十五
十五
「私は江月寺の桜です」
伏せた顔をふと起こすと、草葉の蔭を思わせていたその顔の色が、甦ったように暗いなかに浮かび上がった。そうしてものに憑かれたように、衣の裾を細くして、肩を震わせながら、
「私は影です、幻なのです。ですけれども、その桜は名木です。間に犀川という大きな川を一つ隔ててこの公園と向かい合った、寺町という高所の土地に、江月寺というお寺があります。その寺の塀から乗りだして、広い町幅いっぱいに枝を広げ、下は犀川の清い流れの崖に梢が届いて、幹は風になびいた裲襠の裾のように広がり、枝垂れた枝は振袖の長い袖を垂らしたように見えます。その裲襠も振袖も、すべてが霞です。花びらです。雪が積もったようなんです。たわわな姿、優しいかたちは、星をかざしても月を乗せても、雲を着ても、倒れそうに重いんですが、思いがあるから、恋をしているから、風に揉まれて散るのもいとわず、道を行く人の足に踏まれるのもかまわないで、地に膝をつくようにして、男に向けて両腕を伸ばしています。……その桜が恋い焦がれる男というのは、この公園にある富士見桜なんですって……。
あなたはきっとご存じだと思います。
昔、源義経主従が山伏に変装して、安宅の関を越して、この北国の街道筋を、大野の浜を目指して行く途中、この樹の下でお憩いになったという言い伝えがあります。その、九郎判官義経の妻、卿の君の記念として、江月寺の桜は『君桜』と名づけられ、富士見桜のほうは『判官桜』というんですってね」
「よく知っておいでです」
と、茫然として見惚れていた七穂は、やっと我を取り戻して言葉をはさんだ。
「まあ、私のことですもの、江月寺の君桜は自分ですもの、知らないでどうしましょう。
千年か、万年か、命は男に捧げても、記念の名も残っているというのに、その木が伐られて死ぬんです。滅びてしまう、枯れるんです。……
斧で打ち、鋸でひき、剣で裂くのは軍隊です。
これも知っていらっしゃるはずですが、この名木があります寺の町外れに兵営が建てられました。そこが騎兵の聯隊になったのです。馬に乗って君桜の下を潜ると、馬のたてがみが乱れます。旗を倒さなければなりません。槍を伏せねばなりません。
槍は北斗の星をも貫き、旗は雲の高みに翻るべきものなのです。馬のたてがみが乱れるのは、女の黒髪が崩れることよりもゆゆしきことです。
切られなければなりません。枯れなければならないのでしょう。
そう覚悟を決めたことに未練はないけれど、悲しいんです、あなた、みじめなんです、あなた、むなしいったらないんですもの。
お国のためでも、恋は恋、情けは情け、恩愛は恩愛です。……
私は今夜、夫だと思う富士見桜に別れを告げに、暇乞いに、名残を惜しみに来たのです。
朧のなかで君桜から、桜の精が抜けだして……」
そこまで話しかけると、寂しく笑った。……
「ほほほ、というわけなんです。あなた、そんな想像をしてばかりなんですから、どうぞ、あの、お蔑み遊ばさないでくださいましな」
「蔑むなんてもってのほかです」
彼は感情を昂ぶらせたように言った。
「でも、一生懸命なんですから。……あなたがご覧なさったっていう、富士見桜の下に一人で立ちましたときは、なんだか胸に迫るものがあって、そのまま消えて行きそうに、心が遠くなりました。……生意気を申すようですけれど、『花のもとにてわれ死なむ』って、昔の歌にありますそうですね。……実際それっきり、死んでしまいたくなりましたよ。
おかしいくらいに」
ふと、女の声が曇った。
「ひとりでに、露がこぼれるように涙が出ました」




