第四章
■第四章
おれは建物の非常階段を破ると、まず屋上まで上り、そこからロープの懸垂下降で静のいる部屋まで降りた。金メダル型発信器はしっかりと動作しており、おれたちには静の正確な位置が(まだ金メダルを携帯しているとして)分かる。おれはただ兄の指示通りに動けば良かった。
おれはコンクリート色の動きやすい服の上から兵隊が使うような特殊装備の詰まった背嚢を下げていた。登山者とも違う。兵士と異なるのは銃器を持っていない所だけだ。
おれは耳にかけてあるハンズフリー受話器をちょっと直した。小声で兄を呼ぶ。
「PMG、PMG、応答願います。
兄によるとPMGとは『自宅警備員』の略らしい。
『ロジャー。こちらPMG。音声クリア。目標からの発信はまだない。グレイフォックスは引き続き待機せよ』
「了解。待機する」
ちなみに『グレイフォックス』というのはおれのコードネームだ。単身潜入任務で有名なゲームの主人公にちなんでつけてくれたのかと思ったら、たまたま虫干ししていた母のコートの襟が狐の毛皮だったかららしい。あまりにも安易ではないかと詰め寄ると『ビクトリーホース』とどっちがいい、と聞いてきた。競走馬みたいな名はまさに『究極の選択』だと思ったら、自分の思い通りに選ばせる詐欺師のテクニックだそうだ。
食えない兄貴。
そろそろ屋上に潜んで五時間になるが、おれはそのまま身動きしなかった。まだ高揚感が続いていて、空腹も感じなかった。
金メダル型の発信機は動かさなければ一日に一回しか位置を発信しない。敵の傍受を防ぐためだそうだ。しかし場所を大きく移動するともっと頻繁に位置を教える。
金メダルは昨日発信して後、まだ一度も電波を飛ばしてこない。見つかって壊されたのでなければ、移動していないということだった。
おれが数時間ぶりに身体の位置を変えて伸びをしようとした時、突然ヘッドセットが囁いた。
『グレイフォックス。発信があった!』
敵は危険だろうか。これまでの所、奴らは誰一人殺傷していない。黒服部隊は気絶させられただけだし、鬼門静は飛行機に乗せられるまでは傷つけられた様子はない。しかし、もし潜入したところを捕まればただでは済まないだろう。見つかったらプラチナキッズでございますと言って許してもらえるはずはない。
おれは壁の上を伝って降りると、余ったロープを巻き上げてから壁を蟹歩きして静が軟禁されている部屋へとたどり着いた。
どん。
おれがカエルの標本みたいに窓ガラスにへばりつくと、ちょうど正面に驚いた静の顔があった。
*
※ここで遅延を入れる。
わたしがここに連れられて来てから、三日たった。
さらわれるときは多少手荒くされたけど、ここに来てからは形だけは大事にされている。叩かれたりひどいことを言われることはない。みな(と言っても、わたしが会ったのは看守と数人の白衣を着た医者みたいな人たちと看護婦だけだけど)わたしには丁寧な口調で話す。
でもわたしが捕らわれの身であることには変わりない。
わたしはここから出られないし、部屋は空調が利いて快適だけど、窓ガラスは堅く、窓は開かない。外を見ても生い茂る木々にさえぎられてここがどこだか分からない。
飛行機に乗せられる前にあばれたことで、もっと監視が厳しくなった。
あの後、再び袋を頭にかぶせられ、最初のときは苦しいだろうとひもはしばらなかった誘拐犯のおじさんは、二度目はきっちりと首のあたりで袋のひもをしばった。それでどんなに身をよじっても袋はとれなくなったし、泣いて頼んでも、誰も返事をしなくなった。
あのままかれこれ一時間くらいかしら。飛行機は着陸して、わたしはそのまま自動車に乗せ替えられ、ここに連れてこられた。自動車も特別仕様なのか、外の音は全く聞こえなかったから、ここが街の近くなのか田園地帯なのかすらわからない。
部屋は高級ホテルの部屋みたい。私物はないから最低限の家具はあるけれど、退屈。看守のおばさんはわたしの態度次第でもう少ししたら本やその他の好きなものを持ってきてあげます、と言うからまあ刑務所よりはいい。でもパソコンとか携帯電話とははいっさいだめ。当たり前よね。わたしが外に連絡する方法はない。
クローゼットにはまあまあすてきな服がたくさん吊してあって、衣装ダンスには下着もドレスもすべてそろっている。サイズもぴったりだし、わたしが自宅で使っていたのと同じ素材、同じ色。どうやって調べたのかしら。
なにより嫌なのは毎日検査されること。
病院の寝間着みたいな服に着替えさせられ、部屋を出て、医務室みたいな所へ連れて行かれ、そこで血液を採ったり、心電図やら色々な機械にかけられる。痛いのは平気だけれど誰もわたしの質問に答えてくれずわたしに「体調は?」とか「気分は?」とか質問するだけ。終わると廊下を通って同じ部屋に戻るだけ。これが一日二回ある。
わたしは窓際に寄せた椅子の上で今日数百回目になるため息をついた。
窓の外も見飽きたけれど、部屋の中を見ているよりはまし。
木々の上に広がる真っ青な空を見ていると、自分が幽閉されているという実感がより身にしみる。
そう。これって『幽閉』よね。
『幽閉』って言葉はロマンチックだと思っていたけれど、いざ自分が幽閉されてみると退屈で死にそう。
こうして窓辺でただ座っているとどんどん空想の世界にのめり込んでいく。
子供の頃、わたしはつらいことがあると、いつも空想の世界に逃げ込んだ。本が好きだったから、空想の材料にはことかかない。
わたしは今高い塔の上に幽閉されているお姫様なんだわ。塔の中には魔物ならぬ怪しげなおじさんおばさんたちがいて、わたしが逃げ出せないように見張っている。
そう。ここは建物の五階くらいだから、『塔』というのもあながち間違いじゃない。ぴったりの例えじゃないけど。
それでお姫鯖、いえちょっと鼻が垂れた。お姫様が幽閉されている所へ白馬に乗った王子様が現れ、魔物を倒し、お姫様であるわたしを救ってくれるんだ。
わたしは白馬に乗った王子様を想像しようとしたが、真っ先に頭に浮かんできたのはミネルバにまたがったジャージ姿の辰巳数馬の顔だったので、あわてて頭を激しく振った。
ちょっと! なんであんなやつの顔が浮かんでくるのよ~! 王子様はもっと優雅な服を着て……
優雅でチャラい服を着たアンドレのことを思い出して、わたしはげー、とため息をついた。あれはある意味王子様っぽいけど『勇者』のイメージからはかけ離れているわね。甘やかされた『バカ息子』。絶対嫌なタイプ。
わたしはぶんぶんと腕を振った。そのひょうしに首にかけた重い金属がゆれた。
革袋に入った金メダル。わたしは思わずそれを服の上からしっかと押さえてから、はっと気づき、誰かが見ているかのように焦った。
「ち、違うんだから! わたしはこれを返そうとしただけで、預かりものには責任があるから最後までしっかりと持っておく必要があるだけで、べ、べつに彼のことを思い出すためとか、肌身話さず大事にするとかじゃないんだからね。ぜ、絶対に違うんだから!」
わたしはそう叫んでから、誰も言い訳する相手がいないことに気づいた。わたしは一人恥じた。顔が熱くなってる。
やだ!
わたしは改めてため息をついた。
辰巳数馬か。
あの能力だけはある、やる気のない男。
ヘタレ。
あいつは実力だけがものを言う、勝てる見込みのある勝負しかしない。
わたしがこんな大変な目にあっても、警察に電話するくらいしかできないでしょう。
父の自慢の黒服部隊も手玉に取られたこの連中を相手に、あの男がなにかしてくれるとはとうてい思えない。
あーあ。ちょっと期待したわたしが馬鹿だったのね。これからどうなるのかなあ。
わたしはもう一度美しい空想に挑戦した。時間だけは山ほどあるから何度失敗してもやり直せる。白馬と……それにまたがる背の高い、りりしく、イケメンの王子……。
どん、となにかがガラス窓にぶつかる重い音がしてわたしの空想は中断された。
わたしが目を上げると、そこには……
辰巳数馬がいた。
*
おれは特殊なガラスカッターを取り出し、窓ガラスの真ん中に吸盤で固定し、それからコンパスのようなアームを数回まわした。
ダイヤモンドがガラスを切り裂き、丸い溝を作った。おれがゴムのハンマーで優しく叩くと、窓ガラスはぽんと割れて、おれが入れるくらいの穴があいた。
おれはロープにぶらさがって、静のいる部屋へ入った。
静は夢から覚めたばかりの人のような表情をしていた。あんまり驚いたので口が利けないようだ。
「大丈夫か?」
おれが声をかけると、ようやくわれに返ったかのように何度も目をまたたかせ、それから言った。
「せ、せっかく白馬の王子様が迎えに来てくれる想像をしていた所だったのに、現れたのがアンタじゃがっかりするじゃない!」
おれは仕方なく黙って肩をすくめた。静をどうしても救いたいのはおれの偽らざる気持ちだが、彼女がそれに応えてくれるかどうかは期待しちゃいない。やる気は出ても限りなく不運なおれの性質は変わっていないはずだから。
だが、そんなおれの仕草に静はおや、という表情をした。
「なにかおれの顔についてるか?」
「い、いえ」返事も元気がない。
「無事なんだな」
「ええ」
「じゃあ脱出しよう」
おれはロープをたぐり始めた。
「なにをするつもり?」
「決まってる。ここから降りるんだ。おれがおんぶしてやるからしっかり捕まって……」
「無理よ」
「え?」
「絶対無理。だってわたし、高所恐怖症だもの」
「大丈夫だ。目をつむってろ」
「いやよ。わたしをそこから降ろすつもりなら、舌をかんで死ぬわ」
おーい。このお嬢様をなんとかしてくれ。
仕方ない。おれは外側に敵の監視がきつかった場合のためのプランBに変更することにした。
おれは聞いた。
「部屋の外には誰がいるか分かるか」
「だれもいないわよ。部屋には鍵がかかってるから逃げられないし、一日数回、食事のときと身体検査のときに人が来るだけ」
「じゃあ、廊下から脱出だ」
おれはそう言うとヘッドセットのマイクに向かって話した。
「それでいいかい? PMG」
『オーケー。おれの指示通りに動け』
兄の声が聞こえる。
「ロジャー」
おれは背嚢から特殊器具を出した。奇妙な形の先端をドアの鍵穴へかぶせてから電源をいれる。器具の中でモーターがうなり、ごくわずかに金属がすれる音が聞こえた。
「それなに?」
静が好奇心丸出しで聞く。
「錠前屋が鍵をなくした錠を開けるための特殊器具。コンピューターが自動解析して鍵を開けてくれる」
「ふーん。便利なものを持っているのね」
「買ったんだ」
プロの泥棒が使う器具で二百万円ほどする。錠は一分で開いた。おれはそっと手鏡を出して廊下の左右を探る。誰もいない。
おれは頭だけ出して再度確認すると静の手をとってそっと廊下に出た。静はあれ、という顔をしたが、なにも言わずについてきた。
「そっちには変な検査室があるの。反対側へ行きましょ」
静が言ったが、おれは兄の指示通り建物の奥に進んだ。
この建物は、一階から三階までは普通の精神病院を偽装していて、通院する患者もいるが、エレベーターに乗っても三階までしか行けないようになっている。
四階以上へ行くためには一度地下駐車場へ降り、そこから秘密の入り口で外側からは見えない隠しエレベーターを使って直接四階以上の階へいけるようになっている。
つまり五階から脱出するには一度地下へ行かなければならない、と建物の構造を調べた兄が言っていた。どうやって調べたのか分からないが、兄が言うのだからそうなのだろう。。
おれが廊下をどんどん進むと、反対側から靴音が聞こえた。人だ!
おれたちはとっさに手近なドアを開いて中に入った。静の手を引いて引っ張り込む。
そこは階段室だった。エレベーターの中はカメラがあるだろうから、好都合だ。
おれたちは階段を下っていった。階段室には緑色の非常ランプのみがともり、おれたちが下るにつれてセンサーで照明がともる。
全く同じ色形の穴を延々と降りてゆくと、めまいがしてくる。おれは階数と方向を間違えないように数えていた。
「PMG、PMG?」
『聞こえている』
大丈夫だ。兄のサポートがある限り、行動に迷うことはない。
「こちらの位置は分かる?」
『大丈夫だ。把握している。今地下一階だ。地下三階に駐車場があり、荷物の搬入をする場所がある。そこからトンネルで地上へ出られるはずだ』
「ロジャー」
おれたちが地下三階にたどり着く直前。一つ上の階の扉が突然開いた。
太った男が一人、出てきた。
男はおれたちを見て一瞬固まると、大声で怒鳴った。
「こら! お前たち誰だ!?」
おれは物も言わず、静の手を引っ張って下の階へ逃げ出した。
「こら、待て!」
男はひいふう追ってくるが、おれたちの方が速い。しかし目的の地下三階をすっとばし、地下四階、五階、六階……一体のこの建物はなんだ? なんでこんな深くまで作っているんだ。
おれたちに追いつけない男はどこかの扉から出た。助けを呼びにいったに違いない。すぐに全館追っ手がかかるだろう。ゲームなら一定時間どこかに隠れていれば、追っ手はなくなり警戒も解除されるが、現実にはそんなことはありえない。
おれたちは適当な階で階段室の外に出た。静の軟禁されていた階の廊下はホテルみたいだったが、ここはコンクリートの壁に天井からはジュラルミンの吊り板がわたり、その上に何本もの電線やダクトが走って殺風景極まりない。
おれたちはいったん廊下から見えない引っ込んだ場所に身を隠した。
無線機に話しかける。
「PMG! 発見された! 予定とは違う場所に来てしまった」
返事はない。
「PMG! 指示を頼む!」
無線機はかすかなガーという音を立てただけだった。おれは無線機を見た。
電源LEDが赤くなっている。バッテリー切れだ。
「もう、バッテリー切れ! ありえねえ!」
おれはぶつくさ言いながら、背嚢を開いた。不運は伊達じゃない。ちゃんと予備バッテリーは持ってきている……はず。
おれは予備のバッテリーが入っているはずのケースを取り出した。
バター缶だった。ミネルバの好物だ。
「なにそれ?」静はのんびりした声で聞く。
「そ、そんなはずは!」
おれはザコ敵キャラみたいな台詞をはきながら背嚢の中をひっくり返して全部調べたが、他に予備バッテリーはなかった。
おれは脇の下に冷や汗が流れるのを感じた。
潜入任務でも特殊部隊出身の兄にバックアップされて安心感があったが、もはやない。これからは自力でここを脱出しなければならない。
おれが父の威光でも、兄のスキルでもなく、自分の知恵と勇気でここを出なければならないんだ。
「……必ず裏目に出る、ということは必ず意図した方向に結果を向けることができる、というのと同じ意味だ」
突然、なんでここでサイードの言葉が浮かぶんだ?
そういえば、おれは絶対的に運が悪いのに、なんであんな偶然で安達うさぎを捕まえることができたんだろう。本来、偶然でスパイを捕まえられるなんて幸運、おれには一番ありそうにないことなのに。
おれはあの時、何をしようとしていた?
安達を捕まえようとしていたんじゃない。あのとき鈍感なおれは安達を疑いすらしていなかった。おれはただ単にドアを開けて外に出ようとしたんだ。その目的としては、おれは限りなく運が悪かったといえる。外に出る代わりにクローゼットの中に突入したのだから。
じゃあおれの運の悪さはそのままだった。
けれど、それが予期しない結果を生んだ。
ということは、おれがやろうとしていることとはちょっと斜め上にずれている結果なら、おれは自分の不運を使って誘導できるということか?
「……必ず意図した方向に結果を向けることができる……」
おれは無線機を放り捨てた。無線機には運がなかっが、懸垂降下用のロープに切れ目が入っていた、なんていうのよりはましだ。
「おれたちが逃げ出したことはもう知られてる。なんとか見張りの目をかいくぐってここから逃げ出さなくちゃ」
静は大きな瞳でおれを見つめていた。
「できるかどうかわからないけど……おれは不運続きだから……でも、命をかけてきみを守る! ここから出して見せる」
静はびくん、とあごを動かして目を見開いた。なにも言わなかった。
おれは急に照れくさくなって目をそらしたまま、手早く荷物を背嚢にしまい始めた。
そのとき、廊下の向こう側から声がした。
「いたぞ! 捕まえろ!」
まずい! 追っ手だ! 恐らく廊下に出たときに監視カメラに引っかかったのかもしれない。おれは右手で静の手を、左手で背嚢のストラップをつかんで声とは反対方向に走り出した。
廊下に飛び出したのと同時に背嚢の背負いひもがダクトを固定しているボルトにひっかっかってその拍子に手からすっぽ抜けて落ちた。おれたちの身体は勢いづいて二メートルも先に進んだ。
戻って背嚢を拾っている暇はない!
おれは背嚢をあきらめてそのまま静と一緒に走り続けた。
後ろから追ってくる音がする。
おれは角を曲がって別の廊下に入り、一番奥の扉を開けた。そしてよく見もせず、静を連れて、そのまま中に飛び込んだ。
*
これは夢なのかしら。わたしの手を引いているのは本当に辰巳くん?
白馬の王子様が悪い魔法使いの魔法で辰巳数馬に姿を変えられて(どんな魔法よ!)、わたしを救いに来てくれたのかしら。
あの一言、乙女心には即死攻撃だった。
……命をかけてきみを守る。
あんなこと言われたら、もう前と同じようには付き合えない。手を引かれて走っている今も心臓がどきどきしている。これは走っているからだけじゃ、絶対ない!
でもこれって嘘!? ほんとに現実?
わたしは走りながら自分のほおをつねってみた。それからちょっと手のひらで叩いてみた。
やっぱり夢じゃないみたい。
……姫。わたくしの命にかえても姫をお守り申し上げます。
あ、やだ。わたし誘拐犯たちに追われて走りながら、なんだか顔がにやけてるわ。
わたしはまだ自分の運命に半信半疑で辰巳数馬に手を引かれながら、廊下を走った。
*
おれと静が追われて飛び込んだのは巨大な部屋だった。壁一面に機器が並んでいて絶え間なく電子音が響いてくる。
天井は高くドーム状で上に行くに従って丸くなっている。
床にはびっしりと高価そうなじゅうたんが敷き詰めてある。
ちょうど中央に金属製の巨大な構築物があり、それは機械というよりは建物のようだ。
その構築物の上に天秤ばかりのように左右に釣り合いをとって部屋が並んでいた。
いや釣り合いをとって、というか正しくは一方が下にもう一方が下にかしいでいたが、共通するデザインからこれは二つが対を成している、ということは分かった。その対をなす二つの間に、操作コンソールのようなものがついていた。
構築物は上に行くに従って細く、金属製の輝きをおび、そのまま天井を突き抜けて上に伸びていた。
おれたちは身近に迫る危険も忘れてその構築物に見とれていた。それくらい、その構築物は未来的なデザインだった。
おれと静は一歩前に足を踏み出した。装置はみな音を立てているのに、誰の姿も見当たらない。おれたちをただ機械音のみが取り巻いた。
出し抜けに笑い声が響いた。
同時に構築物の陰からアイスホッケーのマスクをし、全身にローブをまとった男が現れた。男はうれしくてたまらないという風にくつくつと笑っている。
「ようこそ。『運命制御塔』へ」改めてマントを翻す。
これって、特撮ヒーローものに出てくる悪役のボスまんまじゃね?
いや、もしこのかっこでその辺の道を歩いてたらおれなら絶対テレビカメラを探すけど。でも、実際にこの構築物を見てしまうと笑う気にはなれない。だってこれ、映画のセットだとしてもしゃれにならない金がかかってるよ、きっと。
男はおもむろにホッケーマスクをはずした。下からは貧相な大学教授のような顔が現れた。男はできるだけ威厳を作って言う。
「おろかな、おろかなアホウドリ。ようこそ。まさに飛んで火に入る夏の虫だな、運特異点たちよ。運特異点+《プラス》のみならず、運特異点-《マイナス》まで手に入ってしまうとは、これはわしも運が向いてきたようだ」
「まことにさようで。金曜様、おめでとうございます」
いきなり、やせて長い前髪をたらし、表情がほとんど判別できない男が現れた。手にはかごを持ち、右手で中身を握ってぱっと振ると、紙で切り抜いた桜の花びらがはらはらとマスク男の上にかかった。こいつら絶対なんか勘違いしている。ここ、舞台はルーカススタジオだけど、出てる役者はなんばグランド花月劇場だ。
マスク男はうむ、と大きくうなずいてからおれたちの方を向いて言った。
「わしがここの所長兼最高責任者《CEO》、金曜十三である」
おれがなにか言う前に静が一歩前へ進み出た。
「そーう。あんたがここの黒幕だったの。わたしを誘拐してモルモットみたいに毎日検査したやつらの親玉だったのね」
えっと、この場面でいけないことですけど、その『検査』ってなに? ちょっと気になる。
静はだんだん怒りを増幅させ三白眼になった。目が大きいだけにすごみがある。一瞬の沈黙の後、ぼそっと言い放つ。
「ハゲ」
え、見えなかったけど、そうなのか? 言われた金曜の顔が引きつる。
「アデランス。バツイチ」
ぐわっ。心理的ダメージを受けて金曜の顔がゆがむ。
「ロリコン。リストラされ組。痴漢で捕まって会社をくびになったエロオヤジ」
あぐう。金曜は腕を前にのばしもだえ苦しむ。静の悪口は偶然全部正解するのは知っていたけど、これはかなりまずいよ。
脇で見ていた髪の垂れた男が進み出た。
「会長。ここはわたくしめにおまかせを」そう言って静をにらみつける。それから急に猫なで声で言った。
「あら、静おじょーう様じゃござんせんか。『親の七光り』でなんでも欲しいものが手に入っていいですねえ」
静は頭をがん、と殴られたようによろめく。
「どうせ才能のないくせにがんばっても『無駄』じゃありませんこと。このたびは高校入学おめでとうございます。よほど『運』がよろしかったのですねえ」
「う」
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄……」
ラッパーのような早口で悪口の波状攻撃をしかけてくる。
「な、なによー」
静はもう涙目になっている。意外にもろいなこいつ。やはり敵はこちらの弱点を調査済みのようだ。
「それくらいにしておけ。余りにも程度が低すぎる」
金曜が威厳を取り繕って言う。一度ごほん、とせきばらいをしてから続けた。
「わしらは君たちとけんかをしようというのではない。ようこそこの『運命制御塔』へ。君たちのために特別に作られたこの運命制御装置『アテール』を見るがよい」
それって研磨剤が『ピカール』とか汗拭きタオルが『アセトール』っていうくらい安易なネーミングだな。
「君たち運特異点はこの装置のコアとなる部品だ」
「なに言ってんの。一回死ねば!? わたしたちのどこが部品なのよ?」
静の文句にも金曜は動じなかった。
「君たちにわしらの目的と君たちの役割を教えよう。わしらは長いこと人間の『運』というものを研究しておった。人間には『運命』はあるのか。あるのならそれは意のままに変えられるものか……」
金曜はもったいぶって手を後ろに組み、装置のほうを振り返った。
「そうしているうちに、人間の幸運・不運には『運気』というものが関係している、と分かったのだ。これは目に見えない流れのようなもので、運気がプラスに作用する、つまり上昇するとその人はより幸運になり、マイナスになると不運になる」
「あほらし」
「辰巳数馬くん。君は口ではそう言っているがそれは本気じゃないだろう」
金曜はにやりと笑った。
「君も気づいているはずだ。自分がとてつもなく運が悪いということに……」
おれは黙った。黙らざるを得なかった。おれの今までの人生で、それが原因でどれほどやる気を失ったことか。
「そして鬼門静くん。君はとてつもなく運がいい」
金曜はベートーベンのような表情でこちらを振り返った。
「これらは全て確固とした法則に基づいて起きていることだ。なぜなら君たちは『運特異点』だからだ」
金曜は人差し指を真っ直ぐつきだして『決め』のポーズをしてみせた。まず人差し指を静に真っ直ぐ向け、
「鬼門静くん。君は『運特異点プラス』。そして……」
今度は人差し指おれに向けた。
「辰巳数馬くん。君は『運特異点マイナス』なのだ」
「わしらは最初単純に『運特異点プラス』には『運気』が多く、『運特異点マイナス』には『運気』が少ないものかと思っていた。つまり『運特異点プラス』が運気が流れ出す源である運気発信点、『運特異点マイナス』は運気を際限なく吸い込み消し去る運気消滅点だと思っていた。だがそれは間違っていた」
「『運気測定器』を用いて計測と実験を繰り返した結果、ついに『運気』は『運特異点マイナス』から流れ出し『運特異点プラス』に流れ込むことが分かったのだ。つまり君たちは二人で一組なのだ」
「つまり全ての幸運は辰巳数馬から流れ出て鬼門静に流れ込む。そしてその間に流れる『運気』の流れ、つまり『運流』が全世界の人の運・不運に影響するっ!」
「ええー!?」
一応ここ驚くとこね。
おれはぶつくさ言った。
「それでそれとこのクソでかい機械がどう関係するんだよ」
「そう。ここからが本題だ」
金曜は優しいおじいさんみたいな笑顔を作った。
「この機械を使えば全世界の運の流れを統御することができる。競輪競馬の的中率から株価や各国の政治経済情勢、交通事故の起こる確率、人と人との出会い、LOTOの的中率、デリヘルで「チェーンジ!」と叫ぶ回数、ファミレスでバイトしているあのこが自席に注文を取りに来てくれる率、など全てを統御する。そうすれば世界の命運はわしらのものだ。ふはははははは」
「『わしら』って誰よ?」
「うん、うん。君たちも知っておろう。この日本には古来から続く権力者集団があることを。わしは彼らの依頼を受けてこの装置を完成させた。君たちをこの運命制御装置『アテール』に組み込むことでこの装置は作動を始める」
「組み込むってどういうことだよ」
「あそこを見よ。あの上に上がっている部屋が……」金曜は装置の一方にある箱を指差した。
「『運特異点プラス』を格納する部屋じゃ。幸運を一手に引き受ける鬼門くんにはできるだけ快適感を味わってもらうため、中は素敵なつくりになっておる。フリルつきのベッドカバーもキティちゃんのぬいぐるみもあるぞ」
あほらし。お、おい。静。なぜ目が輝く!?
「そしてあちらが『運特異点マイナス』を格納する部屋じゃ。世の不運を一身に引き受ける辰巳くんには、なるべく惨めさを味わってもらうため、アルカトラズ刑務所を参考にしたデザインになっている。トイレもベッドも全て床にボルトで固定してある。運動不足になるといかんからルームランナーも備えておるぞ。いや、本当は縄跳び縄でよかったのじゃが、首でも吊られると元も子もないのでのう」
こいつ。絶対に許せねえ!
「こうして二人の間に流れる『運流』をこの装置で制御する。これで世界はわしらのものじゃ!」
「なに。結局その装置って、おれたちがいないと動かないの?」
「そうじゃ」
「静。帰ろうぜ」
おれは静の手を引いて後ろを向いたが、すでに後ろにはいつの間にか室内に入った追っ手の群れが並んでいた。
「返すわけにはいかん。君たちはこれから一生この装置の中で暮らすのじゃ」
「嫌よ! そんなの絶対に嫌!」
静が叫ぶ。
「人をそんな悲惨な目に遭わせて平気なのかよ、お前ら」
「悲惨といえばわしの人生に優るものはないぞ、そもそもわしは優秀かつ努力家で大学の研究をしとった……」
金曜は頼みもしないのに身の上話を話し始めた。
「……しかし、わしの成功をねたんだ上司によってわしは他人の研究を盗んだと言いがかりをつけられ、大学を追われた」
「……行くあてのないわしを妻も見捨て、わしは路上で暮らした。ある日拾った新聞を見るとわしを追い出した教授がわしの研究を自分のものと偽って国際的な学術賞を受賞しておるではないか」
「……それからわしは日雇いの仕事を始めた。ある日、酔って帰る途中、つい電車のつり革につかまったまま寝込んでしまって、隣の女子高生のもたれたら、痴漢で訴えられた。なにが痴漢じゃ。あんな深夜に電車に乗っておる女子高生など、どうせ男友達と遊び歩いたか援助交際に決まっとる!」
「……しかしそのまま駅務所に突き出された。わしは無罪を主張したが、たまたまかばんの中に入っていた『めくるめくJKの世界』という雑誌が有力な証拠となって有罪が確定した。誰もわしの言うことなど聞いてくれなんだ」
たまたまかよっ! おれだってその場にいたら信じねえよ!
「……さらにたまたま拾った財布を持っていたらそれを探していた落とし主に泥棒と間違われた。わしは拾ったのを返そうと中を見ていただけだ、と言ったのだが、前科もあったし、なによりわしがその前に夜勤で稼いだ金で久しぶりに旨いものでも食おうとステーキ屋に入って散在したのが有力な証拠となって、ついに刑務所に入った」
金曜はすすり泣きを始めた。
「わしが……わしが今までわしのことを誤解し、裏切った世間に復讐してやるために、この装置を使って世界を征服するのは正当だとは思わんか。わしほど不運で不幸な人間はおらんのじゃから」
おれは黙って聞いていたが、ついにこめかみのあたりでぶちっという音がした気がした。我慢できずに口を出した。
「それだけか?」
「へっ?」
「それくらいでグレるなばーか」
「そそそそれくらいとは」
「それ程度の不運で不幸になってたら、おれなんか百回自殺してるぜ!」
おれは叫んで前へ出た。垂れ髪が金曜を守るかのようにガードポジションに立つ。
おれはあたりを見回した。後ろは警備員に囲まれている。装備は全部落としてきた。いや、ポケットに何か入れてあったかな。
おれはポケットの中に入れたものの感触を探って一瞬目の前が真っ白になった。
スタン・グレネードでも入れてきたつもりだったが、こんなものを入れてきたとは。いや待てよ。これは使えるかも。
おれは金曜に向かって挑戦するように言った。
「おい、おっさん。あんたの理論じゃおれは世界一幸運が逃げている存在なんだな」
「その通りじゃ」
「だが、今話を聞いていると、あんたもおれに負けないくらい不運の人生を過ごしてきたようじゃねーか。つまり不運の度合いではあんたもおれとは変わらないくらいだということじゃないのかな」
「辰巳くん。なにが言いたいのかね」
「賭けをしよう」おれは言った。静が思わずおれの腕をつかむ。
「賭け?」
「そうだ。お互い不運な者同士で運による賭けをして、もしおれの方が勝ったら……あんたの理論は間違っていた、ということでおれたちを解放しろ。おれが本当に世界一不運な人間なら絶対に負けるはずだから」
「ふははははは。本気かね?」
金曜は笑い出した。
「いくらわしが不運だったといっても、きみは『運特異点マイナス』。今地上で最も不運な男だということを自覚しておらんのかね」
「それを自覚した上での賭けだ。ただしやり方はおれが決めさせてもらう」
「ほう。言ってみろ」
「ちょっと待て」
おれは振りかえって静に頼んだ。
「まだ金メダルを持ってる?」
「え? ええ。だけどそれがどうしたの」
「おれに返してくれ。今」
静はちょっとあきれた様子でおれに金メダルの入った袋を渡した。おれは金メダルを取り出した。
「ご覧の通り種も仕掛けもないオリンピックの金メダルだ。これをおれが投げ上げて床に落とす。投げる前にお前が裏か表かを選べ。お前の選んだのと反対の側がおれという勝負だ」
「面白い。いいだろう。わしもたまには自分の幸運を噛み締めてみたいものじゃ」
おれを確認した。
「いいな。おれが勝ったら、おれたちを解放するんだぜ」
「うむ。男の約束じゃ」
おれは金メダルを構えた。
「表!」金曜が叫ぶ。
「裏」おれも言った。「ところで、このじゅうたん高いのか?」
「なに!」金曜は目をむいた。「ああ、金メダルが傷つくかどうかか。心配するな、イラン製の超高級品じゃ」
「それを聞いて安心したぜ」
おれは金メダルを宙高く放り投げた。
金メダルはきらきらと輝きながら回転し、じゅうたんの上に落ちると軽くはずみ、そのまま止まった。
おれたちは一斉に金メダルのそばに寄った。
「裏だ! おれの勝ちだ!」
おれは右手をガッツポーズであげた。
垂れ髪をはじめ、そこにいた全員が唖然としている。
「会長が負けた」
「じゃあ、やっぱり理論は間違い?」
「ぐぬぬぬぬぬ。ぐぬぬぬぬぬ」
金曜は歯ぎしりして悔しがった。
「さあ。男の約束だろ。おれたちを出せ!」
「ぐぬぬぬぬぬ。ぐぬぬぬぬぬ」
「おれが勝ったんだ。あんたの理論は間違っていた」
「ぐぬぬぬぬぬ。ぐぬぬぬぬぬ」
突然、金曜は落ち着くと急に笑い出した。
「ふはははは。こやつらをひっとらえい」水戸黄門に悪事を暴かれた代官みたいだ。
「おい、約束が違うぜ」
「ふははははははは。大人の事情は男の約束に優先する」
「汚ったねえ!」
「大人は汚れちゃってるんだよ。おい! 早く、こいつらをひっとらえろ!」
おれは近寄って来た垂れ髪の男をぶん殴った。後ろから警備員たちが迫る。
おれは静の腰を抱くと金曜の脇を通り抜けて巨大な装置の方へ走り、階段を駆け上ってコンソールの前で振り返った。
階段の下を半円形に警備員が囲み、じりじりと迫る。おれは叫んだ。
「おい。お前ら! 近づくとこの機械をぶっ壊すぞ」
「ふははは。その機械は今プロテクトモードだ。機動しなければ、壊すことはできん」
「じゃあ、機動すればいいんだな」
「馬鹿め。パスワードがかけてあるわ」
金曜が勝ち誇ったように叫ぶ。
おれは静に言った。
「静。装置を起動してくれ」
「え? でもパスワードは?」
「そんなもん、適当に入れればいいだろ」
静はなまじコンピュータなんかの知識がなかったせいか、おれの言葉に反論せず、コンソールに向かうと適当にパスワードを入れた。
ただちに部屋中にある数百のランプが点灯し、運命制御装置はうなりをあげて起動した。
「馬鹿なー。そんな馬鹿なー」
金曜のあごが落ちている。
(大文字小文字特殊文字を混ぜた十二桁以上のパスワード。偶然で当たる確立は一京分の一……)
技術者らしき男が額に汗を浮かべてぶつぶつ言う。
鬼門静の幸運力を使えば、パスワードを偶然当てるくらい朝飯前だ。
そしておれの不運力を使えば……
今度はおれがコンソールの前に立った。一度後ろを振り返って尋ねる。
「ところでこの装置。値段はいくらなんだ?」
「聞いて驚け。一兆円だ」
「そりゃ良かった」
おれは装置を操作した。
マーフィーの法則:機械が壊れる確率は、値段に比例する。
おれが操作を始めたとたん。運命制御装置の赤ランプがあちこち点り、警告音がけたたましく鳴り始めた。
女性の合成音による声が落ち着いてアナウンスする。
『緊急事態発生。緊急事態発生。運命制御装置は暴走を始めました。後二十分で臨界に達し爆発します。建物内にいる全職員は速やかに避難してください』
「大変だ!」
警備員だちは、われさきにと逃げだし、おれたちのことなど構っていない。垂れ髪の男もいつの間にかいなくなっている。
金曜は周りを見回してだれもいないのを確認すると、おれにつかみかかってきた。
「この小僧!」
ばん! 金曜の体が崩れ落ちる。
静が手にした消火器を投げ捨てた。
「このオヤジ。チョーむかつくわ」
頭を押さえてうめく金曜を残し、おれと静は外へ出た。
*
サイレンが鳴り響き、廊下にはあわただしく駆ける大人たちがいっぱいだ。おれたちも人の波に乗って同じ方向へ走った。
突然、迷彩服を着た一団が前のほうに立ちふさがった。全員銃を構えている。おれたちに銃口を向けた。静は後ろを向いておれにしがみつき、それで偶然静の身体がおれの盾になる格好になった。
ダダダン!
思わず頭を抑えてしゃがんだが、「うわっ」と声を上げたのは向こうの方だった。見ると一人が顔を抑えている。どうやら銃が暴発したらしい。その隣にいる二人はそのあおりを食ってあらぬ方向を打ち抜いてしまい、ダクトからはものすごい勢いで蒸気が噴出してきた。蒸気は身体に悪そうな色だ。迷彩服の一団はほとんどが顔を抑えてうめいている。
「助かったわ」
「きみだったからな」
静が盾でなかったら、おれだったら蜂の巣にされていただろう。
おれたちは坂道を転がり落ちるボールのような勢いで走って逃げた。
後ろから銃弾が飛んでくるが、おれたちには一発も当たらない。
廊下の突き当たりにあるエレベーターには人がいっぱいだった。無理矢理乗り込もうとする静の手を引っ張り止める。災害時にはエレベーターは使わないのが鉄則だ。
「こっちへ行こう」
おれは階段の方へ走った。静を引っ張って階段を駆け上がり突き当たりの扉を開けて飛び出した。
「ねえ、さっき」
走りながら静が聞く。
「どうして金メダルの賭けで勝ったの」
「あれはイカサマだ」
「イカサマ?」
マーフィーの法則:トーストがバターを塗った面を下にして落ちる確率は、カーペットの値段に比例する。
「ミネルバにやるためのバターを金メダルの表面に塗っておいた。あれは高級カーペットだったから、おれが投げればマーフィーの法則が働いて絶対にバターの側が下になる」
おれが生まれて初めてやったイカサマだった。
ドオーン!
最初の大きな爆発音が聞こえ、建物全体が震えた。おれたちはつんのめった。上からはがれた壁が落ちてきて、たった今出てきた入り口をふさいだ。あと一瞬おそかったら押しつぶされるところだ。
押しつぶされなかったのは静の幸運力のせい。
道を間違えたのはおれの不運力のせいだ。
よくよくあたりを見回すと、ここは中庭にある駐車場で、四方を建物に囲まれている。空が見えるが、逃げ道はない。
再び爆発音がして、一階の窓と言う窓から火が吹きだしてきた。
まずい! このままだと駐車している車に引火する。車の中はガソリンとオイルが詰まっている。
しかし逃げ道を見つける前に火の勢いはどんどん強くなってきた。おれたちは駐車場のほぼ中心部に移動したが、燃えさかる炎の熱気がここまで伝わってくる。
絶体絶命!
静は黙っておれを見ている。次におれがどうするか期待している。
おれは安心させるように大きくうなずくと、コンクリートにとぐろを巻いていたホースを取り上げ、水道の蛇口をひねった。
ちょぼちょぼと水が流れ出したが、火の勢いに対して余りに無力な水だ。さすがに静も不安になったのか声をかける。
「ちょっと。それでどうすんの?」
だって普通消防署の放水車って一人では持てないくらいに水の勢いが強いよね。それくらいなければ火事は消せない。この洗車と花壇の水まきに使うホースが火事に対してできることはほとんどない。
だが、おれのねらいは別のところにあった。
おれは駐車場の真ん中にある一番高そうな車を洗い始めた。
「ねえ、ちょっと。なにしてんの?」
静が不安そうな声できく。おれは構わずに洗車ブラシを拾うとその車をピカピカに洗った。
早く来い!
おれがホースと洗車ブラシを脇に置いたとたん、空に黒雲が現れた。遠雷が鳴り、黒雲はたちまちのうちに視界の限り空をおおい、あたりは真っ暗になった。
ぽつん。ぽつん、と大粒の雨が降り出し、やがてざあー、と叩きつけるような豪雨となった。
マーフィーの法則:洗車した後には雨が降る。
豪雨でたちまちのうちに炎の勢いは弱まった。小さな爆発音がして、おれたちの正面にある壁が崩れた。その奥に道が見える。
「静! きみが誘導してくれ」
「え?」
「きみが適当に選ぶ道がおそらく脱出口だ」
静はうなずいた。
おれは静の手を引いて再び走った。廊下をジグザグに曲がり、階段を数百段も駆け降り、ドアや分岐がある度に静は指示を出した。おれはその指示に従ってできるだけ速く静を引っ張りながら走った。
そしてついに出口を見つけた! あと五百メートル!
「も、もう駄目」
静があえぎながら言った。足がもつれている。
おれは静を横抱きに抱えると、そのまま走った。
三……二……一……
天を揺るがす轟音とともにおれたちが走り抜けてきたトンネルが崩れた。
おれは静を抱えたまま跳んだ。
外に……!
*
おれは静をかばって上に乗ったまま安全だと思えるまでじっとしていた。
いくつかの爆発音が連続して起こり、そのたびに静はびくっと体を震わせた。
ずいぶん長い時間の後、おれは体を起こした。静は気を失っている様子だったが、おれが上からどくとうーん、と言って目を覚ました。
おれたちはぺたんと座りこんだまま、長い間秘密基地のあったところから立ち上る煙を見ていた。
いつの間にか雨がやんでいた。
ふと互いに抱き合っているのに気づいた。静はさらわれたときと同じ服を着ていた。ブラウスは所々裂け、濡れて白い肌が透けて見えた。おれと静は同時にそのことに気づいた。
「いやっ!」静はおれを突き飛ばした。
いやっ、て、お、お、お、おれなにもしてないし。
おれは照れて後ろをむいた。
そのうち静はくすくすと笑い出した。
「やだ。あなたの顔」
おれが自分の顔を手でこすると手が真っ黒になった。
「あれ、君もだよ」
おれは静の顔を指差した。
「やだ」
静はあわてて顔をこすり、すすの汚れを確認した。
おれたちは互いの煤で汚れた顔を見て笑った。
ひとしきり笑った後、静は沈黙していたが、ぽつんと言った。
「ありがとう」
「うん。けがはないか?」
「大丈夫」
「歩けるか?」
「おれがそうたずねるとなぜか静は真っ赤になった」
「ひ、一人で歩けるから」
「本当か? もし辛いならさっきみたいに運んでやるから」
「さ、さ、さ、さっきみたいに(お姫様だっこじゃない!)? い、いいから!」
なんかぼそっと言ってるし。
「そうか。じゃあ帰ろうぜ」
*
伊丹空港から羽田へ向かう国内線は乗客もまばらだった。静は搭乗券をもらってから家族に電話した。電話で言い合う声が聞こえた。
「だ・か・ら、一人で帰れるから。辰巳くんが一緒だから。要らない、要らないったら。チャーター便なんて。そう。そうよ。羽田に一時に着くから迎えに来て……」
相変わらずあの親父、大した過保護ぶりだ。
おれは静と二人で空の旅を満喫した、と言いたいところだが、実際には二人ともくたくたに疲れてほとんどしゃべらなかった。眠ろうと思ったがあまりに色々なことがありすぎて興奮で眠れなかった。
航路を半分ほど消化したころ。
突然機の前の方でもみ合う音と怒鳴り声が聞こえた。おれは何事かとそちらをみた。
ビジネスクラスの区画から姿を現したのは金曜十三だった。右手に拳銃、左手に箱を持っている。
箱にはテンキーが付いていた。
「やあ、また会ったな。鬼門静くんに辰巳数馬くん」
金曜は銃口をおれに向けたまましゃべった。髪は乱れ、少し酔っている様子だ。
「わしはもう終わりじゃ」金曜はうなだれた。
「一兆円もする装置を壊され、研究所は炎上。ニュースをもみ消すのが精一杯。全部お前がかぶって死ね、と言われた」
金曜はきっと顔を上げた。目に狂気が宿っている。
「だからお前たちを道連れにしてやる。見ろ! この装置にパスコードを入れれば、この中にある爆薬が爆発する。お前ら全員道連れだ。ふはははは。リア充爆発しろ!」
おれは静を引き寄せて自分の後ろにかばった。それを見て金曜が再び笑う。
「ふはははは。仲のよろしいことだ。二人そろって死ね!」
「ちょっと待て」
「なんだ」
「末期の頼みを一つ聞いてくれ」
「ふん。賭はもうやらんぞ」
「そうじゃない」
「ではなんだ」
「死ぬ前にコーヒーが一杯飲みたい」
「ふはは。そんなことか。いいだろう」
おれはすぐ後ろでワゴンの陰に身をすくめているキャビンアテンダントに頼んだ。
「すみませんが、コーヒーを一杯いただけませんか。熱いやつを」
キャビンアテンダントは蒼白な顔で震えながら紙コップにコーヒーを注いでおれに渡した。おれが紙コップを受け取ったとたん……
ものすごい乱気流で機体が揺れた。
マーフィーの法則:飛行機でコーヒーを頼むと乱気流が起きる。
もともと足のふらついていた金曜は大きくバランスを崩すと前に倒れた。その拍子に拳銃が手から落ち、床を滑っておれの前まできた。おれは拳銃を拾うと金曜の腕をねらって引き金を引いた。
がちゃん。不発。
がちゃん、がちゃん、がちゃん、がちゃん。
おれは立て続けに引き金をしぼったが、弾はすべて不発だった。
最強の不運力。
こんなときにもおれを苦しめるのか。
金曜は撃鉄が落ちる度に「ひっ」と顔を隠したが、いつまでたっても弾が出ないのを見て態度を変えた。落ちているテンキーボックスをひろう。
おれは銃口をまっすぐ金曜にむけたまま倒れている静ににじりよった。後ろから脇の下に腕を入れて座らせ、拳銃を握らせる。その手の上からおれの手でしっかり押さえた。
「頼みがある」
おれは静にささやいた。
「引き金を引いてくれ」
「!」
「おれが引くとたぶん今度も不発になる。だからきみが」
「いやよ」
静はきっぱりと断った。
「銃で人を撃つなんて絶対いや!」
「撃たなくちゃ、みんな死んじゃう」
おれは焦って言った。額に汗が流れる。
「あいつが持っている箱にパスコードを入れたら、それでお終いだ。みんなを救うためだ。頼む。ねらいはおれがつけるから……」
「いや。いやだって。いやあー」
もみ合うおれたちを見てチャンスだと思った金曜がテンキーボックスにパスコードをタイプし始めたとき……
ぱん!
拳銃が暴発した。もみ合う最中に発射された弾はとんでもない方角へ飛んで窓ガラスを打ち抜いた。
いきなり気圧が下がり、中の空気がすごい勢いで外に吹きぬける風でキャビン中の紙やプラスチックが舞い上がった。
機体が大きくかしぎ、おれたちは再び床に倒れた。
空気が薄くなる!
全座席の前にいくつもオレンジ色の吸入マスクが落ちてくるのを目の端でとらえながら、おれは気を失った。
*
騒がしい。
すこし静かに寝かせてくれ。
誰かの泣き声が聞こえる。
知っている声だ。誰だろう。
おれは目を見開いた。頭が痛む。
おれは頭を上げた。消毒薬の臭い。保健室みたい。
倒れたときと同じ服を着て医務室のベッドに横になっている。
隣の部屋の泣き声が止まった。
ドアが開き目を真っ赤に腫らした静が駆け込んできた。そのままおれにしがみつく。
おれは頭はずきずきと痛んだが、天国にいるような気分だった。静、おれのことを……
泣きやんだ静がぽつりと言った。
「ごめんね」
「え? いや」
「あのとき撃てなくて。辰巳くんが死んじゃうかと思った」
そう言って鼻をすすり上げた。
「あーえー、こほん」
突然咳払いが聞こえておれたちはぱっと離れた。後ろに白衣の医者が立っている。脇に控えた看護婦はおれたちを見てにやにやしている。
「お熱いこと」横目でおれたちをながめ、指をそらした手を口元にあてている。
大人って嫌だね。
おれたち二人は距離をとったまま固まっていた。そんなおれたちを励ますように医者が言った。
「二人とも無事です。軽い打撲と擦過傷。急に酸素が薄くなったことで意識を失っただけで、後は極めて健康体。このまま帰れますよ」
「そうですか、ありがとうございます。それじゃ駅はどこですか」
医者はにやにやした。
「君たち、電車で帰るつもりかい」
「そうですけど」
「それは……無理じゃないかなあ」
「なぜ?」
医者は聴診器をひゅんひゅんと回した。
「君は自分がどんなことをしたか分かってるのかい? 爆弾ハイジャック犯を機転で捕らえ、誘拐された鬼門財閥の令嬢を救助。もうニュースになっている。歩いて出口までたどり着けない方に夕飯を賭けよう」
「そんな……おれ。あのあと、なにも覚えてないんですけど」
「きみはハイジャック犯の拳銃を奪い、撃った弾は飛行機の窓ガラスを打ち抜いた。気圧が急激に下がり、犯人ともども乗客は全員失神。機長と副機長のみが落ち着いて対処し、機体を無事羽田空港へ着陸させた。犯人は逮捕された。意識を取り戻したキャビンアテンダントの話で、事件の一部始終は明らかになっている。君は――英雄だよ」
おれと静が二人で医務室から出て、羽田空港のターミナルへ出ると、なるほど報道陣が山ほど詰め掛けていた。その中の一人が目ざとくおれたちを見つけた。
「あ、いた! あそこだ」
報道陣がおれたちを囲む。カメラのフラッシュ。フラッシュ。目がくらむ。
出口の近くに執事の島田さんと黒服軍団がスクラムを組んで野次馬と報道陣を割っている。
静はおれの腕をぎゅっと抱きしめてぶら下がった。
「な、なんだよ?」おれはうろたえる。
腕に『報道』の腕章をした一人がマイクを顔の前に突き出す。
「なにか一言! ハイジャック犯を撃退し、どんな気持ちですか」
「お父さんは元オリンピック金メダリストの辰巳大五郎氏だそうですね。拳銃射撃の練習はしていたの?」
おれは少しの間マイクを見つめた。唇をなめる。
「みなさん。ありがとうございます。何度ももう駄目かも、と思いましたが、最後まであきらめずに努力したことが結果につながったと……」
おれは自分の言葉が信じられなくて、思わず静の顔を見た。
おれが黙り込んでいると今度は報道陣は静にマイクを向けだした。
「鬼門静さん! 静さん! どうですか。危機を脱出した感想は?!」
「は、はい。とても運が良かったと思いま……」
今度はあれ、というように静がおれの顔を見た。おれたちは見つめあった後、同時に笑い出した。ま、いっか。
おれは人生で一番の死に物狂いで努力した。静はここ一番の幸運を使った。お互い避けていたことだけど、結果がよければまあそれでもいいじゃない?
フラッシュが立て続けに瞬き、見詰め合っているおれたちを照らした。
明らかにスポーツ新聞の記者らしき男が聞く。
「お二人は恋人ですか?」
「そ、それは……」おれはうろたえる。
「そうよ!」
突然、静が大きな声で言う。
「彼はわたしの『白馬の王子様』です!」
おおー!
大変だ。大騒ぎになった。
「スクープだ! 鬼門財閥の令嬢に恋人発覚! 相手は元金メダリストの息子で彩の国プラチナキッズの辰巳数馬!」
「お嬢様あ~」
島田さんが叫ぶ。
おれたちをもみくちゃにしようとする報道陣と野次馬たち、それをかき分けて出口まで誘導しようとする黒服軍団に押されてなかなか進まない。
おれたち二人はじりじりと移動して正面玄関を出た。
キキーッ!
おれたちの前に真っ白のキャデラックが止まった。
「サイード先生!」
サイードはまだあの迷彩服を着てモデルガンの突撃銃を座席に置いたまま素敵な笑顔でこちらを見た。
「先生、どうしたんですか?」
「いやあ。家族を救おうと故国へ帰ってみたら、革命はとうに終わっていてさ、国王は国外逃亡。革命政府樹立。おれの親父は民衆に人気があったから、革命政府の元でもそのまま文部大臣を続けることになって、まずは一件落着。ぼくのすることもなくなったから、とりあえずまた教師をやるために戻ってきたよ。マーフィー・ムシキラ!」
まさに口あんぐり、の軽いノリだった。
「また学校で会おう。じゃあね~」
サイードはそのままキャデラックを急発進させ、見る見るうちに遠ざかった。
あれ、なんかサイードの頭の上に後光が差しているように見えるのはおれの目の錯覚だろうか。
「さ、お嬢様。こちらへ」
「すみません! 一言! 一言お願いします」
「離れて、離れて!」
おれたちはもみくちゃにされて大変だったが、ちら、と脇を見ると、おれの腕にしがみついたままの静はなんだかとても幸せそうだった。
マーフィー・ムシキラ!




