を置いてから一歩前へ出る。

詩音も隣に寄り添うように立ち、凪に優しく視線を送った。


「俺……15で何も知らずに上京してきたあの日から、この場所でたくさんのことを学ばせてもらいました。

右も左もわからないまま突っ走って、迷惑もたくさんかけて……

それでもここまで続けてこられたのは、間違いなく皆さんのおかげだと思ってます。

本当に……ありがとうございます」


「……結局高校にも行かねぇで、音楽だけで8年間。

よく頑張ってきたよ、お前」


社長がぽつりと口にし、視線を詩音へと向ける。


「……彼女、ガラスみたいだな」


モニターに映し出された文字を見て、詩音は不思議そうに小首をかしげた。


「社長がね『君はガラスみたいに澄んでて綺麗』って言ってる」


少しだけ頬を赤らめて笑う詩音に、社長は満足げに「なるほどな」とつぶやき、ソファに深く身を沈めた。


「まぁ、しばらくは好きなようにやってこい。

その代わり、戻ってきたらまた死ぬほど働いてもらうからな」


凪が返事をしようとしたそのとき──


コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「おいおい、お前ら……なにしんみりしてんだよ!!」


扉の隙間から顔をのぞかせたのは、凪専属のスタイリスト・庄司だった。

両腕に抱えてきた大きなダンボール箱が、ドン!と音を立てて床に置かれる。


「凪!お前、一年半も海外行くってのに、本気でそのツラで行く気か!?」


仁王立ちになった庄司は凪を指差しながら叫ぶ。


「いいか、よく聞け!

俺が手ぇ入れてやってる〝オン〟の顔と、お前の普段の〝オフ〟の顔は別人すぎんだよ!

髪は伸び放題、無精ひげ生やし放題、目の下のクマは深夜作業の廃人レベル!

そんなんだからファンにも気づかれねえんだ!

こないだもネットに書かれてたぞ──

《XENOに似てる人見たけど、ただの雰囲気イケメンなニートだった》ってな!」


痛烈な言葉に、スタッフたちの爆笑が広がり、その輪の中で凪は苦笑いを浮かべるしかなかった。


そんな中、壁際で腕を組んでいる久我の姿が目に入る。

あきれ顔をしていたが、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

無言のまま、それでもどこか安心したように、このやり取りを見守っている。


「俺が衣装もヘアメイクも全部やってるから、お前が〝XENO〟でいられるんだ!

俺がいなきゃどうすんだよ、この音楽ゾンビ!心配でおちおち眠れもしねえわ!


言葉は荒くとも、その眼差しにはあたたかな色が滲んでいた。


「だからせめて服くらいはちゃんとしろ!このダンボール、丸ごと持ってけ!!」


箱の中には、丁寧に畳まれた服やアクセサリー。

庄司はにやりと笑って続けた。


「足りない分は航空便で送りつけてやるよ」


「まったく……相変わらずですね、庄司さんは。でも、ありがとうございます」


「礼なんかいらねえっての」


庄司は凪の頭をわしゃわしゃとかき乱す。


「……庄司さん。あの、詩音を紹介させてください」


凪がそっと肩に手を添えて促すと、詩音は一歩前へ出た。

目尻をやわらかく細めながら、ぺこりと会釈をする。


「へぇ、この子が噂の……なるほどな、たしかにガラスって言葉がよく合う」


庄司は目を細め、まじまじと詩音を見つめる。

そんな庄司を横目に、凪は手振りを交えながら庄司のことを説明し始めた。


「この人、庄司さんっていう俺のスタイリストさん。

服装だけじゃなくて、ヘアメイクも全部この人がやってくれてる。

第一線で引っ張りだこの凄腕の人なんだ」


詩音は納得したようにこくこくと頷くと、改めて庄司に向かって深々と頭を下げる。


芸能人の裏の顔に慣れきっているせいか、純真さが滲む澄んだ瞳にはどうにも弱い。

庄司は片手をポケットに突っ込み、照れ隠しのように視線を逸らすと、短く「おう」とだけ応えた。


和やかな空気の中、別のスタッフが思い出したように口を開く。


「そういえば凪。お前、彼女のために手話とかちゃんと勉強してんのか?」


悪意のない問いかけだったが、場の空気が一瞬だけ止まった。

凪は詩音の手をやわらかく握り、そっと顔を向ける。

詩音も視線を返し、ふたりは小さく微笑み合った。


それから凪は、息を整えて口を開く。


「詩音と俺にとっては、手話は〝必須〟じゃないかな、って思ってます」


モニターに凪の言葉が文字となって映し出される。

その一字一句に、彼のまっすぐな思いが宿っていた。


「もちろん、手話を軽んじてるわけじゃありません。

でも〝恋人なんだから覚えて当然〟って考え方は、少し偏っているんじゃないかと思うんです。

漢字変換もできるし、アルファベットも使える。

認識のズレが起きない分、スマホでのやり取りのほうが、俺たちには便利で正確なんです。

大事なのは〝決まった方法〟じゃなくて──俺たちにとって一番、言葉が届く方法を選ぶことだと思っています」


張りつめていた場の空気に、その言葉は深く沁み渡った。

短い沈黙ののち、スタッフのひとりがふっと笑い、凪の肩を軽く叩いた。


「……なるほどな。俺たちの考えが、古かったかもしれん。悪かったな」


「いえ……心配してくださって、ありがとうございます」


スタッフたちは顔を見合わせ、小さく笑みを交わした。

重かった空気がゆるみ、ようやく場に穏やかさが戻ってくる。


──これで、きっと大丈夫だ。


笑顔で見送られながら部屋を後にした二人は、エントランスを抜けて出口へと歩き出した。

……この道を通って、何度も家に帰った日々がよみがえる。

そしてまた、ここに戻ってくる日が必ず来る。


そのときには──今とは違う自分で。


(次にこの扉を開けるのは──詩音に届く本当の音が見つかったときだ)


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