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泉鏡花『桜心中』 現代語訳  作者: らいどん


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十三

十三


「町のなかを一筋貫いて、青塗りの橋がかかり、浅葱(あさぎ)色の水が流れる、浅野川(あさのがわ)という川があります。朧月夜(おぼろづきよ)にその川岸に沿って、私はぶらぶらと歩きました。……

 橋を渡れば元の土手に、渡り返せば向こう岸に、自分がどちらの岸にいても川を隔てた反対の岸を、その姿が動いているような気がしたのです。

 しかしそれは(まぼろし)だったのです。女は明け方、百間堀(ひゃっけんぼり)で死んでいるのが見つかりました。死骸が乗せられた(むしろ)をこぼれて、髪が地面にまで垂れて、流れるように長かったといいます。私は昨夜(ゆうべ)見た、櫛巻(くしまき)に結った髪が、そのまま目の前で散り広がっていくように思いました。

 彼女は、ハンカチの工場で刺繍(ししゅう)をする女工だったのです。……良家(りょうけ)の人が零落(れいらく)して……という、入り組んだ事情もなにもない話です。その日は、絹のハンカチに彩糸(いろいと)で、藤の花の刺繍を仕上げました。彼女は優しい(まゆ)、美しい瞳でじっとそれを見ていたが、最後に下絵には描いていなかった水を、あの観世水(かんぜみず)という美しい水模様を、太白糸(たいはくいと)()い足したそうです。すると、以前から彼女を口説いて嫌われていた、工場の主人である盲人の奴が、生意気だ、遊んでいると、そのハンカチを投げ捨てたので、泣いて()びをして、しおしおとして帰宅した。それっきりごはんも食べずにふさぎ込んで、観音様へお参詣(まいり)をするのだと言って、普段着のまま(うち)を出たのだというんです。

 声をかけて(なぐさ)めたら、死ななかったのかもしれません。今でも残念だと存じます。

 その秋の新盆(にいぼん)には、おぼつかない道筋を探しながら、その人を葬ったという寺を訪ねました。切籠(きりこ)と呼ばれる小さな行灯(あんどん)型の燈籠(とうろう)を供えるのがその土地の風習です。寺の本堂で、燈心(とうしん)()をもらうとき……戒名(かいみょう)すら知っているわけもなく

『この春、身投げをしました美しい人のお墓所(はかしょ)はどちらですか』

 と(たず)ねたとき、私は自分で顔が赤くなるのがわかりました。そのとき、露深(つゆふか)い草むらのなかに、ほの白い顔を見た気がしました。しかしそれは、切籠(きりこ)の燈籠の影だったんです。虫が鳴いて、(ほたる)が飛びました。

 やがて私は草鞋(わらじ)ばきで、東京へと出発したのです。

 年月(としつき)を経ても忘れられません。

 今夜、その人が、花やかになって、同じところを同じ姿で、公園の桜のなかをまた歩いて行くように見えました。

 お許しをいただかなくてはなりません。それがあなたです。女神とも、天人とも見えるような、人を離れた存在であるようなご様子が、かつて経験した口惜(くや)しさを抱いた私には、どうしても死にに行く覚悟をしたお姿としか見えなかったのです。だから思い切って、あなたをお呼び止め申したのです」

「ああ、あなた」

 女は沈んだ声で、

「お亡くなりになったその方が、あなたの背後(うしろ)に……」

「えっ」

「後ろ姿で立っていらっしゃるようですよ」

 七穂(ななほ)は思わずぞっとして、その場に突っ立った。

「お(そで)につかまらせてくださいまし。……私もぞっとしてなりません」

「お守り申し上げます」

 と(すが)ったその手を、(かすり)羽織(はおり)の袖ごしに包むようにして、彼はしっかりと握った。

「とんだお話をいたしました」

「いいえ、本当に嬉しいんです。あなたが先ほどご覧になりました、その美しい姿は、その方があなたを(した)って、今夜ここにおいでになったのかもしれません」

「とんだことを。人の悪い……ご自分でも気味悪がっておいでのくせに」

「ですけれども、私をご心配くださいましたあなたの目は、間違ってはおられませんでした。……人の命を心配して、(えん)由縁(ゆかり)もない者にことばをおかけくださりました。どうしてそれにご遠慮がいりましょう。私はお礼を申します。……冗談や軽口ではありません。私は死にに行く気です。死ななければならないのですもの、ねえ」

「そんな、また……」

 (たわむ)れに言ったのだと打ち消すには、女はあまりにも真面目な顔をしているのである。


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