第三章
■第三章
おれが鬼門に決定的な言葉を吐かれてから平穏な日が続いた。
おれの不機嫌そうな顔を見て、両親もなにも言わなかった。
一度、母が玄関へ入ったおれの正面に立って聞いた。
「数馬。おまえ……」
「なに?」
「この頃鬼門さんのお嬢さんとはどう、なの」
おれはむすっと黙ったまま返事しなかった。
「なにかあったの」目をそらそうとするおれの視線を母の視線が追いかけた。
「なんでもないよ」
「うそおっしゃい」
「とにかく、うちには関係ないことだよ」
おれはそう言うと二階へ逃げ出した。母は追いかけてはこなかった。
普段親のいいつけは聞くおれの態度で母には十分だったらしい。なにも言わずにおれを一人にしてくれた。一人にしてくれたはいいが、階下での両親の話し声が全部聞こえてくる。これだからぼろ家はいやなんだ。
「駄目だったみたいよ」
「そうか……」
「せっかくの逆玉だったのに」
「なにか失敗したんだろう。やはりお金持ちはわれわれ庶民とは感覚が違うからな」
両親が勝手なうわさ話をしていたが、ある意味当たっているのがつらかった
おれは聞こえよがしに言った。
「あーこれであのうるさい女から解放されるんだ」
おれは自室で体育すわりをしていた。さっきまで何をしても楽しくなかったが、今はもっと胸の中がぶすぶすと燃えているような気分だった。
おれは外に出て、いつものように自衛隊駐屯地へ行くとピストル射撃の練習をしていたが、まったくといっていいほど当たらなかった。指導教官があきれて早い時間に中止を宣言した。
「辰巳君。今日は調子が悪いみたいだね。今夜は早く休みなさい。自己管理も練習のうちだよ」
帰っても練習量が少ないので、疲れもなかったが腹だけはへった。
夕食はおれの好物のブリの照り焼きだったが、なぜか全然味がなかった。おれはただ空腹を満たすためだけにがつがつと飯をかきこんだ。
夜、おれは兄と一緒に対戦型ゲームをしたが、それも上の空だった。最初は全力でおれを攻撃していた兄も、おれが余りにも投げやりなのであきれてコントローラを放り投げてマンガを読み始めた。
おれも床に落ちていた『少年ジャップ』を手に取ったが、目はコマを追っているだけだった。登場人物の台詞が頭に入らない。つまらなくてすぐに放した。
体育すわりをしてぼーとしているおれを兄がちらっちらっと見ていたが、なにも問わなかった。
することがないととますますおれは先週の思い出に返っていく。
「最っ低ー! 二度と顔も見たくない!」
あそこまで言われちゃったからなあ。
今までけっこう色々なイベントがあったよな。
いいとこまで行ったと思ってたんだがなあ。
どうせ縁がなかったのかなあ。
あれ。おれったら、なに考えてんだ。もともと住む世界の違うお嬢様じゃないか。あんな女。高飛車で、世間知らずで、無神経で、一般人のことなんか何も知らなくて。
「教えてちょうだい」
「うるせーよ」おれはつい虚空にむかって言った。兄は口の中でなんかぶつぶつ言うと再びマンガに没頭した。おれって邪魔だよな。
おれが自室に戻ろうと立ち上がったとき、携帯が鳴った。
珍しいな。おれに電話? なんだろう。
おれは基本、近代五種の練習で忙しいから友達は少ないし、家族に『かえるコール』するくらいだ。そのおれに誰が電話?
鬼門 静
着信音が鳴り続ける間、おれはその表示を信じられない思いで見つめていた。
あいつが……おれに……電話?
先週絶交にも等しい言葉を言い渡されたばかりで、鬼門のあのくそ真面目な性格から考えてもう機嫌を直したとか自分の方から謝ってくるとかは考えられない。
電話の着信音は十回以上鳴り続けたが、おれはまだディスプレイを見つめるだけだった。
これをとったらいきなり切られたりとか、別の人間が出るんじゃね。既に携帯の番号変えていて嫌がらせで誰かにかけさせてるとか……
着信音はまだ鳴り響いていた。
おれは散々ためらった後、通話ボタンを押した。
*
『助けて!』
音声はささやくような緊迫した静の声で始まった。
『……わたしの言うことをよく聞いて。今、わたしは家の外にいる。ミネルバに乗って。でも、大変なことが……』
こいつ、なに言ってんだ。
『……わたしをねらって怪しい男たちが五人、周りから近づいてくる。兵隊みたいな服装をしている。みな顔になにか塗ってるから顔はわからない。ガードマンたちは倒されてしまった。前と後ろをはさまれた。逃げ道はないわ』
え? え? え? なにこれ。ドッキリ? 悪い冗談?
音声は続いた。おれは何も言えずに受話器を耳に当てていた。
『……「ミネルバ、走るわよ。きゃあ!」』馬のいななき。もみあう音。続いて重いものが滑り落ちるような音。
おれはこぶしを握りしめた。その後、受話器には雑音のみが続いた。
『……ガー』無線機の音。
その次の会話でおれはひっくり返りそうになるくらい驚いた。
『現在地! 予定通りサブジェクトを確保。これから撤退します。肯定。目撃者はいません……』
静寂。後は雑音のみが続いた。
おれは呆然として黙ったままだった。頭の中が混乱していた。
鬼門がなぞの集団に誘拐されたらしいということ。
それは鬼門家自慢の黒服部隊を打ち倒すくらい強力だということ。
そしてリアルタイムでその事件を聞いてしまったのがおれだということ。
それに増しておれを驚愕させたことがあった。
『現在地』
この言葉を一般人の誰が使うだろうか。
これは呼びかけに対して「はい!」と言う代わりの自衛隊用語だ。
じゃあ、静の誘拐犯は……自衛隊員!?
なぜ? なにが起きてる?
なんで自衛隊員が鬼門を襲う? 誘拐? これって誘拐だよね。
自衛隊員まで加わった巨大な陰謀か?
おれはとりあえず鬼門家へ電話して見た。何回か鳴らすと島田さんが出た。
「はい。鬼門でございます」
島田さんの声は隠そうとしていたが緊迫していた。背後で叫ぶ声が交錯する。なにかが起きたのは間違いないようだ。
『辰巳さんですか。すみません、今取り込み中でございます。後から折り返します』がちゃっ。
電話を切られた。
あの島田さんがそっけなく電話を切った。
これはなにかある。
ならばとりあえず現場に行ってみよう。
おれは自分のママチャリにまたがると、まっすぐ鬼門家を目指して走り出したが途中で気が変わった。
鬼門家でなにかあったのなら、今そこに行っても鬼門はいないだろう。鬼門は確か「今外にいる」と言ったのだし。
それよりもし誘拐犯が本当に自衛隊と関わりがあるのなら、まず最寄の駐屯地へ行ってみてはどうだ。
おれは朝霞の駐屯地へと行き先を変えた。
もうすぐ目的地へ着く、というとき、また例によって後ろ髪のちくちくが始まった。どこだ?
あっと気づいたら正面にトラックが現れた。
おれは間一髪自転車の上で飛び上がり、横転して地面に転がった。
自転車はそのままトラックの後輪に巻き込まれてひしゃげた。
立ち上がったおれがトラックをにらむと、急停止したトラックの運転席から顔に迷彩塗装をほどこした男が窓から頭だけ出し、おれが無事に立ち上がったのを確認するとそのまま走り出した。
ちょっ、ひでえ。ひき逃げかよ。
おれが舌打ちしてトラックを見送ったとき、後ろで鼻を鳴らす音が聞こえた。
ブルルル。
振り返るとミネルバが額の金色の毛を立たせ、おれを見ていた。
「ミネルバ! お前」
ミネルバを見た瞬間、おれは悟った。
あのトラックだ! あいつらが、そしておそらくあの中に鬼門が。だから交通事故を起こしてもそのまま無視して走りさったんだ。
「ミネルバ。ちょっと頼むぜ。お前のご主人様が危機だ」
おれがそう声をかけるとミネルバは素直に待機した。おれは鞍のついたままのミネルバにまたがって走り出した。
おれはミネルバにまたがってトラックを追った。
馬でトラックを追跡。
誰かが聞いたら笑うかもしれない。
自転車で追跡よりはましかもしれないが、高校生にはせいぜいこれが精一杯だろう。
渋滞はないが信号待ちがありトラックは幾度となく止まった。
おれはミネルバであるときは歩道をあるときは車道を縫うようにして走った。
人馬一体となってガードレールを飛び越えた。
通行人がみな振り返った。
トラックはおれに追跡されてもあわてることなく走りつづけた。さすがに馬でトラックを追っても引き離される。
ちょっと待てよ? この先は荒川。しかも橋は上流下流とも三キロは行かないとないぞ。どうするつもりだ。水陸両用車じゃあるまいし。
ところが川が近づいたときにようやくトラックの行き先が分かった。
船着き場だ!
荒川にはごくわずか渡し船や浚渫船用の船着き場があった。知識としては持っていたが、全く縁がなかったので意識から漏れていた。
おれたちが船着場へつくとトラックはすでに積荷を載せ替え、船がちょうど離れたところだった。
鬼門!
叫びたいが、そういうわけには行かない。おれは歯を食いしばって川の土手を走り出した。
あれは本当に静かどうか、もしかしたら追跡をまくための偽装かもしれない。それを確認するまでは戻れない。
船は上流に向かってゆっくりと進む。馬でも十分追いかけられる速さだった。しかしおれは自分の不運度を甘く見ていた。
ついに馬では越えられないようなフェンスにぶち当たった。
おれはミネルバから降りてフェンスをよじ登り、向こう側へ飛び降りると再び走り出した。夜露で濡れ始めた草にジョッシュが滑る。走ることで船との距離は縮まった。だが船の目的地がどこか、どこまで走り続ければいいのか全く予想がつかない。
じきに橋が前に迫り、自転車道路も終わった。おれは未舗装の土手を無理やり走ったが、船との距離はどんどん開くばかりだった。
そしてついにおれの運が尽きた。
川は上流方向で二股に別れ、船は右側の支流の方へ入って行く。おれは左側の土手を走っている。
おれの走っている側から対岸へ渡る橋はない。
バッシャーン!
おれは靴を脱いで川に飛びこんだ。
おれはクロールで泳いだ。いくら鍛えているとはいっても泳ぐ速さが船にかなうはずがない。でもおれはまだあきらめなかった。
遠くに船が水面をけたてる音、にぶく響くエンジンの音を聞き、小さく船尾に灯るあかりを確認しながら、おれは引き離されまいと必死に泳いだ。
船が段々遠ざかって豆粒ほどの大きさになり、おれの体力も限界に近づいたころ、ようやく船が対岸の船着き場で停まるのが見えた。
おれは見つからないよう、ずっと手前の土手へ這い上がった。
そのままこっそりと土手を伝って船に近づく。はだしの足裏に小石が食い込むが今は気にしている暇はなかった。
おれの目の前には上に鉄条網を張り巡らせたフェンスがずっと延びている。土手を上りきってフェンスの正面にたどり着くまでそこがどこなのか思い至らなかった。おれの濡れた全身に滑走路をはいた風が冷気を浴びせた。
飛行場だ。
朝霞飛行場。
おれは身を隠したまま近づいた。滑走路はライトアップされ、おれのいる場所は陰になって見えない。
おれはもっと入り口に近づいた。パイロンの前に小型の民間機が止まっている。エンジンをふかして暖機運転している。
突然待合室の建物から複数の人間が出てきた。左右を大柄な男たちに挟まれた細い姿。頭に袋のようなものをかぶせられている。
その集団はタラップを上り始めた。左右を挟んでいた男たちは狭いタラップを上るために前後に位置を変えた。
その隙をついて細い人影は身をよじった。
タラップのてすりから身を乗り出して逆さ向きになる。
ただちに男たちの手が細い体を捕まえた。
タラップから落ちようとする細い体のもくろみは潰えた。しかしもがくはずみに頭にかぶせてあった袋が落ちた。
恐怖にひきつった顔。栗色のショートヘア。涙の跡が残る白いほお。
鬼門静だった。
「助けて!」
静は叫んだ。
「助けて! 誰か!」
しかしその声に答えるのは飛行機のエンジン音と、滑走路をなぶる風のみだった。男たちは無言で静を引きずりあげ、そのまま飛行機の中に連れ込んだ。ハッチが閉まり、タラップがはずされると、直ちに飛行機は離陸体制に入った。滑走路の端まで行き、エンジン音を響かせて滑るように白線をなぞると、そのまま空中に飛び上がり、あっと言う間に闇の中を消え去っていった。
おれは蒼白な顔をしていただろう。
誘拐されたのが確かに静であることは確かめた。で、後はどうすればいい?
おれは濡れた服を絞るとアスファルトの上を歩き始めた。
小石が足の裏に刺さったが、頭は別のことを考えていた。
*
鬼門邸に着いて正門の呼び鈴を押すと、すぐに中へ招き入れられた。
ドアボーイはおれをまっすぐに玄関へ案内し、玄関扉に出た島田さんは「ようこそいらっしゃいました」と言うなりおれを奥へ案内した。
途中、応接間の前を通りかかると開け放しのドアから中に大勢の制服・私服警官がうろうろと歩き回り、電話機を取り巻いているのが見えた。
一人暇そうな警官がやってきて、応接間の扉の横に『鬼門家誘拐事件特別対策本部』と書かれた半紙を貼り付けた。
島田さんはおれを執事室というのだろうか、自分の部屋に案内すると扉を閉めた。
少し見ないうちにずいぶんしわが増えたように見える。
「さて、どこから話しますか」
島田さんはため息を一つつくとおれに椅子を勧めた。おれは手を振ってたずねた。
「警察が来てるんなら、ぼくの見たことを話すのが先だと思うんですけど」
「少しお待ちください。事情がありましてな」
島田さんは力なく微笑んだ。
「静お嬢様は今日、数馬さんに会いに行こうとされたのです」
「なんのために」
「金メダルの袋を握って「返してくる」とおっしゃいました」
それって完全なお別れってことかな。最後まで律義な女だ。
「しかし時間が遅いということでだんな様に止められ、そのまま飛び出していかれました」
「え、じゃあ一人で出ていったんですか」
「いいえ。仕方なく乗馬をされようとしたのです。静お嬢様の話し相手は愛馬のミネルバであることが多かったですから」
そうなんだ。家の中でも相談相手とかいなかったのかな。
「しかしどのようにか裏門の警備を言いくるめ、ごく少数の護衛たちのみを引き連れて外出されたのです」
あの黒服たちね。
「ところが護衛から緊急信号が来て、全員と連絡がとれなくなりました。探し回った後、一時間ほどして護衛たちが全員気を失って倒れているのが見つかったのです。お嬢様の姿はどこにもありませんでした。仮にも鬼門家の誇る護衛部隊。そこらのチンピラやくざ程度を相手にやられるはずがありません。よほどの戦闘集団であることと……
お嬢様が出かけることはまったく予定外のことでした。通常の行動スケジュールにはありません。また今回のような事情でなければ、あれほど少数の護衛で外出したはずはありません。ですから……
……この屋敷の内部に通じ、手引きした者がいるにちがいありません」
これくらいの金持ちなら、あるいは大きな陰謀の対象になるかもしれない。おれみたいな庶民には想像もつかないが。
「私たちはこれが営利誘拐であれば、静お嬢様を取り返すため、犯人側のどんな条件でも呑むつもりです。しかしだんな様もわたくしもほかの理由を疑っています」
「それは?」
ノックの音がした。
入って来たのはまずメイドの安達うさぎ。安達はおれを見るといつもどおりの無表情で言った。
「あら、庶民の彼氏。どうしてここにいらっしゃるの?」
「こんな大変なときだってのに、あんたは相変わらずだな」
それには構わず安達は伴って来た人物を招き入れると出て行った。
グレーの背広を着た初老の男性だった。ポケットから警察バッジを取り出して見せた。
「葉磯署の雨海です。大門氏は取り乱されているとのことなので……」
島田さんが重々しくうなずいた。
「はい。ご主人様はご気分がすぐれませんので、わたくしが対応いたします」
「では、これまでの経過を説明いたします」初老の警察官は話し始めた。
「ガードマン三人は全員意識を取り戻しました。命に別状はありませんが、誘拐犯の姿を記憶しているのは一人もいません。強力なボールのようなもので胸を打たれて意識を失ったそうです。現場に証拠が残されているか現在調査中です」
自衛隊だから銃を持っている。おそらくゴム弾を打ち出すショットガンだ。
「われわれは営利誘拐の線を疑っております。先ほど、邸内の電話回線に逆探知装置を取り付けました。後は二十四時間体制で犯人からの連絡を待ちます。残念ながら現在まで目撃者はいません」
「あの」おれは言った。
「ぼくは目撃者です。被害者の静さんが誘拐される直前まで電話で話していました」
「ほう」
「誘拐犯は自衛隊員である可能性が高いです」
おれが電話口の声が『現在地』と言った話をすると、その刑事はおれの言うことを真剣な表情で聞いてくれた。
「そうか。その犯人の声が自衛隊員しか使わない言葉を使ったんだね」
「そうなんです。なら静さんが連れて行かれたのは、あるいは自衛隊基地かも」
「分かった。すぐに捜査を手配しよう。よくやってくれた。感謝する」
感謝かぁ。やっぱり、おれにできることってこの程度かもしれないな。
おれは続けて、トラックを追ってついには飛行場まで行った話をした。その警官は「ん」という表情をしたが、おれは熱をこめて話した。
「だから、その飛行機が飛んで行った先がどこなのかは分かりませんが、自衛隊と関係あるのはまちがいありません」
初老警官が出て行くと島田さんはお茶をいれてくれた。いい香りだ。
「ダージリンですか」
おれの知っている紅茶のブランドはそれくらいだ。
「いえ、産地限定クイーンメリーSHIZUKAブレンドでございます。静お嬢様がお好きでした」
「そうですか」
飲む紅茶まで特注品か。ことごとくおれとは住む世界が違う鬼門静。紅茶の香りが部屋に満ちる中、おれと島田さんは遠い目をしてカップから立ち上る湯気を見ていた。
島田さんが口を切った。
「この家に来てからかれこれ十年にもなりますが、ごらんの通り、最近では鬼門家に怪しげな連中が出入りしておりましてな、信頼のおける人間がほとんどおらんのです。だから信用のおける人間というのは貴重でございます」
もしかして『信用のおける人間』っておれのこと? おれが自分の人差し指を自分の顔に向けて表情で問うと島田さんはかすかに笑ってうなづいた。
「信用していただけるのはうれしいですが、だからと言ってなぜぼくなんかを。ぼくはその……ただの高校生ですが」
島田さんはにっこりした。
「数馬さん。あなたは高校生だが『ただの』ではありませんよ。わたくしも長く生きてきて、誰が信頼できる人物かそうでないか、見る目は持っているつもりです」
ずいぶん買われたもんだが、父の周りの人間がお世辞を言うのとは違って島田さんの言い方には好感が持てた。
「お嬢様もあなたのことを心から信頼していらっしゃいました。ですからきっと助けになっていただけると思うのです」
島田さんの言葉はおれの胸を刺した。
「お言葉ですが、ぼくと静さんはある種の……その、行き違いでこのごろは話をしていないのですけど」
島田さんは表情を変えずに言った。
「存じております。それでもあなたは静お嬢様のために誘拐犯を追いかけてくださったのですよね」
「はあ」
「敵は巨大です。普通のやり方では勝てません」
なんの話だろう。
「鬼門家と静お嬢様を巡って陰の勢力争いがございましてな。敵方は以前から鬼門家の力の源泉たる静お嬢様を略取しようとしておりました」
「敵方って?」
おれはたぶんすごく間抜けな顔をしてたずねた。
「このような話はにわかには信じがたいかもしれませんが、日本には昔からやみの勢力がございましてな。政界、財界、旧家など昔からの利権で結束した集団でございます。名前はありませんが、古来から日本を陰で牛耳っているのはこの者たちでございます」
ええっと。この場合おれはどんな反応を期待されてるのかな。
「それに引き換え、私ども鬼門ファミリーはいわば成り上がり。成り上がりとて彼らに加わりおとなしくしていればよかったのでしょうが、いかんせん静お嬢様の影響力は大きすぎました。既存の力関係のバランスを崩す恐れがあったのです。それが彼らの逆鱗に触れました」
島田さんってこんなキャラだったっけ? 何を言ってるんだろう。静お嬢様が誘拐されてちょっと動転しちゃったんだろうか。
島田さんは構わず続けた。
「鬼門家の力の源泉。それが静お嬢様でした。やつらも最近そこに気づいたようです。そこで私どもは全力でお嬢様をお守りするために監視体制の人員を増やしたのですが……それが裏目に出たようです」
「裏目に」
「そうです。屋敷の中に敵方のスパイがおるようです」
おれはそっと自分と扉までの距離を測った。あっちの世界へイッちゃった人って突然紙ナイフとか握りしめて襲って来たりするかもしれないよね。
おれの心配をよそに島田さんは微笑を浮かべて言った。
「ご安心ください。この部屋の盗聴器はすべて調査済みでございます」
いやその発言がもうまったく全然安心できないんですけど。
「ですからいまのところ本音を打ち明けられるのは数馬さんだけなのでございます」
なにこの期待。おれのことをどんだけ買いかぶってくれてんだよ。
「静お嬢様をお助けください。この通りです。お願いいたします」
島田さんはおれに深く頭を下げた。
「ちょっちょっちょっ、静さんのために何かしたい気持ちはぼくも同じですが、ぼくになにができるかと言うと……」
「おお!」島田さんは顔を輝かせておれの手を取った。「助けてくださるのですね! ありがとうございます」
「いやその」
「では、こちらへいらしてください」
島田さんはおれの気持ちには構わず部屋を出てずんずんと先へすすむ。おれも生来の相手の期待を断れない性質と、相手が島田さんだとなんとなく断れず、そのまま付いていった。
*
島田さんはそのままおれを鬼門氏の書斎に連れて行った。
中に入るとガウンを来た鬼門氏がデスクの前に座っていた。丁度起きたばかりの様子で髪が乱れている。
おれはあいさつしてから中に入り、ソファーに腰掛けた。
鬼門氏はわずかな間にげっそりとやつれて見えた。
おれは声をかけづらく、黙って座っていた。
いきなり扉が開き、さっきの警察官が入ってきた。
「逆探知の準備はできました。犯人からの電話連絡がある場合を考え、準備をお願いします」
「わかった」鬼門氏は重々しくうなずいた。
「あの」おれは聞いた。「さっきの件はどうなりましたか」
「なんの件だって?」
その刑事はうるさそうに聞いた。
「自衛隊の調査は?」
「自衛隊が犯人だという証拠は?」
「え?」
「きみの話が本当だという証拠はあるのかね?」
その言葉でようやく分かった。おれの話は信用されていない。顔がかっと熱くなる。
「ぼくの……ぼくの言葉が証言ですが」
「証言ねえ。誘拐される直前の彼女から電話があったのはいいとしよう。その後トラックにはねられそうになって自転車から飛び降りたとか、馬で追いかけて河を泳いだとか、いやそういえばそんな映画があったな」
警官ははは、と笑った。
「ともかく、確実な証拠もないのにわれわれ警察が自衛隊基地を捜査するのは無理ですね」
「本当に聞いたんです。『現在地』と言っていました」
「今の時点での唯一の手がかりなんです! しかもまだ新しい。今追いかければ見つかるかもしれない!」
初老警官はつまらなそうに手にした書類を机の上でたんたんとそろえると立ち上がった。
「ま、また何かあったら教えてくれ」
無意識に体が前に出た。島田さんがおれの体を後ろから引っ張ってとめた。
ただの中二病の高校生のたわごとと思われた。
現実に大きな問題が起きれば、プラチナキッズとかメダリストの息子とか、なんの意味も力もない
おれは唇を噛み締めた。悔しさで怒鳴りだしたくて身体がうずうずする。
「もういい。わたしは君を信じる」
鬼門氏の静かな声でおれたちは沈黙した。
鬼門氏は警察官に部屋を出てもらった。
おれと島田さんと三人だけになると鬼門氏は静かに言った。
「静は確かに陰謀に巻き込まれたのかもしれない。あの子にはそれだけの価値がある。そしてそれが誘拐の目的なら……」
鬼門氏がデスクの上で組んだ手が震えた。「誘拐犯は連絡をしてこないだろう。身代金が目的ではないのだから」
鬼門氏はちら、と目を上げた。厳しい目元はそのままだが、視線は優しい。ビジネスマンらしくてきぱきとした様子でおれに話し出した。
「単刀直入に言おう。辰巳くん。以前はすまなかった。色々な意味で失礼なことをした」
やっぱり前のことはわざとだったんだ。
「言いわけさせてもらえば、一人娘を持つ父親というものはみな、娘のボーイフレンドにある種のライバル意識を燃やすものなのだ」
鬼門氏はおれに椅子をすすめた。
おれが鬼門氏の前にすわると煙草に火をつけて胸いっぱいに吸ってから吐き出した。
なんともやるせない表情だった。
「あれが……静が三歳のときだった」
問わず語りに語りだした鬼門氏がおれにむかって話しているのだと気づいたのは少し経ってからだった。
「わたしはしがないサラリーマンだったが、若いときから投機が好きで、勝ったり負けたりをくりかえし、それでいくらか借金も作っていた。
あるとき妻が買い物に出かけていて、わたしは幼い静をひざの上であやしながらパソコンでネットを使った投機をしていた。スピードが物を言う投機で、ワンクリックで買ったり売ったりできるやつだ。
ちょうど非常に重要な場面で、わたしは一瞬モニターの画面に気を取られた。
わたしはマウスを握ったままだったが、静がノートパソコンのタッチパッドをいじっているのに気づかなかった。わたしが丁度クリックしようとした銘柄のボタンのすぐとなりにある別の銘柄へカーソルが動いて、それでわたしは全く予定していなかった銘柄を買ってしまった」
「わたしはしまったと思った。また損をしてしまう。しかし娘の無邪気な笑顔を見ていると怒ることもできずにその日は投機をやめ、娘と一緒に遊んだ。しかしその翌日……」
鬼門氏は息と一緒に煙を吐いた。
「大変なことが起きた。静のせいで選んでしまった銘柄が暴騰したのだ。政治的な事件が原因だった。だれも、どんな投機家もアナリストも予想できなかった。賭け事で言えば大穴だ。わたしはその一度の投機で大もうけをした」
「わたしはこれで縁起をかつぐことにして、自宅でノートパソコンを開くときにはいつも静を膝の上に乗せることにした。かたことで話し始めた静に「どれがいい」とか、聞いて、ほんの冗談のつもりだった」
「……しかし冗談ではなかった!」
鬼門氏は大きく目を見開いた。
「いたずらな子供なのに静は普通はじっと画面を見ており、わたしが「どれがいい」とたずねると幼い指で画面を触ったり、マウスを動かしてボタンを選んだ。そして静の選んだ銘柄がことごとく儲かった。その確率はほぼ百パーセント」
「ありえない」思わずおれは言った。
「ありうるのだ。静の場合」
鬼門氏は続けた。
「わたしはサラリーマンをやめ、その金で事業を始めた。わたしは事業家に向いていたようだ。努力は惜しまなかった。昼夜働いたし、よく勉強もした。
しかし事業家には、どちらへ進めばよいか迷う場面が必ずある。努力や頭のよさだけでは不十分だ。第六感というべきか、勘を使ってでもそれぞれの局面で的確な判断を下さなければならない。情報収集など誰でもやっている。情報力や分析力以上のものが必要になるときがあるのだ」
「そうして事業家として、難しい判断を必要としたとき、わたしはいつも静に聞いた。静はビジネスに関しては普通の子供だ。投機や事業についてなんの知識も経験もない。だが静が適当に選んだ結果は常にいい方向へ転んだ。わたしの事業がが驚くべき速さで成功したのは全て大事なことは静に選択をゆだねたからなのだ。その結果が今日、君が見ているこの屋敷だ。わたしは今、大小取り混ぜて三百の会社を経営している。全てここ十数年で得たものばかりだ」
鬼門氏が「静はわしの宝だ」と言ったのは親心だけじゃなかったんだ。鬼門氏の言葉を信じるならば文字通り、鬼門静は鬼門財閥の宝だったんだ。
「だが」にがいものをかんだように鬼門氏は言った。
「静はそれが気に入らなかったようだ」
「……物心ついたころから静はわたしに協力するのをやめた。失敗しても自分の力でやって欲しいという気持ちだろう。それも分かる。しかしわたしは判断を依存する習慣をつけてしまった。ここ一番、というときに自分で判断するのが怖くなってしまったのだ」
「それでわたしは静以外のものに頼ろうとした。アナリストや経済学者に聞いているうちはまだ良かった。事業もこれだけ大きくなると同じことを繰り返すだけでもそんな簡単にはつぶれないものだ。しかしそのうち事業のいくつかが立て続けに失敗するとわたしは様々なものを頼るようになり、ついには霊能者や占い師のような怪しげな連中を使うようになった。きみが見たとおりだ」
「静はそれを極度に嫌い、家ではわたしの仕事場には足を踏み入れなくなった。わたしの決めた進路に逆らい、自分の意思で転校した。長い黒髪も切った。ことごとくわたしの意見に反することをやった」
「はた目から見たらわたしたち親子の中はぎくしゃくしているように見えたかもしれない。だが、子を慈しまない親がいるものか。どんなに気持ちがすれ違ってもわたしは静を愛している。あの子を救うためなら、全財産を投げ出しても良い」
鬼門氏はおれの手を握った。
「頼む。辰巳くん。なんとか静を助けてくれ。警察はあてにならん。
「鬼門さん」おれは言った。「高く買ってくださるのは恐縮ですが、おれはただの高校生です。なぜおれなんかを警察よりも信頼してくれるのですか」
「一つには、警察にはわたしの敵の息がかかっている可能性が高いこと」
鬼門氏は一度瞑目してからかっと目を見開いた。
「そしてもう一つの理由は、静がきみを選んだからだ。誘拐されると察したとき静は私設警備員のいる自宅でも、警察でもなく、絶交していたきみに電話した。きみに電話するのが最も正しいと判断したからだ。非常時に静はきみを選んだのだ。静が選んだ者ならきっと正しい選択に間違いない!」
やれやれ、この家では静お嬢様の影響力は下手な巫女さんや霊能者や、いや王様よりも強いんだな。
そんな風に頼られても、おれはどうしたらいいか分からなかった。どこに向かって行けばいいのか、それすら教えてくれる者はいなかった。
*
仕方ないのでおれは黙って礼をすると鬼門氏の書斎を出るためにドアを開けて外に出た。
ぼよん!
なんか柔らかいものにぶつかり、おれはよろめいた。いきなり目の前が暗くなり、鼻を布切れでなでられおれは一つ大きなくしゃみをした。
なんだこりゃ。
おれは自分の鼻をなでたものをつかんだ。毛皮のコートのえりだった。そこでようやくおれは書斎の出口と思って出た扉がウォークイン・クローゼットの入り口だと分かった。そしておれがぶつかった柔らかいもの。
その柔らかいものは床に転んで沈黙したまま身体をこわばらせ、おれの方を恐怖に満ちた目で見ていた。
安達うさぎ!
「お、おい。お前。こんなとこで何して……」と言いかけたおれの脳裏に電光のようにひらめいた。
家の中に手引きしたものがいる……
どうも怪しいともっと早く気づくべきだった。おれって相当間抜けだ。探偵にはなれない。
と言うか、この安達のキャラでスパイとか、全然考えられなかったんだよな。こいつ意地悪だし、目立つし、普通スパイならもっとその家に溶け込んでごく普通の優しい人の振りをするんだろうけど。いや、むしろそのイメージを逆手にとったキャラ作りなのかもしれない。
おれが安達の腕をつかんでクローゼットから出てくると鬼門氏と島田さんは目を丸くした。
「あ、安達さん!」
「お、お前! なぜ!?」
「どうやらこの子に色々と聞く必要があるみたいですよ」
おれはやるせない気持ちで言った。スパイってのは、機密を盗まれるとか、襲撃の手引きをされるとかいった実害もさりながら、心理的なショックが大きいよな。嫌いなやつでも昨日まで一緒に住んでたり付き合ってた人間が実は裏切り者だったとわかる衝撃は、こんなにも胸が悪くなる嫌なものだったとは。
おれたち三人に見つめられてこわばった顔をしていた安達はふっ、と観念したような表情をした。
「あら、皆様そんなに見つめてわたくしの顔になにかついていますの?」
メイド服を着て、おれたち三人に囲まれているから臆すると思ったが、どうしてどうして。安達は背筋をしゃん、と伸ばし、あごを少し傾けるとおれたちをものすごい目つきでにらみつけた。
「ふん。どうせ後で分かることですから言って差し上げるけれど、わたくしの本名は『九条院かきつばた』ですわ。九条院家の次女です」
「九条院家!?」
おれは安達改め九条院かきつばたの顔をまじまじと見た。そう言われないと分からないほどだが、九条院あやめと顔に似たところがある。今まで気づかなかったのは、メイドという全然違うキャラだったからだ。
「九条院家は『あちら側』、つまりわしの敵側の家系だ」
鬼門氏が重々しく言った。
敵側の家系!? 現代にまだそんなことがあるの? でもあのアンドレみたいに時代錯誤かと思っていた名家なんてものが現代日本でもまだあるし、それを価値にしてプライドを持っている人間がいることは知っていた。そう考えれば九条院あやめの鬼門静に対する異常な競争心も説明がつく。最初はおれが気に入られているのかと思ってたけど、九条院家のお嬢様がおれみたいな庶民を相手にするわけがないしな。
「娘。わしの書斎でこそこそとなにをしていた」
鬼門氏のその台詞がほとんど時代劇みたいだけど、今の状況じゃ全然違和感なかった。
「答えなさい」
鬼門氏が腕をつかむと、九条院かきつばたはばしっ、とそれを払いのけてごう然とあごを上げた。
「無礼者! わたくしの身体に触れるな!」
思わず鬼門氏は手を引っ込める。
「鬼門家のような成り上がりの家は本来ならわたくしと対等に口を利けるはずはないのよ。分かってしまったことは仕方がありませんわ。聞きたいことがあるのならお聞きなさい。答えて差し上げましょう」
捕まっているのにあくまでも高慢。
「静は……どこにいる」
鬼門氏が声を絞り出すように言った。答えなければただでは済まさない迫力があった。
「知りませんわ」
九条院はつん、とすましたまま答える。おれたちがさすがにかっとなりそうな態度だ。
「本当ですわ。わたくしの役目は鬼門家の中を探ることとあの娘を誘拐するための手引き。その後はどうなろうと知ったことではございませんわ」
「部下に引き渡して責めてもいいのだぞ」
ありゃ。鬼門氏。娘の無事が心配でどんどん危ないほうへエスカレートしているよ。
「それは! 旦那様!」
「ちょっと! それをやったらぼくたちもやつらと同じになってしまいます」
九条院はちょっと恐れた表情をしたが、頬をふくらませ、あくまでも『教えてやってる』という態度を崩さない。目を伏せて言った。
「知ったところで無理ですわ。わたくしたちの背後には巨大な政・財界の複合体がございます。警察にも官公庁にもわたくしたちの仲間がいますし、今回の実行部隊は自衛隊員とのこと。お宅のところの黒服たちごときがかなう相手ではございませんわ」
自衛隊員。
戦闘のプロフェッショナル。
鬼門氏のかき集めた黒服軍団がどれほど優れていようと、相手はそこらのやくざなんかと違う。戦争の訓練を受けた相手に勝ち目がないのは分かりきっていた。
特にいつも自衛隊を間近で見ているおれだからわかる。
いくら平和ニッポンで実践経験がなくても、撃って当たれば人を殺せる武器を持っている。
それを撃つ訓練を毎日のようにやっている。
おれが毎日近代五種の訓練をやっているように。
いくら実戦経験がなくても『その場』になったら、その技が武器が訓練で叩き込まれたとおりに無意識に動く。
状況は全く絶望的だ。
おれは歯をかみ締めて外へ出た。
鬼門氏は安達改め九条院を警察へ突き出すだろうが、それで警察が動いたり、静が救出されたりするとは思えない。
日本を支配する闇の勢力。
そんなものがあるのなら、警察も、財力を誇る鬼門家もどうしようもないだろう。
おれは考え事をしながら、再び馬場へ行った。
もう手がかりが残っているとか、そういう段階ではなかったが、鬼門氏の書斎にはいたたまれなかったし、家に帰るのは嫌だった。状況は絶望的でも、絶望するつもりはなかった。
おれは厩舎に入った。暗い部屋の中にまぐさと動物の臭い。ミネルバは鼻を鳴らしておれを歓迎してくれた。
「ミネルバ。お前のご主人様はどこへ連れて行かれちゃったんだろうな」
おれはミネルバのたてがみをなでながら考えた。頭の中で何かが引っかかってい
静お嬢様はなにをしてたんだっけ?
そうだ。おそらくおれとの関係を清算するために、金メダルを持って出たが、父親に外出を禁じられてそのまま庭の中で乗馬をしていた。
警備員をいいくるめるとおれの家を訪問する準備をして、そのまま裏から出た。
じゃあ金メダルを持ったままだ。金メダルを持ったまま誘拐された。誘拐犯人たちの目的が金銭でなければ、まだそのまま静が持っていることだろう。
金メダル。なんでこんなに引っかかるんだろう。
そうだ。あの青木が原樹海に行ったとき、森をさまよって三日後に道路へ出たおれを親父は正確に迎えに来た。
どうしてそんなことができたんだろう。
親父はあの金メダルを『お守り』だと言っていた。あの迷信とは真逆の親父が。努力にしか信頼を置かない親父がお守り?
へんだよな。あの金メダルって、それ以上のものだったのかな。
ええと、もしかして……。
いやまさか……そんなことが。あるか?
余りにも変な空想をして、おれは落ち着かなくなった。
確かめなくちゃ。
おれは立ち上がると鬼門家を辞し、自宅へ向かって走り出した。
*
考え込みながら体は自然に走り続けた。いくつもの交差点を通過し、大通りを走ってわたろうとしたとたん……。
キー!
急ブレーキをかけて巨大な車体が止まった。おれの全身をヘッドライトが光で染めた。
「危ないなあ。大丈夫かい?」
まぶしさに慣れてよく見ると、それは真っ白なオープンカーのキャデラックに乗ったサイードだった。
「あれ? 先生」
おれはキャデラックの横にまわった。よく見るとサイードはレンジャー部隊員みたいな迷彩服を着ている。
「やあ、辰巳くん」
「どうしたんです。そんなカッコで。どこへ?」
「いや、ここで会えてよかったよ。クラスの誰にも会えずに去るかと思っていたよ」
「さる?」
「今、学校に休職届けを出してきた」
「えっ!? 先生やめちゃうんですか?」
おれは大声を出した。まさに寝耳に水だ。
「いや、実は君たちには言ってなかったが、ぼくの父はサラーム王国の文部大臣だったんだ。さっき家から電話がかかってきて、祖国で革命騒ぎが起きてるからすぐ戻れって」
「戻れって……戻ってどうするんですか」
「愚問だね。家族が殺されるかもしれないんだよ。家族を守るために必要なら戦うさ。マーフィー・ムシキラ」
戦うって……
おれの頭の中はこの平和ニッポンで現実感のない言葉に思考を停止した。
サイードは後部座席からライフルのようなものを取り上げて構えた。
「うわっ。そんなもの、どこで手に入れたんですか!?」
「モデルガンだよ、これは」
サイードはライフルを構え、ねらってみせた。
「日本で本物の銃を持ち歩いてたら捕まる」
に、しても……。
「あとこちらは」そう言いながらサイードは肩に着けたコンバットナイフを抜いて見せた。
「なんだか小さいですね」
「そりゃ、銃刀法で刃渡り五センチ以上のナイフは違反だからね。これは四センチ半ある」
なんか冗談みたいだ。
「先生。国に革命が起きたって本当ですか?」
「冗談に聞こえるかい?」
「だっておもちゃで戦えるわけないじゃないですか。これからサバゲー行くって言われた方がまだ信じられますよ」
「まあそうだが、これは気合を入れるためさ。ぼくはずっと勉強ばかりしてきて、戦いはおろかケンカすらしたことがないからね」
「そんなんで本気で戦場へ行くつもりですか。殺されちゃいますよ」
サイードは急に厳しい目でおれを見た。
「自分の家族の命が危ないってときに、君は勝ち目があるかないかで行くかどうかを決めるのか。それは打算だ」
おれは胃をぎゅっとつかまれたような気がした。アラブ人の肉親に対する情の深さを思い知らされた気がした。
「人間には命をかけても自分の誇りを守らなければいけないときがある。自分の愛する人が危険に遭っているときがその一つだ。敵が勝てる相手かどうかなんてどうでもいい。大事なのは自分が逃げ出してはいけないときに踏みとどまる勇気があるかどうかだ」
サイードは大きな目をすがめておれを見たまま低い声で言った。
「好きな女の子一人助けるために死に物狂いになれないのなら、家で二次元相手にしてりゃいい。失敗したらカッコ悪い? ハッ! 告白だってカッコ悪いことさ」
なんで!? おれはなにも言っていないのに、なんでサイードはそんなことを言うんだ!?
サイードは軽い調子で言ったが、その言葉はおれの全身を硬直させた。
静。
おれは本当に彼女のために全力で努力したか。
戦う前に逃げ出そうとしたんじゃないか。
今ならおれが彼女に軽蔑されたことが納得できる。
努力する前に戦いを放棄したから。
勝つ見込みのある戦いにのみ立ち上がったから。
自分の運の悪さを言いわけにして、自分が本当に欲しいもののために戦おうという気すらおこさなかったから。
そして自分の運の悪さを自分をあきらめさせるため、なぐさめとして使ったから。
サイードはにやっと笑った。
「どうせ人間、どのみちいつかは死ぬんだからな。あ、そうだ。ぼくがこんなこと言ったって内緒だぜ。教師が生徒に死地に向かえと教えたなんてばれると解雇されちまうから。日本は民主主義の国だからなー」
おれは言った。
「サイード先生。一つだけ聞いてもいいですか」
「なんだい」
「おれってものすごく運が悪いんです。どんなことをやっても裏目裏目に出てしまう。今すごく大事なことで助けを求められてるんですが、おれがでしゃばると事態をより悪くさせるかもしれない。そんなおれはどうしたらいいですか」
「よくわからないな。どういうこと?」
「つまり……『マーフィーの法則』ってご存知かと思うんですけど……。おれ、やることなすこと必ず『マーフィーの法則』みたいになっちゃうんです。必ずうまくいかないんです。こんなおれが何かをしたい場合はどうしたらいいですか。すみません。すごくあいまいな言い方で。でも大事なんです。もしかしたら人の命がかかっているかもしれないんです」
「ふーむ」サイードは考え深げにうなった。「必ず裏目ね。それは数馬くん。逆に考えれば運命を操作できると同じことだよ」
「運命を?」
「そう。必ず裏目に出る、ということは必ず意図した方向に結果を向けることができる、というのと同じ意味だ」
「それってどういう……」
「ま、あとは自分で考えるんだね。大事なのは自分の意志さ。ああっ!」
サイードは突然腕時計を見ると飛び上がった。
「まずいっ! 飛行機の時間に遅れちゃう! じゃあね数馬君。命があったらまた会おう」
そう言うとサイードはただちにキャデラックのエンジンをかけ、おれにウインクすると車を出した。
マーフィー・ムシキラ。
おれは白い車の後姿を見送って棒のように立ち尽くしていた。
あんな軽そうなサイードにも、命をかける誇りがあったんだ。
このままあきらめたら、おれは負け犬になる。
おれはジョギングシューズのひもを締めなおしてから走り出した。
最初は敗者のようにとぼとぼと走った。
徐々に走るペースが早くなった。
全身が内側から沸騰してゆくような気がする。
このままでは済まさないぞ!
頭の中に静の最後の言葉が反響した。
『助けて!』
救いを求め、切迫した声。おれは自分の身体が震え、視界が白くなったのを感じた。
『助けて!』
『助けて!』
『助けて!』
おれは大きく息を吸って顔を上げた。怒りは収まり、身体の奥底から今まで感じたことのない勇気が湧いてくる。
「うおおおお!」
おれはこぶしを天にむかって突き上げた。
待ってろ、静!
相手が自衛官だろうが秘密組織だろうが、か弱い女の子をさらうやつらは許せねえ!
か弱い女の子だから?
人道的な意味でおれは彼女を助けるのか?
否!
否! 否! 否!
おれは……。
圧力が高まり、どこからか圧力を抜かなければ爆発してしまうような気がした。
おれは暗い住宅街を走りながら大声で叫んだ。
「しずかー! すきだあああああああああああああああああ!」
通行人が振り返った。おばさんたちが怪しい人間を見る目つきでこちらをながめながらひそっと話している。
中学生みたいなことしてしまった。
顔が熱い。おれ今、顔が真っ赤だろう。
*
家に帰ったが、父は留守だった。
おれはそのまま二階へ上がり、兄の部屋へ行った。
なにもできない無力な自分が歯がゆくて、それでも何かしたい気持ちが身体の奥からふつふつと湧き上がって、どうにもたまらなかった。こんな自分は初めてだ。
おれは兄の部屋をうろうろと歩き回った。
兄はそんなおれをちら、と横目で見上げてから、いつもならすぐに自分のかかりっきりのゲームかマンガに目を戻すのだが、今日は違った。
おれの顔をずっと眺めていた。
「どうかしたか?」
兄の方から声をかけるなんて、久しぶりだ。
「うん。どうしてもやらなきゃいけないことがあって、もしかしたら命をかけることになるかもしれない」
「へえ」兄は眼鏡をかけなおした。
「でもなにをどうしたらいいのか、どこから道を切り開いたらいいのか分からないんだ」
兄はもう一度おれの顔をまじまじと見た。
「それって急ぐのか」
「うん」
「話してみな」
おれは兄の前に座った。
「親父に確かめたかったんだけど、おれが預かっていた金メダルってなにか特別なのかどうか知ってる?」
兄は眼を見開いた。
「金メダルというものは普通のものじゃないだろ。限られた人間しか手にすることができない」
「そうじゃなくて、その……おれすごく変なことを考えたんだけど……、あの日、青木が原樹海のそばで、親父はなんでおれの場所が分かったんだろうって」
「それで?」
「親父はあの金メダル、『お守り』って言ったんだよ。あの迷信を馬鹿にしている親父が。だから、その……あれはなにか……」
「GPS機能のついた発信機だ。モデルSAT1900。超微量電力消費機構付き。動かすと電源が入る。動かさなければスリープモードに入り二年間まで使用可能。携帯すれば振動で内部の発電機が回り、充電することで半永久的に使える。位置の発信は一日数回。ごくわずかな時間、ランダムにバースト発信して自分の位置を送信する。地下百メートルまで対応可能」
兄はよどみなく言った。
「それって……」
「お前は正解だ。あれは特殊部隊の使う機器だ。自衛隊員ですら普通の隊員は知らない。要人の誘拐に備えて携帯させたり、敵にそれとは知らせず持たせて秘密基地や隠れ家を見つけ出すために使う」
「秘密基地を見つけたら?」
「人質がいなければそのままミサイルを撃ち込む」
兄の言葉はさも当然、という響きだった。ゲームやアニメおたくの兄とは異なる一面を見た気がした。
「兄貴。なんでそんなことを知ってんの」
兄は黙ったままだった。
「兄貴、教育隊があんまり厳しくて、辛くて、それで神経症になったっていう話……」
「あれは嘘だ」
兄は言いづらそうに言った。なんどもつばを呑み込んだ。
おれは兄が先を続けるのを待っていた。そんなおれの視線を受け止めて兄は考えていた。
「数馬。おれは本当は教育隊で潰れたんじゃないんだ。おれは自衛隊のエリートだった。空挺とレンジャーの資格をとった後、おれは最優秀隊員として選ばれて自衛隊の特殊部隊にいたんだ」
「特殊作戦群?」
おれは聞いたことのある自衛隊特殊部隊の名前を言った。
「いや違う。それならまだいい。おれがいたのは公にできない任務を行う部隊だ。通称『GPZ』と呼ばれた」
兄は言いたくなさそうだったが、おれには死活問題だった。おれは兄の腕をつかんだ。兄はそんなおれを見てから先を続けた。
「『GPZ』の仕事は……日本国民の監視だ。全ての有力者、政治家、有名人など世論や国政に影響を及ぼしそうな人物を監視・盗聴し、弱みを握る。必要があれば排除する」
「排除って」
「弱みをマスコミにリークしてスキャンダルにする。さもなくば暗殺する」
「まさか」
「本当だ。だから公にはできない」
「誰のために」
「そう」兄はうなずいた。「誰のために。そこは大事な部分だ。結局『国』なんてあいまいなものでもなく、国民のためでもなく、日本に昔から存在する既得権力者たち……彼らの邪魔になる者たちを監視する。そうだな。鬼門家もその邪魔者の一つだろう。その中でおれの専門は盗聴と情報操作だった」
おれは兄貴を呆然と見た。この兄が? 盗聴の専門家!?
「おれはその仕事が嫌になって辞めたいと言った」
「辞めたければ辞めてもいい、という話だった。守秘義務さえ守ればいい、という」
「だが、やめる前に同じ部隊の仲間とお別れ会をやることになった。その『お別れ会』というのは、徒手格闘による総当たり戦だ。つまり辞める者に対する合法的なリンチだな」
「おれは三人まで倒した。しかし後ろから拳を後頭部にくらって倒れた。一週間後に目覚めると神経のどこかがいかれていた。今はお前が知っている通りだ」
「それって、家族にも言ってはいけないことなの」
「そうだ。誰にも漏らしてはいけない。親父も知らない。おれはまだ監視されている。おれの身体がこの通りだから、やつらは安心しているが、外に出るといつも誰かがつけてくる。一生そこから逃れることはできない」
「おれに話しちゃったし」
「ああ、そうだな。話しちまった。でも普通、おれみたいに医者のお墨付き精神病患者がこんな話したら、一般人はどう思う?」
「相手にしない」
「だろ。だからやつらもおれのことは余り心配していないはずだ」
「でも家族のおれは信じちゃったし」
「まあいい。それよりなにが起きた?」
「何がって?」
「お前の目の光、顔の表情、なにもかも以前とは大違いだ。なにが起きた?」
そこでおれは今までの経緯と状況を説明した。自衛隊員が誘拐の実行犯だったことを聞くと兄のまゆがぴくっとあがった。安達うさぎがスパイだったところまで説明してからおれは聞いた。
「どこから、なにをしたらいいのか分からないんだ。助けたいのに」
「あの静って女の子だな。あの子が好きか?」
「うん」
「そのために命をかけられる、という」
「そうだよ。兄貴! 手伝ってくれ。あの子を助けたいんだ。そのためなら死んでもいい」
「すげえな」
「なにが」
「お前、今、マンガのヒーローみたいだぜ」
「……」
「力を抜いて生きようって決めたお前が、そんなことを言うとはな。なんだかおれも熱くなってくるぜ」
「兄貴」
「なんだ」
「手伝ってくれないか。一緒に彼女を助けるんだ」
「半分はオーケー、後の半分は無理だ」
「無理って」
「神経を壊されたおれの身体は元には戻らない。最初は話すこともできなかった。身体を鍛えていたから死ななかったが、昔のような運動能力は永遠に失われた。今は歩くのがやっとだ。だからお前と一緒に行動するのは無理だ。だが……」
「バックアップならできる。おれを誰だと思う? 特殊部隊一のハッカーだぜ。今は夜な夜なネットの世界をはいかいし、『バットマン』の二つ名を持っている。本当は『ネオ』って呼ばれたいんだけど」
兄は部屋の隅に立つロッカーを開けた。中を見るのは初めてだ。中には電子機器がぎっしりと詰まっていた。様々なダイヤルや表示、色とりどりのケーブルが縦横に走っている。それよりも目を引いたのは観音開きの扉の内側に張ってある黒人ボクサーのポスターだった。
モハメド・アリ。
ベトナム戦争への兵役を拒否してヘビー級チャンピオンのタイトルを剥奪された男。
アメリカ政府にたてついてすべてを奪われ、刑務所に入れられた男。
そしてその後、泥沼から這い上がって再びチャンピオンに返り咲いた男。
兄大成の気持ちがそのポスター一枚にこめられていた。
「親父に頼む必要はない。金メダルに仕込んだ発信機のIDは分かっている。一日待ってもらえれば位置を割り出せる」
「あの」
「なんだ」
「親父も……知ってるの? この金メダルのこと」
「ああ」兄は葉を見せて笑った。「安心しろ。親父は裏の世界とも特殊部隊とも無関係だ。金メダルのことはおれがちょこっと助けただけだ」
「そう」
これ以上世界が変わって欲しくない。知り合いがみな『実はわたしは……』なんてのはこりごりだ。
「それで?」
「位置を割り出す間、装備をそろえよう。その後は……数馬。お前が自分で行くんだ」
「おれが!?」
おれは覚悟していたつもりだったが改めて驚いた。どこかで特殊部隊にいた兄が手伝ってくれると期待していた。そんな甘さがあった。
でも考えて見れば当たり前だ。静のために命をかけてもいいと思っているのはおれだけで、隊をやめても特殊部隊の守秘義務に縛られ、神経を壊されても監視の付く生活をしている兄に、これ以上の危険を冒してくれ、と頼むことはできない。だが兄の手助けがなければどうしようもないのも事実だった。
「おれ行くよ。どこへでも行く。でもおれみたいに何もできない素人の高校生になにができるかな」
おれがそう言うと兄はくすっと笑った。
「お前休まず十キロ走れるか?」
「うん」毎日走ってる。
「三キロ泳げるか?」
「ああ」
「馬には乗れるか?」
そりゃあ。
「剣で戦えるか?」
何が言いたいのか分かってきた。
「拳銃の撃ち方を知ってるか?」
「知ってる」
「そんな高校生、いや大人でもそんなことをまとめてできる人間がどれだけいると思う。近代五種ってのは、軍事教練の集大成だぜ。それもたった一人で敵陣へ潜入する特殊任務の兵隊向けの」
兄は続けた。
「言わば、お前が毎日やってきたことで、今回の任務には十分なはずさ。これで十分じゃなかったなら仕方がないってことだろう」
「仕方がない」
「つまり失敗したら死ぬってことさ。覚悟はできてるな?」
「うん」
「お、すげえ。目が据わってやがる」
兄は楽しそうに笑った。
「本物だ。恋する男はすげえな。ラノベやアニメじゃなくて本物を初めて見たぜ」
兄は本当に楽しそうだった。立ち上がると壁にかけていた『リア充爆発しろ!』と書かれたのれんを引き剥がして捨てた。
「おれも、おれも自分はもう駄目だと……隠居したじいさんみたいに一生引きこもりの自宅警備員で過ごすんだと、自分で決め付けていた。でもお前のおかげで目が覚めたような気がする。よくよく考えれば、おれは身体が不自由になっても自衛隊の上層部が恐れる特殊部隊員だ。お前とコンビを組めば最強の兄弟タッグだ。強くていばってるやつらに一泡吹かせてやろうぜ」
兄はこぶしを作って丁度親指が上に来るように前に突き出した。どこかの映画かアニメで見た仕草だ。おれを待っている。
おれもこぶしを作って兄のこぶしの上からこぶしをぶつけた。お返しに今度は兄がこぶしをおれのこぶしにぶつけた。
おれたちは『にかっ』と笑った。
*
「で、これからどうするか」
兄が言った。
「むろん救出に行くよ」
おれは答えた。
ここは兄の部屋。当面のおれたちの作戦司令室だ。兄はさっそく探知機を使って金メダル型発信機の場所を突き止めてくれたのだ。
「静ちゃんが連れて行かれたのは、大阪。伊丹空港近くの建物だ。ここは公には精神病院ということになっているが、一般人はむろん入れない」
「潜入する。自衛隊の基地よりやりやすいだろ?」
「そうとも思えないぜ」
兄は考え深げに言った。
「そこは恐らく奴らの秘密の拠点だろう。でも今回わかったことがある」
「なに?」
「奴らも今回のことは公にならないよう、こわごわやっている」
「どうして分かるの?」
「飛行場まで行くのにあんな手間をかけた。一つには黒服部隊をまくためだろうが、恐らく、自衛隊の中でもやつらの仲間は少数だ。だからほかの人間に知られないように気を配って行動した」
「そう」
「やつらの目的がなにか知らないが、それをやってることは公になるとまずいことだ。もちろん闇の権力者たちも、自分たちがそれに関わっていると知られたくないだろう。彼らは実際の社会ではそれなりに地位のある者ばかりだろうから」
「だから?」
「こちらの勝機は静ちゃんを奪い返すことができるかどうか、にかかっている。もし奪い返せれば、大騒ぎを起こせば、彼らはライトの当たったステージには出てこないだろう。直接犯罪に関わった者だけが通常の刑事事件として裁かれる。つまりトカゲの尻尾切りね」
兄は面白そうにいったが、そのユーモア感覚はおれには分からなかった。
「で、どうやってやつらのアジトまで行くか、だけど……」
「電車で行けばいいんじゃない?」
「そろそろ軍資金が底をついた」
「おれ預金を下ろしてこようか」
「馬鹿。普通のやり方で正面玄関へ行って、「こんにちわ。中へ入れてください」って言うつもりか」
「そうじゃないの?」
「潜入するにはそれなりの機材が必要だ。百万円ばかし足りないな」
どうしよう。おれの小遣いじゃ足りそうにない。
「ちぇっ。貧乏人だとヒーローにすらなれねえのか」
おれは舌打ちした。
「鬼門さんに頼んでみたら」
「いや。頼めば娘のためならなんでもしてくれると思うけど、今はまずい」
「なぜ?」
「鬼門家のメイド、安達うさぎはスパイだった。ほかにも怪しげな連中がごろごろしている。どんなきっかけで秘密が漏れるか分からない。兄さん。今おれたちの勝っているところは、金メダルのことが奴らに気づかれていない、という一点だけなんだよ」
「確かにそうだ。じゃあ、なんか資金繰りを考えなきゃな。おれのネットビジネスじゃ、まだ時間がかかりそうだし」
おれは気になることがあり、それを思い出そうとした。このごろ、こういうことが多い。
おれは洋服ダンスを開け、かけたままのジャケットをつまんでポケットをまさぐった。
宝くじの券が一枚出てきた。静にもらったものだ。あのとき怒りで破り捨てたと思っていたのに、案外おれもいい加減なんだ。男の矜持とか言っといて。
「なんだ?」兄がのぞき込む。
「兄さん。これの発表って、あった?」
「宝くじか。どれどれ。ああ発表してるな」
「これ当たってるかどうか調べて」
「お前な」兄はちょっとあきれた様子で言った。「そんな世の中が都合よくいくのなら……おい、ちょっと待て!」
兄の視線はモニターと券を何度か往復した。
「当たってる! 三等で賞金五千万円!」
やはり静お嬢様の幸運度は並じゃない。
「でも、宝くじの換金って、すぐにはもらえないんでしょ」
「そうだな……。蛇の道は蛇。おれの知り合いのダフ屋に売りつけよう」
次の日、兄は五千万円の当たりくじを現金一千万円と交換してきた。今はスピードが命だ。何よりも速いのがいい。
潜入する機材をそろえ、準備をしながら兄はおれを見てにやり、と笑った。
「引きこもりのお宅ヒーローがリア充のやつらに一泡吹かせてやるぜ。面白え」
おれが秘密基地に潜入する日が刻々と近づいていた。




