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(うぐいす)や……」

 と女客が、(そで)(おさ)えた鳥籠(とりかご)に向けて呼びかける。彼女の声は、すばらしいその鳥の唄よりも朗らかだった。――雪に(うず)まる家々の格子を(あか)く塗るこの地方だから、鳥籠も紅色(べにいろ)に塗られているのか。――その紅色がまた、着物の八ツ口からちらりと見える、美しい肌を包んだ長襦袢(ながじゅばん)の、(くれない)の模様の続きのようでもある。

 気配も姿も花やいで見えるなかに、ただ一筋、たわわな胸を締めつけている、千鳥絞りの(がら)を散らした絹縮(きぬちぢ)みの下締(したじ)めの、薄い水浅葱(みずあさぎ)色の地の色が、顔に影を映すほどにもの寂しく沈んで見えるさまは、水が錦葉(もみじ)を流すかのようでもあり、月が紅梅(こうばい)に射すかのようでもある。それとともに、黒髪は(つや)やかでみずみずしく、鼈甲(べっこう)(くし)がくっきりと輝き映えている。

手鞠唄(てまりうた)で唄われる鶯のようだねえ……鶯や」

 とにっこりして、色白の顔を(あか)い籠に近づける。唇はさながら一輪の(つぼみ)のようだ。

「たまたまここに来て、出会ったんだねえ、うん」

 と見とれて、うっとりしたようにうなずきながら、

「お前さんね、お腹が空いても変なものを食べるんじゃありませんよ。……いいかい、(まむし)が欲しいのならじっとしてそのままここにいなさい。嫌なら籠を出ておくれ。わかったかい、さあ」

 と言うと同時に、白い手が軽く触れて、籠の戸をスーッと引き開けた。赤い竹は、あの水色の下締めを横切って、銀河に流れる幻の(いかだ)のようで、それに乗り込もうとするかに見えた鶯の影は、輝くほどに鮮やかな萌黄(もえぎ)色の星となり、サッと翼を(ひるがえ)して、一直線に松の(こずえ)へと去った。……のどかさを幾重にも重ねた真綿のような風を鳴らしながら。

「あら、あら、三十両が散ってもうた」

 太夫(たいふ)は我を忘れ、ふらふらとなって、魂を宙づりにしたまま店先へよろけて出たが、上がり口にドンと尻餅をついて、そこで初めて鶯を逃がした女を見た。たとえではなく、本当に血相(けっそう)を変えている。

「なにをしさらす、狂人(きちがい)め! 芸者の自由廃業などという手合いの化け物かい。籠の鳥を逃がすなんて、とんでもない。悪戯(いたずら)にもほどがある。こりゃ並大抵のことでは済まんぞ。おい、いったいどこのなんて者や」

 と、上がり口に落とした腰を左に右にとずらしつつ、土間にぶら下げた足先で()きものを探しながら、その瞳は松葉のように血走りかかっている。

 女は籠を脇に寄せて、小縁から裾先(すそさき)を落とすと、前髪の(つや)に樹々の緑を映しつつ、鶯が逃げていった(のき)の柳の枝垂(しだ)れた向こうを眺めながら澄まし顔をしていた。

「女中や、女中や、その女を、その、その女を押さえておれ。逃がしてはならんぞ」

「ご主人、逃げたのは鶯ですよ。私は逃げはしませんわ」

 後ろ手を突いて、反り身になって(えん)に腰を下ろした姿は、(かすみ)のなかで柳が横たわるかのよう。

「太夫、太夫、鶯が逃げたんやね」

 盲人は改まって姿勢を正すと、なぜか中山高帽をぐいっと(かぶ)った。

「逃げてたまるかいな、それ、そこにいる女が逃がしたんや。とんでもない」

「いや、逃がしたでは済まないよ。誘拐(ゆうかい)だね。……君、君、おい君」

 仰向いた顎先(あごさき)で見当をつけながら、盲人は表のほうに膝を()って出ると、女のほうに手のひらを突きつけて、

「冗談じゃない。君、今ここで三十両という買い手がついた鶯なんや、ここの主人が承知をしても、わいが許さん。うむ、下川(しもかわ)忠雄(ただお)が承知せん」

「誰が承知をしたところで、わしがこのままで済ませるものか」

女中(ねえ)さん」

 と、女は懐紙を二、三枚取りだして、手を拭くようにしながら、中庭できょとついている小女(こおんな)を呼んで、

「お茶代を」

 と、白い手で怪しく咲かせた牡丹(ぼたん)の花の、黄金(こがね)(しべ)のような金貨を一枚、(えん)に残して、静かに沓脱石(くつぬぎいし)に下りた。……

「御不足でしたら、松村(まつむら)(ゆき)の名で呼び出してください。これから三好屋(みよしや)で食事をして、日が暮れるまでそこにいますから」

 化け物芝居の古看板を見るかのような、目が見えないのと、口を開けたのと、尖った白い顔のと、三人を茶店に残して、女は蓮池(はすいけ)添いに歩いて馬場へ出た。

 この馬場と人や車が通る道とを、並木のように植えられた松が区切っている。坂の下にある百間堀(ひゃっけんぼり)というものを隔てて、花の雲が波のように打ち寄せた、昔の城の天守が見える。

 それを仰ぎ見るようにしながら、鶯が姿を消したあたりの、とりわけ(こずえ)が高い松を見た。涼傘(ひがさ)をほんのりと(まげ)にかざすと、松に(から)んだ、まだ咲いてはいない藤がサッと色づいて見えて、美しい影をいたずらに、(まり)のように投げ返した。

 堀を隔てて、城をかなたにながめながら、静かに並木道を歩く彼女の姿は、あたかも人の往き来の絶えた旧道を、世間を離れて一人歩く、(あで)やかな女の星のようであった。


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