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第二章

 ■第二章


 放課後、またサイードに仕事をおおせつかった。

 今度は英語の授業に使う材料集めだ。日本語と英語で違うところをできるだけ多く探し出せ、だとよ。サイードのやつ、普段は軽いノリのくせに英語の授業になると人が変わったように熱心になる。

 おれと鬼門の二人を高く買ってくれるらしく、ことあるごとに雑用を言い付かる。今日もホームルームで各国語の違いと文化を滔々と述べた後、じゃあ英語と日本語の違いをできるだけピックアップしてみよう、などという宿題を出した。

 しかも男女ペアで。

 なぜかおれは自然に鬼門と組まされることになった。

(やっぱり二人は怪しい)

 クラスの後ろでささやき声が聞こえる。

 鬼門がくしゃみをした。

 サイードは板書の手を休め、軽やかに言う。

「おや鬼門さん。『フカンショウ』かい?」

「い、いえ。」鬼門は顔を赤くする。

 クラスの全員が心の中でそれは『カフンショウ』だろ! と突っ込むのを感じた。

「そう『フカンショウ』じゃなけりゃ風邪かな。気をつけて」

 甲斐田がおれの腕をがしっとつかむ。目が血走っている。

「おい。今のは偶然とはいえ、萌えなかったか?」

「しらねえよ」

「鬼門さんは「いいえ」と答えたぞ。それはつまり……」

「追求するな。追求するな」

「じゃあ。クラス委員の二人には模範解答を作ってもらうから、そのつもりで」

 サイードは軽やかに言った。


 で、放課後、おれと鬼門は学校図書館で調べ物をしていた。

 こんなの受験に関係あるのか。こんなことをしていてA組までの長い階層を登っていけるのか。いまおれは学園最下層のF組だからここから転落したら退学だ。県立大学の推薦入学もへったくれもなくなってしまう。純然たる競争社会の学園内でどこかのテレビドラマにありそうな『人間的教師』を目指しているようなサイードと付き合わなければならないことにおれは若干の不安をおぼえた。

 と、いうような高尚な言葉を頭の中でもてあそびながら、おれは余り広いとは言えない学校図書館の天井にある模様の丸の数を数えていた。

 そんなおれの思いとは別に鬼門のお嬢様は一生懸命。今も書架から自分のあごに届くまで本を取り出してきて、おれの前の読書テーブルに積み上げた。

「ちょっと、少しは手伝いなさいよ」

「こんなに持ってきてどうすんだよ」

「決まってるでしょ。二人で手分けして調べるのよ」

「でー、お前って真面目だな」おれは脱力してテーブルにつっぷした。

「努力、努力」鬼門が歌うように囁き、おれはぴくりと身体を硬直させた。この女、一緒にいるだけでいらいらする。

 クラスではおれが宝くじを当てたみたいに羨望の目で見るやつらがいるが、おれとこの女の波長の合わなさったらない。おれは鬼門がこちらに押しやってきた本の山から一冊取り上げて、調べものをするふりをしながらぱらぱらとページをめくっていた。

 静かな図書館にはときおり椅子をひく音やシャーペンが紙をこする音のみが響いている。ふと林立する書架をぐるりと眺めて見たが、受験勉強対策の参考書や過去問題集は同じものが何冊も揃っているのに、絶対的な本の分量が少ない。読書テーブルの数や面積がやたらと多い。ということで、ここは一般の図書館とは異なり、あくまで進学校の生徒自習用資料室だと気づいた。

「駄目だわ」突然ばたんと本を閉じて鬼門が立ち上がった。「こんな文献じゃ話にならない」手早くまとめて本を積み上げると帰り支度を始めた。

 目線でおれに指示する。「ちょっとこれ返却棚に戻して」

「なんでおれが」

「あら。私が持って来たでしょう」

 おれが黙っているとつんとあごを上げ、少しうるんだ目でおれを見つめた。「ねえ、おねがい」

 はいはい。そう言われちゃ、仕方ない。おれは金持ちの買い物に付き合う下男よろしく積み上げた本を持って鬼門の後に続いた。

「どこ行くんだよ」

 図書館を出た鬼門はおれを物憂げに眺めると言った。「ここじゃ話にならないわ。本が少なすぎる」

 それはまあおれも感じていたことだ。受験の調べものに特化した図書館だな。

「わたしの家へ行きましょう。図書室があるから」

 ええっ。鬼門の……家へ……行く?

 丁度そのとき、甲斐田がそばを通りかかっておれたちの話を聞きとがめた。

「なにっ。辰巳のやつがついに静さんの家へ行くだと。くうー、学園のアイドルNo.2の静さんもついに辰巳の毒牙にかかるとは」

 こいつ絶対なんか勘違いしている。それよりいつナンバーツーに昇格したのかな?

「違うって。サイードに頼まれて一緒に調べものを……」

「くうー。一緒にお勉強しましょうだと。それでお茶はいかが。あ、お砂糖はおひとつ? なんてことやあんなこと、こんなことをするつもりだろうが」

 こいつ絶対妄想狂だ。

「クラス委員としての仕事です。それ以外に何の意味も価値もないわ」鬼門が言い放つ。

 おい、それはちょっと言いすぎだろ。

「くうー」涙をぬぐうふりをする甲斐田をその場に残し、おれたち二人は校門前まで来た。

「ごきげんよう」

 鬼門は校舎を振り返ってさわやかに言う。ごきげんようって、あんた。

 黒塗りのロールスロイスがすべるように前に着き、運転席から降りてきた黒スーツの男が後部座席を開ける。顔がちょっとアイルトン・セナに似ている。

(へ、送迎車か。やっぱりお嬢様だ。おれたちとは住む世界が違わあ)

 かなり小さい声で言ったのだが、鬼門の背中から陽炎が立ち上ったように見えたのはおれの錯覚だったのだろうか。後ろ向きで力のこもったうなじになびく茶髪。そこからぴょこんと飛び出した耳がピンクに染まっている。姿かたちだけは可愛い。

 鬼門は黒スーツに手を振ってなにか言った。「は、しかしお嬢様」という困惑した黒スーツの声がし、その後あきらめたように運転手だけ乗せるとロールスロイスは走り去った。

 鬼門は決意したようにこちらを振り向くと言った。「さあ、行きましょう」

 おれが自転車をとってくると、鬼門は自転車を押すおれの横に並んで歩き始めた。

「おまえん家、住所はどこなの」

「葉磯町」

「え、ここからじゃ十キロくらいあるじゃん。歩いていくのは大変だな。車を帰して良かったのか」

(自分で嫌味を言ったくせに、なによいまさら)鬼門はなにかぼそぼそ言っている。

「いいもん」

「じゃあ、おれはチャリで行くから、おまえはバスで行けば」

(わからない)

「え?」

「わからない!」怒ったように言う。「バスの乗り方がわからない」

「うひょ。おまえ生まれてからバス乗ったことないのかよ」

「悪い?」ありゃ。また涙目。こいつ、もしかしてお嬢様ってことがすごいコンプレックスなのかも。

「乗せてよ」

「へ?」

「後ろに乗せてくれればいいじゃない」

「んー、それは」おれは躊躇した。

「なによ。二人乗りは禁止ですって? こんなときにだけ真面目になるの?」

「いや、そういうわけじゃ」

 鬼門は納得していないようだった。おれは仕方なく言った。

「ほら、この前の窓枠みたいなことがあるかもしれないしさ。例えばもし車が突っ込んできたりしたら、おれ一人ならなんとかなるけど、二人乗りだとよけきれない」

「そんな映画みたいなことあるわけないでしょ」

「いや、おれの場合、結構ある」

「ふん。乗せたくないって素直に言えばいいのに」

「そうじゃなくて」おれは考えた。「じゃ、こうしよう。おまえがおれの自転車に乗って、おれが付いて後を走る」

「まさか」

「いや、十キロくらいなら毎日走ってるから大丈夫」

 鬼門は黙っていた。再び耳がピンクになる。

「どうした。おい、あっまさか」

「悪かったわね。そのまさかよ」

「おまえ……」

「自転車に乗れないの」鬼門は怒ったように言った。

「うっひょー、本物のお嬢様だぁ」おれは両手を上に上げた。文字通り”お手上げ”だった。どういう育ち方をしたんだろう。

「もしかしておまえ、運動神経ゼロ?」

「失礼ね。人並みよ」

「じゃ今練習しろよ」

「ええっ今?」

「そうさ。おれが後ろの荷台、支えてやるからさ」おれは鬼門のかばんを取り上げて自転車の前カゴにおれのかばんと重ね合わせて押し込むと、椅子の高さを調節してからハンドルを手渡した。

「いいか。これがペダル。これを交互に踏むと前に進む」

「知ってるわ」

「これがブレーキ。これを両方いっぺんに引くと自転車が停まる」

「分かるわよ」

 走り出す直前にこっちを振り向いて言った。

「変なことしないでよ」おいおい、言うにことかいて、それかい。

 鬼門はおっかなびっくりペダルをこぎ始めた。ハンドルが前カゴの重みでぐらぐらする。おれは自転車の荷台をしっかりつかみ、一緒について走り始めた。鬼門の背中がおれの目のすぐ前に迫り、なんかいい香りがした。

「あっ」鬼門が急にバランスを崩し、自転車が倒れる寸前に足をついた。

「大丈夫。スジがいいぞ。ペダルをこぐのが怖かったら最初は左足で地面を蹴って進み、バランスをとる感覚をつかむんだ」

「なにごとも努力ね」

 その言葉はおれの心をちくりと刺したが、おれは気にしないことにした。

 何回か足をついた後、鬼門はバランスのとり方を飲み込み、どんどんこいでスピードを上げ始めた。おれも最初は荷台をつかんで走っていたが、最後には離した。自転車はそのまま進んでいく。

「ねえー見て見て。ほら。できたわー」

 ふう、と両手をひざで支えて息をついたおれに自転車を停めた鬼門が振り返った。はずむ息。上気した桃色のほほ。少女のような喜びの表情。

 ドキューン!

 やられたね。今まで最悪な出会い方とか高飛車な態度、金持ちのお嬢様の浮世離れした感覚についていけず、可愛いのは分かっていたがどこかグラビアアイドルをながめるような感覚で鬼門を眺めていたおれだったが、あの表情はずるい。反則だ。おれの心臓は一撃をくらってHP全損、一瞬頭がくらっとした。

「なによ。早く来なさいよ」何も知らない鬼門は再び前を見てこぎ出した。おれはその後ろをちょっと期待しながら走って行った。


     *


 高い天井の下でおれはゆで過ぎの卵のようにかちかちに固まっていた。

 鬼門のやつが大金持ちだってことは最初から分かっていたつもりだったが、おれは”本当の金持ち”というのはどれくらいのスケールなのか今まで認識していなかったんだ。

 だって日本では大企業の部長さんですら海外と比べたらかなり貧相な家に住んでいてそれがまたべらぼうに高かったりする。小振りな邸宅を見て「おおー大邸宅ですな」とか「一国一城の主」とか大げさな言葉を使う大人に違和感を感じていた。もっとも、おれの家は築二十年のぼろ二階建てだけどな。

 鬼門のこぐ自転車が延々と続く高塀の横を走り続けたころ、予想するべきだったんだ。高塀の代わりに金網だったら自衛隊の演習場というところだ。それくらい、鬼門邸宅はでかかった。テレビのコマーシャルでいつも目にしている鬼門財閥のすごさが邸宅を見て納得いった。

 門の横には警察の簡易派出所があり、鬼門を見ると制服が敬礼した。おれたちは警察官が開けてくれた自動開閉扉を通って中に入った。

 総合大学の構内みたいだ。庭の各所には木々が生え、その間を磨き上げられた舗装路がゆるやかに縫っている。

 門から玄関まで自転車で五分かかった。玄関には仮装大会にでも出られそうな金モールをつけたドアボーイ二人が待っていて、鬼門が乗り付けると特上の笑みを浮かべて一人は自転車を受け取り、もう一人は前かごからかばんを取り上げて玄関まで運んでくれた。おれはそれを口をあんぐり開けたまま見ているだけだった。

「おかえりなさい、静お嬢様。今日はお友達とご一緒ですか」

 巨大な木の扉を開きながら、笑顔を絶やさずドアボーイが尋ねる。

「調べ物をしたいから。そのかばん、図書室に運んでくれる?」

「承知いたしました」ドアボーイの挙動にはそつがない。

 突然鬼門ははっと気づいたように身体をこわばらせた。

「や、やっぱりそれくらい自分でやるわ。返して」

 鬼門はかばんを取り返すと、先に立って歩いた。

 おれは馬鹿みたいにあごを落としたまま鬼門の後ろについて行って、巨大なシャンデリアのぶら下がる正面玄関の横手に延びている廊下をふかふかの絨毯レッドカーペットだぜを踏みながら進んだ。

 ガラス張りの連絡通路でちらとわきを見ると、通路の下には小川が流れ、錦鯉が泳いでいた。渡り廊下の終点には小学校六年生のときに社会科見学で行った国会図書館よりちょっと小振りな建物があった。

「ここが私の家の図書室よ」

 これのどこがどう「図書室」なんだ。図書館だろ。

 自動ドアをくぐり抜けると、閑静な室内にはまんべんなく眩しくない程度に明るい照明が灯り、たった一人司書テーブルに眼鏡をかけた知的な雰囲気の女性が座っていた。

「こんにちわ、佐久間さん」

「おや、静お嬢様。今日はお友達とご一緒ですね。どんなご用ですか」

「日本語と英語の違いに関する文献をとりあえず五十冊くらいピックアップしてくださる? 学校の授業に必要なの」

「承知いたしました」司書はプロの手つきで端末を叩くと、数分後書籍リストをプリントアウトし、書架へ歩いていった。さらに数分後には、ワゴンの上に二十冊以上の本が山と積まれていた。

「とりあえず、このあたりからお始めになってくださいな。その間に私はもう少し探してみますから」

「おい。ちょと待てっ。これを全部調べるのか」

「そうよ」

「お前、なんか勘違いしてるぜ」おれは世間知らずに言って聞かせるように言った。「これは高校の授業に使うもんだ。大学の博士課程の論文じゃない」

「だから?」

「ものの限度ってものを考えろよ。高校の五十分の授業に使うのに百ページのレポートを出されたんじゃ、サイードも困るぜ」

「困るって、サイード先生に言われたの?」

「いや、そこは常識の範囲でだな。お前だってせっかく苦労して調べたものがほとんど使われないんじゃつまらないだろ」

「いえ、別に。ライオンはウサギを倒すのにも全力を尽くすと言うわ。自分の力の限り努力するって気持ちいいじゃない。資料が多くなったら私が便覧と索引を作るから大丈夫」

 ライオンって。たかが授業の準備にこの例え使うか? 駄目だこりゃ。この努力大好き少女は。山積みの調査資料を前に目を輝かせて生き生きしてら。

 おれはあきらめて座ると鬼門家専用図書室の読書机に積まれた本の山を眺め、一冊手にとった。やる気なく、ページをぱらぱらとめくる。机の反対側では鬼門がせっせと資料を速読し、必要箇所にふせんをはさんでいた。

 おれはさりげなく立ち上がって図書室の中を歩き回り、先ほどの司書に話しかけた。

「こんにちわ」

 司書は眼鏡の奥から上目遣いでおれを値踏みするような視線で眺め回した。あの、そんなに見つめられると照れるんですけど。

 よくマンガで眼鏡をかけているとよく表情が分からなくて眼鏡をはずしたら実はすごい美人、というありふれた設定があるけど、サングラスでもかけているのでなければ顔が分からないということはない。眼鏡ごしに見る司書(確か佐久間さん)の顔は掛け値なしの美人だった。

「あの」

「なにをお探しかしら」

「いえ、ちょっと聞きたいんですけれど。静さんっていつもあんな感じなんですか」

「あんな感じとは」

「つまり、不必要に力を入れて努力してるみたいですけど」

「そうね。いつもあんな感じよ。先週は私と一緒にプリント揃えの特訓をしたわ」

「なんの特訓ですって?」

「プリント揃えよ。学校で必要だったのに上手にできなくて恥をかいたから、今度は完璧にできるようにってわざわざ練習用に冊子を一冊コピーして揃えてホッチキス留め、という練習を百回くらいやったわ。うちの図書室にはフィニッシャー付きの複合機があるから必要ないって言ったんですけどね」

 あのときだ。おれがからかったら、顔を真っ赤にしていた。そんなに気にしていたんだ。

「努力家」

「そう、努力家よ彼女は。そんなに頑張らなくても楽に暮らしていけるのにねえ」

「ですよね」

「まあ、最初からお嬢様じゃなかったから」

「え、そうなんですか」

「あら、知らないの? 鬼門家は新興財閥。つまりベンチャーよ。最近出てきたばかり。まあ高校生じゃ無理ないか」

 佐久間さんはそう言いながら長い指を伸ばしておれのほおをそっとなでる。ぞくっ。ちょっと、変な雰囲気なんですけど。

「可愛いわね。私好みの顔よ、あなた」

 ちょっとちょっと。佐久間さんは眼鏡をはずして机に置いた。やはり美人。暇にあかせて磨きあげたピンクの爪とパーマをあてた髪が大人の女性の雰囲気をかもしだす。なんだか顔が熱くなってきた。



 おや。なんか後ろ髪かちりちりする。危険が迫っているのか。

 おれが後ろを振り返ると、凶悪な雰囲気を発散している鬼門の姿があった。まずっ。

「ちょっと、わたし一人にやらせるなんてどういうつもり? こっちに来なさいよ」

 おれの襟をつかんで引っ張る。ちょっと、く、首がしまる。さぼっていた所を見つけただけにしては尋常でない怒りなんですけど。おれは佐久間さんを振り返って助けを求めるような視線を向けたが、いつの間にか佐久間さんは眼鏡をかけ、知らんぷりして仕事に戻っていた。それからおれは鬼門の監視の下、資料調査をせっせと続ける羽目になった。


     *


 お茶の時間になり、静はおれを引き連れて応接間へ入った。応接間には革張りのソファーが置かれ、中央のテーブルにはすでに湯気を立てた茶器が並べられている。真っ白な陶磁器を両手で上品に支えてお茶を注いでいるのは、典型的なメイド服を着た女性だった。

「安達さん。お母さんは?」鬼門が呼びかける。

「また香港へお出かけです」メイドは澄まして答えた。

「またあ?」

「この屋敷にいると息が詰まる。ごちゃごちゃして狭いところが落ち着く、とおっしゃっていました」

「い、いいから。お客様の前でそんな内幕をばらさないで」

「おや、お客様でしたか。お珍しい」

 メイドは今更ながら気づいたようにおれの顔をしげしげとながめた。近眼なのだろうか。接近する顔が近すぎる。うっ、清潔そうな白い肌。きゅっとまとめてアップにした黒髪がつやつやしている。この屋敷は本当に美人が多いな。

「ご学友ですね」

「ええ、同じクラスなの。辰巳くんよ」

「山手常盤ですと庶民の進学校ですね」

「いいから」

「同じクラスということは彼氏ですね」

「ち、違うから」鬼門は沈痛な面持ちで目をつぶって右手をメイドの肩に置いた。

 それに構わずメイドは椅子をおれにすすめながら言った。

「どうぞ。庶民の彼氏。お茶が冷める前にお召し上がりください」

「はあ。ありがとうございます。メイドさん」

「わたくしは安達あだちうさぎです。庶民の彼氏さん」

 なんとなく馬鹿にされているような気がしたが、気のせいだろうか。

 お茶はおいしかった。白亜のミルクポットから同じように真っ白なミルクが流れ落ち、濃いお茶に混ざってティーカップの中で回転してゆく。向かいの席には座席の上でぴしっと背筋を伸ばしティーカップを持ち上げた鬼門があでやかに微笑んでいて、まったく絵になった。

 鬼門って座っているだけできれいだな。

 おれが目の前のアフロディーテをうっとりとながめていると、突然ドアが開き、使用人とおぼしき二人の男性が何かの彫刻を運んできた。

 イルカの置物だった。

「これなに」

 とたんに表情を険しくした鬼門が問う。

「はあ。だんな様がこれを各部屋へ運ぶようにと……」

 それを聞くと鬼門は弾をこめ終わった拳銃を置くような仕草でティーカップをテーブルに置いた。

「また」口の中でつぶやくとすっくと立ち上がった。

 鬼門の気迫に釣られておれも後をついていった。

 鬼門は廊下を足早に歩き、重厚な木の扉を開けてある部屋に入った。

 続いて入ろうとしたおれは鬼門の背中にぶつかって止まった。鬼門は扉の真ん中で仁王立ちになって止まっている。

 おれは肩口から中をのぞいてみた。

 広々とした応接間には天井からシャンデリア。調度は全て落ち着いた茶色。床には高級そうなじゅうたんが敷き詰められている。ただちょっと違和感のあるのは……

 部屋中にイルカの置物。床にもキャビネットの上にも所狭しと並べられ、天井からも糸でつるした水色のモビールが何十とぶら下がり、わずかに揺れている。

 部屋の奥には恰幅の良い中年男性がソファーに腰掛け、その隣に顔を耳のそばにくっつけるようにして太った中年女性がなにやら囁いていた。その中年女性はなんとなくタヌキを思わせる風貌だった。

「またやってる」

 鬼門は吐き捨てるようにつぶやくと、ずんずんと中に入っていった。おれもなんとなく後に続いた。

 鬼門の姿を認めると男性はにっこりしたが中年女性は露骨に警戒心をあらわにしてさっと身を引いた。

 鬼門は肩を怒らせて彼らの正面まで進んだ。髪からはみ出た耳が赤くなっている。

「お父さん。誰? これ?」怒ったような口調で言う。

 中年男性はにこにこして答えた。

「静。新しいライフコンサルタントの楽さんだ」

 たぬきおばさんは愛想笑いをしたが、目は全然笑っていない。

「あら。これはこれは鬼門家のお嬢様ですの。わたくしマダムらっくと申しますのよ。これからよろしくお見知りおきを」

 鬼門静はおばさんを全く相手にしなかった。

「お父さんったら、またこんなインチキに引っかかって」

「い、いや。静。この方はすごく有名な霊能力者で、人生相談から経営指針まで任せられる力を持って……」

 鬼門静は最後まで聞いていなかった。たぬきおばさんに人差し指を真っ直ぐ突きつけて言い放つ。

「稼ぐたびに全部ホストクラブで貢いで本気で相手にされていないくせに有り金全部むしられていつもぴいぴいしているおばはん!」

 当たりだったらしい。おばさんの顔が引きつった。

「りょ、りょうすけくんはそんな人じゃありませんわ!」

 語るに落ちる、というやつか。

 鬼門静はこぶしを握り締めて父親に詰め寄った。

「お父さん! こんな人信用できないわ! すぐに家から出して!」

「ししし、失礼な! わたくしを馬鹿になさらないで。み、見なさい!」

 おばさんはかばんから葉書の束を取り出すと空中に放った。

「見なさい! わたしにはこんなに感謝の手紙が来てるのよ! ほらっ」紙ふぶきのように散るハガキ。

 さらにおばさんはかばんから大きな写真を取り出した。

「この写真を見なさい! ここには竜神様が……」

「ただの煙にしか見えないけどな」おれも思わずつぶやいた。写真には「うーん。そう言われればなんとなく竜に見えないこともないかな」くらいの煙が写っていた。

 おばさんは胸を張って立ち上がった。

「わたくしの守護神は竜神様ですから、わたくしの助けを求めるには竜神様のご機嫌を取らなくては。そのためには……」

 おばさんは人差し指を鬼門氏に突きつけた。鬼門氏は二人を前にどう対応したものかと固まっている。

「竜神様の現身うつしみの形はイルカですから、イルカの置物をたくさん置きなさい。大きければ大きいほどいい」

 さすがにそれ信じろって無理だろ。しかしおばさんは大真面目だった。

 鬼門静は目を細めて唇をゆがめた。

「へえ。じゃあこれ、壊すとどうなるの?」イルカの置物を指し示す。

「祟ります! 祟りますよぉ!」おばさんは両手を大げさに振り上げ、恐ろしい表情を作った。

 ガシャン!

 鬼門静が一つ目のイルカの置物を壊した音だった。

 続いて部屋の隅にあったゴルフクラブを振り上げ、振り下ろし、鬼門静は着実にイルカの置物を破壊していった。

「やめなさい! やめなさーい! なんということを! 祟ります。祟ります。知りませんよぉ」

 おばさんはおろおろと止めようとしていたが、目が合った鬼門静がゴルフクラブを振り上げると、太った身体をよたよたとゆすりながら扉を出て行った。

「この家はもう終わりだわ! 呪われるのよ!」

 捨て台詞が廊下にこだまして段々遠ざかって行った。


     *


「すっかり遅くなったから、今夜はうちで夕食を食べていって」

 そんな言葉にうっかり乗ってしまい、おれは後悔していた。鬼門家の食堂は、おれの家の一階の天井をぶち抜いて二階まで吹き抜けを作ったような高さの丸天井にシャンデリアがぶら下がり、ビリヤード台を縦に三つ並べたくらいの長テーブルには白磁器が並んでいる。

 決して無駄に豪華な献立ではなく、スープも焼き魚もあるのだが、マホガニーの椅子にしろ、真っ白で分厚いナプキンにしろ、壁に掛かった油絵にしろ、お金があると、それも大量にあるとどれだけ生活が異なるかをまざまざとあらわしていた。

 おれは自分の家の割れて染みの取れなくなったピータイルの床や、家族の人数分ちょうどある不ぞろいの椅子や、戸棚からスプーンを取り出すときにはおれがちょっと椅子を前に引かなければならない狭い台所兼食堂を思い出した。

 このごろわかってきたことだが、鬼門はちょっと強引なところがあるが、よく付き合ってみれば素直な普通の女の子で、学校にいるときには金持ちのお嬢様だなんて感じさせない。

 が、ここに来ておれと鬼門との間には暮らしの「格差」という大きな深い谷が横たわっているのを感じた。

 正直言って萎えた。自宅に電話して夕飯は鬼門家で食べてから帰ることを伝えると母は「逆玉じゃない! すごいわ」と叫ぶし(受話器から外にもれるくらいの大声、ちょっとやめてもらえますか)、その後「お父さんからメッセージよ。「なせば成る。何事も努力だ」ですって」に至っては(なにをなすんだ)と心の中でつっこまずにはいられなかった。まったくうちの両親は。さらに萎える材料にはことかかなかった。


 おれは両手をひざの間に突っ込んで、殊勝な様子で高級そうな椅子の上に椅子より固くなって座っていた。先ほどまでメイドさんがいたのだが、鬼門が耳打ちすると壁際まで下がってしまった。きっとお嬢様と言われるのが嫌なんだろう。鬼門はさりげなさを装ってはいたが、見るからに慣れないと分かる手つきで盛られたおかずをおれの皿に配った。

「あ、おれ。手を洗ってくる」

「あら、手ならここで洗えば……安達さん。フィンガーボールを……」鬼門はメイドを呼びかけたが、はっと気づいたように黙った。「そ、そうね。手を洗わなくちゃ。洗面所は、そこを出て左側へ行った廊下の突き当たりにあるわ」

 さっき玄関でも感じたことだが、鬼門静は金持ちの邸宅でなるべく使用人を使わないように努めているように見えた。今もメイドがそばにいるのにわざわざ自分でやろうとしている。しかもそれは最近始まったばかりのようなぎごちなさだ。


 おれが廊下に出ると鬼門は着いて来た。廊下の突き当りにはドアが三つあり、鬼門に教えてもらわなければ、どれが洗面所か分からないところだった。

「ええと、タオルは……」鬼門は洗面所の上下背後にある戸棚を全部開けて最後にタオルの入っている棚を見つけた。「こ、ここよ」

 おれがじっと見ていると決まり悪そうに睨み返した。「な、なによ。しばらく開けてなかったからちょっと忘れただけよ」

 あくまでも、普段から自分でやっている、ということにしたいらしい。おれはスルーしてあげた。

「ありがとう。先に行ってて」

 おれは鬼門を先に帰らせて洗面台の前についている鏡を見つめた。自分の顔がうっすら赤くなっている。あんな食堂を見た後だから緊張している。

 洗面台についている水道の蛇口はカスタムメイドなのだろうか。中世ヨーロッパと現代のデザインを掛け合わせた不思議な形で、どこをどうひねれば(あるいは押せば)水が出るのか分からない。

 おれはレバーとおぼしき男の半裸像を持ってあちらこちらに動かした。ちょっと固かったが、どうやら右に回りそうだ。そのままぐるぐる回すと突然半裸像の首がぽんととれて水が勢いよく噴出した。

 どば、どば、どばっ、どばばば。

 しまった。壊しちまった。おれはさっき鬼門が棚を開けまくったので、水道の止水栓がある場所を覚えていた。ただちに止水栓にたどり着いたが、道具がないと閉められない。手近の戸棚を片っ端から開けて水道工事のセットを見つけた。よし。おれはレンチを取り上げ、止水栓の四角い頭に差し込んで回した。固い。ちょっとさび付いているようだ。おれはレンチの端に足を乗せて体重をかけた。

 ぱきっ。止水栓周りの配管が折れ、さらに勢いよく水が噴き出してきた。あたり一面水浸しだ。

「あら」「まあ」先ほどのメイド安達さんを含む数人が駆けつけてきた。廊下にまで水が広がっている。

 おれは叫んだ。「元止水栓はどこですか!」

「元栓なら、裏口を出たすぐ横ですけど」安達さんがこんなときにも足をそろえ、両手を前に組んで落ち着いて言う。

「案内を!」おれは叫ぶ。

 右手にモンキーレンチ、左手にマイナスドライバを握ったままおれは走るメイドさんの後について走った。メイドさんが指差す鉄の蓋を開け、モンキーレンチを突っ込んで今度こそ水は止まった。

「あら大変」いつの間にか来た鬼門がのんびりと言う。「大丈夫?」

「はい、庶民の彼氏が手早く応対してくれたので、すぐに止まりました」安達さんが言う。あのー、そもそも水が出たのはおれのせいなんですけど。

「ふうん。いざというときは役に立つのね。執事に向いてるかも」おことわりします。

「ついでに電球も変えてくれる?」あ、あの。おれで良ければ。

 罪悪感に苛まされたおれは、家の電球も変えることになった。このセバスチャン化から脱出しなければ。というか静お嬢様。あなたは完全にお嬢様がはまり役なんですけど。その命令し慣れた様子はどう見ても努力する庶民の少女にはみえませんっ。


     *


 片づけが済んで食堂に戻ると鬼門のおじさんが長テーブルの反対側の端にある席についていた。

「お父さん」鬼門がつぶやく。おれは直立不動で礼をしてあいさつし、自己紹介した。おじさんはにこにこしながら何度もうなずいて聞いていた。

 あれ。でも目は笑っていない。全然笑っていない。おれのことを築地卸市場の仲買人がマグロを見るような目つきで眺めている。いや、被害妄想じゃないぜ。おれの頭のてっぺんからつま先までスキャンするみたいに見たんだから。

「いや、静のボーイフレンドだと言うから、どんな男かなと気になってなあ」

「お父さん! そんなんじゃないわよ」鬼門が叫ぶ。「辰巳くんはクラスメートでわたしと一緒に学級委員の仕事をしているのよ」

「そ、そうか。静。お前がそう言うのなら」とたんにおじさんは好々爺然として総合を崩す。

「ま、じゃあ、お近づきの印に秘蔵のワインでも。ああ、未成年だったな。じゃあ色が同じだからブドウジュースで乾杯といこう」

 鬼門大門氏はテーブルの上の呼び鈴を取り上げようとしたが、娘はそれを制した。

「お父さん。それくらいわたしが取ってくるわ」答えを聞くより先に駆けだして行った。

 鬼門静が食堂を出ると沈黙がその場に満ちた。おれは気まずかったので何か言おうとしたが、それより先に鬼門氏が口をきった。

「辰巳一馬くん」

「はい」

「君はなかなかの好青年だな。静をよろしく頼む」

「はあ」

「あれはついこの間まで女学校にいたのに急に「自分の道は自分で切り開く」とか言ってわたしに相談もなしに転校してしまったのだ。きみは……その……なにか聞いているかな」

「はっ?」

「静と学校で話すだろう。なぜまた急に学校を変わりたくなったのかとか、そういう話を聞かなかったかね」

「いえ」

「ついこの間までとても素直な子だったのだ。美しく長い黒髪をなびかせて、あの茶髪は……わしの世代には軽薄すぎるように見えるが、どう思う?」

 え、あの髪は最近切ったばかりなのか。

「え、と。学校では普通ですけど」

「そうか」鬼門氏は急におれに興味をなくしたようだった。再び眼光が鋭くなる。

「君は静と親しくしているそうだな」

「え、いや、そうでもありませんが」

「ほう。じゃあ自転車に乗る練習を手伝ったのは親しくないというのかな」

「え、あ、はあ」なんで知ってるんだ! 監視していたのかっ!

「まあいい。だが静のボーイフレンドになろうというのなら言っておくことがある。父親であるわたしの決めたルールだ」

「いえそのボーイフレンドだなんて……」

 おれに構わず鬼門氏は続けた。

「ルールその1。静の首から下をじろじろと見ないように。静がどんな服装をしようともだ」

 はあ。

「さっき司書の佐久間に対してしたような目つきで身体を見てはいけない」

 げっ見てたのか。

「もちろん。身体に触るのは論外だ。静が転びそうになったときや不安定な場所で助ける目的にだけ支えるために手首から先を握ることは許可する。いいか。私は常に報告を受け続けている」

 報告を受け続けているってどんなスパイ組織だよ!

「ルールその2」鬼門氏は平然と続けた。

「世間では未成年が平然と不純異性交遊しても認める風潮だ」

 『不純異性交遊』っていつの時代の言葉ですか。

「だが、鬼門家は違う。私の配下の黒服の男たちはそこがどんな建物あっても六十秒で打ち破り、侵入できるだけの訓練を受けている。ヤクザ程度は敵ではない。事故を避ける意味でも彼女と二人っきりになる場所に行ってはいけない。映画館のように暗闇でこっそりと手を握ったりふとももに触れたりできるような場所では暗視装置を使って監視しているからそのつもりで。映画も女性の感情をその気にさせる極度にロマンチックなものや恐怖に叫んで抱きついたりする可能性のあるホラーは厳禁だ」

 あの。なんかむちゃくちゃ怖いんですけど。

「ルールその3。静はわたしの宝だ。彼女を泣かせたり裏切ったりした場合、その代償を払うこととなる。わたしは散弾銃の免許を持っているし、クレー射撃大会のトロフィーがあそこに並んでいるのが見えるだろう。草木が生い茂って外から見えない広い裏庭もあるし、物置にはパワーショベルもある。口の堅い男たちもいる。見ろ」

 鬼門氏が手を振ると奥の扉が開き黒服サングラスの男たちがずらりと並んでいるのが見えた。再び鬼門氏が手を振ると男たちは扉を閉めた。

「くれぐれも気をつけることだ。これが過ちの多い青少年に対する人生の先輩の心よりの忠告だ」


 おれまだ死にたくないんですけど。


 なにも知らない鬼門静が戻ってきてワイングラスにぶどうジュースをそそいだ。

「はい、どうぞ」鬼門静がおれの前にジュースの入ったワイングラスを置くと、鬼門氏の目がきらりと光ったような気がした。続いて鬼門静はワインを父親の前にあるワイングラスにそそぐ。

「はいどうぞ、お父さん」

「しずかちゃーん、あ・り・が・とっ」マフィア親父は相好をくずしてデレデレになる。先ほどの人物と同じとは信じられない。

「お父さん」鬼門静がおれの方をちらと見て父親に囁く「やめてよ、ひとの前で」

「もう、つれないなあ。しずかちゃん。この頃一緒にお風呂に入ってくれないし」

「ば、ばかっ、お父さんのばかっ。この頃っていつの話してんのよ。ひとが聞いたら誤解するでしょ!」

 鬼門静は赤くなる。おれはあごが落ちそうになった。この変態おやじ。

 鬼門静はおれの方を見て言う。

「お、お風呂に一緒に入っていたってのは小学校に入る前のことだから。ほんとだから」

 その念押しが痛い。そんな彼女の背後でおれの顔を見て鬼門氏はしてやったりという表情をした。このおっさん、大人のずるさと小学生並みの精神年齢の持ち主のようだ。

「しずかちゃん。誤解されてもパパはちーっとも構わないよ」

「わたしが構うわよ」

「なんで」

「そ、それは」鬼門静はおれの顔をちらっと見てうつむいた。その様子を見て、鬼門氏の目が冷たく細められる。

「ま、いいや。悪かったね。雰囲気を壊して」鬼門氏は急に態度を変えた。

「では、君たちの高校生活の前途を祝して、かんぱーい」

 おれたちは形だけの乾杯を行ったが、おれはぶどうジュースの味が分からなかった。


 食事が始まった。最初の衝撃が過ぎるとおれは落ち着いてきて食べ物の味も分かるようになった。いや、これ旨いわ。おれの家と同じご飯と焼き魚、漬物なのに、なんか質がぜんぜん違う。金があるとこれくらい暮らしが違ってくるんだ。おれは飯が旨ければ旨いほど気がめいってきた。メイドの安達さんが両手を前に組んで、直立不動で後ろに控えている。

「あ、ちょっとそこのしょうゆ入れ、取ってくれる?」鬼門が言ったが、安達さんは動かない。おれがそれを不思議そうに見ていると鬼門がちょっといらいらした様子で言った。「あなたよ。あなたに頼んでいるの」そうなら先にそうと言えよ。

 おれが不思議そうに安達さんを見つめていると鬼門はぎろり、とおれをにらみ付けて言った。「なによ。彼女の顔に何かついているの」

「いや、そういうわけじゃないけど、彼女はメイドさんなのになんでお手伝いしないの」

「わたしがそう頼んでいるからよ」鬼門は箸の先で器用に魚の身をほぐしながら言った。

 「わたしはなんでも自分のことは自分でやるように一つずつ練習するからわたしがクリアしたことには手を出さないでって」

 クリアって。そんなハードル高いことか、しょうゆ入れ取るの。

 おれがしょうゆ入れらしきびんを取り上げると、そいつは倒れてテーブルから転げ落ちた。おれは椅子から身を乗り出して右手で落ちてゆくしょうゆ入れをはっしとつかんだ。しかしそのために左手でつかんだのがテーブルクロスだった。倒れそうになるおれが自分の身体を支えようとテーブルクロスを引っ張ると、つられてテーブルの上のコップや皿が次々に床に落ちて割れた。ちゃりんちゃりんちゃりん。陶磁器の砕ける音にあわせて後ろに立っている安達さんが口の中でスーパーのレジのような音を立てる。

「マイセンの皿とコップ十五枚、しめて五十五万円なーり」

 最後に鬼門氏の前に立ててあった古そうなワインボトルが倒れて床に落ちた。がちゃん。

「一九五四年もののロマノコンティ、八百五十万円なーり」

 安達さんが機械的な声で読み上げる。もしかして、この人実は意地悪なんじゃない?


マーフィーの法則:壊れやすいものを落としたとき、それを空中でキャッチしようとすると、何もしない場合より、損害が大きい


     *


 食堂での狂騒を抜け出してきたおれと鬼門静は、広大な邸宅の庭を歩いていた。おれはひっくり返った食堂をそのままにしてきたのが気になり、ときどきちらっと後ろを振り返った。先に立って歩いている静はそんなおれを見ているかのように歩きながら言った。

「気にしないで。後片付けは使用人がやるから」

「そ、そうか」

 『使用人』という言葉がさらっと出てくるのに距離を感じる。やはり生粋のお嬢様育ちは違うな、そうおれが考えていると静はふと言った。

「やっぱり成金がお金の力で体面をつくろっても不自然よね」

「へっ?」

「鬼門家って別に由緒ある家系じゃないのよ。今でいうベンチャーかしら。わたしが赤ん坊の頃はわたしの両親は2DKのアパートに住んでいたそうだし、わたしが雅女みやじょに入ったのは小学三年生のころだわ。最初はお嬢様言葉も話せなくて、嫌な思いをしたわ。本が友達だったから平気だったけれど」

 鬼門は背後にかすむ洋館や中庭の雑木林を手で指し示しながら、言った。

「こんなの、ここ十年で手に入れたばかりのもの。由緒正しい家柄の伝統、とかじゃないわ」

 なに、これって逆説的自慢?

 雑木林を縫って道なりに歩いていくと、行く手がぼうと薄明るくなり、開けた場所に出た。地面にやわらかい土が敷き詰めてある。突然光が目を射た。鬼門は右手を目の上にかざし、遠くの建物を見てから笑顔で振り返った。

「お金持ちって窮屈で嫌なことも多いけど、これだけはお金持ちで良かったと思うわ」

 建物に近づくとおなじみの臭いがした。厩舎だ。異邦人の訪問を感じ取って敏感な動物たちが不安げに鼻を鳴らす音が聞こえた。

「ミネルバ!」

 鬼門は一歩前へ歩み出ると四頭並んだ馬の中で一頭だけ白い馬の顔に抱きつくと頬ずりした。まだ若いクォータホース種で、長い額の真ん中にそこだけ金色の毛が生えている。おれは清潔な厩舎をあおいだ。私有地の中に私設の馬場があり、馬もある。確かにお金持ちしかできない趣味だ。

「ここに来るとほっとするわ。馬は素直で他意がないし」

「そうかい」

 おれにとって馬は機材スポーツの機材みたいなものだ。特に思い入れはないが扱い方は知っている。鬼門はポケットから缶を取り出してふたを開け人差し指を差し込んで中身を出すと馬の鼻面に突きつけた。白馬は長い舌で鬼門の指をなめ出した。

「ミネルバはバターが大好物なのよ」

 そう言う鬼門は再び少女の顔をした。おれはなんだかまた鬼門の別の面を見た気がした。

 この子、中身はわりと普通の女の子かもしれない。でも周りがお嬢様であることを求めているからお嬢様を演技しているのかしらん。

「ええと、武田はどこへ行ったのかな」

 鬼門はあたりを見回したが、中へ入ると薄暗い厩舎には人影はなかった。

「困ったわ。わたしでは鞍がつけられないし」

 いつもは専門の世話係がいて、馬具もつけてあげるのだろう。

「おれがやろうか」つい言ってしまった。鬼門は不思議そうな顔で問う。

「できる?」

 おれはセオリー通りにほーいほーいと低い声で呼びかけ、馬の斜め左からそっと近づき、ゆっくりとたてがみをつかんで優しく鼻面をなでた。

 最初はちょっと驚いて鼻を鳴らした馬が徐々に警戒を解いてリラックスしてゆく。おれは自信を持って馬を誘導した。馬には扱う人間の自信が伝わる。ハミをつけてから鞍を背中に載せ、腹帯を締めるまで一分で完了した。

 手綱を差し出すと鬼門があっけにとられたような顔つきをしていたので、ちょっとおどけてひざを曲げ、うやうやしく手綱を差し出した。

「はい、お姫様。用意ができましたよ」

 鬼門はそれを驚いた表情のままで聞いていたが、しばらくするとぶるっと身体を震わせておれをもう一度まじまじと見た。

「あ、あなた、辰巳くんよね」

「そうだけど」

「そう」

 鬼門は横向きにうつむいてぶつぶつと独り言をつぶやいていた。そのまま上の空でスイングドアを開いて外に出ようとし、そのまま手を離した。スイングドアはばねの力で勢いよく戻り、白馬の鼻に当たりそうになった。馬は驚いて飛びすさり、ひょうしに手綱が引かれた。

 おおっと。

 おれは反射的に身体が動くと鬼門の二の腕をつかんで身体を支えた。手綱を取り、前足を上げた馬をいなして両足でしっかりと立つ。鬼門はそのままバランスを崩し、おれの手元に倒れこんできた。おれの両腕に柔らかい感触が乗っかった。

 世界が一瞬止まった。

 鬼門は体を硬くすると次の瞬間にはもがいて起きようとした。おれもあわてて鬼門を抱き起こす。

「え、ええと」

 鬼門は顔を赤くしてもじもじしていた。おれはそれどころではない。周囲を見回した。

 厩舎の天井近くにあるあの火災報知機、もしかしたら隠し監視カメラかも。スイングドアの向こう側を目をやると遠くの藪がきらりと光ったような気がした。そのすぐ後に藪を黒服が横切ったように見えた。

 や、やばい。手首より先を握ってしまった。殺される。

「あ、ありがとう」

 遅ればせながら鬼門が礼を言ったが、おれは気が気ではなく、きょろきょろとあたりを見回し続けた。

「ま、まあな。大丈夫か」

「え、ええ」

 ぎこちないことこの上ない。おれも生命の危機がなければ先ほどの感触をもう一度かみしめるのだが。あれは事故だ、事故なんだ。信じてくれ。

「じゃ、じゃあ外に出ましょう」

 鬼門よ頼む。もう少し自然に振舞ってくれ。でないとおれがあらぬ疑いをかけられて処刑されてしまうぞ。

 厩舎の外へ馬を引いて出た。

 外はいつの間にか暗くなっていた。馬場を照らしていた照明がすべて落ちており、それでようやく夜空が晴れているのがわかった。満月が馬場を煌々と照らしていた。鬼門が馬にまたがり、おれは手綱を引いて歩いた。

「わたしの家見たでしょ」鬼門は聞き取れないほど小さな声で言ったが、星空と同じく、鬼門邸宅の庭にはその声を邪魔する外の喧騒は聞こえなかった。

「ああいう怪しい人たちがたくさんお父さんに取り入ろうと入ってくるの」

「大変だな」

 おれは自分の家を思い出した。客など呼べるような広さも設備もないぼろい我が家。でも帰ると一番くつろげる。小さくて、暖かい、普通の庶民の家だ。

「付け焼刃の上流階級趣味。お金にあかせて集めた骨董家具や絵画。本当の価値なんてわからない」鬼門は続けた。

「あのメイドやドアボーイも雇われ。別に忠誠心があるわけじゃない。うちにお金がなくなったらすぐにいなくなる人たち」

「お父さんは調子に乗って成金らしくしているけれど、お母さんはそういうのが嫌みたい。わたしもできれば普通の女子高生でありたいの。でも小学校から身に着けさせられた作法や言葉遣いを改めるのってけっこう難しいわね。学校にいるときと家にいるとき、考えるときと話すときに違う言葉遣いになったりして。あら、やだ。わたし、なんでこんな話をあなたにしてるのかしら」

 鬼門は口ごもった。振り返って確かめなかったが、きっと赤くなってる。


「ねえ、あなたの家へ行ってもいい?」

 唐突に鬼門静が言った。おれはまごついてどんな返答をしたらいいのかわからなかった。

 振り返ると、満月のように輝く笑顔がおれを見つめていた。

「え、お、おれの家?」おれの脳裏にぼろい我が家と鬼門の邸宅を比べる映像が閃いた。

「な、なんで?」

「あなた庶民でしょ。庶民の家の生活を知りたいの。がんばってそれを身に着けて、普通の女の子としてデビューするの」

「それってがんばって身に着けるようなもんか?」やっぱり鬼門って、なんかずれてるな。

「形から入って心にいたるものもたくさんあるわ。とにかくあなたは庶民を知っている。それを教えてくれればいいの。その手始めにまず庶民の家で食事」

「え、おれの家で食うの?」

 おれの脳裏にささやかな我が家の食事と鬼門家の豪華な食堂の情景がちらついた。

「それは……」

「いーじゃない。今日うちでご飯食べたでしょ。あなたのうちのご飯が食べたいの」

「だ、駄目だよ」

「ねえ、お願い」

「こ、困るよ」おれは力なく言った。

「教えてちょうだい。ねっ」


     *


 次の休日、おれの家はてんやわんやだった。母親は特製料理を作ると言い出し、新しいオーブンを買おうとしたがおれが必死になって止めた。

「母さん。鬼門は庶民の生活が知りたいんだ。頼むから普通にしてくれ。普通の料理でいいんだよ、普段おれたちが食べているような」

「これで粗相はないかな」父が奥の部屋からタキシード姿で現れた。

「父さん! やめてくれ。頼むから。ここは自分の家だよ。普通の服でいいんだって」

「社交界のパーティーで『普通の』服でいらしてください、と言われたら礼服で来いって意味じゃないの」と母。

「そうだろう」と父。

「それとこれとは違う。鬼門は個人的に来るんだから」

「個人的」母がにんまりする。

「個人的」父もにんまりする。

 二人は顔を見合わせると、ひそひそ話を始めた。「逆玉の輿」とか「あの数馬がうまくやった」「今まで育てた甲斐があった」とか言うのが聞こえる。おれは自分の顔が熱くなるのを感じた。親って恥ずかしい。

「とにかく、鬼門が来たら注意して欲しいんだ。鬼門は金持ちだから、とか、世間知らずのお嬢様、とか言われることをすごく気にする。だから、そういう言動があってもそ知らぬふりをしてくれ」

「うむ。心得た」父が口をへの字に結んでうなずく。

 二階に上がって自室の窓から外を見ると表の道路にすでに交通整理の警官が配置され、警備の警察官や黒服の男たちがトランシーバーを手に忙しく動き回るのが見えた。この区画一帯を一時的に封鎖するようだ。兄はいつものように自室にこもっていて、なんの音もしない。

 表にバイクや車の止まる音がした。おれは玄関に出てつっかけを履き、ドアを開けた。

 ちょうど門の前を赤色回転灯をつけた二台の白バイに先導され、黒塗りのリムジンが数台通過し、その三台目がちょうど門の前で止まった。すぐに運転手が降り立ち、後部席のドアを開けた。中から怒った声が聞こえた。

「だ・か・ら! 最初からわたしは一人で行くって言ったのに。どうしてこう大げさにするのよ!」

「ご学友のお宅へ訪問するからには、失礼があってはならないとお父上が」

「それが余計なことなのよ!」

 おれが見ていることに気づくと鬼門はさっと笑顔になってリムジンから降り立った。降りるときにぴたりと膝をあわせたまま両足をそろえる動作が板についている。後ろを向いて言う。

「とにかく島田、今日はあなたも来ないでちょうだい。すぐにみんなを返して、道路封鎖も解いて、制服警官もなしよ。今すぐに! ……え、帰り? いいのよ。辰巳くんに送ってもらうから」

 大名行列の一団が去り、道路の彼方に見えなくなると鬼門は改めておれに向いてにっこりした。ひざ下まで隠したタータンチェックのスカートにパフ袖のピンクのブラウス。おとなしめのお嬢様ルック。何を着ても可愛い。外見は。

 おれが鬼門をエスコートしてドアを開けると父と母が正座して待っていた。さすがに父は普段着に着替えてくれたが。

「あら、じいやさんばあやさん?」なにげに鬼門が爆弾発言する。

「いや、おれの両親」

「あっ! こ、これは、失礼しました。初めまして」

 鬼門は真っ赤になっておじぎした。

「わたくし鬼門静と申します。どうぞお見知りおきくださいませ」

 それに対し両親は両手を床について「は、はー」と黄門様の前の町人のようにお辞儀する。泣けるぜ。

「このたびは当辰巳家へご来訪されまして、まことに恐縮至極でございます。なにか無礼がございましたら、平にご容赦を」

 親父。完全に時代劇の見すぎだぜ。

 鬼門は好奇心をむき出しにして我が家を観察した。どの部屋も鬼門家のエレベーターくらいの大きさしかない。鬼門を居間兼応接間に通すとソファーにお行儀良く座った。控えめながらきょろきょろとあたりを見回す。

「ね、ね、あれパソコン?」

 部屋の隅に置いてあるテレビを指差しておれに耳打ちした。

「いや。テレビだよ」

「ふーん。一人用なの?」

 そりゃお嬢様は70インチ以下のは見たことないでしょうけれど。

「いや、庶民の家ではあれが普通サイズ」

「へーえ。みんな目がいいのね」

 え?

「あんな小さい画面でも出てくる人の顔がわかるんだもの」

 それは聞きようによっては侮辱だぞ。

「ね、ね、あの箱はなに?」

「エアコン」

「へえ。わたしの家にはないわ。最新式?」

 いや、鬼門の家なら天井に作りつけのやつだろう。

「あれは?」

「扇風機」

「へえ。あら、ここを押すと羽が回るわ!」

 確かに全室完全空調のお屋敷では見ないアイテムだろう。鬼門の好奇心はとどまることがなかった。

「ねえ。お台所はどこ?」

「もう腹へったのか?」

「ううん。作っているところを見たいの」

 おれは応接間から歩いてきっかり三秒の台所を案内した。ちょうど母がカキフライの下ごしらえを始めたところだった。鬼門の目が輝いた。

「わあ。これはなに? どうやって作るの? それで、これは……?」

 矢継ぎ早に質問を浴びせる。母も最初はかしこまって答えていたが、だんだんと打ち解けてきた。

「本当はわたし、お料理を習いたいの。家では厨房に入らせてもらえないから」

「こんなもんでよけりゃ、いくらでも教えてあげますよ」母も請合う。ちょこっとおれのそばによって耳元でささやいた。「なかなか気立てのいい娘さんじゃないか」

「台所は狭いから男は出てった出てった」

 台所から追い出されたおれは、手持ち無沙汰に応接間でテレビガイドなどをぱらぱらとめくっていたが、行き場のない父もやってきた。二人で無言でソファーに座る。台所からはすっかり仲良くなった母と鬼門の笑い声が聞こえてくる。

 父がぼそっと言った。

「町人の家で姫様が料理をして、それを町人が食う。江戸時代なら切腹ものだな。いや切腹は武士だから打ち首か」

 親父っ! だから時代劇の見すぎだっての。


 食事は辰巳家ではごちそうのカキフライ定食だった。おれも父も腹がぺこぺこだったのは、フライのころも付けやキャベツの千切りに鬼門が挑戦し、それぞれの仕事をそれはそれは丁寧にやったためだった。つまりすごく遅かった。

 外では夕暮れのカラスが鳴いている。

 母がしじみの味噌汁をお椀によそうと、鬼門はそれをものすごく慎重な手つきでテーブルに配った。

 一同、席について食事が始まった。おれはクラスメートだから固くなる理由はない。母はわずかの間に鬼門とすっかり打ち解けてしまった。

「あなたは筋がいいよ。すぐに料理も上手になるよ」なんて母が言うと、鬼門は目を輝かせて「本当ですか。もっと練習してがんばります」とか答える。

 その中で父だけが固まったまま黙々と食い物を口に運んでいた。

「おいしい!」鬼門は声をあげる。「自分で作るとこんなにおいしいなんて」

 いや。昼食を夕食の時間まで引き延ばされたらなんでもおいしいって。

「今度のタスクはカキフライだな」

 おれはもごもごと口を動かしながら言った。

「ええと」鬼門があたりを見回す。おれは気づいた。

「ナプキンならないよ。庶民はそういうものを使う習慣はない」

「そ、そうなの」

「ほら、気をつけて。ソースがきれいな服についちゃった」

 母の言うとおり、はねたドーベルマンソースが鬼門のブラウスのそでを汚していた。

「あら大変」

 母は濡れふきんでたたくようにブラウスを拭きながら言った。

「素敵なブラウスねえ。どこで買ったの?」

「え?」

「銀座のデパートかしらねえ」

「えと、いつもピエールって人が来てサイズを測ってくれるんだけど……」

 辰巳家に沈黙が降りた。

 父が母に目配せを送る。

 鬼門家のお嬢様は服を自分で買ったことがないらしい。いわゆるオートクチュールというオーダーメードだね。

 微妙に変わった空気を鬼門は目ざとく読んだ。

「わたし、なにか変なことを言ったのね」

「いや、気にするな」

「庶民としてはどうなの? 服はどうするの?」

 母があわてて取り繕うとする。

「いえ。お嬢様はそんなことを気にしなくても」

「気にするわ。気にするからここへ来たの。辰巳家ではどうやって服を作るの?」

「ええと、『イナムラ』のバーゲンセールで……」母がしどろもどろになる。

 事態を収拾するためにおれは立ち上がった。

「世間の女の子は可愛い服をゲットするために『ブティック』というところへ行く」

「まあ」

「『ブティック』は原宿が中心地だ」

 原宿以外の全ての街にブーイングを受けそうだが、おれは言い切った。

「庶民の女の子を学習するための次のミッションは……原宿でショッピングだ!」

「わ、分かったわ」

 なんかこいつの扱い方が段々分かってきたぞ。あれ、もちろんおれが言いだしっぺだからおれが連れてくんだよね? すると……鬼門とおれとで原宿ショッピング?

 デートじゃん!

 ふと、おれが目を上げると、道の反対側に陣取った黒服を着た男たちが超望遠レンズつきのカメラを構えてこちらを監視しているのが台所の小さな窓から見えた。

 おれのわきの下にさりげなく汗が流れた。

「約束ね。じゃあ来週の日曜日は『原宿へ行く』ということで」

「おう」

 おれは冷や汗をかいたままガッツポーズをとった。


     *


 家で食事をしたが、その後おれと鬼門との間には何もなかった。はい、本当です。何もありませんでした。


「本当になにもなかったんです!」

「ちょっとなによ。急に大声出して。どうかしたの」

 何も知らない鬼門が上目でおれをにらむ。

 おれは微苦笑を浮かべて鬼門を見た。


 ここは原宿。若者の町原宿。おれは鬼門との約束どおり、普通の女の子の練習をする相手として庶民の休日シミュレーションに付き合うことになったのだった。

 ここに来るまでも一苦労だった。鬼門家の前で待ち合わせているとかなり待たされた末、ふくれっ面の鬼門の背後にはぴしっとスーツを着込み蝶ネクタイを締めた島田さんが付き添っていた。どうやら出かけるときにひと悶着あったらしい。

 一緒にバスに乗ると、初めてバスに乗る鬼門ははしゃいで回りに聞こえるような大きな声で「まあ、大きいのね。チケットはないの? 予約席じゃなくてどこに座ってもいいんですって?」と騒ぎ出し、挙句の果てには後ろの景色が見えるから、と最後部の席にひざ立ちして後ろ向きに座り(子供かっ!)、しばらくすると気分が悪くなったと真っ青な顔でうつむいていた(そりゃそうだ)。

 しかし、駅に着くと再び元気を取り戻し、駅の構内ではあたりをきょろきょろと見回し、電車に乗ってからも「きゃあ」とか「ねえ、あれなに」とかおれの服を引っ張った。

 執事の島田さんは何も言わずに傍らに立っているので、一見二人きりに見えるからデートみたいかと思っていたが、これじゃ小学生の引率だ。

 おれの方はまんざらでもなかったと言いたいところだが、鬼門静護衛部隊の面々、あれどうにかならないか。こっそり尾行しているつもりなのかもしれないけど、黒い背広に黒メガネって、都会では忍者装束くらい目立つよね。原宿のカラフルな装いがあふれる街で、百メートルくらいの距離を置いてエージェント・スミスみたいのが何人もいるのだから、すれ違う人たちもちょっと引き気味に「わっあれなにっ」って感じで遠巻きにしている。

 中には周りをきょろきょろ見ている人もいる。分かるよ、その気持ち。カメラを探してるんだね。映画のロケと思ってるんだな。その誰でも違和感を感じる黒服黒メガネたちだが、鬼門は全く気づいていないようだった。

「あら、これなに。ねえねえ」

 普通のブティックやクレープ屋やトルコ・ケバブの店などを見るたびに好奇心むき出しの大きな目を開き、おれの服を引っ張る。周りの視線が気になった。おれたちって、他人からはどう見えるんだろう。

「ねえ、あの人たちってカップルかしら」

「ん、いや違うだろ。女の子の方は育ちがいいけれど、男は地味だしよ。お嬢様と使用人って感じじゃね?」

 がっくりきた。他人のささやき声なんか耳に入らなきゃよかった。そんなおれの気も知らず、鬼門はブティックの一つに入った。おれもお目付け役として続いた。

 店内はフリルとハーブの香りに満ちていた。男子だけなら決して入らない領域だ。おれも島田さんも鬼門から少し距離をとって眺めていた。鬼門はきゃあ、とか素敵、とか叫んでいる。少々はしゃぎすぎだ。

「お嬢様は、店で買い物をするのはこれが初めてでらっしゃいますからな」

 おれの隣で立っている島田さんがぼそりとつぶやいた。

「いつもはどうしてるんですか」

「六越デパートのお帳場が家まで来ますから」

 それ以上聞くのをやめた。『お帳場』という言葉は初めて聞くが、意味はなんとなく分かった。つまり鬼門家には店の方から出向いてくるから鬼門は普通に店で買い物したことがないんだ。

 おれには未知の世界だ。

 騒いでいた鬼門はフリルのついたピンクのドレスを一着手に取ると胸に当ててみてこちらを振り返った。

「どうお、似合うかしら」

 何を着せても似合うよ。ギャル系のその店の店員は濃い化粧に長い付けまつげをつけ、ほとんど素顔がわからない。猛禽類のように長い付け爪を振って鬼門に色々とアドバイスしている接客ボイスがここまで届く。もうタメ口になっている。

 見る見るうちに鬼門はギャルアイテムを装備しギャル化していった。試着室から出てきた鬼門は「ちょっと腰のあたりがゆるいの。手直ししてくださる」と言った。店員の空気がさっと変わる。

「ええと、申し訳ありませんがお客様……」

 おれは助け舟を出した。

「鬼門。鬼門。ここはオーダーの店じゃないから。普通の店は服を売るだけでサイズを変えたりはしてくれないんだよ」

 鬼門は目を大きく見開いて囁いた。

「え、そ、そうなの」

 支払いの段になって、鬼門はさも慣れた手つきでハンドバッグから小切手と銀色のボールペンを出すと「おいくら?」と聞いた。その調子に再び店員の顔がこわばる。店内にいた他の客も少し敵意のこもった視線を向ける。ここはどちらかといえばそれほどお金のない若い人に人気の店だ。おれはつい言ってしまった。

「そんなの持っている高校生なんて、いない」

 おれの言葉に鬼門がかっとなったのがわかった。急に無表情になると、サインした小切手をびりびりとちぎり始めた。今度は島田さんがあわてる。

「お、お待ちください。未使用小切手は破り捨ててはいけません。後で税務署が……」

 鬼門ははっとして手を止め破りかけの小切手を島田さんに渡した。

「わたし、間違ったことをしたのね」

「大丈夫です、お嬢様」

「やっぱりわたしは世間知らずなんだわ」

「ここはわたくしが」

 島田さんが財布を取り出すと、鬼門はむきになって止めた。

「わたし、普通の女の子みたいに買い物がしたいの。頼むから邪魔しないでよ」

 鬼門が代わりに支払いをしようとした島田さんと店員の間に割って入り、ハンドバッグから出したのは今度はさん然と輝く黒色のクレジットカードだった。

「ブ、ブラックカード」

 店員を含む店内の全員が引いた。店内の体感温度は推定五度は下がっただろう。ギャル系の店員はたちまちのうちに呉服店の番頭モードになり、もみ手をはじめた。

「お嬢様。この他にこれなぞお似合いでございますよ」

 鬼門は目を大きく見開き、体をこわばらせていたが、一言言った。

「わたし、なにか間違ったことをしたのね」

「いいえ、お嬢様」

「普通の女の子みたいに買い物がしたかったのに、なにかそれらしくないことをしたんだわ。きっとそうよ」

 いや、そもそも小切手とブラックカードしか知らない段階で一般人としてはもうアウトだと思うけど。

 おれはなぐさめてやった。

「後で教えるからとりあえず外出よ」

「いやよ。みんなでわたしをもの知らずと馬鹿にしてるんだわ」

「いや、まさか」確かにすごい温度差ではあるが。

「せっかく普通の女の子になりたいのに」

 仕方ない。これは普通の言い方ではきかないようだ。おれはこほん、と咳払いをすると、医者が患者に不治の病を告知するように重々しく言った。

「確かに君は致命的な失敗を犯した。だが、これを糧にして今度こそ普通の女の子道へと明日につなげようじゃないか」

「明日へ?」

「そう。きみは努力している。いつかその成果はきっと実るよ」ああ歯が浮く。

「あ、ありがとう。なんだかわたし、希望がわいてきたわ」

「じゃ、ともかく今は外へ」

「外へ出たら忌憚ない意見を教えてくれるのね」

「ああ、約束する」

「わかったわ。じゃああなたの言うとおりにする」

 鬼門はおれの腕をつかんだ。やばい。結局おれがなけなしの現金で立て替えて店を出た。鬼門はおれの腕をつかんだままだ。おれが周囲を見回すと、黒服たちが四方で監視している。おれたちの二メートル後ろには島田さんがついてきている。おれは鬼門にだけ聞こえる声で言った。

「あのさ。そんなにくっつかないでくれる?」

「あら、ごめんなさい?」

「というか、少し距離を保ってこちらを見ている黒服たちに気づいてる?」

「え?」

 鬼門は首をぐるりとまわして見ようとした。おれはあわててそれを止める。

「だ、駄目だよ。気づかれないように見て」

 鬼門はちょっとためらったが、何か思いついたような顔をするとハンドバッグからスマートフォンを取り出して画面を見るふりをしながら鏡のように使い周囲をさりげなく確認した。

「ええ。そういえば黒服が多いわね。葬儀屋かしら」

「あれはきみの護衛だ」

「えっ」

「外出時にはいつもついているはずだ。知らなかったのか」

 黙ってしまった。知らなかったようだ。

「きみに近づく男がいないか見張ってる。こうやって手を握るのもまずいんだ」

「お父さんね」

「そう」

「仕方ない、わたしの自由にさせる、みたいなことを言っておいて、本当はかごの鳥なんだわ、わたしは」

「まあ、仕方ない部分もあると思うよ。金持ちだし」

「わたしはいやよ」

 鬼門は思いつめたような表情になったが、おれに囁いた。

「ねえ、あなた今日一日付き合うって約束したでしょ」

「お、おう」

「じゃあ、一緒に来てよ」

「どこへ……」

 おれが問い終わる前に突然鬼門は駆け出した。おれも手をひかれて一緒に走る。裏路地を抜け、別の通りに出ると通りかかったタクシーを呼び止めた。

「早く、早く出して」

 ブラックカードの効果抜群でタクシーはミズスマシのように走り出した。おれが後ろを振り向くと黒服たちが後から走ってくる。トランシーバーになにか怒鳴っているのもいる。ただちに黒塗りのセダンが追いかけてきた。次の角で鬼門はタクシーを止め、おれたちは降りた。そのままデパートの正面玄関から入り、化粧品売り場を駆け抜けた。

 警備員がなにかを叫んで止めようとしたが、鬼門が走りながらブラックカードをかざすとモーゼが海に杖を投げたときのように人並みが左右に割れ、道ができた。おれたちはそのまま真っ直ぐ進んで裏口から出、そこで再び来あわせたタクシーを拾った。二町先でそのタクシーを乗り捨てた。そのようなことを何度か繰り返すうちにやがて黒服は見えなくなった。

「どう、まだ追いかけてくる?」

「いや、あれでもまだ尾行できるとは思わないが」

「が?」

「後できみの父さんになんと言われるか」

「ふん、いくじなし」

 いやー、そう言われてもねえ。勇気ではショットガンに立ち向かえないし。おれまだ土の下に埋められるのやだし。

 おれが空を仰ぐと、おれたちの(いやおれの)前途のように黒雲が沸き起こってきた。

「雨が降りそうな雲行きだな」

「そうお?」

「用心に傘を買っておこう」

 用心ではない。傘を持っていなければ確実に雨になる。傘を持っている限り、雨は降らない。


 マーフィーの法則:傘を持って出ないと雨が降る。


「またあ、大げさね」

「きみはいつも車で移動だからね」

「え、いいえ。わたしが外出中に外で雨が降ったことはないわ」

 おれは黙っていた。鬼門っておれと真逆なのかも。おれなら傘をもってなければ確実に雨になる。鬼門が外出すると決して雨は降らない。おれは不運続きだけれど、幸運ばかり続くっていうのはどんな気分なんだろう。

 そんなことを考えているうちに空はどんどん暗くなってきた。風は湿気をはらみ、重く肌をなぶった。


 おれは街角の新聞販売店でビニール傘を買った。もし暴風雨が来ればこんなものでは役に立たないが、ないよりましだろう。しかしおれがビニール傘を持って歩き始めると空は暗いままいつまでたっても雨は降り始めなかった。


     *


 天候とは裏腹に鬼門はうきうきしていた。イタリアンジェラートを買って食べたり、ウィンドーショッピングをすること一つ一つを心から楽しんでいた。

 おれはときどきそっとあたりを見回したが、黒服はいなかった。どうやら本当にまいたようだ。

 しかし身近に危険は迫っていた。おれは誰かの視線を感じ、同時にいつもの後ろ髪がちくちくとする感覚が訪れた。おれは後ろを見てそれから前を見た。正面に暴力の気を発している三人組の男たちがいた。スキップでもしたそうにせわしなく動く鬼門を抑え、おれは一歩前に出た。

「なによ」

 言いかけた鬼門の動きが止まる。

 男たちは落ち着いて散開し正面の道をふさいだ。後も見ずに今来た方向へ駆け出せば、おれ一人なら逃げられるだろう。だが鬼門を連れてじゃ無理だ。おれは黒服たちを振り切ったことを後悔した。今ほど彼らが必要なときはない。しかし鬼門と一緒に歩くのなら、こういった事態を引き受けるのも責任だろう。

「おい、兄ちゃん。楽しそうだな。おれたちにも彼女とつき合わせてくれよ」

 真ん中の一番背が高く、一番暴力っぽい男が笑みを浮かべながら言った。ただし目は全く笑っていない。

「なに、この人たち」

 鬼門は全く臆さずに聞いた。生まれてから幸運にせよ、親の過保護にせよ、こういった場面に一度も遭遇した経験がないことは明らかだった。

「おじょうちゃん。そんなカスいのと付き合わずにおれたちと一緒に遊ばないか」

「なによ。なによ、あなたたち」

 鬼門はまだ事態が呑み込めていないようだ。

「おれたち不良」右側の太ったにきびだらけが言った。「仕事は彼氏を殴って女を取り上げること」

「どきっ」左側のパンチパーマが言った。

「あ、あなたたち、悪人ね」

 いや、見りゃ分かると思うけど。

「あなたたちなんか、こわくないんだから」

 足が震えてますけど。でも「パパに言いつけてやるから」とか言わないのは感心だ。

「まあまあ、ここはいかにも不良のおれたちが、「彼女ぉ。おれたちと一緒に来れば彼氏には手を出さないでおいてやるぜ」とか言ってすごむ場面だぜ」

 三人はできるだけ下卑た声で笑った。

「あのう、すいません」

 おれはできるだけ低姿勢で言った。

「この子はすごい金持ちの家の子で、結構黒服のボディーガードなんかもいちゃったりして、そのう……手を出さない方がいいと思うんですけど」

 警戒が三人の間をさっと走ったが、用心深くあたりを見回した後で真ん中のやつが言った。

「そりゃ怖え。気をつけなくっちゃな」

「黒服? おれには見えねえが」にきびが言った。

「こいつ、おとなしいふりしてはったりがうめえな」パンチパーマが言った。

 状況は全くよくない。

「あんたたちねえ、どきなさいよ、そこ!」

 鬼門は真ん中のを指差しながら言った。「この、刺青が痛くて途中で逃げ出した軟弱者!」

 真ん中の男の顔色が変わった。

 鬼門はにきびを指差して言った。「この、高校生までオネショしていたガキ!」

 にきびの男がはっとした。

 鬼門はパンチパーマを指差して言った。「この、アートネイチャー!」

 パンチパーマが白目になった。

 どうやら鬼門が適当に言った悪口は全て男たちのトラウマをえぐる図星だったようだ。適当に言った悪口が全て正解というのはそれはそれですごい運かもしれないとは思うが、それによって事態はますます悪化した。

 最初は余裕すら見せていた三人組は、今は最終形態のフリーザよろしく、不気味に沈黙している。額にふつふつと音がしそうな怒りをあらわにしている。こりゃまずいよ。

「あのう」おれはおずおずと言った。「今からでもあやまったら許してくれませんか」

「このガキャ! なめとんか!」

 やば、目がとがってる。こりゃもうどうしようもない。

「だれか! だれか来て!」

 鬼門が叫ぶ。しかし近くにはだれもいない。

 おれは仕方なく鬼門を背後に押して前に出、傘を持って構えた。

「なんだとこら!」

 真ん中の男はあごを上げて三白眼で威圧する。おれの持っているのは百均で売っているような透明ビニール傘で先端も黒くて丸いプラスチックだから凶器には見えない。でもいくら軟質プラスチックでも高速でのどに突き込めばかなり痛い。構えの姿勢に入ると親父に叩き込まれた近代五種の本能が起動した。

「うおおおおおりゃあ!」

 おれは一挙動で前進し、体重を乗せたまま傘の先で男ののどを突いた。男はぐえっと息を吐き、のどをかきむしって倒れた。左右の二人は一瞬あっけにとられたが、すぐに立ち直ると暴力モードに移行した。にきびは折りたたみナイフを開き、パンチパーマは右手にナックルダスターをはめた。ナイフが刺されば死ぬし、ナックルで殴られれば骨が折れる。

「はあああああ!」

 おれは先制攻撃でにきびのみぞおちに傘の先を突きこんだ。リーチが違うからナイフはおれにかすりもしない。丁度胃の中に刺さり、にきびはしゃがみこんでげえげえ吐き出した。

 最後のパンチパーマは慎重に近づいてきた。フェンシングのように突いてきてくれればカウンターを合わせやすいが、どうやらボクシングをやったことのあるような構えだった。ビニール傘で金属製のナックルダスターをまともに受ければ折れてしまう。パンチパーマの力をこめた攻撃をおれはバックステップでかわしたが、すぐに後ろにいる鬼門にぶつかった。もうこれ以上下がれない。パンチパーマが獲物を追い詰めた肉食獣の表情で笑う。

「こらっお前たち!」

 ちらと見ると警備員と警察官が駆けてくるところだった。パンチパーマは一瞬力を抜いた。おれもこれで仲裁してもらえると思って力を抜いた。その一瞬、パンチパーマはこぶしを出した。おれの身体は反射的に反応した。ナックルを受けた傘は真ん中から真っ二つに折れた。

「うおりゃ!」

 おれがそのまま短くなった手元をつきだすと、傘の骨の一本がパンチパーマの鼻の穴に突き刺さった。

「ぐおお」

 パンチパーマが鼻をおさえて獣のようなうめき声を上げると、手の下からどくどくと血があふれ出した。

「おい、動くな」

 警備員たちがおれの肩をつかんでとりおさえる。どうやらおれが悪いように思われているらしい。ちょっと状況とやつらの人相を見て欲しいもんだ。

「この人がいきなりぼくたちに暴力を……」

 おい、パンチパーマ。その面でその台詞言う?

「もう大丈夫だ。おいきみ。ちょっと事務所まで来てもらおうか」

 け、警備員さん。あなたは弱い者の味方じゃないんですか。

「この人たちよ、悪いのは」

 鬼門が言ったが、警備員はおれの腕をつかんだ。

「ちょっと待って」

 先ほどからしげしげとおれの顔を眺めていた警官が警備員を止めた。おれの肩に手を置いて言う。

「きみ、辰巳くんじゃないか」

 あれ、知り合い?

「ほら、昔お父さんが警察学校へ射撃指導に来たとき一緒だったろう」

 そうだっけ。子供のころ確かに親父にあちこち連れまわされたが、この警察官の顔は覚えていない。

「いやあ、オリンピック金メダル取得者であり、警察庁名誉射撃指導教官の辰巳大五郎氏の息子とこんなところで会えるとは」

 あの、その尊敬に満ちたまなざしはやめてくれませんか。オリンピックと聞いて警備員も目をむく。

「彼は金メダル取得者の息子で彩の国プラチナキッズの特別訓練生だよ。未来の金メダル候補だ」

「そうか。じゃあ実はこちらが被害者だというのは本当なんだな」

 やめてください。なにが嫌といって、その分不相応の高評価がとても嫌です。その身分が分かったから態度が変わる、というのがものすごく不快です。水戸黄門、大嫌いです。

 おれはふてくされて言った。

「いえ、からんできたのはそっちですけれど相手を傷つけたのは確かにおれですから、取調べなりなんでもしてください」

「いやあ、そんなわけにはいかないよ。何しろ君は将来日本に金メダルをもたらしてくれる英雄になるんだから、こんなことでスキャンダルにでもなったら申し訳ない。私のほうで調書は適当に書いておくから、早くいきなさい」

 以前、東大生だから何しても周りから正しいと思い込まれる、というギャグマンガがあった気がするが、それと同じくらいナンセンスで嫌味な話だ。

 ちらり、と鬼門を見ると、軽蔑したような目つきでおれのことを見ていた。

 おれたちが立ち去るとき、その警察官は笑顔で敬礼までしてみせた。おれたち二人が通りの向こう側へ向かって歩くと、警察官と警備員が三人の不良を連れて行くのが見えた。ショッピングモールのゲートを出ると、鬼門はいたずらそうな口調で言った。

「へえ、未来の英雄なんだ」

 おれにはそれが嫌味たっぷりの声に聞こえた。

「うるせえな。お前には関係ねえ」

「あら怒ったの?」

「お嬢様には、おれの気持ちなんか分からねえよ」

 鬼門を怒らせるためにわざと「お嬢様」と言ったのだが、今日の鬼門は様子が違った。おれをなだめるような声で「こめんなさい、怒った?」と言うと早足で歩くおれの後から小走りに駈けてきて、おれの隣に並んで歩いた。

「さっきのあなた、すごかったわ」

「おれ?」

「ええ、傘を構えたとたん、別人かと思った。なんというか……その……、憑依したとでも言えばいいのかしら。背が伸びたように錯覚したわ」

「そうかい」

「オリンピックで金メダルをとったのね、あなたのお父さん」

「おれじゃない。おれには関係ねえよ」

「あら、どうして? 家族にそんな人がいて、自慢じゃないの?」

 鬼門は顔の前で指を組んで遠い目をした。

「きっとすごい努力をされたんでしょうね、あなたのお父さん」

 おれは怒りに立ち止まった。鬼門に人差し指を突きつけた。

「おれの親父の話をするな。おれと比べるな。努力、とか言うな」

「なに怒ってるの」

「いいよ。あっち側から帰ってくれ。おれはこっち側の道から行くから」

「まあ」

 ギャルの格好をした鬼門はギャルらしからぬお嬢様の仕草で口に手を当てた。おれは無理やり身体の向きを変えると、ずんずん歩き出した。

「ねえ、わたしを置いていくつもり? ねえ」

 鬼門の声が聞こえないふりをして、おれは歩き出した。ずいぶん歩いてからちょっと振り返ると、肩をいからせた鬼門がおれと反対方向に歩いていく後姿が見えた。

 ちょっと済まない気になって後姿を見送っていたが、後を追いかけるにはプライドが許さず、おれはまた歩き始めた。


     *


 空は黒雲で真っ暗になり、遠くで雷鳴が聞こえた。待つほどのこともなく、大粒の雨がアスファルトを打ち始めた。

 傘が折れたからだ。

 おれが傘を持っている間は雨は降らない。傘が折れると雨は待っていたかのように降る。理不尽な目に遭うのは慣れていたし、日ごろの訓練と比べればびしょぬれになるくらいなんでもない。そう思っていたが、額を流れ落ちる雨水に冷やされてふと鬼門もおれと同じようにずぶぬれなのだろうか、と気がついた。

 おれは立ち止まって後ろを振り返り、考え、そして今来た道を走って引き返した。

 ちっ、お嬢様だからな。放っておくのも可哀想だ。黒服もいないしな。水溜りに靴がはまり大きなしぶきを上げた。ジーンズがひざにへばりつき走りにくい。

 向こうから駈けてくる人影がいた。鬼門だった。おれと鬼門は同時にモールの入り口にたどり着き、アーケードの屋根下に入った。この雨で外の道路に人影はなく、各店のガラスドアはぴっしりと閉ざされている。おれと鬼門は無言で建物を背にして地面に座り込んだ。ちらりと目をやると鬼門の頬にマスカラが流れて黒い筋ができていた。濡れた服がぴったりと身体にくっつき、下着が透けて見える。おれはあわてて目をそらした。

 沈黙がおれたち二人を包み込んだ。鬼門はおれを見ず、正面を向いて体育座りをしていた。

「いやあ、すごい雨だな」

 おれは間をもたせるためのいかにも日本人的な話題を振ったが鬼門はそれに答えなかった。ぽつんと言った。

「どうして戻ってきたの」

「いや、なんとなく、さ。黒服もいないし、女一人じゃ危ないだろ」

「あら、それは心配してくれたということ?」

「ま、まさか。お前なんか」

「そう、でもうれしいわ」

「そうか。傘も壊れたし、なにもしてやれないけどな」

「いいわよ、一人ぼっちより。少なくともみじめな濡れねずみは自分一人じゃないって分かるもの」

 鬼門のこの文学少女的なところがおれ苦手なんだよな。どういうリアクションとる? 調子を合わせて歯の浮く台詞を言うか? もうちょっと普通の言葉で話せよ。

「お前こそ、なんで戻ってきたんだ。おれを追いかけてきたのか?」

「そうよ」

 おれは鼻白んだ。まさかそんなストレートな答えが返ってくるとは思わなかった。声を出すまでに一拍かかった。

「……なんで」

「思い出したことがあって。怒らないで聞いて」

「なんだよ」

「私たちが最初に出会ったとき……あの交通事故のとき、あなた何か落とさなかった?」

「なにか……って?」

「金メダルよ。オリンピックの」

 ああ、そうか。どこでなくしたのかと思っていたが、あのとき落としたんだ。そんなおれの表情を鬼門は読んだようだ。

「やっぱり辰巳くんが落としたのね」

「ああ」

「わたしが拾ったのよ。今度返すわね」

「いいよ」

 なんか脱力感があった。なにかと思ったらそんなことだったんだ。

「なくなったんなら、そのままなくなってしまっても良かったんだ」

「そんなこと。だって大切なものでしょう?」

「いや、おれにはそうでもない」

「だって、あれってすごいことよ。どんな種目であろうと世界中の代表たちが競い合って、一人しか勝ち取ることができないものでしょ。その背後にはそれぞれの競技者の血のにじむような努力の積み重ねがあって……」

「だから見たくねえんだ」

「えっ?」

「努力・努力・努力。子供の頃からずっと言われ続けて、親父は偉い、親父みたいになりなさい。ことあるごとに比べられて。おれさ、普通になりたいんだよ。努力なんてうんざりなんだ。金メダルなんてまぐれだし、ほとんど誰も知らない時代遅れのマイナーな競技だし」

「何の競技なの」

「近代五種」

 鬼門は分からない、というように首をかしげた。おれは棒読みで教えてやった。

「水泳、射撃、ラン、馬術、フェンシング」

 ああ、だから、と表情が言った。

「それ練習してるの?」

「させられているんだ。毎日。子供のときから」

「全部!? 毎日?」

「ああ」

「それってすごい」

「すごいか。でも楽しくない人間にはどうする」

「でも、それで今のあなたができているんでしょ」

「こんなもの何の役に立つ?」

「役に立つわよ! さっき不良たちと戦ったあなた、かっこ良かったわよ。別人みたいで。輝いていたわ」

 またそういうマンガみたいな恥ずかしい台詞を。

「むりやり身につけさせられたんだ。楽しいと思ったことは一度もない。それに……」

 脳裏にネトゲ廃人となった兄の姿が浮かんだ。

「それに?」

「なんでもない。とにかく親に押し付けられたことじゃなくて、おれは自分の好きなことをやりたいんだ」

「あなたの好きなことって?」

「普通の高校生みたいにバイトしたり、マンガ読んだりゲームやったり、音楽聴いたりだべったり、そのうちに見つかるさ」

「つまらないわね。夢はないの」

「ないね」

 おれはハードボイルドの主人公よろしく苦い微笑を浮かべてみせた。

「自分がどこにいるかを気にしなければ迷子になることはない。自分がどんな地位にいるか気にしなければ、世の中で自分がどのあたりにいるかで気をもむ事はない。ふっ」

 精一杯かっこよく言ったつもりだったが、鬼門はにべもなく言い放った。

「あんた爺むさいわね」

「な、なに」

「少なくとも、高校生の言うことじゃないわ」

「ほー」

「高校生くらいなら、もっと夢とか、実現したいこととかがあって、それに向かって恐れと希望をもって胸がふくらんでいてもいいはずだわ。いえ、そうあるべきよ」

 恥ずい、恥ずいよ。この女。

「途中で失敗するかもしれない。挫折して傷つくかもしれない。でもその過程で経験したこと全てが人生の糧となる……ちょっとあんた、どこ見てんのよ」

「いや、恐れと希望でどのくらい胸がふくらんでいるのかな、と」


 痛かった。いや、本気で殴るんだものな。男子高校生の目の前ですけすけファッションを陳列しておいて見るな、というのは飢えた野犬に生肉を見せて食うな、というのに等しいと思うのだが。

 おれを殴ってすっきりしたのか鬼門は再び座り込んだまま話し始めた。

「ふーん、じゃあ辰巳くんが努力するのが嫌いで努力って言葉も嫌いになったのは、子供のときから無理やり努力させられ続けてきたからなのね」

「そっ。それでその親父は地元の英雄で、自衛隊員や警察官たちには尊敬されてて、ことあるごとに比べられたんだ。おれも親のことは尊敬しなくちゃって思ってる。少なくとも中学生までは尊敬してた。でもこの頃うっとおしくってさ。努力すれば成る、なんて聞くとむかつくんだよ」

「その親がうっとおしいってところだけは共感するわ」

 鬼門は顔だけこちらに向けて言った。

「わたしのお父さんもそうだもの。わたしの場合、事情は逆だけど。お父さんはわたしに努力しなさい、なんて言わないわ。わたしが何をするのでも先回りして、わたしの将来のレールを勝手にひいているのよ。わたし、小学校にあがるまで、はしも使えなかったのよ。なぜだかわかる?」

 なんとなく想像できたが、涙ぐみそうな鬼門の顔を見て黙ってうなずくだけにした。

「召使がスプーンであーん、って食べさせたのよ。わたし、小学校に入って初めてそれがすごく恥ずかしいことなんだって知ったわ。あと、小学校の演劇発表会でもいつもわたしが主役とかいい役を選ばれて、それが普通なんだって思っていた。けれどもある日ほかの子たちのお母さんがうわさしているのが聞こえて、お父さんが学校に多額の寄付をしているから、とか親の七光りとか、それを聞いたときわたし、全身がかーっと熱くなって、恥ずかしくて顔を上げられなくなった。お付の人は私がご病気とか言って家へ連れ戻されたけれどわたしはそのとき病気なんかじゃなかった。ただ恥ずかしくて死にそうだっただけ」

「そうなんだ」

 鬼門は身体ごとおれに向くと大きな目をさらに大きく見開いて言った。

「それにね。わたし、なんだか運がすごくいいの」

 おれの心臓がどくりと動くのを感じた。

「おれは……運がすごく悪いんだ」

「でも、わたし、そういうのにあこがれるわ」

「ありえねーだろ」

 口の中に苦いものが充満した。

「本当よ。運がいい、運が良すぎる、ってどういうことか分かる? 自分で達成した感じがしないの。自分がどれだけがんばっても、その成果じゃない気がするの」

「おれは今まで一つも幸運ってやつに出会ったことがないから想像できねえ。おれの今までの最高の幸運は当たりつきアイスであたりが出たことくらいだ。あんまりうれしかったから、今でも記念にとってある」

「わたし実際あまり頭は良くないわ。スポーツも料理や裁縫も人並み以下。でも運で物事が決まるのならほぼ間違いなくわたしの勝ちになるわ」

「けっこうなことじゃないか」

「でもそれじゃ嫌なの。わたしが必死に徹夜で勉強して、それでテストでいい点数が取れなかったとしても、それが自分の実力だったなら納得できる。でも親の影響でうまくいく、とか運が良くていい成績になるのは我慢できないわ」

「それは勝ち組の上から目線の意見に聞こえるけどな」

 おれの言葉に構わず鬼門は続けた。

「だんだんわたしの家は普通じゃないんだって分かってきたとき、わたしはむさぼるように本を読んだわ。世界の普通の人たちの生活を知るために。司書の佐久間さんはお父さんのスパイでわたしが読む本を検閲していたけれど、わたしの知識を求める膨大な読書量をとめることはできなかったわ。それで少しずつわたしは自分の家の影響を逃れるためには、自分が自立することを覚えなければならないと分かったの。特に世界の偉人伝はわたしの目を開いてくれた。二宮金次郎やエジソン。キュリー夫人。みなすごい努力をして成功を勝ち取った人たちよ。努力って素敵。努力したからこそ、結果が出たときの達成感が大きいの。だからわたしも努力して達成しなければならないの。親の力や幸運じゃ駄目なのよ。わたしが満足できないの」

「リア充爆発しろ」

「なにそれ」

「いや、兄貴の部屋ののれんに書いてあった言葉だ。ふと言いたくなった」

「ふうん、お兄さんいるんだ。いいな、兄弟いて」

「きみみたいな子にうらやましがられるのは変な気分だ。きみは欲しいものは全部持ってる。その上、その過程まで自分の努力が感じられなきゃ嫌だって贅沢だ」

「ごめんなさい。お金持ちなのはわたしのせいじゃない。運がよすぎるのもやめられない。どうすればいいの? 家を出る? ええ、出るつもりよ。これは内緒だけど、大学を出たら家を出て働くつもり。でもわたしと世間とのギャップがひどくて、今のわたしは浦島太郎みたいだから……」

 よく分かってんじゃん。

「……だから今一生懸命庶民の生活を勉強しているところなの。今日は本当に楽しかったわ。自分で買い食いしたのって初めてだったし」

「ブラックカードでジェラート買おうとするやつも初めてだろうな」

「今日はじめて分かったのよ。「現金」って触ったの初めてだし。お金、貸してくれてありがと、今度返すわね」

「いいよ。それくらいおごるよ」

「え、でも服も買ってもらったし、あなたそんなにお金あるの?」

「心配するな」

「やっぱりそこまでしてもらうのは気が引けるわ。後で島田に届けさせるから」

「そこが嫌なんだよ!」

 鬼門はきょとんとした。

「金ってもんはそんな簡単に湧いてでるもんじゃないんだ。本を一杯読んでいてもそんなことも分からないのか。やっぱりお前はさ、お金持ちが身体に染み付いているんだよ」

「だってあなただってアルバイトしていないんでしょう。親からもらったお小遣いじゃない。わたしとなにが違うの?」

 ぐっと詰まった。確かにおれも近代五種の練習のためにバイトを禁じられ、その代わりに親から月々の小遣いをもらっている。だが、分かるだろ。小遣いには限界があって、その少ない金額の中からやりくりすることで一般人の金銭感覚を身につけていくんだ。欲しいものを買うためにおやつとか別のものを我慢することで予算配分を学んだり、つまらないものを買ってしまって後で後悔することで購買スキルを磨く。ブラックカードを無制限に使えるお嬢様とは金銭感覚が違う。でもおれがそれを説明するとなんだか言い訳じみて、それが嫌だった。だからおれはぷいと横を向いた。鬼門はおれの腕に手を置いた。

「よく分からないけど、あなたの感覚ではわたしの方が変なのね。いいわ。理解するように努力する。だってあなたは庶民だもの」

 鬼門は激しくずれてはいるものの、理解力はあるのだった。

「わたし、あなたのことを誤解していたわ」

 鬼門は笑顔で言った。

「ただの努力しない怠け者かと思ってた。努力って言葉すら嫌になるほど努力していたのね。そこは普通に尊敬できるわ。わたしは努力しても不器用でほとんど自分が満足するようにはできないし、なのに他人が見ても運が良くて上手くいったとありありと分かる結果か、お父さんが割り込んできて強引に達成させるかのどちらかだから、あなたみたいに努力で人間がそこまで行く見本みたいな人にはあこがれるわ。そのわざと力を抜いて生きているような演技は大嫌いだけど」


 おれのトラウマが鬼門のあこがれとは。おれはもはやなにも言えなかった。


     *


 わたしは子供のときから本が好きだった。外に出ると必ずお目付け役が一緒で、わたしの先回りをして大抵私から感動や新鮮さを奪った。父はわたしがアイスクリームが欲しいと言うと店ごと買い取ったり、服が欲しいというとそのためだけに新しいブランド会社を設立したりした。釣りに行くと潜水夫に命じてわたしの竿の先に付いた針に魚を付けさせたり、子供のうちはサンタクロースを信じるのと同じでだまされていたが、次第にお父さんのやり口が分かってきたら白けた。

 かといってお父さんが介入できないゲームなんかでもくじ引きだと必ず大当たりが出るし、トランプの七並べですら都合のいい手が回ってきたりするので必ず勝って友達にしろみな私と遊ばなくなった。わたしの周りにはお世辞を言う偽者のご機嫌取りばかりが集まるようになった。それが嫌で、次第にわたしは一人でいることを好むようになり、書籍の世界に没頭した。

 物語の世界は素敵だった。物語のヒロインは運が悪くて悪人にさらわれたり望んでもいない隣国の王子と結婚させられそうになるが、最後には王子様が現れ『死よりも恐ろしい運命』から救ってくれる。そうよ、子供じみていると言われたっていい。私くらい運がいい女の子だったら本当の『白馬の王子様』が現れるかもしれない。そしてその人が今いるところから私を助け出してくれるんだわ。わたしはときどきそんな空想に身をゆだねた。今はそれを本気で信じ込んでしまうほど子供でもない。でも夢を持ち続けるって素敵じゃない?

 あの情けない主体性のかけらもない辰巳がわたしをかばってチンピラたちを相手にしたときは驚いた。彼の手にした傘が本当に王子様の剣に見えた。あの瞬間だけ彼が王子様みたいに見えた。いいえ、あのときだけじゃない。馬に鞍を置いたときも。でもあれは近代五種の練習をしていたからできただけなのね。一瞬の幻影に惑わされたけれど、われに返れば元のドアボーイがお似合いの辰巳数馬。そのギャップにがっかりするわ。見せられる幻影が素敵であればあるほど、正気に戻ったときのリバウンドがひどいわ。でもどうなのかしら、本当のところ。彼はいざというとき『白馬の王子様』になり得る?

 わたしはこの考えを誰にも打ち明けられなかった。


     *


 雨が上がり、体温で少しは服も乾いていた。まだちょっと下着が気持ち悪かったが、それでも普通に動き回れる程度には乾いている。どれくらい長くここに座り込んでいたのだろう。

「さて、帰るか」

 おれは鬼門をうながして立ち上がった。考え事をしていた鬼門は黙ってうなずき、おれの後に続いた。黒服たちを振り切った通りまでたどり着いたとき、鬼門は口を切った。

「ねえ、また一緒に買い物……いえ、今度は遊園地に連れていってくれる?」

「え、でも親父さんは?」

「いいのよ。わたしが説得する」

「どうやって」

「辰巳くんになにかしたら死んでやるって言うわ」

「まさか」

「本当よ」

「でも次は黒服をまけないと思うぜ」

「大丈夫よ。わたしも協力するから」

「またブラックカード持ってくるのか」

「今度は、ちゃんと、普通のお金持ってくるから。普通の女の子の格好してくるから」

「でもおれ、レストランとか入る金ないぜ」

「どこでもいいわよ」

「入ったところが鬼門グループの店で、支配人に「これはお嬢様」とか言われて、つけでたらふく食えるのかい」

「あなたがそれでいいのならそうするわ」


「約束よ。ねっ」


     *


 マーフィーの法則:賭け事には決して勝てない


 この高校に入学してから三週間がたった頃、おれと鬼門静はいつものように放課後クラスに残ってプリントの整理をやっていた。鬼門が大分慣れてきたので、おれは専ら運動場を監視する作業に従事していた。背後に『さぼらないで手伝いなさいよ』という視線を感じる。ま、鬼門の一時間の仕事はおれの十分の作業量だから後でやればいい。

 クラス委員という仕事もあるので、おれは帰宅部に所属していた。というより、いくら力を抜いても近代五種の練習をさぼると親父や周りが大騒ぎするので、行かないわけにはいかない。余分な時間などなかった。

「さて、今日はこんな感じで終わりかな」おれは最後のプリントの束をとんとんと揃えてから鬼門に言った。今では鬼門もプリント整理をそつなくこなす。

「わたしも終わり」

「この頃慣れてきたじゃん」

「まあね」

 ま、まあね。とどもらなくなった。ちょっとどもって欲しい気もしたが。

「じゃあおれ、これ職員室へ持って行くぜ」

「そう、ありがとう」

「今日も黒い車、待ってるのか」

「いえ」鬼門はこっちへ向き直って笑顔を見せた。「この間、自転車を買ってもらったのよ。晴れの日は自転車で通学しているわ」

「へえ」

「さりげないふりして前後にボディーガードの車がぴったりついているのが気になるけど」

「へ、へえ」それってちょっと箱根駅伝?

「だって一人でふらふらしていたら誘拐されるかもしれないって」

 なるほど。

「今度はバス通学に挑戦するわ。また教えてくれる」

「いいぜ」

 いい感じだった。おれにしちゃありえないくらい。



 おれが職員室から出てくると、突然例のごとくおれの後ろ髪がちくちくする感覚がした。これはおれに危険が迫っているときにおれが感じる感覚で、それがどういったものか、他人に説明することはできない。ただ、この感覚の後には必ずなにか良くないことが起きる。ボールが飛んできたり、自動車が飛んできたり。

 おれは用心してあたりを見回した。廊下にはだれもいなかったが、突然向こうの方に人影が現れて近づいてきた。

 近づいて来たのはクラス分け試験のときにおれの隣に座っていたあのグラマーだった。後にやせて背の高い男を二人引き連れている。

 三人はおれたちの正面に立った。こうして間近で見ると彼女が美人なのが分かった。背はおれより高い。ま、おれもそんなに背の高い方ではないが。例の香水がおれの方に向かって流れて来、おれは頭がくらくらした。

 三人は制服のブラウスの上にブレザーではなくベストを着ていた。彼女の方が黄色いベスト、背の高い男1は白地に赤い水玉のついたベスト、背の高い男2は緑色のベストを着ている。

 別にふざけているわけじゃない。これが山手常盤高校の実力ヒエラルキーを示すやり方の一つだ。中間・期末試験ごとに結果を集計し、総合科目で一番となったものには黄色いベスト、数学の単一科目で一番となった者には白地に赤い水玉のベスト、国語の単一科目での一番は緑色のベストが与えられる。そしてこのベストはその地位を保っている間は学校で着ていなければならない。クラス分け試験とは別に、このベストを着ている者は山手常盤高校の最優秀生徒ということだ。当然三人はA組の生徒だろう。

 グラマーが口を開いた。

「こんにちわ。辰巳数馬くん。わたしは三年A組の九条院くじょういんあやめ。よろしくね」

 そう言うと彼女はウインクした。マスカラをたっぷりと塗ったまつげが音を立てそうに閉じた。まぶたのアイシャドーが青い。

 おれたちの頃の年齢って、たった一歳か二歳違うだけで劇的に違うよね。この人本当に高校生? 成熟した女性の魅力みたいなものを全身から発散させている。彼女に比べたら鬼門なんてまだ子供だ。

 九条院は髪をなで付けるとおれに流し目をくれた。おれはどぎまぎした。

 水玉ベストの男が口を切った。

「辰巳君。われわれは『統計確率部』、略してTKてぃーけー部の者だ」

「はあ」

 普通、略号だと英語に直してからしね? これって係長がKKRけーけーあーるくらいのセンスの略語だな、とさりげなく思ったが口にはしなかった。

「TK部のことは聞いたことがあるかい?」

「いいえ」

 水玉男はちょっと傷ついたような顔をした。

「そうか。まあ新入生だから知らないのも無理はないか。統計確率部というのは世の中の物事の起きる確率および成功の法則を研究する部だ。

 と言うとなにやらマイナーな数学研究会のようなものを想像するかもしれないが実際は全く違う。

 TK部は世の中の『勝ち組』の部だ」

 水玉男はいったん言葉を切って説明がおれの頭によく入るのを待つかのようにいったん黙った後再び話しだした。

「最近では成り金ですら『セレブ』と呼ぶのがはやりらしいが、実際にこの日本を動かしているのはいくつかの名家と大きな企業からなる人脈だ。これら世の中の成功者たちは成功の法則、あるいは「運」と呼ばれるものを利用している。従来、運命は人知の及ばないものとされてきた。

 だが、これに対して科学的にアプローチするのが統計確率部であり、ぼくたちは成功者の予備軍なんだ。入部には審査が必要で山手常盤高校の成績上位優秀生徒ないし政界・財界の大物しか部員になれない。この学校で職員や生徒会よりも影響力を持っている者たちの集まりだ。つまり一種の特権サロンさ」

「辰巳くん。あなたを統計確率部に招待するわ。そのために来たのよ」

 九条院あやめがゆったりとした仕草で髪をかきあげた。ハイヒールこそ履いていないが、たとえ学生服を着ていても絶対に高校生に見えない。

 おれは口の中が乾くのを感じた。

「辰巳くん。あなたの家は名家とは言えないかもしれないけど、あなたの傑出した身体能力は『特待生』としての資格を得るには十分よ。どう? ちょっとだけでいいから部室をのぞいて見ない?」

 九条院はなまめかしく腕をのばすとおれの手を取った。

「あ、あの」

「そんな堅くならないで。可愛いわね、あなた」

「えと」

 おれはそのまま九条院に手を引かれてTK部の部室へ行った。


 TK部の部室は『サロン』と呼ばれている上級生・職員専用食堂のさらに上の階にあった。

 扉をくぐるとまさにそこは別世界。

 天井からはシャンデリアが下がり、床にはレッドカーペット(お金持ちってレッドカーペットが好きだよね)。置いてある家具も濃い色のマホガニー製でいくら私立とは言え、普通、高校に置いてあるようなものではない。壁際にはソファーが並んでいる。応接間? キャバクラ? いや、おれキャバクラなんて知らないけど。

 そしてその部屋の真ん中にはいくつかのテーブルが置いてあった。

 一つ目のテーブルにはトランプが広げられている。調度のクオリティを見るにまるでカジノ。二つ目にはゲームのコントローラがさりげなく二つ置かれ、そして三番目のテーブルは……、これどうみても麻雀卓。うちに自衛隊の人たちがきてときどき親父を交えてやるから間違いない。

 おれたちが入ってゆくとテーブルを囲んでいる生徒たちがいっせいに振り向いた。おれではなく、九条院を見て立ち上がると席を譲った。九条院は座るとおれにも席を勧めた。ただちに数名の男たちが壁際に走り、飲み物を用意する。

 ここは本当にサロンみたいだ。ここにくると九条院の立場がよく分かる。いわば……

 女王様。

 未成年だから出てきたのはジュースだが、このグラスやバーカウンター。どうみても社交界へ出る前の予行演習だね。

「そんなに堅くならないで。こちらが三ツ星幸一くん。そっちが井出光健太くん」

 三ツ星ってやっぱりあの『三ツ星』の人なんだろうな。

 いかにも如才なげな男の振る舞いを眺めながらおれは思った。おれがここにいることってなんか間違いじゃね?

「そういえば」

 三ツ星が井出光に言う。

「この間のダンパどうだった?」

「駄目駄目。ぜーん然センスのないやつらばっかりで……」

 後ろでは別の会話が聞こえる。

「今どき瀬戸内海クルーズってださくない……?」

「親父、また車買ってよ。赤いフェラーリは飽きたからおれにくれるって。今度ドライブいかない?」

 おれの生活と全く接点はない。全くない。

「辰巳君はスポーツが得意なのよね」

「え、あのなんでも得意ってわけじゃ……」

「あら、ポロはお好き?」

「ポ、ポロですか?」

「わたしの叔父がチームを持ってるの」

「そうですか。馬は乗りますけど。ポロはあんまり……」

 なんだかおれの座っている高級革張りソファーが針を敷き詰めたむしろに感じられてきた。

「あ、あの」おれは言おうとした。

 九条院はおれの言葉が聞こえなかったようだ。

「そろそろお出ましのようね」

 九条院が扉を見た。おれもつられてそちらを見ると……

 そこにいたのは髪の毛を逆立てた鬼門だった。


     *


「よくここが分かったわねえ。誰に聞いたの?」九条院はものうげに聞いた。

「別に。適当に歩いてたらここにたどり着いたの」鬼門は目を尖らせたまま答える。

 どんな適当だよ!

「まあいいわ。あなたもなにか飲み物はいかが」

「いらない。わたしは別の用事で来たから」

「なにかしら」

 鬼門はまっすぐに九条院をにらみつけた。いや、確かににらみつけたように見えた。

「その男を連れて帰るわ」

「あら、まあ」九条院は手の甲で口をおおって笑った。

「恋人を取られたような顔しちゃって。なんであなたにそんな権利があるの」

「く、クラス委員だから」

「クラス委員?」

「そうよ。やることがいっぱいあるんだから、すぐに返してちょうだい」

「それは無理ね」九条院は流し目で鬼門を見た。

「辰巳くんはTK部に入部したから、もうここの部員よ」

「あのう、そのことなんですが……」おれはさえぎった。「おれやっぱり入部しません」

「あらなぜ?」九条院は初めて少しあわてたような表情になった。

「おれ、けっこう忙しいし、この部はなんだかあわない気がします」

「政界・財界の将来の指導者となる人たちと知り合いになれるのよ。一緒がいいのならどう? 二人とも入部するというのは」」

「「ことわる/おことわり」」

 おれたちは同時に言った。

「きもっ! ハモらないでよ。気持ち悪いから」おれから身をそらせて鬼門が言った。

 それっておれの台詞じゃね? こいつなに怒ってんだ。

 鬼門は肩を怒らせながら人差し指を九条院に突きつけて言った。

「この! 没落華族で家ではふすまの穴も修繕できないくらい困ってるくせに気位ばかり高い時代錯誤!」

 九条院の顔が蒼白になった。

(そ! どうやって調べ……)

 鬼門はそのままとどまることを知らず、水玉ジャージの男に指を突きつけた。

「このギャンブルで大損したけど、ダンパに行くときだけ『わ』ナンバーじゃない特殊なレンタカーのベンツで行く見栄張り!」

 水玉ジャージはまったく顔色を変えなかったが、鼻水が垂れてきた。どうやら正解らしい。

 おれは思わず言った。

「よくそんな複雑な悪口を思いつくな」

 鬼門はこともなげに答えた。

「考えるんじゃないわ。感じるのよ」あちょー! そうですか。

 続いて鬼門が緑ジャージの男に人差し指を突きつけると、男は頭を覆ってあとすざった。

「や、やめろ! やめてくれ!」

 鬼門が前へ進み出た。

「わあー! そんな複雑な悪口でおれのトラウマをえぐらないでくれー!」

 緑ジャージは壁際まで下がり、その前で人差し指を刀の切っ先のように突きつけた鬼門は言った。

「二次コン」

「うわああああああ~!」

「二次二次二次二次二次二次二次二次二次二次二次二次……」

 ふりがなに「オラオラ……」とつけたくなるような悪口の連続攻撃で相手のトラウマをえぐり、鬼門は緑ジャージをたたき伏せた。


「とにかく、帰るわよ」

 振り返った鬼門はおれの右手を引いた。

「待ちなさい」

 九条院もおれの空いた手をつかんで引いた。二人は同時におれの手を自分のほうに引き寄せた。おれははりつけのように両手を引き伸ばされた。

 あ、あのう。うれしいような、痛いような。

 二人はおれをまったく無視して数秒間にらみあった。

 先に手を放したのは九条院だった。

「これじゃらちがあかないわ。公正な勝負で決めましょう」

「勝負?」鬼門は改めて室内を見回した。

「ここは何をするところなの?」マージャンやトランプ、ゲームがある。

「統計と確率の研究をしているのよ」

「そう」

「辰巳くんを連れて行きたければ、わたしたち相手にポーカー、対戦ゲーム、麻雀の三本勝負をしなさい。単純に一本でも多く勝った方が勝ちではなくて、確率的により優れた勝ち方をした方が勝ち。サッカーの勝ち点みたいなもの」

「いいわ。じゃあ、勝負しましょう」

「本気? 今までやったことはあるの?」

「ないわよ」

 そゆこと、胸張って言う?

 鬼門はさっさとカードの置いてあるテーブルについた。燕尾服を着た男が手馴れた手つきでカードをシャッフルし始めると、手を上げてさえぎった。

「ちょっと待って。ルールブックはどこ?」

 まじかよ。どこかの蟻の王みたいだな。

「ちょっとルール覚えるから待ってて」

 ルールブックを読み始めた鬼門を全員呆れ顔で見ていた。鬼門は数分するとうれしそうに顔をあげた。

「意外と簡単なルールね。同じのをそろえたり、きれいに並べばいいのね」

 実は奥が深いんだけどね。

「何枚変えてもいいけど、変えるのは一度だけよ」

「分かったわ」

 水玉ベストが反対側の席に着いた。二人の前にカードが五枚ずつ配られた。

 鬼門はおれにちらと手を見せて聞いた。

「ねえねえ。これどう思う」

 おれがのぞくと9が二枚と10が三枚だった。フルハウスだ。

「このままでいい、このままで」

 おれの忠告にまったく従わず、鬼門はハートの10を残して全てを交換してしまった。

「だって、ハートが好きなんだもの」

 おれはこめかみを押さえてうつむいた。こりゃだめだ。ど素人以下だ。

 水玉ベストはよく考えた末、一枚を交換した。

「それでいい? では勝負」

 水玉ベストが開いた手はクラブの3、5、6、7、10。フラッシュだ! どんだけ勇気があるんだよ。普通狙わないぜ。

「やったー。わたしの勝ちね」

 無邪気に鬼門がテーブルにあけたカードは……全てハートの10、ジャック、クイーン、キング、エース……ロイヤルストレートフラッシュ!

 全員が沈黙した。

「ば、馬鹿な……ロイヤルストレートフラッシュの出る確率は約六十五万回に一度。ありえない!」水玉ベストが額に汗を浮かべてつぶやいた。

「あら、いかさまだって言うの」

 誰も発言しなかった。今日ポーカーのルールを覚えたばかりの鬼門にいかさまなんかできるわけないのは誰でも認める。これは超絶の幸運がなければできないことだ。九条院が歯を食いしばるのが分かったが、なにも言わなかった。


「次はおれだ」

 緑色ベストの男が立ち上がり、ゲームコントローラの置いてあるテーブルに座った。

「『ドラゴン・ファイター4』よ、知ってる?」九条院が聞いたが案の定、鬼門は知らなかった。

 『ドラゴン・ファイター』シリーズは対戦格闘ゲームだが、かの有名な『ス○リ○ト・ファイター』のような反射神経で戦うゲームではない。むしろ『ドラゴン・ク○スト』や『ファイナル・ファ○タジー』のように自分の経験値を積み、レベルを上げて強くしたうえで、HPやMPを計算し、回復アイテムなどを駆使して戦略的に戦うゲームだ。運の要素は多少あるが、むしろ経験者が圧倒的に有利なゲームと言える、

「勝負は『マーセナリーズ対戦モード』で行う。対戦者は双方ともレベル75。最高レベルで、レベルの優劣はない。全ての必殺技が使える。オーケー?」

 緑ベストが確認する。

「わかったわ」

 ぜんぜん分かっていない様子で鬼門がうなずく。

「ちょっと、操作方法が分からないから、あんた横について教えてよ」

 鬼門はおれを手招きする。おれは同意を求めるように九条院の顔を見た。九条院はなぜだかいらっとした表情を見せたが、うなづいて言った。

「コントローラに触ったりして実際に助けなければ、横からアドバイスをするのは構わないわ」

「そんな暇があれば、だがね」緑ベストが軽く揶揄するように言う。こいつ、さっきトラウマをえぐられたのでむきになっているのか。

「じゃあ」おれは鬼門のそばに寄った。鬼門はおれの袖口をひっぱって自分のそばに寄せる。

「ねえ。この赤いボタンはなに?」

「なんだよ。それも知らねえのか。まず左のスティックで自分のキャラを前後左右に動かして攻撃できる距離まで近づくんだ」

「ふーん」

「それから右のBボタン。これ。この黄色いボタンを押してメニューを開き、Aボタン、つまり赤いボタンを押して決定」

「簡単じゃない」

「いや。このくらいのレベルの相手になると通常攻撃はほとんどダメージがないから、必殺技や特殊技をかけないとだめだ。その出し方は……」

「さて、勝負開始だ」緑ジャージは無慈悲に言った。

 まず自分の対戦キャラを選ぶ。緑ジャージは頭髪を剃り、筋肉隆々としたキャラを選んだ。攻撃力・防御力ともに最大級のキャラだ。

 それに対して鬼門はスレンダーな女の子キャラを選んだ。攻撃力・防御力はそれほど高くないが、動きに優れているキャラだ。この対戦相手なら、スピードを生かしてヒット&アウェイを繰り返し、少しずつ相手のHPを削る作戦が最も賢明な方法……

 鬼門はいきなり対戦相手の真正面から近づき、剣を振るおうとした。

「ええと、メニューをひらいて、と。あら、たくさんあるわ。どれにしようかな」

 鬼門が攻撃方法を迷っている間。手馴れた相手に必殺技を選択する時間を許してしまった。画面のハゲマッチョがいきなり女の子の髪の毛をつかむと空中に放り投げ、そのまま落ちてきたところをつかんで地面にたたきつけた。

 背景に稲妻のような効果が表示され、鬼門の使う女性キャラのHPゲージがいきなり半分くらいに減った。

 こりゃだめだ。鬼門のやつ、全然ゲームなんかやったことないに決まってる。

「おい、こんど同じ攻撃をくらったら即、ゲームオーバーだぜ」

「なによ。ちょっと油断しただけよ。ねえ、このメニューで最初に出てくるこれを押すとどうなるんだっけ」

「それは通常攻撃の中で最もありふれた。『剣による一撃』だ。しかし、この相手にこんなものをいくら繰り出しても……」

 おれの忠告などまったく聞かずに鬼門はまた馬鹿正直に対戦相手キャラの前に自分のキャラを進めると、普通にメニューを開き、普通にメニューの最初にある『剣による一撃』を選択したままAボタンを押した。

 背景が真っ赤になった。同時に対戦相手キャラのHPがぐっと一割くらい減る。

 『会心の一撃』だ。座がどよめいた。

 『会心の一撃』は頭脳戦が主な『ドラゴン・ファイター』シリーズの中でも数少ない運による技だ。コンピューターがランダムに出す技で、『剣による一撃』などの通常攻撃を延々と繰り返していると時たま出る。ラスボス級の相手にはさほどのダメージではないが、相手がどんな防御力があっても同じ程度のダメージを与え、どんな回復アイテムを持っていても、この攻撃で受けたダメージは戦闘中は回復できないなどの特典がある。

 とは言え、通常攻撃の特殊バージョンに過ぎない『会心の一撃』。相手のHPはまだ九割残っている。対して鬼門のキャラのHPは五割程度。もう一度必殺技をくらえば後がないぞ鬼門。

 そうおれが考えたとき。慣れない手つきで再びコントローラを操作した鬼門が再びAボタンを押すと……

 画面が真っ赤になった。

 二度目の『会心の一撃』! 対戦相手のHPはさらに一割減って残り八割。

 思い出した。『会心の一撃』にはもうひとつ特典があり、それは「対戦相手の攻撃ターンを奪う」というものだ。

 つまり、『会心の一撃』をくらった相手はもう一度攻撃にさらされるまで自分から攻撃することはできないのだ。緑ジャージは左手でコントロールスティックをかちゃかちゃ動かしたが、画面のキャラが何の動きもしないのを見るとあきらめたように鬼門の次の攻撃を待った。いくらなんでも次は普通の『剣による一撃』だろう。

 鬼門はまたAボタンを押した。

 『会心の一撃』!

 Aボタン。

 『会心の一撃』!

 『会心の一撃』!

 『会心の一撃』!

 『会心の一撃』!

 『会心の一撃』!(ry


 結局鬼門は『会心の一撃を』十三回連続で出して相手を叩きのめした。最後には倒れている相手キャラをさらに何度もぶちのめし、ついに画面には「HPマイナスダメージ。このキャラを完全に消去しますか」とのシステムの問いにためらうことなくAボタンを押した。

「あー! おれのシャムロックがぁ! 一年もかけてレベル75にしたのにぃ!」と半泣きの緑ジャージを冷ややかにながめてふん、と鼻を鳴らした。

 どうやら『完全消去』したキャラは二度と戻らないらしい。

 恐るべし。鬼門静。


 最後の勝負は麻雀だった。鬼門の正面に九条院が座り、両隣には別の部員が座った。

「イカサマはしないでよね」

 鬼門がまた挑発するようなことを言う。

 九条院の額に十文字が現れたような気がしたが、さすが女王様。怒りにまかせて話すようなことはなかった。

「TK部の誇りにかけて。インチキはなしよ」

「ちょっと待って」

 鬼門は再びルールブックを読み始めた。やはり麻雀をするのは生まれて始めてらしい。ときどきおれの袖を引いて確認する。おれも親父たちの麻雀を脇から見ただけでそれほどルールは知らない。

「つまりポーカーと同じで同じのが並べばいいのね」

「いや。もうちょっと複雑だ。『役』という組み合わせがあって、確率の低い組み合わせの役ほど得点が高い。この役の種類がとても多くて……

「面倒だわ。これにする」

「これにするって……」おれがあきれて見ているうちに、鬼門はこれいらない、とかそれ欲しいと相手の捨てた牌を指差して拾ったりする。正式な麻雀用語すら知らないらしい。

 三巡もしないうちに鬼門が言った。

「できたー! ほらこれと同じ」

 これと同じって。

 鬼門の牌を眺めたおれはさすがに固まり、何度もルールブックと牌の並びを見比べた。

「あがり~!」

 そんなことなど気にせず、鬼門はできた手を卓の上に倒して開帳する。

 数秒の沈黙後、九条院がうめくように言った。

「ちゅ、九蓮宝燈ちゅーれんぽーとん

 九蓮宝燈とは麻雀の役の中で最もまれなもののひとつだ。その確率の低さから「一生に一度出ればよい」「九蓮宝燈が出たらその者は死ぬ」など都市伝説の対象になっているほどレアな手だ。鬼門の発言からするとこれが気に入ったからねらったふしがあるが……

 右手の男の目は飛び出しそうだった。

 左手の男は額に汗を浮かべ、口の中でぶつぶつ言っている。

(九蓮宝燈が出る確率は0.00045パーセント。ありえない……そんな)


「さあてと」鬼門はぱんぱんとスカートの裾を払うと立ち上がった。「じゃわたしは帰るわ。ごきげんよう」

「あ、おれも」立ち上がりかけたおれの腕を水玉ジャージがつかんだ。

「ちょっと待て。納得いかない。こんなこと……ありえない」

「やめなさい。今日はわたしたちの負けよ」

 九条院の声を背中に聞き、おれはちょっと後ろ髪引かれながら鬼門に腕を引かれてTK部の部室を後にした。


     *


 TK部とのことがあった次の週、おれが鬼門と一緒に出席リストを作成していると、再び後ろ髪がちくちくした。

 またかよ。

 最初はTK部の連中が復讐リベンジに来たのかと思った。

 振り向くとそこには色白の男がいた。モデルのように背が高くすらりとした体型。明らかに山手常盤ここの制服をカスタム化した、あるいは同じようなデザインで有名デザイナーに作り直させたような上着の短くきゅっとしまった制服。目の上にはらり、とかかるやわらかい髪。どこのおぼっちゃまだろう。

 よく見るとおれたちと同じ黄色のリボンをしているから一年生だ。こいつ目立つけどAからFまで六組もあるからな。知らなくても無理はない。誰だろう。

 その男はポーズを決めて右下を見て「ふっ」を飛ばし、ポーズを変えて今度は左に「ふっ」を飛ばし、なかなか入って来ようとしなかった。そうこうしてるうちにクラスの女子たちが気づいて男の周りに集まった。

「きゃっ」

「だれだれ?」

「B組の安藤くんよ」

「すてき~」

 女子たちがささやいているつもりだが、クラス中に丸聞こえのひそひそ話をしていた。

「あいつだれだ」おれは隣の甲斐田に聞いた。

「うむ。おれも知らないが、われわれ男子の共通の敵であることは間違いないようだ」

 甲斐田が重々しく言う。

 そうこうしているうちにそのもやし男はつかつかと歩いてクラスの中に入り、ちょうど谷口よしこと話をしていた鬼門静の前に立った。鬼門はちらと目をあげたが、なにごともなかったかのように再び谷口と話を続けようとした。だが谷口はそれどころではない。視線をその男に釘付けにして鬼門の制服のそでを引く。

「ねねねね。私たちに用があるみたいよ」

「わたしには用はないわ」

 男は大げさにがくっとしてみせると、芸能人みたいなアクションでくるりと回り人差し指を下からつきだすポーズをとって言った。

「静。つれないなあ」

(「静」だって「静」だって)

(呼び捨てにしたわよ。呼び捨てに)

 クラスがざわざわとさざめく。

 おれはクラス委員としての義務を果たすために進み出た。

「おめえ誰だ」

 おれの質問に一瞬横を向いて憂い顔をした男ははらりと髪をかき上げてから言った。

「ぼくは安藤幸太郎。アンドレ、と呼んでくれたまえ。静。ぼくはこの胸の内の情熱を抑えきれず、君を追ってはるばる聖ジルベール学園から山手常盤ここへ転校して来たんだよ」

 少女マンガなら背景がバラの花でいっぱいになるところだ。おれは思わず鬼門静の顔を見た。

「知り合い、かい?」こういうのと知り合い、というのはかなり痛いと思うのだが。とりあえずおれはパスね。

 鬼門は傲然と胸を張り言い放った。「また、あなたなの。しつこいわね。そう。雅女みやじょなら女子高だからあなたは入れないけど、共学にはこういったデメリットもあったのね」ちっと舌打ちする。

「だいたい、なんで転校生のあなたがB組なのよ」それは確かにおかしな点だった。転入生は全員D組からスタートし、入学最初の中間か期末試験で正式にクラスが決まるしきたりなのだが。

 アンドレ、こと安藤はしれっと答えた。

「君がこの高校へ願書を出したという情報が入ってからぼくはパパにお願いして編入させてもらうように圧力、いや政治的便宜を図ってもらったのさ。それで一学期の中間試験に間に合った。だからB組への編入は実力で取った。これで文句ない?」

「その「政治的便宜」にかなりの無理があったということは推測できるわ。ところであなた何の用?」

「きみが同じクラスにならなかったのは意外だったが、こんな雑巾みたいなやつと一緒に過ごすよりは、華族の家系を継ぐこのぼくと一緒にいる方が君の美しさに合っているよ」

 誰が雑巾だ!

「またキモい話が始まったわね」

「そんなあ。つれなくするなよ。かつての許婚いいなずけの仲じゃあないか」安藤はおれを横目で見ながらしれっと言った。

 な、に! いいなずけ?

 おれは鬼門を見ながら言った。「いいなずけってどういうこと」ちょっときつい目つきをしていたかもしれない。

 鬼門は頬を赤くしたまま相変わらず傲然と胸を張って言った。

「なに。あなた、気になるの?」

「いや、そういうわけじゃ」

「じゃあ、いいじゃない。どちらにしろ、過去のことよ。親たちが勝手に決めたことだけど、とっくの昔に振り出しに戻ったから関係ないわ」

「関係ないはないだろ」安藤は身を乗り出しながら言った。「今でもぼくはきみのことを想っているよ。誓いの指輪を指にはめてあげたあの日」

 な、な、な、なに!

「『誓いの指輪』ってあのプラスチックのおもちゃのこと? 小学生のときにやったことまで責任とれないわ」

「きみはもうボクのものだ。なにしろ一緒にお医者さんごっこを……」

「「サイテー」」女子二人がハモった。取り巻いていたクラスの女子も最低一メートルは引いた。

 さすがにこれはまずいと気づいたのか、安藤は口をつぐんだ。

「ところでTK部の誘いを断ったそうだね。どうして断ったんだい? 君の家柄なら十分入部資格はあるのに」

「あなたに関係ない」

「鬼門家の家柄に加え、君にはすばらしい幸運がある。きみこそTK部の代表として将来この学園に君臨すべき女性だ」

「興味ないわ」

「おい静。それはないだろ。せっかく同じ学校でクラスこそ違うが同じ部に入れると思ったのに」

「あんたには関係ないでしょ」

 安藤は鬼門の手首をつかんだ。

「ちょっと一緒においでよ。二人だけでゆっくり話そう」

「待てよ。手を離せ」おれは言った。

「お前誰? 静とどういう関係?」安藤は上から見下ろす。

「く、クラス委員だ!」

(それってほとんど無関係じゃん)甲斐田までぼそぼそ言っている。くそっ。友達だと思っていたのに。

 おれはなぜだか腹が立って言った。言わずにはいられなかった。

「鬼門はな、そういう金持ちのお嬢様だから、とか、運がいいから、とか言われるのが一番嫌れーなんだよ。鬼門の気持ちも分からずに無理強いすんな!」

「ほう。じゃあ君は静の気持ちがわかると言うのかい」

「そ、そうだ!」

 なぜだかおれの顔が熱くなった。今日は晴れてて暑いからな。

「庶民ふぜいが」

 今庶民って言った? 庶民って言った?

 その通りだが、鬼門にもいつも言われていることだが……こいつが言うとすごくむかつく!

「とにかく、今すぐその手を離してこの部屋から出て行かないと、ただではすまないぞ」

 安藤はそれでも静の手を離すと言った。

「殴り合いとかはぼくはお断りだぞ。貧乏人は野蛮だから嫌いだ」

「お医者さんごっこしてた変質者に野蛮呼ばわりされたくないね」

「なに」安藤は斜めに構えた直立不動の姿勢で決めポーズをしておれをにらんだ。こいつ演技か?

「庶民のくせにぼくを侮辱するのか」手から白手袋をはずすとおれの顔めがけて投げつけた。

「決闘だ」

「はあ? ここは現代の日本だぜ。江戸時代ならともかく今は決闘罪ってのがあってね、決闘したら処罰されるんだよ」

「そんなことは知っている。なにも殺し合いをしようというのじゃない。ただ正々堂々と、実力を用いて勝負しようと言っている」

「どうやって」

「ぼくはフランスの由緒正しい貴族の学校で学んだから、決闘といえば剣か拳銃での戦いと決まっている。どちらか選べ」

「え、いいのか」おれは思わず言った。だって、おれ……。

 鬼門が「ふん」と馬鹿にした顔をしたが安藤は止まらなかった。

「貴族の決闘なら……レイピアだ!」


     *


 で、放課後、おれは体育館の中でクラスの連中や鬼門の見守る中、安藤と差し向かいでフェンシング部から借りた白いジャケットを着、電気剣を手にしていた。エペの試合だ。

 エペは近世ヨーロッパで貴族が決闘していたころ用いたレイピアという細身の剣に最も近いルールの種目だ。ちなみにフェンシングにはフルーレ・エペ・サーブルの三種目あり、それぞれ攻撃の有効面が異なっている。

 フルーレは突きのみで胴体のみが有効面。つまり手足を突いても無効になる。

 エペも突きのみだが全身のどこを、それこそ靴をついても有効。

 そしてサーブルは文字通りサーベルで有効面の上半身なら突くだけでなく切ってもいい。これが一般的な違いだ。

 しかしこの三種類の種目には他にも異なる点がある。それは攻撃権と呼ばれるものだ。攻撃権とは、先に攻撃をしかけるか、相手の攻撃してきた剣を『払う』と自分のものになる権利で、この権利を持っていないと有効面を突いてもポイントとみなされないのだ。

 フルーレとサーブルにはこの攻撃権がある。だから普通攻撃されると攻撃権を奪取するために相手の剣を払ってから返す、という練習をする。実際の試合ではだから両者の攻防によって攻撃権が目まぐるしく入れ替わる、と言うことが起きる。

 ところがエペには攻撃権というものがない。相手の剣を払おうが、払うまいがとにかくコンマ一秒でも速く相手を突いたと判断された方が勝ちだ。

 現代では電気判定機を使うので、どれほど実力が拮抗していても決着はつく。

 おれの父は近代五種がエペを競技種目としているのでこの点に目をつけた。つまり、相手の剣を払わずにかわすか、相手の剣を払うのと攻撃するのとを同時に行う技術を徹底的に磨いたのだ。中国拳法でいうところの交差法というやつかな。とにかくその『辰巳式』は攻撃と防御が一体化しているのが特徴だ。

 おれの父はそれを使ってオリンピックで戦い、総当たり戦で勝率九割を超えた。おれも子供のときからそれをやらされ続けている。それこそうんざりするほど。


 勝負は五分でついた。安藤がしつこく食い下がったので十回ほど戦いを繰り返し、十ポイント先取した。

「ま、まて。おれはまだ負けていないぞ」安藤は蒼白な顔で肩を震わせながら言った。「負けというのは負けを認めたときが負けだ。おれはまだ負けていない」

 実際の公式試合ではそんな屁理屈は通らないだろうが、こいつはまだ帰してくれそうになかった。

「次は拳銃で勝負だ。逃げるなよ」安藤はすごんで見せたが、おぼっちゃまの印象は消すことができない。

 付き人のような男がジュラルミンのケースを開け、二挺の全く同じ型のピストルを差し出した。競技用のレーザーピストル。おれも使ったことがある。弾の代わりにレーザー光線が出て、センサー付きの的に当たるとノートパソコンに結果が表示されるやつだ。

 おれが挑戦された側なので、ピストルを最初に選ぶ権利があるということらしかった。おれは嫌々ピストルを取り上げ、バッテリーをセットして各部の動きを確かめた。おれの手馴れた様子に安藤はみるみるうちに不安そうな顔になった。

「い、いいか。二人とも背中合わせに立つ。十歩進んでから振り向き、相手の胸に着けた的を狙って撃つんだ。得点の高い方が勝ちだ」

「今度は一回勝負にしてくれないか。これが終わったら帰ってから行かなきゃならないところがあるんだ」

「ふっ、自ら死亡フラグを立てたな」安藤は前髪をはらりと手で撫で付けて言った。

「はあっ?」

「「これが終わったら」なんて台詞を言うやつはゲームでも映画でも死ぬことに決まっている」

 こいつ馬鹿じゃねえの。これは映画じゃねえっての。

「行くぞ、うじ虫」こいつはあくまで決めポーズをしてからでないと、なにもしないらしい。

 おれたちは胸にセンサー付きの的をつけてもらうと、それぞれのレーザーピストルの発射テストを行ってから背中合わせに立った。

「いち!」審判係が声を出す。おれたちは一歩前へ出た。「にい!」

 十歩目で振り向いたとたんに安藤の銃口がこちらに真っ直ぐ向いているのが見えた。やつめ、九歩目で振り向いたんだ。

 おれはすっと右手を伸ばし、適当にねらうと同時に引き金をしぼった。おれのコーチはラピッドファイアーピストルのオリンピック強化選手で、練習のときは五十メートルの距離で一弾につき三秒以内に撃つように言われているから二十歩離れたくらいの距離ならはずすのが難しいくらいだ。

 安藤のつけたセンサーが激しく瞬き、おれの勝利を告げた。

「ちきしょう。まだだ。まだ決着はついていない!」激昂する安藤にうんざりしながらおれは言った。

「頼むぜ。続きは今度にしよう」

 おれは胸糞悪くって鬼門の手を引いて歩き出した。鬼門はあれ、というような顔をしてついてくる。

「ま、待て」

 安藤は叫んだが、おれは止まらなかった。

「いやだ、いやだー」ほとんど小学生状態。

「覚えていろよ!」後ろをちらと振り返ると、視線の端に安藤がこぶしを振り上げているのが見えた。

「パパに言いつけてギットンギットンのグッチャングッチャンにしてやるからな」

 おれたちは体育館から歩き去った。


     *


 いい感じだった。おれにしちゃあり得ないくらい。

 アンドレを軽く叩きのめしたときに考えておくべきだったんだ。おれの悪運のすごさを。

 フェンシングで戦ったときはおれの剣のスイッチが故障していくら突いても電気判定機が反応しないくらいは起きてもよさそうだったし、ピストルのときもおれがいじったら故障したりバッテリ切れなんてよくあるパターンだ。

 そんな想定内の不運がひとつも起きなかったのは、おそらくおれがその勝負に「まったく乗り気でない」ということがあったかもしれない。

 おれは安藤に勝ってどう、とか、クラスの女子にきゃーと言われるとか、全然考えてなかった。むしろ、おれが近代五種をやっていることが広まればまた親父の名前が出てくるし、おれの目指す「可もなく不可もないゆるやかな人生」から遠い場所へ行きそうな気がして、それが嫌だった。

 だからおれば全然あの勝負に賭けてなかったし、勝っても負けてもどっちでもいいことだったんだ。だから問題なく勝ったんだろう。

 つまりおれが勝利を期待していたらまた違う結果になったかもしれないってこと。

 あと、不運が連続するやつに幸運が続いたら、それは次に来る大不運の序曲かもしれないってことを予想しとくべきだったんだ。


 おれは鬼門と一緒に遊園地を歩いていた。

 例によって鬼門が「庶民のレクリエーションを学びたい」とか言うから一緒についてきてやっただけだけど。はたから見たらデートみたいだった。

 クラスではすでにおれが『鬼門静専用庶民個人教師』ということが公然の秘密となっていて、憶測も含めさまざまなうわさが流れていたが、おれたちの間には特になにもなかった。

 本当になにもなかったんです!

 それはひとつにはおれが若くして土の下に埋められたくないと黒服におびえていたこともあったが、本当はおれの臆病さによるものだった。

 付き合えば付き合うほど、鬼門とおれはあまりにも住む世界が違うのがひしひしと感じられ、なにか頼まれると「はいっ」と下男のようにしてやり、たまにちょっと離れたところから見とれてしまうこともあったが、決してお互いに理解はできないのだろうと思っていた。


「なに見てるのよ」

 そんなおれの気持ちなど知らず、鬼門は極上の笑顔をおれに向ける。夏服の半そでから真っ白い二の腕が飛び出しているのがまぶしい。

 おれはそれにこわごわと笑みを返す。


 丁度ジェットコースターから降りたときだった。

 また後ろ髪がちくちくした。

 おれはジェットコースターで絶叫しすぎてへとへとに疲れていた。経験のないものは本当に疲れる。ランニングなら十キロでも平気なんだけど。

 対する鬼門はけろっとしていた。ジェットコースターの上での嬌声は絶対に怖がってない! あれは。

 このジェットコースターは入り口と出口がちょうど反対側にあり、おれたちは出口から出てたまたま黒服軍団の目からはずれたところだった。

 ふと顔をあげるとどこか見覚えのある顔がおれを見下ろしていた。

「おう。久しぶりだな」

 以前ショッピングモールでからんできた男だった。たしか三人連れだったはず、と思って見回すとあとの二人はちゃんとおれたちの後ろにいた。

「今日は傘を持っていねえな。この間のようなわけにはいかないぜ」

 にきび面がいきなり鬼門を羽交い絞めにした。

「なにすんのよ!」

 鬼門は暴れるが、男の力にはかなわない。

 鬼門に近づこうとしたおれの前にパンチパーマが立ちふさがった。後ろにはリーダーが上からおれを覗き込むように立っている。

 おれは数秒鬼門を助けて脱出する方法がないか考えた。なにも思いつかなかった。

 おれはばっと地面に手をついて土下座した。

「すみません。おれはどうなってもいいから彼女だけは離してやってください」

「ほーう。もうあきらめるのか。この間とえらく態度が違うな」

「勝ち目のない戦いはしません」

「いい心がけだ。だがお前だけじゃねえ。あの女もけっこうひどいことを言ってくれたから落とし前はつけなくちゃな」

「なによ! なに謝ってんのよ! こんなやつらになんで屈服するのよ!」

 鬼門がばたばたと暴れる様子が聞こえる。ぱしっ、と平手打ちの音。

 思わず音のした方を見た。鬼門がほおを押さえて涙目になっている。

「頼んます。彼女には手を出さないでください」

 おれは額を地面にこすりつけた。

「ほおー。彼女の分もお前が落とし前つけるってのか」

「はい」

 一瞬置いて激しい衝撃とともに靴の底の感触を後頭部に感じた。意識が遠くなる。口の中に鉄の味がする。

「ふざけるなこらぁ! お前ら二人ともきっちり落とし前つけてやるからよ。まずはお前からだ!」

 二人は両側から地面に転がっているおれの腹をけり始めた。胃腸がでんぐり返り、胃液が逆流する。

「ばかばかばかぁ! なんでこんなやつらの言うことを聞くのよ!」

 遠くで鬼門の泣き叫ぶ声を聞きながら、おれの意識は遠くなっていった。


 気がついたら鬼門と黒服の一人がおれを上からのぞきこんでいた。その黒服は医学の心得があるらしく、おれの体を触って傷の程度を確かめている。目の端に十名以上の黒服たちに取り押さえられた三人組が警察に引き渡されて連行されていくところが見えた。

 待つほどのこともなく救急車が到着した。一緒に乗り込もうとした鬼門を優しくしかししっかりと黒服が止める。クレッチャーの上でおれは微笑もうとしたが、痛くて顔が引きつった。

「いて」

「なんで、なんであんなやつらに土下座するのよ」

 鬼門はまだ言っている。

「だってああしなきゃ、君が危なかったから」

「かっこ悪い、かっこ悪かったわ、あんた!」

 鬼門はおれを責めるだけ。

「仕方ない。あの状況じゃ勝ち目はないから、時間を稼いで、黒服が駆けつけるのを待つしかないと思った」

「勝ち目のある戦いしかしないの? 勝てなくてもどうして最後まで戦わないのよ!」

 怪我だらけなのにけんかをしているおれたちを黒服たちも救急隊員もあきれてみている。

「きみには分からない。お金持ちで、幸運で、なんでもうまくいって……おれとはあまりにも違うから。一緒にいても……違いすぎるから」

 鬼門は涙を浮かべながら言った。

「お金なんて、お金なんて、欲しけりゃ上げるわよ。幸運だって……そんなものが欲しいならいくらでも上げる!」

 鬼門はすぐわきにあった宝くじ販売店に座っているしわくちゃのおばあさんから宝くじを一枚買うとぽんとお金を払い、その一枚をおれのポケットに押し込んだ」

 おれは自分の血の気が引くのを感じた。

「これ、どういう意味だよ!」

「悪い!? 今日はわたしのためにずいぶんひどい目にあったから慰労金&報酬と思ってくれていいわ」

 おれはポケットにねじ込まれた宝くじ券を取り出してたたき返してやろうという衝動に駆られたが、救急隊員はおれの両腕をクレッチャーに縛り付けているので腕が動かせなかった。

「ふざけんなよ! 自分が金持ちで、恵まれてるからって、おれを馬鹿にすんな!」

「貧乏だから馬鹿にしてるんじゃない! 運が悪いからって、それがなんなのよ! わたしが嫌いなのはあなたのその態度よ! なさけないやつ。そんな才能も力もあるのに勝つ見込みのある勝負しかしない。ヘタレ! 軟弱者!」

 そういい捨てると鬼門は黒服に伴われて黒いリムジンで去った。

 おれは病院で診察を受けたが、衝撃に比べて傷のほうは大したことなかった。つくづくやわな連中だったんだ、あいつら。

 リムジンで家まで送ろうとした黒服の手を振り切っておれは一人で家へ帰った。お金持ちのにおいのするものが、今はなにもかも嫌だった。


     *


 おれが鬼門静と大ゲンカして帰ってきた次の日、おれは何事もなかったかのように登校した。幸い体はどこも壊れておらず、大事をとって近代五種の練習は一週間休むように言われたから、おれにとっては逆にかったるかった。

 扉が開き、鬼門が入って来た。

「おはよー」

「おはよー」

 鬼門は谷口や他の女子たちとにこやかに挨拶したが、おれのことはそこにいないかのように無視して席に着いた。

 おれもプライドがあるから声をかけずにぷい、と横を向いた。


 放課後、クラス委員の仕事があるはずだったが、おれはさぼった。いつもならおれがどこに行っても探し出す鬼門も、今日はついてこないだろう。毎日の練習もないから急に暇になったおれはなにをすることもなく、廊下をぶらぶらと歩いていた。

「あら」

 近づいてくるおれに気づいてつと目を上げたのは九条院あやめだった。

「珍しいのね。一人?」

「あ、ああ」

 九条院と会うとおれはどうしてもどぎまぎしてしまう。顔、胸、足、どこに目をやってもセクハラになってしまう気がする。

「そう。わたしとしては、あなたにTK部入部を断られて残念だわ。告白したのに振られた気分よ」

「まさか先輩」

「本当よ。あなた、自分にどんな魅力があるか分かってないのね」

 いやその。なにこのラノベ的展開。ナイスバディの上級生に告られるってありえねえだろ。

「あーあ。本当に残念だわ。一緒にクラブ活動ができると思ったのに」

「え、と」

「クラス委員の仕事があるからだめなのよね」

「いえ。クラス委員はやめるつもりです」

「でも鬼門さんがいるから入部はだめよね」

「いえ。そんなことありません。あんなやつ、利用してただけですから」おれなに言ってんの。

「あんなやつ、金持ちのお嬢だから利用していただけです。おれはあいつのことなんてなんとも思っていませんから」

「まあそうなの」

 九条院は妖艶にほほえんだ。

「じゃあTK部入部に脈あり、と考えてもいいのかしら」

「はい」

「じゃあちょっと一緒に部室へ行きましょう。一緒にお茶でも飲みながら相談して……」

 九条院はおれの手を引いて歩き出した。廊下の最初の角を曲がったとたん……

 そこに鬼門静がいた。

「あ」

 鬼門は蒼白な顔をしてうつむいていた。なにかを必死にこらえているらしく、胸の前で組んだ手が力のこめすぎで真っ白になっている。

 が、やがて顔をあげるとまっすぐにおれを見た。

 目が血走っている。ぎりっと音を立てそうなくらい歯を食いしばっている。

 間違いなくおれたちの会話を聞いていた。


「最っ低ー! 二度と顔も見たくない!」


 鬼門はおれをまっすぐに見つめるとそう言い放った。そのままくるりと振り返ると足早に去ってゆく。

「ま、待て」

「あら、引き止めたいの?」九条院はおれを横目でながめる。

「ち、違わい」

 おれはそうは言ったが、そのまま歩くこともできずに呆然と鬼門の背中が去った場所を見つめていた。鬼門の目じりがなんか光っていたような気がした。


     *


 広い会議室の中には十二脚の革張りの椅子が並べられ、そこに十二人の男たちが座っていた。長い会議テーブルの一番奥には特別席がしつらえられ、半透明の御簾によって顔は見えない。

 それぞれは新聞などでたまに顔を目にすることもある財界、政界、国防、各種団体の代表だった。かれらの存在は都市伝説として存在していたが、実際にあるとは国民のほとんどは知らなかった。

 政権が何度交代しようとも、世の中がどれほど変わろうとも戦前から日本を支配し、操っているのは軍産政治複合体の代表である彼らであり、彼らは日本の国益と自分たちの利益のもとに結束した集団だった。

 人は彼らのことを『十二人委員会』と呼んだ。

 いま彼らの視線は立ってプレゼンテーションを行う男に集まっていた。

 会長。本名金曜十三きんようじゅうぞう十二人委員会の前ではホッケーマスクを取り、素顔をさらした彼のはげ頭は汗と照明で照り輝いている。

「……でありますから、「Ω《オメガ》」確率論におきましては、事象 A に対して、Ω からランダムに選ばれた ω が A に含まれるか含まれないかは判断できます。それを式で表すと「(*∩ω∩)」となります」

 十二委員会の一人があくびをかみ殺して言った。

「なんか可愛くすれば受け入れられると思ったのかねえ」

 明らかに金曜の説明を誰も理解していなかった。一人がいらだちを隠そうともせず言った。

「理論的な話はもういい。実際にそれによってなにができるか、そのためには後どれくらいの時間と金がかかるかを説明してくれたまえ」

「もう少しです。もう少しです」

 金曜は頭の汗をタオルで拭きながら言った。

「もうしばらくお待ちください。今運特異点を特定したところですので、これからそれを手に入れ、活用する準備はほぼできております」

「で、具体的になにができるのだね? その機械は」

 財界の大物がたずねる。金曜はかしこまって答えた。

「運気を自在に制御できます。運気とはいわば運命の流れです。この運気の流れ入るところ幸運が舞い込み、これが足りないと不運が連続します。これまでの科学の常識では運は制御できないものとされてきました。しかしこのわたくしめの研究により、そうではないことが判明しました」

「つまり、この機械を使えば運命を操作できる、と」

「その通りでございます。皆さんがお気にされている株価の動き、政局、円やドルの価格、来年はどの色が流行色になるか、など全てを『予測』ではなく『操作』できるのです。今まで不確定要素で失敗したり損失を出したりすることはもはやなくなります。どこの馬の骨とも知れない連中のベンチャービジネスに市場を荒らされることもなくなります。全てはわれわれの思いのままに動くのです。この機械があれば、われわれの地位と名誉は磐石のものとなります」

「悪くない。悪くない」

 十二人委員会の面々はようやく満足したようだった。

「そいつが理論どおりに動くことを期待するよ、金曜君」

「はっ」

「うまくいった暁には、君の望むものはなんでも与えよう」

「ありがたき幸せ」

 金曜は深く礼をした。



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