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10dB ◆ 潮風のポートレート

8月の風は、都会の喧騒からは想像もつかない、湿り気を含みながらもどこか懐かしい潮の香りを運んでいた。

高知県・中土佐町。詩音は今、凪の実家に向かっている。


凪の運転する車は、見慣れた街の風景を抜け、緑が深まる山道を通り、やがてどこまでも続く青い海を横切っていく。

窓の外に広がる景色が、木造の古民家が点在する穏やかな町並みに変わるたび、詩音の鼓動は期待と緊張を含みながら高まっていった。


到着したのは、豪華さこそないものの、年月を重ねた温もりが感じられる、海沿いの二階建ての家だった。

玄関の扉を開けると、潮の香りがふわりと鼻をかすめる。


「美優〜、真優〜。兄ちゃん、帰ってきたき〜!」


凪の明るい声が、家中に響き渡る。


すぐに階段の上からバタバタと駆け下りてきたのは、鏡写しのように瓜二つの顔をした二人の少女。

くりっとした大きな瞳と、えくぼが特徴的な凪の双子の妹、美優と真優だ。


「えっ、この子が凪兄の初恋の詩音ちゃん!?めっちゃかわいい!」


「凪兄、やっぱ面食いなんやろ〜!」


「ちゃうって!たまたま好きになった子が、たまたまこんなかわいい顔しちょっただけやき!」


(……いま、なんて?)


詩音はぱちぱちと瞬きをして、きょとんと二人を見返した。

いつも凪と話すときとはどこか違う口の動き。

表情や仕草から興奮しているのは分かるが、土佐弁特有のイントネーションが混じるせいか、凪の口元すら読み取りにくい。

そんな詩音の反応に気づいた凪が、妹たちに苦笑しながらもやさしく声をかける。


「美優、真優。詩音は耳が聞こえんき、もうちょっとゆっくり、はっきり話さんといかんよ。

スマホのメモ使うとか、口の動きが分かるように、一つ一つ丁寧に伝えちゃって」


「あ、ごめんごめん!スマホ使うね!」


二人は慌ててスマホを取り出すと、にこりと笑みを浮かべる。


そこに、台所からエプロン姿の女性が顔を出す。

明るい笑顔が印象的な、凪の母だった。

朗らかで豪快な雰囲気に、思わず場が和む。


「あら〜!あんたが詩音ちゃん?

うちの息子、ほんま無愛想で何考えちゅうか分からんろう?ごめんねぇ」


続いて、磯の香りをまとった日焼け顔の男性が現れる。凪の父だった。


「お〜い凪〜!おまん、こんなべっぴんさん連れて来るがやったら、父ちゃんビックリやき!」


「……おとん……おかん……マジうるさい……」


顔を覆ってうなだれる凪の姿に、家中から明るい笑い声が湧き上がる。


詩音は、心がふわりとほどけていくのを感じていた。

賑やかで温かくて、音のない世界に、それ以上のぬくもりが満ちていく。


***


夕方。

詩音は双子に手を引かれて、凪の地元のあちこちを案内された。


打ち寄せる波が力強く岩を叩く絶景スポット。

時間そのものが消えてしまったような、静けさが漂う入江。

木漏れ日がキラキラと揺れる緑豊かな小道。

五感を澄ませば、自然は音がなくても、こんなにも豊かで美しいと教えてくれる。


凪は一歩うしろから、そんな詩音の姿を優しい眼差しで見つめていた。

手には、いつも持ち歩いている小型のカメラ。

道端に咲く小さな花に手を伸ばし、その香りを確かめようとする横顔。

潮風にスカートの裾をふわりと揺らしながら、楽しそうに波打ち際を歩く後ろ姿。

夕焼け空の下、海を見つめる物憂げな表情──

すべての瞬間が、彼のレンズの中に収められていく。


「綺麗だよ、詩音」

「こっち向いて笑って」

「風、気持ちいいね」


シャッター音の代わりに、凪のやわらかな声が優しく囁かれる。

その声は詩音の耳には届かない。

それでも、彼の唇の動きと、空気の振るえがしっかりと心に響いていた。


***


夕食は、おとんが朝に釣ってきた新鮮なカツオをふんだんに使った豪華な料理の数々。

詩音は、色とりどりの料理に目を輝かせながら、身振り手振りで「美味しい!」と伝える。


その素直なリアクションに、永倉家の人々は思わず大笑いした。


「詩音ちゃん、言葉はいらん!表情がいちばん美味しそうやき〜!」


夜。

詩音は客間で、美優と真優に両側からぎゅっと挟まれて眠ることに。

二人の体温が心地よく、枕元にはいつものスマホがある。

窓の外からは、涼やかな夜気が静かに流れ込んできていた。


(妹がいたらこんな感じなのかな……なんだか、すごくかわいいな)


微笑みを浮かべながら、詩音はゆっくり目を閉じた。


***


二日目。

この日は、凪と詩音の二人きりで地元を巡ることにした。


活気あふれる朝市では、並ぶ品々を指さしては身振りで感想を伝え合い、浜辺では裸足になって冷たい海水に足を浸しながら、ひとしきり笑った。

ソフトクリームをひとつ買って、交互に口に運ぶ。

そんな何気ないひとときも、凪のカメラは逃さない。


楽しそうな笑顔。ふとした瞬間に見せる真剣な眼差し。

何気ない仕草のひとつひとつ。

ファインダー越しに見る詩音の姿は、凪にとって何よりもかけがえのない宝物だった。


「はい、チーズ」

「もう一枚、自然な感じで」

「夕陽が似合うね」


優しい声がシャッターの代わりに響くたび、ふたりの間に静かな温度が満ちていく。


夜は、永倉家の広々とした庭で、炭火を囲んでの海鮮バーベキュー。

おとんが選りすぐった魚介を炭でじっくり焼く香りが、食欲を刺激する。


詩音は料理が運ばれるたびに、目を輝かせて両手を合わせた。

「いただきます」と声には出せないが、笑顔だけでその気持ちは十分に伝わる。


食後は手持ち花火。

おかんとおとんが用意してくれた色とりどりの花火を、美優と真優が歓声をあげながら庭を駆け回って楽しむ。

凪は少し離れた場所で、詩音の手に火のついた花火を手渡した。


火花が舞うたび、詩音の顔がぱっと照らされる。

その輝きが消えないうちにと、凪はまた静かにシャッターを切った。


花火が終わると、凪は詩音を連れ出し、港の防波堤へと歩いた。

海を見渡せる静かな場所に腰を下ろし、スマホを取り出す。


そこに映るのは、今日撮った写真や動画の数々。

詩音の頭が自然と凪の肩にもたれかかり、凪もまたその頭に額を預ける。


《俺の家族、どうだった……?》


少しだけ不安を含んだ問いかけに、詩音は笑顔で顔を上げ、スマホに文字を打った。


《みんなすごく明るくて、優しくて、楽しくて、大好きです》


読み終えた凪は、肩の力が抜けたように笑った。


《……良かった》


そう打ち込んだあと、凪の手がそっと詩音の冷えた指先を包み込む。

言葉もなく、ただ寄り添いながら、二人はしばらく夜の海を見つめ続けた。

潮騒の音だけが、二人のまわりにやさしく響いていた。


***


三日目の朝。

とうとう別れの時間がやってきた。


「うちの息子を、これからもよろしく頼むねぇ〜!」


おかんが温かく詩音を抱きしめる。

こらえていたものが堰を切ったように、詩音の目から涙が溢れた。

何度も、何度も頷く。


美優と真優も「詩音ちゃん、また絶対来てねぇ〜!」「帰らせたくなーい!」と両腕でしがみついてくる。

おとんは、その三人をまるごと包み込むように、両腕を回した。

少し不器用なその動きには、言葉よりもずっと深い思いが込められていた。


詩音は思った。


──もう、音が聞こえなくてもかまわない。


この家族のぬくもりを、ずっと心に抱いて生きていける気がした。


***


詩音が高知へと旅立った夜。

佐々木家のリビングは、どこか広く感じられた。


母は洗い物を終え、キッチンの片付けをしている。

ソファに座る弟の(りょう)は、スマホをいじりながらもどこか上の空だった。


沈黙を破ったのは、リビングに「ポコン、ポコン」と響く通知音。


母と涼がスマホに目を向けると、LINEのグループ【佐々木家+凪】に大量の通知が届いていた。


メッセージはない。

ただ【高知旅行の記録 20XX.8.〇〇〜〇〇】というアルバムが作成され、50件近い写真と動画が次々とアップロードされていた。


太陽の下で無邪気に笑う詩音。

双子の少女と手をつないで歩く姿。

釣り上げられた魚を前に目を輝かせる横顔。

夕暮れの海を見つめる静かな表情。


いくつかの動画には、凪の優しい声も録音されていた。


「はい、詩音、こっち見てー。いい笑顔!」


その声に照れくさそうに笑う詩音が、次の瞬間には、まっすぐカメラに笑顔を向ける。

その瞳には、海の光が宿っていた。


「風が気持ちいいね。髪が風になびいてるのも綺麗だよ」


別の動画では、海辺を歩く詩音の髪が風にふわりと揺れるのを、凪の手が優しく耳にかける様子が記録されていた。


「おっと、危ないよ。ゆっくりね」


小道を歩く場面では、凪が自然に詩音の手を取り、段差を越えるのを支えている。


それらすべてが、凪の代わりに語りかけてくるようだった。


──言葉では足りない想いを。


母は、一枚一枚、写真と動画を丁寧に見送りながら、やさしく微笑んだ。


「楽しかったんだね……」


涼はとなりで無言のまま、画面を凝視している。


動画の中、ふと、カメラの方へ向かって詩音が手を振る。

その向こうから、少し心配そうな凪の声が飛んできた。


《真優、美優。詩音をそんなに引っ張ったら危ないだろ。ゆっくり歩け》


しばらく無表情で動画を見ていた涼は、ぽつりと呟いた。


「……芸能人の男なんて、遊び人ばっかだろ。

実際、どんな奴だったの?母さん、会ったんでしょ」


母は少し驚いたように涼を見つめ、それから言葉を選ぶように静かに答えた。


「まっすぐすぎるくらい、不器用そうで……

でも、根はほんとに優しそうな、いい子だったよ」


「……ふうん」


涼はそれ以上何も言わず、再びスマホの画面に視線を戻した。

画面の中では《美味しい!》と書かれたスマホのメモを掲げ、満面の笑顔を見せている詩音と、顔をくしゃくしゃにして笑う双子の姿。


その夜、涼は自室に戻っても、スマホの画面をじっと見つめていた。

姉の楽しそうな笑顔。凪の優しい声。

そして、彼女を自然に受け入れている永倉家の姿──


彼の心には、さまざまな感情が波のように押し寄せていた。

姉を遠くに感じる寂しさと、傷つけられないかという不安。

でも、画面に映る姉は、まぎれもなく幸せそうだった。


***


翌日の夜。

またしてもリビングに「ポコン、ポコン」と通知音が響く。


新たに追加されたアルバム【高知旅行の記録 Part2 20XX.8.〇〇】

そこには、凪と詩音が肩を寄せ合って散歩する姿や、夕暮れの港でスマホを覗き込むシーン。

庭で家族と笑い合いながらバーベキューを囲む様子──

そして、手持ち花火に照らされた詩音の横顔が収められていた。


凪の姿は、ほとんど写っていない。

けれど、詩音の笑顔のすべてに、撮る人の温かさと愛情が滲み出ていた。


母はその夜、自分のスマホを胸に抱き、ソファの背に身を預けながら目を閉じた。

浮かんでくるのは、あのにぎやかな高知の景色。

ぽつりと、心の中でつぶやく。


(……この子は、本当に、大切にされてるのね)


隣の涼は、今夜も無言だった。

ただスマホの画面を見つめたまま。

やがて、小さく息を吐き、母の方を向いた。


「……あのさ。母さん。話があるんだけど」


その声には、これまでにないほどの強さと真っ直ぐさが宿っていた。


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