九
九
「ならばよかった。しかし、くだらないお話をしてしまいましたが、あなたは聞いてくださったのでしょうか」
「うけたまわっておりますとも」
「感謝します。恐縮です。なんだか回りくどいことを言いだしまして、おうるさいでしょうけれども、ぜひ申し上げたいことがあまりに失礼なことなので、始めから詳しくご説明をしなければ、どうにも言い訳が立たないからなんです。……
それから池の水の捌け口に掛かった船橋をお渡りなさった。そんなときでも足音が聞こえないくらい、静かにお渡りになったのです。――そして、この森にお入りなさいましたとき、
『もし、ご婦人、ご婦人の方』
と、思い切ってと申すより、じつはうっかりと、我を忘れたようになってお呼び止め申しました。自分が声を出してしまったことに気づいた私はハッと思った。
ああ、聞こえないでくれればいい……聞こえないふりをなさって、ずんずんと行ってくださればいい、中途半端にお耳に留まって、なんの用かと言われたら、さあどうする、どう答えよう、私はどぎまぎしました。
なぜかというと、さあ申し上げようとしているそのことが、あまりにも途方もないことだからです。
あなた、私はこの土地の生まれです。長らくの間、東京に参っておりました。まだ十代の頃に両親ともに亡くなって、その墓が残っております。
墓地は町に近い山の上にあるんです。このたび墓地一帯のあたりに、市のほうで手を入れて遊園地にすることになり、墓を移さなければなりません。――そのために遺骨を引き取りに参ったのですが、誰の印がいる、彼の保証がいるなどといろいろ面倒なことがあって、まだ引き取りが済みませんので逗留をしております。
親不孝な子、ふつつかな倅ゆえに、二十年、三十年ぶりで逢います両親の遺骨に対して、心は精進し、身体は謹慎をしております最中です。途方もない、失礼なことを申し上げるにしても、あなたに対して、怪しい、不埒な気持ちは、いささかも抱いてはおりませんが……」
七穂はひと息つきながら、
「あなた、ああ、申し上げにくい……と言っても、お呼び止め申しておきながら、黙っていてはなおさら申し訳ない。ごめんなさい」
「まあ、なんでございましょう」
と、女は力をこめた、けれども優しい声で言った。
「ごめんなさい、暗くはございますけれど、私は袖を顔に当てております。そして申します」
「あれ、私こそ、お恥ずかしい。ハンカチで口を押さえているんですよ」
「…………」
「お人の悪い。あの桜の枝に抱かれただの、袖にちらちらと花びらだの、八ッ橋の後ろ姿、船頭もいない屋形船が、霞ヶ池の汀に着いて、私を迎えに来ているようだの、船橋を渡るのに、静かで足音がしなかったのと、浅はかな女にすぎない私が、どれだけ美しく見えたのだろうかと思ってしまうようなことをおっしゃいます。……池の下の水底にある別世界に、霞が沈んだようなお話。こんなひっそりとした朧月夜では、照れた私が袖をちょっとでも激しく動かしでもしたら、桜が散ってしまいそうでなりませんのに、きまりが悪い。私は少し酔っております。……もしかしてお酒の匂いがいたして、急にがっかりなさりはしまいかと思って、自惚れかもしれませんが……くやしいから、それで、あの、ハンカチで口を隠して……それこそ気どりすぎてるのかもしれませんね」
七穂はなぜだか勢いづいて、
「ああ、ほろ酔いでいらしゃる?」
「堪忍してくださいまし」
「いいことだ。祝福します。もちろん、初めてお声を聞いたとき、すぐに私が思い違いをしましたことがわかりました。そのためになおさら言いにくくなったのですが、奥さん」
「それに、はいとお返事を申していいものやら。……今日は丸髷に結っておりますから」
「それじゃあ、お嬢さん」
「それにしては歳を取っておりますわ」
「困った」
「松村雪と申すのですよ」
「ああ、松村さん」
「はい、ほほほほほ」