虹の下で
水だ。
垂れ落ちる前に、急いで舐める。でも、何も感じない。水は向こう側にあるのだ。
透明な何かが邪魔をして、ボクと水を離してる。お水、飲みたいのに。
透明な何かは、いつもそうだ。ボクはお水が欲しいのに、いつもいじわるをする。
時々、ガタガタ大きな音を出して、ボクを驚かすんだ。そいつがやってるのは分かるんだけど、ボクはいつもびっくりして反対側に逃げる。そいつは音を出すだけで、動かないから。
ボクはぴったり閉じている戸を見た。向こうは、明るい。こっちはまっくら。
ボク以外のコたちも、ずっと戸を見てる。向こうには、おかあさんがいるんだ。
みんな、おかあさんを待ってる。
でも、みんなはお水は欲しくないみたい。ボクみたいに渇かないのかな。
おかあさんは、すごく優しい。たくさん遊んで、撫でてくれて、ゴハンもお腹いっぱい食べさせてくれる。
でも、最近は違う。ボクが遊ぼうって言っても、ぷいってどっか行っちゃう。
一緒に居たくて、お膝に座ったら、すごく怒られた。
『わたしのふくを、けまみれにするな』……って、怒鳴られて、ぶたれた。おかあさんがあんなに怒ったの、初めてで、ボクはびっくりして逃げた。
もう、怒ってないかなと思って、そーっとおかあさんの所に行ったら、またぶたれて…。
きっとボク、すごく悪いことしたんだ。たくさん謝ったけど、静かにしろって、この部屋に入れられた。
ここには入ったこと無かったから、怖くて、出してっておかあさんにお願いしたけど……おかあさん、ずっと怒ってて、向こうからバンバン叩くだけで。それからボクは、ずっとここに居る。
ボクが大人しくしてたら、おかあさんも怒らない。
でもおかあさん、おなかすいたよ。のどもかわいた。おみず、のみたい。
ボクが悪いコだから、優しいおかあさんは居なくなっちゃったのかな。
ボク、大人しくしてるよ。他のコたちも、静かにしてる。おかあさんを困らせるようなこと、しないから。だから、だから、
「お前、ハラ減ってんのか?」
「……だあれ」
「ひでぇ顔だ。ロクに食ってないんだろ。ちょっと待ってな」
透明な何かの向こうに、だれか居る。きゅっと水をどけたから、向こうに居るって分かったんだ。
あぁ、いいな……向こうなら、お水がたくさんある。
そのコは飛び上がると、透明な何かをどけた。ひゅうと風とお水が入ってくる。風なんて、とても久しぶり。ボクは慌てて、ぴたぴたと入ってくるお水を呑んだ。
「……ひでぇ場所。お前、こんなトコでよく生きてたな」
「…そうなの?」
「あぁ、そうだ。こんなトコ、全然ふさわしくねぇ。おっと、それよりハラ減ってんだろ。うまいごはん、食べに行こうぜ。連れてってやるよ」
「でも、おかあさんに怒られる」
ボクは開かない戸を見た。勝手したら、またぶたれるかも。
けど、突然来た変わったコは、フンと鼻を鳴らした。
「んなのより、まずは自分のこと考えな。ごはん、いるのか?いらねぇのか?」
「!い、いる!ごはん、たべたい!」
じゃあ連いてきな、とニカリと笑う。ボクは悩んだけど、お腹いっぱい食べて、また戻ってこればいい。
あ、でも、
「他のみんなも、一緒じゃダメ?」
「おいおい、いくらオイラでも、一気は無理だぜ。お前を案内したら、順番に連れていくからよ」
「そっか……、分かった。ごめんね、ボク先に行くね」
みんながこっちを見ていた。
――ばいばい
みんなが、そう言った気がした。
ボクは、初めて外に出た。外はお水がたくさん。
これだけあったら、飲み放題だね。そう言うと、変わったコが教えてくれた。
「これは雨っていうんだ。いつも降ってるワケじゃねぇんだぜ。カンカン照りになった日にゃあ、すぐに乾いてなくなっちまう」
「かんかんでりってなあに?」
「お前は箱入りだな。お日様は知ってるだろ。お日様がずーっと出てるのをそう言うんだ」
「じゃ、じゃあ、たくさん飲まなきゃ!」
「おいおい、それじゃあごはん食えなくなるぞ。それに、これからは好きな時に飲めるようになるから、今は我慢しな。もうすぐだぜ」
変わったコは、ボクに合わせて歩いてくれてた。こっちだ、と道の端に寄ると、繁みにぐぐっと潜り込む。ボクも真似して入ると、目の前がぱっと開けた。
柔らかい土の感触。あちこちから、爽やかな匂いがする。この匂いは、ここに植えてある植物の匂いらしい。
「ここはオイラの庭みたいなモンさ。ごはんはあそこだ」
ごはん!釣られてそっちを見ると、知らないヒトが居た。
「あのニンゲンは大丈夫だ。あいつが用意してくれてる。ほれ、行くぞ」
「で、でも、でも、怒らない?ぶたない?」
「……ぶたないし、怒らない。オイラを信じな。食い終わるまで、側に居てやるからよ」
変わったコは、堂々とニンゲンの側に行く。ボクは、置いてかれるのはイヤだから、くっついていった。
ニンゲンが気付く。
少し、毛が逆立つのが分かった。
「お、来たか。遅いから心配してたんだ。ずぶ濡れだな、おいで」
「なーおうぅ」
「そっちは見ないコだな。お前も、おいで」
「……びゃ、びゃ、」
「水と、ミルク。両方用意しといたから、まずは飲みな。あぁ、ゆっくりな、ゆっくり」
怖がる必要なかった。
ニンゲンはボクを持ち上げると、柔らかい何かの上に乗せてくれて、お水をくれた。おかわりもある!
ボクが必死に飲んでいる間、変わったコはニンゲンに濡れた体を拭かれてた。
気持ちよさそう。そう思ってたら、ボクも拭かれた。柔らかいのは、タオルっていうらしい。
それから、ごはんを出してくれた。こんなに食べるの、久しぶり。お腹いっぱいだ。
「びゃ、びゃう、びゃ」
「……がんばったなぁ。お前、よくがんばった。今はゆっくり休みな」
「びゃ、びゃあ……」
帰らなきゃいけないけど、ちょっとだけ、ちょっとだけ…………
撫でてくれるニンゲンの手は優しくて、あったかかった。
すやすやと眠る猫。その姿は痩せ、薄汚れていて、どう見ても飼い猫には見えなかった。
喉を痛めているのか、鳴き声も枯れて、うまく声が出せないようだ。
「また、どこから連れてきたんだ?猫又」
「クソなニンゲンのトコからだ。生きてるのはそいつだけだった。他のやつらは、ダメだった」
「……そうか。もうすぐ獣医さんが来てくれるから、このコを診てもらおう」
猫又はしばし、毛繕いをしながら様子を見ていたが、ぐいぃと伸びると、外へ降りた。
纏う毛皮はふわりと光り、ゆれる尻尾は二股だ。
どこへ、と訊くのは野暮だろう。代わりに透太は、後ろ姿に呼び掛けた。
「早目に戻ってくるんだぞ。このコが寂しがるといけないから」
ぴたりと止まり、胡乱な目を向けてくる。
「お前は変なニンゲンだ。拝み屋のクセに、オイラを祓おうとしない」
「だって、お前は悪いことしてないだろう」
「妖怪だぞ、オイラは」
「そうだな。でも、お前はお前だから」
猫又はじ、と透太を見る。
やっぱり変なやつ。そう言って、ふわりと宙に浮いた。
「……カリカリ用意しとけ。かつお節忘れんな」
「はいはい」
……
…………
そのニンゲンは蹲ったまま、震えている。
ブランドらしい服は破れ、血が滲み出て。綺麗に整えられていた髪もバラバラに切られ、床に散乱していた。ニンゲンは全身切り裂かれ、動く気力もないらしい。
最初は威勢よく怒鳴り、四肢を振り回していたが、今は掠れた声で痛いやめてを繰り返すだけ。
それでも体は裂け、抉られ、血が噴き出す。
がりりと一際大きな音。ニンゲンは大きく吠えた。苦痛に満ちた声で。
がり、がり、がり。吠えるたびに、音も大きくなっていく。血の匂いが満ちる。
「やめな」
それをテーブルの上から、悠々と眺めていた猫又が静かに止めた。音が止む。
開け放たれた奥の部屋から、ひゅるりと湿気た風が入ってきた。また、雨が降り始めたのだ。
猫又は軽い音を立てて降りると、ニンゲンの前に立ち丸い目を向けた。
ざんばらになった髪の隙間から、怯えたニンゲンの目が覗く。
「大きくなって、可愛くなくなったからいらない」
ひゅ、とニンゲンの口から息が漏れた。
「全然懐かないからいらない」
にゃおう。黒い影が鳴く。
「言うこと聞かないからいらない。服を汚したからいらない。部屋を荒らしたからいらない」
鳴き声は増え、部屋中に響く。
ニンゲンはがたがたと震え、血だらけの手で耳を覆った。
「散々いたぶって虐めたくせに、何で怖がる?痛がる?お前がこいつらにやったことだぞ?」
ひゅうひゅうと荒い息を吐きながら、ニンゲンは一つの言葉を繰り返している。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、
鳴き声がぴたりと止まる。代わりに、冷え冷えとした空気が漂う。
猫又の目も、冷たく細められる。
「勝手なヤツだ」
お――――ああぁぁぁぁぁ。甲高い鳴き声が、部屋を覆う。
「殺さないでやる。これはお前の為じゃない。こいつらの為だ。忘れるな?お前はこいつらに、生かされたんだ。温情でな」
猫又は、は、と顔を上げたニンゲンの目を、爪で抉った。
悲鳴を上げ、床でのたうち回る。
それを見下ろす、冷たい目、目、目……。猫又はにたりと嗤った。
「お前に都合のいいようにしか見ない、そんな目なんていらないだろ?」
「虹だ。青葉ー、虹が出てるー」
「えっ、ホント?どこどこ?!」
たたた、と走ってきた拝み屋の妹は、手に四角い何かを持っている。あそこ、と兄が指した空に、それを向けた。
あれはなにしてるの?そう首を傾げているので、猫又は教えてやった。
「あれはな、『すまほ』っていうんだ。ニンゲンをダメにする、恐ろしいヤツだ」
「そうなの?危ないの??」
「ニンゲンが理解して、使いこなしてれば問題ない」
猫又が助けた猫は、薄黄色の毛皮だった。今はすっかり身綺麗になり、兄妹に可愛がられている。
『フク』と呼ばれるようになったらしい。
フクは虹を見上げ、目をまんまるにして耳を動かす。
「ねぇ、みんながあそこにいるっ。にじ?を歩いてるよっ」
「あぁ、あいつらは虹を渡って、向こうに行くんだ。幸せになる為に行くんだ」
「ボクは?ボクは行けないの?」
「お前はまだ先だな。あいつらからの伝言だ、お前は自立してから来い、だとさ」
「じりつってなあに?」
「それはな、ここでたくさん食べて、遊んで、寝て、あいつらを幸せにしてやって、お前も幸せになることだ」
「そうなの?……分かった、ボクがんばる」
猫又はちらとフクを見遣った。
「がんばらなくていーのさ。自由気ままが一番いい」
そのまま寝そべる猫又を見、フクは虹を見上げた。
みんなが楽しそうに、追いかけっこしながら小さくなっていく。
――ばいばーいっ
明るい声が、耳に届く。
「……にゃー」
フクは一声鳴くと、ゴロゴロと喉を鳴らした。