9dB ◆ その一歩、届くかどうか
スタジオの別室。
防音加工された分厚い扉の内側は、時間が止まったかのような静けさに包まれていた。
会議用のテーブルを囲んで、凪とマネージャーの久我、ディレクター、広報担当の4人が座っている。
壁には、XENO名義でリリースされた楽曲のゴールドディスクや記念の盾が並んでいた。
輝かしい成果の証。
しかし今、そのどれもが沈黙の圧力に押し黙っているように見えた。
「……お前、本気で言ってるのか?」
久我が低く、しかし明確に怒気を孕んだ声で切り出す。
「彼女の家族の了承が取れたら、アメリカに渡って、手術を受けてもらう。
……その間、お前は活動を〝休止〟する?」
ディレクターと広報担当が息を呑む。
凪が以前、そんなことを考えていると語ったことは知っていた。
だが、それを〝今このタイミング〟で、本当に行動に移すとは思っていなかったのだ。
凪は、ゆっくりと頷いた。
その表情は、どこまでも静かで、揺らぎがない。
「よりにもよって、今、このタイミングでかよ……」
久我の口調には、苛立ちよりも困惑がにじんでいた。
「お前、自分が今どういう立場にいるかわかってるよな。
世界中がお前の次の音を待ってるんだぞ。
アリーナツアーも控えてる。タイアップも複数進んでる。
そのすべてを止めて、SNSも更新せず、メディアにも出ない?
そんなことをして、業界から忘れられてもいいのか?」
テーブルを挟んだディレクターが、タブレットを開いて資料を見せる。
「これが、来期の売上見込みと、現在のファン層の動向だ。
君の名前は〝ブランド〟になってる。
でもそれ以上に──君の曲には〝空気を変える力〟がある。
耳じゃなく、胸に響く構成。誰にも真似できない音の重ね方と間合い。
まるで音の銀河に飲まれるような感覚だ。
聞いてると、言葉じゃない何かに引きずり込まれる。
それを作れるのは、君だけだ。誰にも作れない音楽なんだ。
それが今、君が世界で評価されてる理由なんだよ」
ディレクターはタブレットから視線を外し、深いため息をついた。
眉間に指を当てて、しばらく押し込むように揉む。
隣に座っていた広報担当が、ディレクターの肩をぽんと軽く叩くと、少しだけ身を乗り出して話し出した。
「誰かのために活動を止める?
まあ、美談にはなるかもしれないな。
でも、その間に〝XENO風〟を模倣する若手は必ず出てくる。
君の席が永久に空いてる保証なんて、どこにもない。
君の市場価値は、今が最も高い。
ここで1年半も第一線から離れたら……」
広報担当が言葉を続ける前に、凪がすっと手を上げて制した。
「……わかってます。久我さんも、みんなも、言ってることは全部、正しい」
一拍、静寂が落ちる。
「でも、俺にとって音楽って……
そんな大層なものじゃなかったんです」
凪の声は静かだった。
けれどその静けさが、どこまでも深く響いた。
「ファンがいて、数字があって、ブランドがあって……
それは確かに〝結果〟です。大事なことだ。
でも俺が、最初に曲を作った理由は、そんなものじゃなかった。
子供の頃から、ずっと頭の中で〝音〟が鳴ってて、勝手に旋律になって浮かんでくる。
それを曲にするのは、なんていうか……当たり前のことだった。
吐き出さないと、息ができないみたいな。
……だから音楽を始めました。
でも、詩音は〝音〟を知らない。
だから、俺がそばにいて……彼女の、最初の〝音〟になりたい。
届けたいだけじゃない。分かち合いたいんです。
彼女が感じる音、聞こえないままの世界……
それを、俺も一緒に体験したい。だから、行くと決めました。
止めるなら、契約を切ってください」
一瞬、空気が凍りついた。
誰も、息をする音すら立てなかった。
「……おい、正気か?」
久我が、唇を噛むように声を絞り出す。
「そんな理由で、キャリアを台無しにしていいのか。
お前は今、世界のステージに立ってるんだぞ。
何年もかけて築いた地位を、本気で手放すつもりか?
……頼むから、いったん冷静になれ。のぼせてるだけだ。……初恋で浮かれてるだけだろ」
「のぼせてますよ。初恋で浮かれてます」
凪が、言葉をかぶせるように告げる。
「でも、それでもいいと思ってるんです。
もともと俺は、音楽で誰かの世界を変えたいなんて、一度も思ったことなかった。
けど、詩音の世界に触れたことで……
そこに何かを残せたらって、初めて思ったんです」
そのとき、久我は凪の瞳を、久しぶりに真正面から見たような気がした。
見慣れているはずなのに、そこに宿った光に、思わず言葉を失う。
「……本気、なんだな」
「はい」
「……お前、それで本当に後悔しないって言えるのか。
お前が戻る頃には、今の席なんて、もう他の誰かで埋まってるかもしれない。
彼女の手術だって、必ずうまくいく保証はない。
それでも──その選択を、最後まで抱えて生きていくつもりか?」
凪は、小さく頷いた。
「その覚悟は、できてます」
久我は、凪の言葉に、初めて聞いた声の響きを感じていた。
プロデビューの時からずっと、久我は凪のそばにいた。
彼の音楽は天才的で、周囲の誰もがその才能に憧れ、嫉妬した。
だが、凪自身はそのことに無関心で、自分の感情を奥底に閉じ込めているような、掴みどころのない男だった。
そんな凪が今、自分の未来を賭けて、たった一人の女性のために、その心をむき出しにしている。
(くそが……もう、止められないな)
久我は、自分自身に言い聞かせるように、その言葉を心の中で反芻した。
止められないのは、凪の決意だけじゃない。
この、どうしようもなく純粋な想いを、自分も応援したいと心の底で思ってしまっているからだ、と。
***
その日の帰り道、凪は運転席で、ハンドルを静かに握りしめた。
窓の外、街の灯りが静かに流れていく。
彼の視線は、遠く、先の景色を見据えていた。
──どうすれば、詩音の家族に〝本気〟を伝えられるか。
──どうすれば、彼女の〝未来〟を変える一歩になれるのか。
信号が青に変わる。
凪は静かにアクセルを踏み込んだ。
向かうのは、詩音の家。
彼女の〝家族〟に、自分の覚悟を見せるために──
***
玄関のチャイムが鳴ったのは、日がすっかり暮れた頃だった。
連絡を取り合ったあと、凪が「今から行く」と言ったときはさすがに驚いたが、それ以上に──胸が高鳴る。
慌てて部屋を片付け、ソファにブランケットをかけ、何度も身だしなみを確認してから詩音はドアを開けた。
「急にごめん」
そう言って、凪は少しだけ笑う。
緊張しているはずなのに、不思議とその笑みは穏やかだった。
奥から顔を出した母が、玄関までやってくる。
「夜分に突然すみません。
お時間、少しだけいただけますでしょうか?」
凪は丁寧に頭を下げた。
背筋はまっすぐで、どこか緊張の面影を残している。
それでも、その瞳には曇りがなかった。
部屋着のままの詩音に視線をやり、凪は一瞬だけ目を細める。
その視線を、母は見逃さなかった。
〝可愛いな、そういうのも〟
ぽそりと動いた唇に気づいて、詩音は一瞬で顔を赤らめた。
その様子を見て、母はほんの少しだけ表情を和らげる。
「どうぞ、上がってください」
三人は、リビングのテーブルに向かい合って座った。
湯気の立つお茶が並べられ、しばしの沈黙のあと──
凪が口を開いた。
「今日は、お話したいことがあって伺いました。
……僕は、詩音さんと、真剣にお付き合いをさせていただいています」
母は微かに息を呑んだが、それ以上は言葉を挟まなかった。
「そして……この先、もっと詩音さんを好きになると思っています。
彼女の見ている世界を、もっと広げたい。
音のない世界で生きてきた詩音さんに、少しでも〝音のある世界〟を感じてもらいたい。
そのために、お願いしたいことがあるんです」
彼は一度、姿勢を正し、目を逸らすことなく正面から母を見つめた。
「……実は、海外で、詩音さんに受けていただきたい治療があります。
アメリカで行われている〝脳幹インプラント〟という手術です。
脳に直接信号を届けることで、うまくいけば音のリズムや高さをある程度感じ取れるようになる可能性があります。
言葉としてはっきり聞き取れるわけではなくても、今までまったくなかった〝音〟の存在に、初めて触れられるかもしれない。
そのために、どうしてもお願いしたいんです。
費用はすべて、僕が負担します。
渡航費、手術費、滞在費、リハビリにかかるすべて。
詩音さんが必要とするものは、全部、僕が出します」
母は目を伏せ、手元の湯呑に視線を落とした。
けれど、その表情には明確な〝反対〟が浮かんでいた。
「……私は看護師です。
脳幹インプラントがどんな手術かは、知っています。
成功率が高くないことも、効果が出ないこともある。
術後のリハビリがどれほど過酷かも」
凪は、ただ静かに頷いた。
「しかもあなた、世界的にも有名なアーティストでしょう?
大学生の娘とふたりきりで海外に渡って、長期間一緒に生活をする?
そんなこと、普通の親なら──」
「普通じゃないからこそ、本気なんです」
凪の声が重なった。
強くはない。けれど、決して引かないその言葉に、母の視線が再び彼へ向けられた。
「軽く聞こえるかもしれませんが……
僕は、本気で詩音さんとの将来を考えています。
今日、こうしてお伺いしたのも、きちんとその覚悟をお伝えしたかったからです」
母は、返す言葉を探すように数秒の間を置いた。
「……本気なのね。
それで、本当に……娘の人生に、責任を取れると?」
「はい。僕の歌手としての人生を懸けてでも」
母の厳しい視線を受け止めた上で、凪は続けた。
「……大金を使ってまで、なぜそこまで、と思われるかもしれません。
でもこれは、僕自身にとっての〝挑戦〟なんです。
彼女の未来に音があるかもしれない。
その〝かもしれない〟に、僕は賭けたい。
それが、僕の音楽人生に意味を与えてくれると信じています」
沈黙が、室内を満たした。
「もちろん、連絡は定期的にします。
現地の通訳や医療コーディネーターの体制も整えています。
生活に困るようなことは絶対にさせません」
そう言って、凪はスッと正座し、そして額を床に近づけた。
「どうか、詩音さんに、世界を広げるチャンスをください」
母親は、凪の言葉に耳を傾けていた。
娘の人生を賭けるような無謀な挑戦。反対すべきだ。
医者でもない、ただの若者が何を言っているのか。
けれど、彼の「僕自身にとっての〝挑戦〟なんです」という言葉を聞いた瞬間、彼女の心に、小さな光が灯った。
彼は、自分の名声や成功のためではなく、詩音の人生を、自分の人生の一部として捉えている。
それは、単なる恋愛感情ではなく、もっと深い愛情の形のように感じられた。
「……母親として、反対したい気持ちはあります。
でも、それだけじゃ答えは出せない。少しだけ、時間をください」
それが、母の返答だった。
凪はゆっくりと顔を上げ、小さく息をつきながら「ありがとうございます」と微笑んだ。
そして立ち上がる直前、少し迷ったように口を開く。
「それと、もうひとつだけお願いがあります」
母が顔を上げる。
「手術のこととは別に……
詩音さんを、僕の実家に連れて行きたいんです。
高知にあるんですが、二泊三日で。
もちろん、費用は全部僕が持ちますし、決して詩音さんに手を出したりはしません」
一瞬の沈黙。
詩音が目をまんまるにして凪を見つめていた。
「家族に、彼女を紹介したいんです。
これが一時の感情なんかじゃないって、ちゃんと伝えたくて」
母は静かに、けれど確かな意志のこもった瞳で凪を見つめた。
「……あの子を、傷つけるようなことだけはしないでちょうだいね」
「はい。約束します」
そして帰り際。
詩音が玄関まで見送りに出ると、母は凪のスマホに自身の連絡先を入力しながら、こう言った。
「……あの子を泣かせたら、看護師としてじゃなくて、母親として怒りますからね」
「はい。覚悟してます」
凪の笑顔に、詩音の胸がまた、ぎゅっと締めつけられた。
その夜、彼の背中を見送りながら、詩音は思った。
──この人に出会えて、ほんとうによかった。
言葉にならない想いが、心の奥に静かに根を張っていく。
それは、まだ見ぬ未来へとつながる、確かな始まりだった。