七
七
「鶯や……」
と女客が、袖で抑えた鳥籠に向けて呼びかける。彼女の声は、すばらしいその鳥の唄よりも朗らかだった。――雪に埋まる家々の格子を紅く塗るこの地方だから、鳥籠も紅色に塗られているのか。――その紅色がまた、着物の八ツ口からちらりと見える、美しい肌を包んだ長襦袢の、紅の模様の続きのようでもある。
気配も姿も花やいで見えるなかに、ただ一筋、たわわな胸を締めつけている、千鳥絞りの柄を散らした絹縮みの下締めの、薄い水浅葱色の地の色が、顔に影を映すほどにもの寂しく沈んで見えるさまは、水が錦葉を流すかのようでもあり、月が紅梅に射すかのようでもある。それとともに、黒髪は艶やかでみずみずしく、鼈甲の櫛がくっきりと輝き映えている。
「手鞠唄で唄われる鶯のようだねえ……鶯や」
とにっこりして、色白の顔を朱い籠に近づける。唇はさながら一輪の蕾のようだ。
「たまたまここに来て、出会ったんだねえ、うん」
と見とれて、うっとりしたようにうなずきながら、
「お前さんね、お腹が空いても変なものを食べるんじゃありませんよ。……いいかい、蝮が欲しいのならじっとしてそのままここにいなさい。嫌なら籠を出ておくれ。わかったかい、さあ」
と言うと同時に、白い手が軽く触れて、籠の戸をスーッと引き開けた。赤い竹は、あの水色の下締めを横切って、銀河に流れる幻の筏のようで、それに乗り込もうとするかに見えた鶯の影は、輝くほどに鮮やかな萌黄色の星となり、サッと翼を翻して、一直線に松の梢へと去った。……のどかさを幾重にも重ねた真綿のような風を鳴らしながら。
「あら、あら、三十両が散ってもうた」
太夫は我を忘れ、ふらふらとなって、魂を宙づりにしたまま店先へよろけて出たが、上がり口にドンと尻餅をついて、そこで初めて鶯を逃がした女を見た。たとえではなく、本当に血相を変えている。
「なにをしさらす、狂人め! 芸者の自由廃業などという手合いの化け物かい。籠の鳥を逃がすなんて、とんでもない。悪戯にもほどがある。こりゃ並大抵のことでは済まんぞ。おい、いったいどこのなんて者や」
と、上がり口に落とした腰を左に右にとずらしつつ、土間にぶら下げた足先で履きものを探しながら、その瞳は松葉のように血走りかかっている。
女は籠を脇に寄せて、小縁から裾先を落とすと、前髪の艶に樹々の緑を映しつつ、鶯が逃げていった軒の柳の枝垂れた向こうを眺めながら澄まし顔をしていた。
「女中や、女中や、その女を、その、その女を押さえておれ。逃がしてはならんぞ」
「ご主人、逃げたのは鶯ですよ。私は逃げはしませんわ」
後ろ手を突いて、反り身になって縁に腰を下ろした姿は、霞のなかで柳が横たわるかのよう。
「太夫、太夫、鶯が逃げたんやね」
盲人は改まって姿勢を正すと、なぜか中山高帽をぐいっと被った。
「逃げてたまるかいな、それ、そこにいる女が逃がしたんや。とんでもない」
「いや、逃がしたでは済まないよ。誘拐だね。……君、君、おい君」
仰向いた顎先で見当をつけながら、盲人は表のほうに膝を摺って出ると、女のほうに手のひらを突きつけて、
「冗談じゃない。君、今ここで三十両という買い手がついた鶯なんや、ここの主人が承知をしても、わいが許さん。うむ、下川忠雄が承知せん」
「誰が承知をしたところで、わしがこのままで済ませるものか」
「女中さん」
と、女は懐紙を二、三枚取りだして、手を拭くようにしながら、中庭できょとついている小女を呼んで、
「お茶代を」
と、白い手で怪しく咲かせた牡丹の花の、黄金の蕊のような金貨を一枚、縁に残して、静かに沓脱石に下りた。……
「御不足でしたら、松村雪の名で呼び出してください。これから三好屋で食事をして、日が暮れるまでそこにいますから」
化け物芝居の古看板を見るかのような、目が見えないのと、口を開けたのと、尖った白い顔のと、三人を茶店に残して、女は蓮池添いに歩いて馬場へ出た。
この馬場と人や車が通る道とを、並木のように植えられた松が区切っている。坂の下にある百間堀というものを隔てて、花の雲が波のように打ち寄せた、昔の城の天守が見える。
それを仰ぎ見るようにしながら、鶯が姿を消したあたりの、とりわけ梢が高い松を見た。涼傘をほんのりと髷にかざすと、松に絡んだ、まだ咲いてはいない藤がサッと色づいて見えて、美しい影をいたずらに、毬のように投げ返した。
堀を隔てて、城をかなたにながめながら、静かに並木道を歩く彼女の姿は、あたかも人の往き来の絶えた旧道を、世間を離れて一人歩く、艶やかな女の星のようであった。