(あとがきにかえて~書割の金沢と蛇状姿態)
粗筋をたどれば意図不可解な愚作だとしか思えない。けれども絢爛たる修辞に彩られた、美しいものと醜いものの最極端を往復するイメージの乱舞は、読んでいて眩暈を誘われるかのよう――これこそ鏡花小説の醍醐味……というべき作品なのだけれど、本作はその美と醜、秀と劣、虚と実の振れ幅がいささか極端すぎて、とてもではないが万人向けではない。
じっさい鏡花作品のなかでもかなりマイナーな部類で、全集でしか読めないと思っていたのだが、調べてみるとちくま文庫の『桜――文豪怪談ライバルズ!』(東雅夫編)というアンソロジーに収録されている。かろうじて一件のアンソロジーに拾われたのが編者の炯眼のおかげだとしても、ずっと鬼っ子扱いされてきたことは否めないようで、どうやら雑誌「新小説」大正四年一月一日号に掲載されて以来、「新編 鏡花選集 別巻二」で大正期の著作目録を追ってみても、単行本収録はされていないようだ。
そのせいなのか全集のテキストにはおかしなところが多くて、おそらくは、雑誌掲載時の誤植、脱字のたぐいがそっくり転載されているのかもしれない。『桜』アンソロジーは入手していないけれど、ネット上に特に但し書きもなく置かれたデータもあって、それと比較すると本文に一部異同があるのだが、そちらは春陽堂版全集(大正十四年~昭和二年刊行)が底本なのだろうか? それでも残る不審な点は、原稿由来の誤記が残ったのか、誤植が見落とされ続けたのか、あるいは意図的な文飾の飛躍や極端な省略表現が私の読解力では咀嚼できないのか判断に窮するのだが、いずれも大きな影響のあるものではないので、解決は今後の研究にお縋りするとして、個別の断りをせずに、できるだけ理屈に合った文脈が通るように、都合よく解釈させてもらった。
〇
先に現代語訳を上げた初期作品『鐘声夜半録』(明27)を読んでくだされば明白なのだが、『桜心中』は『鐘声夜半録』のおよそ二十年後に書かれたリブーテッド作品である。兼六園という舞台と、自殺(心中)という主題が重なり、縫製工場の女工の悲劇を知って苦悶する主人公というメイン・モティーフがそのまま流用される。結果としては素材だけが同じで作品の意図はまるで違う作品に変化して、遺作の『縷紅新草』ではさらに同じ材料が、生涯に書かれた全作品をしめくくるにふさわしい余情を含みつつ書き改められいる。
もっとも、これは特別なことではなくて、後期には初期作品の部分的な、あるいは全体的な仕切り直しがしばしば手がけられていたようで、目立つところでは『吉原新話』(明44)、『鴛鴦帳』(大7)、『開扉一妖帖』(昭8)といった、同じ題材を使った旧作再解釈の流れがあるようだ。
同じ題材とはいっても、『鐘声夜半録』と『桜心中』は、『万葉集』と『新古今和歌集』くらい印象が異なる。いや、まるっきりジャンルを違えて、講談と後期ロマン派オペラくらい違う気さえする。
突き詰められすぎて滑稽味を感じさせるほどに、悲惨を描くこと一辺倒だった『鐘声夜半録』に対し、『桜心中』はひらひらと舞うような遊戯性に満ちていて、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』から、魂を持たない妖精たちの、美しいけれど空虚で不条理な部分を抜き書きしたかのように思える。登場人物たちの会話は、前半は生世話の芝居調、後半は歯の浮くような新劇調、翻訳劇調であるし、自殺した女工の死に直し役とでもいうような子爵未亡人は、華麗な修辞に乗じて、誘惑し、思わせぶりを弄し、妄想に浸りきり、ことばの罠に掛け、ころころと前言をひっくり返す。「槍は北斗の星をも貫き、旗は雲に翻るべきものなのです」と、敵とみなすべき軍隊の美意識を称揚しているのか、相手の立場を括弧付きで代弁しているのかわからないことを言うのだが、最後にはすっかり括弧が取れて、その賛同者になってしまう。七穂に命を預けたように言いながら、軍人に惚れ直した気配すら感じさせる。
そもそもが、結果的に心中の相手とされる七穂からして「鬼でも、魔でも、其の人に」(十六章)と偶然に選ばれたのであって、籤を引き当てた感覚に近い。それでいて本当に指を切断してしまうのだから、生命を張った賭け事ではある。けれどもその、作中の生命というもの扱い自体からして、死んでも死んでもよみがえりを繰り返す花のように、死との境目をおぼろに霞ませながら水面に影を落とすのだから、ここでは死ということばすら、それぞれの事情で生き残ってしまった男女の対義語として置かれなければならないという修辞上の理由から持ち出されているかのようだ。
終わり近くに、取って付けたような登場をする騎兵中尉は、『天守物語』の幕切れ近くに登場する工人のような、デウス・エクス・マキナ的な仕掛けに思われるのだけれど、続けて再登場する盲人の下川忠雄の子供じみた糺弾をあびたとたん、ころりと前言を覆し、貴婦人に死んでほしいと言うのだから、作者の筆の運びを信じて、若い男女に思い入れをしながら読んでいた読者は、痛烈な置いてけぼりを食らうしかない。どうやら物語は逆境を逆転させる男女の救済劇という皮をかぶっていたらしく、それ自体が正反対の事態に逆転するとなれば、逆転という行為そのものによって何を言いたいのかを考えなければならない、面倒な状況に追いこまれてしまう。
〇
上では登場人物たちの会話を芝居にたとえたのだけれど、本作と演劇、とくに歌舞伎との類縁性はあきらかで、ちょっと思い出しただけでも『一谷嫩軍記(熊谷陣屋)』(桜の枝を切る喩え)、『義経千本桜』(義経伝説)、『積恋雪関扉』(桜の精の美女と奇怪な悪の対決)が想い浮かぶのだし、最終章での悪の意外な活躍は『法界坊』のようなピカレスク劇を想起させる。
とりわけ直接的なのが『熊谷陣屋』との類似で、芝居のそれは、花を惜しむ義経が立てた「一枝を盗むものは一指を切り落とす」という制札(禁令を書いた立て札)から、家臣の熊谷次郎直実が、主君のために我が子の命を差し出せという含意を汲み取る、という物語だった。
『桜心中』でもまた、ヒロインの雪子は、義経の制札に盲従するかのように、桜の一枝を盗んで小指の第一関節を切り落とすのである。
けれども『桜心中』は、べつに『熊谷陣屋』の換骨奪胎をもくろんだ作品ではない。鏡花は作中の富士見桜と君桜に対して義経ゆかりのエピソードを付与するのだが、それでも『熊谷陣屋』の物語内の仕掛けが小説内でも適用されなければならない必然性が生じるわけではない。
遊戯的な引用といえばそれまでだが、鏡花の場合は引用というよりも、そうした、美意識を際だたせるための仕掛けだけを、物語を組み上げる上でのツールとして借用した感がある。というのも、二年後の大正六年に書かれた『幻の絵馬』では、ヒロインの錦木和歌子もまた、枇杷の葉を手折らせた結果として小指を失うとも読み解けるからで、それだけが技法的に流用された約束事が、予想外の展開を紡ぐために再活用されたのである。
あるいは『桜心中』とおなじく、兼六園を不可欠の舞台にしたという点で『鐘声夜半録』のもう一つのリブーテッド作品だといえる『伯爵の釵』(大9)では、水の女神の神話大系とでもいうべきものが著しく前景化するのだけれど、『桜心中』においても、すでに水の女神のモティーフはかなりの濃度で流入している。
下川忠雄の獣のような嗅覚から雪子を守った水流は、「水は清いものである。」(四章)と、わざわざ段落を改めた一行立てで称揚されるのだし、七穂の目には雪子の姿が、入水をした女工が「其の人が花やかに成つて」(十三章)再生したもののように映る。その女工が死を選ぶ原因となったのは、彼女がハンカチに刺繍を加えた「観世水」(十三章)なのだった。
……と、こんなふうに、『桜心中』という小説には、作家自身がこれまでに蓄積した、美意識にかかわるツールだけでストーリーを紡いだらどうなるのか、という創作システムの駆動実験という一面も感じられる。システムを運用しつつ、美と醜のバランスを巧みに操る手腕にはきわだった冴えが感じられるのだし、登場人物たちの不自然な言動も、人倫の外にある約束事に突き動かされていると思えば、『鐘声夜半録』の病的な不自然よりも、ずっと受け入れやすい。さらには、雪子(浪曼主義)、中尉(写実主義)、下川忠雄(自然主義)などといった裏設定の役柄があるかのように振り当てて読んでみるのも面白いのではないか。
とはいえ、やはり鏡花作品だと感じ入るのは、そうした趣向立った作り物が、ことばでは把握しがたい、得体の知れない深部につながっているのではないかと思える不気味な感触を伴うことで、しかもそんな恐ろしいものが、目にも綾な文飾による流麗な文章のはざまに、ぽっこりと潜んでいるのである。
名作、傑作と讃えられる鏡花作品よりも、『桜心中』のような歪だが強烈な美をたたえた作品のほうに、その手のものは多く隠れている気がするのだし、どこにそれを感じるかというのは、読む人それぞれ、読み返す人生の時期によって異なってきそうだ。
〇
さてこの文章の前半では、判断に困る部分は都合よく解釈したなどと断ったのだが、けれども一点だけ、どう考えても都合のいい解釈ができなそうな箇所があった。
十章末尾の一文、
▶それ〳〵、崖を螺旋に巌を削つた樹の間の道に、石橋の袂なる虎ヶ石の陰に、雙つの黒い影の蟠つたのを御存じあるまい。◀
(現代語訳:ほらほら、螺旋状に巌を削った崖の樹間にある道の、石橋の袂にある虎ヶ石の陰に、二つの黒い影がとぐろを巻いていることはご存じあるまい。)
その後の展開からしても、揶揄するような語調からしても、虎ヶ石の陰に隠れていたというのは下川忠雄に違いないのだが、しかしそれが「双つの黒い影」とは、どういうことなのだろう?
そもそもが石の陰にいたというのだから、石の影と盲人の影と二つ、というわけでも、影のような盲人とその影との二つ、というわけでもない。
最初の構想で下書きされた、二人の人物が隠れていたという記述が残ってしまったのか? いや、鏡花の場合は間違いがあったとしても、典拠としたもの自体に虚偽があったのではないか、記述の曖昧化につながる瑕瑾をわざと残したのではないかと疑われるケースは多いのだが、これほど目立つ箇所で理屈に合わない間違いを犯すことはないような気がする。自分が参照したものが、鏡花自身の校閲が加えられた春陽堂版の訂正を反映したテキストだとしたら、なおさらミスだとは思えない。となると、残された可能性はただ一つで、下川忠雄と絵葉書屋の亭主の二人の影、と考えるほかはない。
最終章で絵葉書屋の亭主は、忠雄が騒ぐ水音を聞きつけて店から出て来るのだから、二人でそこに隠れているというのは、実際問題として明らかにおかしい。
……のだけれど、そうではないのではないか。
下川忠雄と絵葉書屋の亭主は、作りものの兼六園が描かれた舞台の袖にひかえて、うずうずしながら、自分らの役柄を存分に演じる出番を待っているのだ、といいたいのではないか。
つまり、筆者自身が登場人物に語りかけようとする破格の叙述によるこの部分は、この小説が芝居仕立ての世界であり、登場人物たちは役回りを演じる役者にすぎず、何もかもがご都合主義の絢爛たる月下の場面は舞台装置なのだと、種明かしをするために書かれているのではないだろうか。そもそもが「花の雲が浪を寄する、舊の城の天守が見える」(七章)と、十七世紀初頭に焼け落ちて以来、再建はされていない金沢城の天守が見えるなどと、白々しい嘘をまかり通らせているこの作品中の金沢が現実のものであるはずはなく、すべてが書割と大道具で作られた世界なのである。
現実をまるで、舞台で役者が演じている様子を写実するように描くという、中期の鏡花小説における倒錯が、さらには空想の舞台で演じられる一幕を、まるで現実のように描写するという、倒錯の倒錯に至った結果が、つまりはこの「双つの黒い影」ということばに収斂しているのではないか。
マニエリスムの絵画に特徴的な、身をくねらせたポーズのことをフィグーラ・セルペンティナータ(蛇状姿態)というそうだ。倒錯に倒錯を重ねた、まさにマニエリスティックな『桜心中』は、希代の憎まれ役者、下川忠雄の倒錯的な蛇状姿態で幕を閉じるのである。
(了)




