十七
十七
鶴が羽をすぼめて重ねるように、花やかな袖を重ねると、あたかも美しい憑きものが落ちたかのように、雪子の身体は七穂から離れて、ぱたりと地面に膝を支いた。
「ああ、済みません。生まれて初めて、優しい真実のことばを聞きました。私は嬉しい、霜が朝日に溶けるようです」
と言うと、思わず忍び泣きをするのを聞いて、男も目を押さえて、すすり泣きをしはじめた。やるせない涙である。我を忘れた涙である。なかば嬉し泣きである。
雪子が声をかけた。
「マッチをお点けくださいまし」
と見ると、雪子は手に、青いペーパーナイフを持っていた。もう一方の手には桜の小枝があった。花が紅に目立つほど、その指は白かった。
「今夜の記念にしましょうと思って、小さな枝を切ってきました。それを許してくれたかどうか、花はものを言いません。樹の心はわかりませんから、密っと内緒で持ってきました……桜におなりくださった今のあなたのお心で、許すとおっしゃってくださいまし。私は夫に聞いて、髪に挿したいと存じます」
そう言って、反らした指を鬢の毛に運んだのだが、すぐそばに艶めかしい色気を感じさせる白いうなじがあるのを見れば、どうして彼がそれを拒めただろうか。
「花も祟れ、月も怒れ、魔も呪え、どうなろうともお心に任せます」
「私は嬉しい。……そのおことばをいただきました感謝の記に……」
「なにをします、あなた」
とっさに七穂は、女の手からナイフを奪おうとする。しかしナイフは帯の紙入れとともに地に落ちた。それより先には、懐紙にあてがった小指の腹に、流星のように素速く刃先を当てたのが見えただけだった。
飛びかかったときは遅かった。もぎ取ろうとしたナイフは、すでに雪子の手を離れていた。男の手から落ちるマッチが消えたとき、血潮は牡丹の花のようにほとばしった。
「とんでもないことをなさいます」
と、彼は唸るように言う。
「縁があって結ばれた人とも、三日で別れた過去があります。苦しみは三年、五年、悲しみは七年、九年。嬉しいのは瞬く間、その瞬く間の心のままに、したいと思うことをしないのじゃ、死んでもまた地獄なんじゃありませんか。
はしたない。娼妓や女郎のするようなことをいたしました。ですけれど、女の身で、ただひと息に、心のままに、思ったとおりにしたならば、同じ女でも天女といってもいいのではないですか。そうなれば、人妻だって天女でしょう。……
私はあなたが、富士見桜になり代わってお許しくださった、一枝の花の代わりに指を切りました。でもこんな汚らわしいもの、あなたはお受け取りくださいますまい。……あなたには差し上げません。同じ桜の花びらも流れ伝って、白糸の瀧に沈むでしょう。私は水に流します」
息を詰めた男が、ことばを発しないうちに、事は決した。流れの音を止めるかのように、白銀の星のような真珠ほどの大きさの一粒が、落ちた音が響いた。切った小指を水に棄てたのである。
その指先とともに自分も落ちて水に沈んでしまいたいとでもいうように、七穂は思わずスッと立った。そのとき、なんと彼の肩を、栄螺山の崖に生えた木の枝の上から、トンと叩いた者がいたのである。
「きみ、きみ」
七穂は鷲につかまれたように、あきれはてるほどに身をすくませた。
「驚いてはいかんよ。僕は人間だ。しかしこんなところからいきなり肩を叩いたからといって、風流を解せぬ乱暴者だなんて、後から思わないでくださいよ。……初対面の挨拶なんて面倒だな。早く大事なことを言ってしまいたい。
少し脇に退いてくれないか、今、そこへ飛び降りる」
ざわざわと枝が鳴った。
彼は腰に長剣を帯びていたが、その音も立てないほど身軽に、ただカチンと長靴についた拍車を鳴らして降り立った。
「騎兵中尉小笠原武一です。貴婦人に直接お声をかけるのは失礼だから、君から取り次いでくれたまえ。江月寺の君桜は伐らずに済まそう。
少なくともできうるだけ、僕が可能なかぎり保護をします」
と威厳ある声で言った。
すぐに砕けた口調になり、
「もともとはね、あれを伐ろうとした張本人は我が輩なんだ。以前から問題になってはいたそうだが、急に伐らなくても支障はなかったのだ。……僕は九州のほうから転任して、最近この地に来たのだがね。……この土地の人心をほとんど掌握している本願寺方面から、ある筋に手を回して、それで伐られないままでいるのだと事情がわかったから、坊主のくせにさしでがましい、と頭にきたのさ。
やっちまえ! だが、なかなか実行までには至らない。……そこで我が輩は蛮勇をふるったのさ。つまり、一隊を率いて江月寺の前を行進し、あの道路にはみ出した桜の梢に、頭を下げずに自分から顔をぶつけて、ほっぺたに引っ掻き傷をこしらえた。
というわけさ。これを笑うなら笑えばいい。僕も彼女が指を切ったことを笑う。お互い様でしょう」




