十
十
「いや、笑いごとじゃありません」
七穂が腕を組んだようで、袖が摺れた音がした。
「そのお心易いおっしゃりようと、たとえ嘘でもお腹立ちをお示しなさらないことを力にして申します。私は、じつは、あなたが身投げをなさるのではないかと……」
「ええっ」
この場合、ことばを濁すのはかえって礼を欠くと思ったようで、彼はたたみかけるように後を続けた。
「それとも毒薬を召しあがるか――刃物を用いて自害をなさるか、とにかく自殺をなさりはしまいかと、心配で気にかかって危なくてならないので、それで、つい、お呼び止め申しました。理由はこれだけです。謹んでお詫びをします」
「どうしましょう」
と身動ぎをして、美しい薫りをハッと立たせたまま、ちょっと声が途切れたが、
「あなた、こんなにやくざな女ですもの。もしかしますと、お見間違いではないのかもしれませんよ」
冗談のようなそのことばに、続いて笑い声が聞こえることを期待したが、それなりに真面目なようで、夜の森は陰気に沈む。
「……よりによってそんなことをおっっしゃる。……ご冗談も、ものによります。……ありがたいことにことばをお交わしくださいました、そのお声からだけでも、美しい方が夢枕にお立ちになって、吉兆を告げてくださったように存じます。万が一にも、そんな、自殺をなさろうなどとは思えなくなりました。――それだけになおさらきまりが悪いんですが、自分勝手に言い訳を申せば、この森、この築山は、公園の丑寅の方角にあたって、ただ一箇所の鬼門だと申します。……あの富士見桜と町を隔てて、川を隔てて、卯辰山の稜線に向かい合って、幹が五株に分かれた大きな松があります。そこに棲む魔の神が、ときどきここに遊びに来るといいます。威かし申すのではありません。
その松のあります山の奥の高い丘に、まだ引き取っておりません両親の亡骸があるんです。あまりにも久しぶりなので、そのまま生きているように思われます。私の瞳を、眉を、ご覧になってください。その父母に誓って、あなたに浮気な心を向けたりはいたしません。道が暗いんです。あなたの立つそちらには石の橋があります。獅子、虎……虎が狼のような姿をした形の自然石があるんです。それを渡って、白糸の瀧がある崖を下りて、茶店のありますところまで、お見送り申しましょう。この魔所である森のなかから、安全にお出し申すことだけを、あなたのお優しさに甘えて、せめてもの手柄、男の面目にさせていただきたい。さあ、静かにお歩きなさいませんか」
「ああ」
と、七穂の足が踏みだそうとする先を遮るかのように、女は袖を広げたようで、手首の白さが仄かに見えて、見えていた気がした黒髪は闇に隠れてしまう。
「あなた、ちょっと待ってくださいまし。……そのお気持ち、おことばも、とりわけ松の影の、山の上においで遊ばすご両親の御遺骸に誓ってくださいますこともありがたく存じます。私は骨に刻みます。身に沁みますほど嬉しいんです。
で、あの……」
媚めかしく花やかではあるが、夜にはしぼむ合歓の花の、儚げな媚態を感じさせた。……
「あなたに、少々お伺いしたいことが出来ましたよ。ご迷惑でしょうけど」
「迷惑どころじゃありません。しかし、私に対する不審が解けたのですから、片時も早く、月が朧でも花霞でもかまいません。月明かりの下に参りましょう。そしてお話をいたしましょう。ここを魔所と申しますのは、昔からの言い伝えで、でまかせを言うのではありません。けれども、私は信じます。今さらなにも……申さなくても、あなただって恐がりにはなられますまい。しかし間違いがあるといけませんから」
「そんな場所だとご存じでいらっしゃいながら、お呼び止めなさいましたのはあなたですよ」
「えっ」
「落ちますほどの崖があるでもなし、渦巻く流れがあるわけでもありませんが、足もとは不慣れな他国の者と御承知で、ここへお引き留め遊ばしたのは誰でしょうと申しているんです」
七穂は口ごもった。
「それは……それですから、さっきから一生懸命お詫びを……」
と、彼はつっかえながら言う。
「あれ、お真面目なこと。ごめんなさい。決してそれをとやかく申すのではありません。ですが、ここで、この暗い場所でこそ、お聞き申したいことがあるんです。……私も恐ろしいとは思いません。もしも魔物が来て威したって、私はどうでもいいんです。間違いがあってもかまいません」
世にも麗やかなるお方よ、ほんとうに差し支えはないのですか。
ほらほら、螺旋状に巌を削った崖の樹間にある道の、石橋の袂にある虎ヶ石の陰に、二つの黒い影がとぐろを巻いていることはご存じあるまい。




