一
底本:鏡花全集 巻十六。
【登場人物】
下川忠雄 金貸しの息子で盲人。本名忠助
實川 七十代。もと女形俳優で、今は茶屋の主人。太夫と呼ばれる
小女 茶店で働く十五、六の少女
松村雪 雪子。松村子爵未亡人
宮田七穂 東京の大学を出て帰省中の書生
小笠原武一 騎兵中尉
絵葉書屋の亭主
一
「太夫、ほんまにいい鶯やね」
軒先に吊された籠のなかの、鶯の声を聞きながら言っている。公園のなかにある、面影亭という、かつては地元歌舞伎の人気俳優だった女形が引退後に営んでいる質素な茶店でのことある。
店主が住居と帳場で使い回している長火鉢の前にのっそりと控えて、箱書きのついた由緒ある器でも扱うように、痩せた手に、わざとらしく渋茶の茶碗を両手で抱えて、なんとか千家流のお点前よろしくそれをひねると、ぴたぴたと口なめずりの音をたてて茶を啜ったのは、顔色が青黒く、眉毛が薄く、しょぼくれた見た目の盲人である。
けれども服装は贅沢で、大島紬の袷に白縮緬の帯をだらだらと巻いて、いくら雪国だといってももう五月が近づいているというのに、同じ絣にふくふくと膨れて見えるほど綿を入れた書生羽織を羽織っている。おまけに縮緬の襟巻きをして、なめし革の手袋が座布団のそばに脱いである。黒の中山高帽のつばを前下がりにして、こちらは被ったままでいる。
というのも、ついさっきこの店に来て、座に着いたままの姿だからで、店主のことを太夫と呼んで気取った態度でいるものの、実際は横柄な奴だと思われる。それもそのはず、この盲人は按摩ではない。下川忠雄と名乗る――じつは忠助が本名だが、忠雄なる名前の名刺を配っている――この地方の金貸しの息子で、もう四十歳近いのだが、この辺りでは若旦那と呼ばせたままにしている。
「ふう、そう、その調子」
もう一度鶯の鳴き声を聞いて、襟巻きを巻いたなで肩からぐったりと首を下に傾けながら、茶碗の縁を爪先で小刻みにぶるぶると弾いている。その指使いを見れば、意外と琴の名手だったりもするのかと思えるのだが、そう見せようと意識しているのである。
「なんともいえない声だね、太夫」
盲人の隣には、店主から客の茶の給仕をするように言われた、目のつり上がった、髪の薄い、しなびた青菜のような顔色の十五、六の小女が、行儀悪く膝を崩して付き添っている。油をべとりと塗って鉛のように見える尖った庇髪を店の表に向けて、ときどき人通りを見かけては、甲高いがくたびれた声で、
「お掛けやす、一服お吸いやす、お休みやす」
と呼びかけている。
明治の初めに實川なんとかいう名で女形を務めていた店主は、縁先のあたりでコチコチと小さな摺鉢を扱いながら、鶯の餌を摺っている。
縁先で小鳥の餌をこしらえるといえば、ついうららかな日差しを思い浮かべるが、そうでもない。
このあたりは樹立ちが多いのに、裏がすぐに崖になって、横手には蓮池があるので、空はうららかであるにもかかわらず、じめじめと暗く陰気である。沢庵桶やら古盥やらが置かれて、小さな池に細い樋が渡されて水が流れ、青苔が生えて鼬も出る。
そこに、七十才を越えて、眉毛のないのっぺりとした長い顔の貧相な店主が、薄汚れた木綿の藍微塵の着物に、黒襟の糸の抜けた半纏をひっかけ、紺のめくら縞の、鳥の摺餌で汚れて黴だらけに見える前垂れを掛けて、あぐらもかかずに背を丸くして、だらりと肩を落とした姿は、老人というより老女を思わせて、女形であったころの昔を偲ばせる。そんな年寄りが寂しげに、飯粒を練って売り物の糊をこしらえているのだった。
「格が違うというもんだね。そりゃめったにないような声で鳴く鶯じゃが、同じ褒められるにしても若旦那が褒めるとなったら、そりゃ格が違う。お琴のな、ちゃんと、ほら音曲の……」
と言いながら耳もとに手を添えて、耳がいいからと示そうとして、そのしぐさが、ちょっと後れ毛を掻き上げる風情になった太夫であったが、すぐに相手が盲人であることを思いだして、つまらない、余計な所作をしてしまったと、面倒くさそうに懐に手を引っこめて、
「……ねえ、音の出し方、聴きどころというものをちゃんと身につけてらっしゃるお方やからね」
と、片手でごしごしと飯粒を練る。