十二
十二
「やがて富士見桜の樹の下で花に包まれ、その襟には月が射し、霞が袖にただよう、その姿を見たのです。
それからは桜と別れて、八ッ橋を渡った道から、池の汀も、船橋もたどって、消えるようにこの森のなかで見失ったところまで……あなたが今夜、あそこからここへおいでなさったのと、まったく同じでした。……やっぱり寂しい夜でした。風もなく、星もない、どこかの隅には人がいたのかもしれませんが、夜鴉の陰がさすだけで、この広い公園で一人も人に出会いませんでした。
彼女はいかにも寂しく、この桜から抜けだして、月に向かって後ろ姿で一人歩いて行く。着物の縞柄も宙に浮いて、自分の影に誘われながら歩くかのような、朧に見えるその人は、哀れに、儚く、世にも心許なさそうに見えて、そしてあまりにも静かで、足音も聞こえなかったのです。
面影には月があり、黒髪には花があり、眉には霞がありながら、ただ、駒下駄を履いているのか、その足もとが影のようで、幻のようで……そのくせ、あのくらい落ちついた、しとやかな、気高いほどの歩く姿は見たことがありません。まるで美しい水が、音もたてずに流れるようで、雲のたたずまいにも似ていました。
そこが、あなたもそっくりだったんです。
だが肝心なことをお話ししなければなりません。と言うのも、そうした態度が、どうもどこかへ死にに行く人のように見えたのです。
けっきょくその女は、その夜の明け方に、この公園の並木の下の、あの百間堀に身を投げて亡くなったんですが」
木の葉も動かず、美人の手は木々の枝と同様、ひっそりとしている。
「それ以来、死を覚悟した人の姿ほど、端正で、慎み深く、侵しがたい厳粛さを持ったものはないだろうと思いますくらい、その姿が動くにつれて、その暗い意思とは逆に、彼女の上にある空だけが雲を払い、月も冴えるように思えたのです。
それというのもですね……なんとなく、同じ思いを抱いている相手と共感した、ということかもしれません。その当時、実はかく申します私が、色恋やなにかというのならまだしも、意気地のない、弱い、だらしのない、しかし実際のところ生きるすべのない、貧乏が骨身に沁みて日々の糧を得られないために、死に場所を探してうろついていたんですから。
世の中になにもすがるものがないときは、寝静まった人家の軒、寂しい水、野に咲く花、ものいわぬ石や岩、橋の欄干が心の拠りどころになります。茶店の軒下、瀧の家の庇の連なり、富士見桜と、その女が同様の道をたどったのは、はかない運命の星の下にあるからなのでしょう。
あなた、ちょっと……。
と、てっきり死ぬものだと思われますから、そう声をかけよう、声をかけよう、そして助けようと……。もちろん自分自身がそんな状態ですから、人を助けるどころじゃありませんけれど、死ぬ理由は貧苦だとは限らない。……思いとどまらせたくって仕方なかったのに、どうしても、『姉さん』とも『あなた』とも、口へ出して声をかけられなかった。気力のあるなしじゃないのです、恥ずかしかったんです。きまりが悪かったんです。この馬鹿が……若かったんです。気障な色気なんです。見栄です。負け惜しみかもしれません。
けれども、その女がこの森に姿を消してからは、慌てて崖を転がるように走りました。追いすがるという勢いで、百間堀まで駈けて行きましたが、その名のとおり百間続く土手を月の光で見通しても、影も見えない。……かれこれ一時だったでしょう。
はるかに町のほうで、辻を行く駒下駄の音が、かすかにカラコロと二、三度響く。
死に場所を変えたんです。
浅野川へ……」




