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泉鏡花『桜心中』 現代語訳  作者: らいどん


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十六

十六


「私は、東京で上野の奥に、世間を離れて七年の間、墓に()もったかのように暮らしていました。十六歳のころに結婚をして、祝言の杯をしました三日目に、主人を()くしてしまったのです。

 この土地が主人の故郷です。故郷の土に同じ草が芽吹き、夫の面影を(しの)ぶこともあろうかと、(そっ)とこの地へ参りまして三年になります。あの、江月寺(こうげつじ)の脇に主人の古い屋敷があります」

 ああ、それは寺町(てらまち)御殿(ごてん)と人々に呼ばれている、子爵(ししゃく)松村家(まつむらけ)の旧邸宅である。この姫は、ある伯爵(はくしゃく)妾腹(しょうふく)に生まれた、名高い美女(たおやめ)であった。

「芝居に出てくる相馬(そうま)古御所(ふるごしょ)のような(やかた)の奥で暮らして、表通りからは隠れた二階の部屋から見えます、あの、君桜(きみざくら)が咲くのを、それでも楽しみに眺めていました。

 もうすぐ()ってしまうんだといいますから、あまりにも無常に思えて、ご主人である富士見桜(ふじみざくら)暇乞(いとまご)いに参ったのです。

 私は名残(なごり)を惜しみました。

 桜はなんとも言いません。

 思いを断ち切るつもりで、ずいぶんと元気を出したつもりで引き返したんですけれども、気も心も、本当に伐られに行く、殺されに行くようで、(しお)れきっておりました。それがあなたのお目に留まって、死にに行く身のように見えたのでしょう。

 よくぞそんなふうにご覧くださいました。そう見えたのなら、花の心と自分が通じあえたように思えて、私は嬉しい、本望(ほんもう)です。

 でも、可哀相(かわいそう)だと思ってください、不憫(ふびん)だと思ってください、あなた」

 と言うと、身を投げるように七穂(ななほ)に寄り添って、

「あなた、どうしたの、なにか言ってください、ことばをかけてくださいな。

 そういうわけで、わざと暗いところを選びました。あなたが私のことを君桜(きみざくら)だと思ってくださるように。そしてあなたが富士見桜(ふじみざくら)になってくださるように。

 ねえ、結婚してたったの三日後に夫が亡くなるとき、私は名残を惜しみました。

 でも、今度は私が()られて枯れるというのに、花は口を利いてくれないのですもの。もの足りない、頼りがいがない。夫との最期の時間を思い出すにつけ、我慢ができない。

 さっき、あなたがお呼び止めなさったそのときに、私は相手が鬼でも魔でも、その人に桜になってものを言ってもらおうと思ったのです。それがあなただったじゃありませんか。

 ねえ、頼みます。一生のお願いです。

 (なぐさ)めてくださいまし。不憫(ふびん)がってくださいまし。私は伐られて死ぬんですよ」

 どうするのかを迫られて、男は震えた。……取りあった手を固く握りはしたが、命の花を散らしてなるものかと、そっと花びらに触ることしかできない気持ちである。そっと触れ、そっと触れ……

「なんとも申しようがない。……私は、自分でもなにを言えばいいのかわからないのです」

「私のほうは、もう洗いざらい打ち明けたんです。きまりが悪いなんて言い訳は聞きたくありません。さあ、行きましょう。行ってあの富士見桜の花のなかに、あなたはお立ちくださいましな。そしたら花と心が通じて、私になにか言ってくださるでしょう」

「こんなにもうろたえた、ぶざまなありさまのままで、花の盛りのなかに放り出されてたまるもんですか」

「じゃあここで、やっぱりここで……私だから御不足だと思われるなら、そのときの、身投げをした美しい方だと思って……」

「それなら止めます。死ぬなと言います。思い直せと言うんです」

「で、もしその方が、思いとどまらない、どうしても死ぬんだと言いましたら?」

「…………」

「ねえ、あなた」

「……どうしましょう。どうしたらいいでしょう」

「あなたは、見殺しになさいますか」

「見殺しにするかと聞かれると……絶体絶命、私は追いつめられました。なんとも無情なことをおっしゃる。しかし、今のあなたのお身の上の場合、止めることも、生かすことも、助けることもできないではありませんか」

「それじゃあどうしてくださいます?」

「これは冗談ではありません。不思議な暗い森のなかに、可怪(あやし)い秘密があるようで、私は身体が震えます。熱い血が騒ぎます。冷たい汗が流れます。無念です、口惜(くや)しい。ですが虚空(こくう)をつかんでもがいても、ほかに言うべきことばはない。……雪子さん、いや、桜のあなた、私も男だ、一緒に死のう」

「ええっ」

「一緒に死にます……そう言うよりほかに、言うべきことばを断じて知らない」


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