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泉鏡花『桜心中』 現代語訳  作者: らいどん


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十八

十八


「奥さん、礼をおっしゃいまし」

 七穂(ななほ)が声を掛けると同時に、雪子は少しも慌てずに立ち上がった。指の傷口を押さえたまま、威儀(いぎ)を正して手を垂れた。

氏神様(うじがみさま)のように(あが)めたく存じます」

「ではこちらも、もったいぶって御会釈(ごえしゃく)を受けましょう」

 青年士官は挙げた両手を胸の前で組んで礼をした。

「それから(つつし)んで下々(しもじも)よりのご挨拶を申し、礼を欠く突然のお声がけを貴婦人に向かって(しゃ)します。またあらためてお近づきを願います。

 ところで君、『一緒に死のう』と言ったのは嬉しかったね。……奥さん、指をお切りになったのは、痛快そのものといったところでしたな。……戦争のないときは、あなた方がこんなことでもしてくれないと、空気がだらけて仕方がない。軍人の備品があります。奥さん、包帯を巻いてあげましょう」

「それはなによりです」

 と、七穂が言う。

「いいえ、かまいません、いいんですよ」

「弱気なことだとお思いなさるな。……名誉のご負傷、情によって理に勝った。女の細腕で、小手先を(ろう)する石頭の大軍を破ってしまう。そんなことを成し遂げる、あなたのような方はめったにいない。僕は、闘いに勝った将軍の負傷をご介抱(かいほう)申し上げる光栄に預かる気でいるのです。君、マッチで照らしてくれ」

 雪子は姿勢を乱すことなく、手を差し出して、

「桜さえ無事でしたら、もう一関節切りましょうか」

 艶麗(あでやか)にほほえんだ。

「僕が絶対に切らせません」

 おや、石の橋がからんと鳴った。続いてからんと響いた。

 三人が(そろ)って、キッと目を向けると、そこに中山高帽(ちゅうやまたかぼう)をかぶった男がぼんやりと立って、石橋の欄干(らんかん)をやみくもに(つえ)で叩き回している。……(おおかみ)に似た虎石(とらいし)(かげ)に蛇のように(ひそ)んで、腹を引きずるように背筋をうねらせていた下川(しもかわ)忠雄(ただお)検校(けんぎょう)が、このときのそりと立ち上がったのである。

 忠雄は杖を振りまわしながら、

「ふふん、ふふん」

 と鼻で笑った。

 気の短い中尉が、

「なんだ、貴様は?……」

 相手はわざと聞き澄ますように、向こうから耳を突き出して、

「そうおっしゃり申すのは軍人さんけえ。……さっきから聞いておりまして、知っとりますがに、騎兵(きへい)中尉(ちゅうい)閣下(かっか)けえ」

 普段は取り澄まして東京ぶったことばで話しているが、今は本能をさらけ出した膏汗(あぶらあせ)のような、ねばねばとした土着の発音を放つ。その声は、腐って酸っぱくなったような臭気をともなっている。

「なにが閣下だい。閣下がどうした」

「あなた、臭いぞに、臭いぞに、それ、臭くはないかに」

 と、横向きに身をずらしながら寄ってくる。

今日(こんにち)じゃな、この社会においてじゃな……いやしくもじゃ。ちょびっと(うかが)い申すが、国家の軍人たるべき者がじゃ、(おなご)に気に入られようとて、その言うことを聞いて、裏になったり、表になったり、魂をひっくり返しても支障ないものでございますか。それでも、それでも」

 杖の先を小刻みに叩いて、

「いいものですき、問題ないものでございますきに、やあ、閣下」

「貴様、目が見えんな」

 中尉は、低く、怒りを含む口調で言った。

「そうや、不自由なもんや、こん不自由やとも。不自由やけれども真人間(まにんげん)や。人間の歩く道は明るいもんや。そやさかいで聞き申すのやが。美しい(おなご)のためなら、魂を裏返してもいいものき。軍人たるべき者がやに。――江月寺(こうげつじ)の桜は()らいでも支障ないんけ。返事はないのき。できんのき。ほしたら新聞ででも、公会堂の議員さんからでも、あらためて表向きにして聞かせましょうかに、どうやき、閣下」

「小笠原さん、それは土着の動物です。この地方には穴居(けっきょ)時代の、こんな蜘蛛(くも)みたいな奴がたくさんいます。奇怪な道徳の巣を編む虫です。……事情を知らない方には扱いにくい。貴下(あなた)は雪子さんをお連れくださいませ。お先へどうぞ。私があとで始末をつけます」

「いや」

 中尉は鋭く(こば)んだのである。

「僕が対処します。――奥さん……先刻、樹陰(こかげ)から様子をうけたまわって、ぞくぞくするほど嬉しかったあなたのおことばを、ここで繰り返す栄誉に預かります」

 中尉は声を響きわたらせながら、

(やり)は北斗の星をも貫き、旗は雲の高みに(ひるがえ)るべきものなのです。馬のたてがみが乱れるのは、女の黒髪が崩れることよりもゆゆしきことです。槍を()せ、旗を巻き、たてがみを乱す、桜を()らねばなりません。僕は罪あることを白状し、そして願う。奥さん、お生命(いのち)をください。……江月寺の桜をあらためて()らせてください」

「ええ、お伐りなさらなくてどうします。……桜に代わって申します。お伐んなさいまし。喜んで私の命を差し上げます」

(けだもの)め、わかったか」

 抜きかけた長刀の(つか)から手を離すと、鐔鳴(つばな)りの音が()えた。

「森を出ましょう、お二人」


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