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13dB ◆ 君がくれた0dB

その日、凪の運転する車は、昼の首都高を軽やかに走っていた。

約束どおり、凪の誕生日を一緒に過ごすために。


陽射しを弾くガラスのビル群が連なり、入道雲がフロントガラスを横切っていく。

助手席の詩音は、窓の外に広がる街のきらめきを目で追い、時折スマホに何かを書き込んだ。

それから凪の横顔をちらりと見て、はにかむように笑い、また空へと視線を戻す。

その繰り返しが、どうしようもなく愛おしい。


プラネタリアYOKOHAMA。


二人が最初に訪れたのは、港町・みなとみらいの中心にある、プラネタリウムだった。

館内は柔らかな間接照明に包まれ、昼の喧騒から切り離された静けさが漂っている。


詩音はひとつひとつの展示パネルを、宝物を見つけた子どものように熱心に眺めていた。

凪は横で、タブレットに表示される解説文をゆっくりと読み上げる。

唇の動きが、彼女にしっかりと届くように。


やがてシアターの時間になると、二人は並んでリクライニングシートに身を沈めた。

椅子は背中に吸い込まれるように柔らかく、天井を仰ぐ姿勢になる。

館内の灯りがゆっくりと落ち、闇が訪れた。


その瞬間──

頭上いっぱいに、無数の星々がぱっと咲き誇る。


最新の光学投影機で描かれる星空は、肉眼では見られないほどの鮮明さだった。

夜空よりも深い黒に、光の粒が次々と浮かび上がる。

天の川の帯が流れるように横切り、星雲が淡い光を滲ませて広がっていく。

まるで宇宙の中心に吸い込まれているようで、凪は思わず息を呑んだ。

壮大な音楽とナレーションが重なり、星の誕生と死、銀河を巡る旅が描かれていく。


その間、凪の視線はすぐ隣に向けられていた。


(……全部、この目に焼き付けておきたい)


詩音の横顔は、星の光を反射して淡く揺れている。

彼女は時折、はっと目を見開いたり、ふわりと微笑んだりしていた。

音のない宇宙の物語を、彼女がどう受け取っているのかは分からない。

それでも、その小さな表情の変化だけで、凪の胸は満たされていく。


上映が終わり、館を出た頃には、空は完全に夕暮れに染まっていた。

建物のガラスに映る二人の姿。そこに音はない。

けれど、その〝静けさ〟が、今は何よりも心地よかった。


「海に、行こうか」


唇だけを動かすようにして伝えると、詩音は嬉しそうに頷いた。


***


海風が少し肌寒くなってきた頃。

凪は車を臨港パークの近くに停め、詩音の手をそっと引いて歩き出した。


夕方の海辺は夏休みの人出で賑わっていた。

芝生では子どもが駆け回り、観覧車の下では浴衣姿のカップルが記念写真を撮っている。

そんな中でも、不思議と凪と詩音のまわりだけは、ぽっかりと空気があいていた。


凪はシンプルな私服に、目深にかぶったバケットハットとマスク姿。

ぱっと見では人混みに紛れてしまいそうなのに、背筋をすっと伸ばして歩くだけで、周囲の人間と自然に距離が生まれる。


ふたりは海沿いのベンチに腰を下ろした。

寄せては返す波の音と、観覧車の灯り。

背後では街の灯りが次々と瞬きはじめ、残照が細い帯のように海面へと伸びていく。


詩音は凪の肩に頭を預け、ためらうように服の裾をちょんとつまむ。

その仕草に導かれるように、ふたりの視線がゆっくりと交わった。


バッグから小さな箱を取り出し、両手で包み込むように凪へと差し出す。

光沢を帯びた箱には銀色のリボンが結ばれ、折りたたまれたメッセージカードが差し込まれている。


凪は箱を受け取ると、指先で表面をなぞった。

掌に伝わる重みは、中身以上に相手の温もりを感じさせる。


彼は添えられたカードを抜き取り、折り目に指を滑らせて開いた。


《音のないわたしを、見つけてくれてありがとう》


口元が、やわらかくほどけていく。


凪はカードをそっと閉じると、リボンの結び目を丁寧にほどいた。

ゆっくりと蓋を持ち上げると──

箱の中には、繊細なさざ波のような曲線を描いた、片耳用のアクセサリー。

耳の輪郭に沿って守るように包み込むフォルムで、光の角度によって波のようにきらめく。

そして、その表面にはさりげない刻印があった。


〝from 0dB to you〟


凪の瞳が、大きく揺らいだ。

まるで何かを見通すように、深い驚きと気づきが交錯する。


「……0dB」


その響きが脳裏で反響し、ただの数字ではないと直感させた。

音のない世界に差し込む、まだ名もない可能性のように──


「……この刻印、詩音が考えたの?」


詩音は〝うんうん〟と少し誇らしげに頷く。

凪は箱の中からアクセサリーを手に取ると「詩音が、つけて」と唇だけで伝える。


詩音は驚いたように目を見開き、嬉しそうに微笑んだ。

彼女の細い指先が、優しく凪の髪をかき分ける。

耳の輪郭をなぞるように、ひんやりとした金属が耳全体を包み込み、凪の左の耳にぴたりとはまる。


その瞬間、凪の中に小さな波紋が広がっていった。

それは音ではなく、光でもない。

それでも、何かが響いた気がした。


「ありがとう」


凪は彼女の手をぎゅっと握りながら、ゆっくり唇を動かす。

詩音は、はにかみながら〝凪さん〟と口を動かし、そのまま……頬にやわらかく唇を落とした。

その呼び方も、照れるような仕草も、すべてが愛おしくてたまらなかった。


夕陽が沈み、空は茜から群青へと移ろっていく。

街灯がともり始め、その光を透かして詩音の髪が揺れた。


ふたりの影が長く伸びて、海のきらめきの中に溶けていく。

凪は指を絡ませるように、詩音の手を強く握った。


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