12dB ◆ 旅立ち前の一ヶ月
都内某所の音楽スタジオ。
打ち合わせを終えたマネージャーの久我が、凪の報告を聞いて、ゆっくりと目を伏せた。
「……そうか。ついに許可、もらえたんだな。
とりあえず、おめでとう。よく頑張ったな、凪」
「うん……ありがとう」
凪は小さく息を吐きながら、手元のスマホを机に置いた。
詩音の弟、涼からLINEが届いたままの画面。
《……次に会ったときは、ちゃんと敬語で話します》
そんな少し硬いメッセージに、凪は昨夜、こう返信していた。
《敬語じゃなくていい。名前でもいいし、凪兄って呼んでくれたらめちゃくちゃ嬉しい》
すると、しばらくしてから返ってきた短い返信。
《……じゃあ、今度はそうする》
思い出すだけで、思わず口元がゆるむ。
あの日、公園でぶつけられた涼の真っ直ぐな想いも、静かに交わされたその後の言葉も、すべてが愛おしかった。
「で、いつ行くつもりだ。もう決まってるんだろ?」
久我の問いに、凪は一瞬の迷いもなく、頷いた。
「一ヶ月後。詩音の誕生日まで日本で過ごして、それから渡米する」
「……早いな」
「これでも、本当はすぐにでも出発したいのを我慢してる。
けど、誕生日は家族と日本で過ごしてほしいから……」
「ふん……音楽以外に興味なかったお前が、女のために我慢とはな。お利口さんじゃねぇか」
久我はわざとらしく鼻で笑ったが、その視線は凪の顔をじっと見つめていた。
「だから、それまでに楽曲提供、CMの仮曲、タイアップの打ち合わせ、全部やる。
詩音と一緒に発つ以上、今やれる仕事は一つ残らず片付けておきたい」
「……わかった。スタッフには俺から伝える。
あいつらも、どうせ手伝うだろうしな。
なんだかんだ、お前のこと放っておけない奴ばっかりだから」
「……ごめん、ありがとう」
いつもなら照れ隠しで視線をそらす凪も、今だけは静かに、真っ直ぐに頭を下げた。
久我が静かに立ち上がり、部屋の扉を開けながらひとことだけ呟く。
「感謝は、ちゃんと音にして返せよ。お前の一番得意な形でな」
***
その日の夕方、凪の部屋には詩音がいた。
ローテーブルの上には、リュックとノート、パスポートの写し、医療関係の書類が並べられている。
詩音は慣れない準備に戸惑いながらも、凪が作ったリストを元に、ひとつひとつ、必要なものを丁寧に確認していた。
《……これで、大丈夫かな?》
スマホのメモアプリにそう綴って、顔を上げる。
凪は彼女の横に座って、画面を覗き込みながら、優しくうなずいた。
「うん、完璧。詩音はいつも真面目だな」
詩音が小さくほほえむ。
その様子を見て、凪はスマホを手に取り、何かを打ち込んだ。
《あのさ、8月15日の俺の誕生日。空いてる?》
詩音は、少し驚いたように瞬きをして、すぐに「うん」と首を縦に振った。
その返事を見て、凪はさらにもう一文、慎重に、けれど真っ直ぐな言葉を選んで打ち込む。
《誕生日に、詩音の1日を俺にくれない?
……もしよかったら、その日、俺の家に泊まってほしい》
そのメッセージを見た瞬間、詩音の頬が一気に赤く染まる。
スマホの画面を見つめたまま、まるで火照る体を冷ますように、手で自分の頬を覆った。
(……お泊まり、なんて……)
まだ、心の準備ができていない。
嬉しいけれど、それ以上に、怖い。
そんな戸惑いが、彼女の指を止まらせた。
凪は、そんな詩音の様子を察して、優しく笑いながら彼女の髪を撫でる。
「大丈夫。無理にとは言わない。
でも、二人で過ごす初めての誕生日だから、詩音と一緒にいられたら嬉しい」
その言葉が口の動きだけで告げられたのは、きっとその方が、よりまっすぐ届くと思ったからだ。
彼の瞳には、包み込むような優しさと、あたたかな愛がにじんでいる。
詩音はゆっくり顔を上げると、一度だけこくりと頷く。
一緒にいたい気持ちは、自分も同じなのだと伝わるように。
***
(渡米までは、あと一ヶ月)
凪は、自室のベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。
(もちろん、それがすぐに〝音〟の始まりを意味するわけじゃない)
現地での診察、術前検査、準備期間──手術の日取りが決まるのは、もっとずっと先だ。
うまくいかない可能性だってある。リスクも、待ち時間も、不安も。
(それでも──)
凪の中には確かに〝灯せるかもしれない音〟が存在していた。
まだ見えない未来の、その先に。
彼女の世界に音が灯る日を、ただ信じて。
(その始まりの瞬間を、俺は、詩音の一番近くで見届ける)