第一章
世界一運の悪いおれとツイてる彼女のニアミス!
■第一章
起こりうる最悪の事態が起きる
おれはコミューターバスの最後部座席で、前の背もたれを握り締めながら吐き気をこらえていた。
もともと車には余り強い方ではないのに、昨夜は新しい高校に入ることに対する興奮で深夜過ぎまで眠られず、朝食には母親が何を勘違いしたのか初登校の息子のためにはりきって自家製オレンジジュースをしこたまミキサーで作ってくれ、放っておけば夕方帰宅する頃には味が変わってしまうのが気になったのと、元気つけなきゃという視線丸出しの母をがっかりさせたくなかったために無理してキャパシティ以上に胃袋に収めてしまった。
それでもって今朝のバスに乗り込むと、慣れないおれに対し容赦のない座席争奪戦が行われ、遠慮深いおれはスーツ姿のおやじとミニスカートの女子高生たちに押され、ついつい座りたくない最後部まで押しやられてしまったのだ。
このバスの運転手は昔ゼロヨン競争で鳴らしていたらしく、公共交通機関の運転手にはあるまじき急発進・急停止を繰り返し、そのたびにおれの胃袋の中は震災時の六十センチ水槽のようにちゃぽんちゃぽんと揺れた。
気分は最悪だった。胃から戻ってくるオレンジジュースの味を口に感じながら、おれは早く『山手常磐高校正門前』停留所に着くことをただひたすら願っていた。
*
わたしは真っ赤なボルボの後部座席で、執事の島田がハンドルを握る運転席の背もたれを握り締めながら叫んでいた。
「早く、早くしてよ。島田! 初日なのに遅刻しちゃうじゃない!」
今日はわたしの新しい旅立ちの日だからそつなくこなしたかったのに、朝の渋滞時だということを忘れ、所要時間の読みを誤ってしまった。
いつもなら渋滞したら元警察官の運転手瀬名が、ちょこっと可動式赤色回転灯を点けて覆面パトカーのふりをしてくれるのだけれど(ロールスロイスの覆面パトカーってなに)、今朝は父親とけんかして家を出てきたから運転手はなし。味方をしてくれる島田が見かねて自分の息子のボルボを運転して送ってくれることになったの。
「お待ちください、お嬢様。なにぶん、左ハンドル車は慣れていないものですから」
島田は絶対に日本車しか持たない。ましてやこんな馬鹿派手な車は死んでも所有しないでしょう。島田が額に汗をびっしょりかいて一緒に来てくれただけでも大感謝だわ。
でも、島田の運転を見て初めて、わたしはいつもの車が進む速度が普通ではないことが分かった。どうりで以前ディズニーランドで乗ったジェットコースターが全然面白くなかったわけね。
わたしの右手はバイオリンケースの取っ手をしっかり握りしめていた。高校に入るのにバイオリンを持って行くのはおかしいかもしれないけれど、わたしは不安で仕方がないとき、何かを握り締めていなければ我慢できないの。バイオリンはわたしの体の一部のよう。
でも島田、本当に遅いわね。ああっ! もう八時十五分。遅刻しちゃう! 本当にまずいわ。わたしは早く行きたいがためについ、島田の右ひざの上をバイオリンケースで押した。
「な、なにをなさいま……」島田がしわがれた声で叫ぶと同時にわたしの背中は革の背もたれに落ちた。このボルボ、羊の皮をかぶった狼、いやチーターだわ。オートマのボルボは歯止めもなく中央通りを爆走した。
「ああ、駄目! 駄目駄目!」
「お嬢様あー!」
景色が飛ぶように近づいては後ろに過ぎ去り、わたしの背中はシートに押さえつけられている。どんどん加速する。
島田は焦れば焦るほど両手でハンドルを一層強く握り締め、ひざの上に乗っているバイオリンケースをどけるなんてこと考え付かないらしい。
私といえば、前に出ようとするたびに重力がかかって柔道家に押さえ込まれたよう。
とても恵まれた人生だったけれど、高校に入る前で終わるなんてちょっと早すぎる。
あっ! 正面の交差点の信号が赤に変わった。こちらの車線には停車している車はない。四つ角の左側からのしのしという感じで鈍重なバスが現れた。目の前で突然ふすまを閉められたみたい。逃げ場はない。バスの威容が壁のように迫る。側面に描かれた広告写真で笑っている人の白い歯がアップになる。
「いやああああー!」
私たちの車はバスの後輪をかわし、そのすぐ後部あたりに突っ込んだ。
*
おれは最悪の状態で窓の外を見ていた。遠くの景色を見ていれば車に酔わないよ。そんな母の言葉をかたくなに信じていたが、気分の悪さはどうにもならなかった。
そこでバスの窓を限界まで開けて外に頭だけ出し、酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせて新鮮な空気を吸おうとした。大きく深呼吸したおれの肺に入ってきたのは、追い抜いていったバイクの排気ガスだった。
「げふっごほっがへっ」
咳き込みながらうつむいたおれのうしろ髪がちくちくと引きつった。
おれには災難が来る前にはなんとなく分かるという特技があり、それで何度も命の危機を潜り抜けてきた。いや本当だ。中二病じゃないよ。後ろ髪がちくちくするのは危険信号だ。
涙のにじむ目をかっと見開き、おれは警戒しながら辺りの景色を見回した。ちょうど大きな交差点に入ったところだ。家並みが途切れ、交差する大通りが一望に見渡せる。五百メートルほど向こうから真っ赤な自動車がこちらへ猛スピードで近づいてくるのが見えた。
あれは、誰だ。なに? いや、あの速度だと絶対にぶつかるぞ。停まれない。
車は真っ直ぐバスへ、おれの座席のある後部へ向かってくる。おれは近づいてくる魚雷の泡を見つめる巡洋艦の監視兵のような気分になった。
危機に際し、おれの身体は反射的に動いた。正義の味方なら同乗者を助けようと死力を尽くすのかもしれないが、おれは一介の高校生に過ぎない。背伸びはしないこった。
おれは狭い窓から身体をねじるように出し、バスから飛び降りて逃げようとした。おれが窓枠に足をかけ、よじ登り、上へ向かって足に全体重をかけて踏み切った瞬間だった。赤い稲妻が突進してきて、バスの側面にぶつかった。轟音と激しい色彩の乱舞。口の中に鉄の臭いがした。意識と時間がとんだ。
気がつくとおれは歩道にうつぶせになっていた。
目だけぎょろぎょろと動かすと、ちら、と目の端にバスと赤い車の残骸が見えた。赤いスクラップの端に『BORBO』というエンブレムが引っかかってぶらぶら揺れている。バスの後部は大きく凹んでいる。乗客はみな突っ伏している。遠くからサイレンの音が聞こえる。火がでなかっただけ幸いだ。大事故だ。
ただちに自己診断を開始する。意識は……OK。大丈夫。自分の名前は言えるか……辰巳数馬……た・つ・み・か・ず・ま……OK。職業は……山手常磐高等学校一年生。性別は……男。スリーサイズは……記憶になし。よし。精神は大丈夫だ。
続いて肉体はどうだ。手は……両手を握り締められる。OK。内臓は……圧迫感がある。足は……両足とも押さえつけられたように動かない。でも背中から足にかけてぷよぷよした柔らかいものが乗っかっているような感覚がある。
もしかしたら、衝突のときに身体がはさまれてぐちゃぐちゃにつぶれているのかもしれない! おかあさーん。
でも感覚はある。おれは両肘で上半身を起こして、自分の身体に何が起こっているのかを勇気を出して見ようとした。顔を上げると後頭部がごつんとなにかにぶつかった。いてっ。もしかしたら自動車の部品か。おれは恐る恐る振り返った。
おれの目に入ったのは、白い顔に黒いまつげを固く閉じた小顔だった。しみ一つないすべやかなほおに茶色に染めたショートカットの髪がはらりとかかっている。振り向いたおれの唇のすぐ近くに赤い小さな唇が迫り、おれはぎくりとした。
焦って身体を起こそうとするが、体勢が悪くてなかなか起き上がることができない。おれがもがいているうちに漆黒のまつ毛がぱっちりと開き、ほんの少し茶色がかった瞳がおれの心臓を射た。
瞳は最初焦点が合わない様子だったが、徐々に理性の輝きが戻ってきた。そして瞳は真っ直ぐにおれの顔を見つめた。おれも思わずその顔を見つめた。
ここは……どう反応すべきかな。
「きゃあああああああああああ!」
突然少女は両手でおれの頭を押しながら起き上がり絶叫した。おれの顔面は歩道の敷石にぐりぐりと押し付けられた。
「どうした! 大丈夫か」駆け寄った通行人たちが問う。
「この男がっ! わたしを押し倒して!」
「逆だろ!」温厚なおれも思わずキレた。
「こっちが下にいるのに何で『押し倒した』になるんだ。ああ?」
少女ははっと状況に気がついたようだった。
だんだん人だかりがしてくる。
バスの運転手と乗客たちが前部のドアから降りてきた。遠くで聞こえるサイレンの音が近づいてくる。
少女は急におれの上に手を突いて上半身を起こし、狂おしげに辺りを見回した。昨日美容院へ行ってきたばかりのような茶色の髪が、風ではらりとゆれた。
「し、島田は? 島田」
「ここでございます。お嬢様」
後ろにいた老人が直立不動で立ったまま囁いた。黒いスーツをきっちりと着込み、蝶ネクタイをしめ、白い手袋をはめている。この人、いわゆる『執事』?
「いかにボルボが頑丈とはいえ、このような大事故でかすり傷一つ負わなかったとはまさに奇跡。お嬢様の幸運にあずかり、この島田、身に余る光栄です」
その言葉に少女の顔ははっとこわばった。それを見て老人も急に口をつぐんだ。
「そ、それは言わないでと言ったでしょう」
「申し訳ありません、お嬢様。しかし……」
島田老人はあくまでもかしこまって答えた。
「私はシートベルトをしておりましたから大丈夫でしたが、衝突の衝撃でお嬢様はフロントグラスを割って前方へ投げ出されたのでございます。バスの屋根を越えて飛んで行かれるのがみえました。はい。そのとき丁度この少年がバスの窓から身を乗り出し、上に飛び上がったところ、お嬢様の身体とぶつかり向こう側へ飛んで行きました。この少年がクッションとなったからこそ、お嬢様は歩道にたたきつけられずに済んだのです。いや全く運がおよろしい」
老人の言葉に少女はきっとまなじりを上げた。「し・ま・だ! やめてと言ったでしょう」
「す、すみません。つい」老人はうなだれる。
聞いてたらいらいらした。黙ってられずにおれは叫んだ。
「お前ら。二人だけで話してんじゃねえよ。さっさとおれの上から降りやがれ」
おれが叫んで初めて気がついたのだろうか。少女はあら、と手のひらで口を押さえると両膝をそろえ、優雅におれの上から降りた。どんなに優雅に降りたって、この騒ぎじゃ格好つけようがないだろうに、それでも少女の仕草は優雅だった。
おれは立ち上がって制服についた砂を払った。
「さっきから運がいい、運がいいって言ってるが、この事故を見ろ。こんな大事故に遭うのは宝くじの一等賞と前後賞に当たるくらいむつかしいぜ。今日の運勢は最悪だ」
おれの言葉に少女は妙な反応を示した。突然ほおがぽっとピンクに染まり、息をはずませたのだ。
「こんな事故に遭うことは……悪運の印だとおっしゃいますの」
「そうだろ、普通。それじゃあんた、あんたの家では交通事故に遭ったら祝うのかよ」
「そうした方がいいかもしれません。めったにないことですもの」
「けっ、金持ちの世間知らずのお嬢様の考えることは分かんねえな」
「今なんとおっしゃって」急に少女はこわい顔をした。こわい顔もちょっとかわいい。
「お嬢様は庶民とは考え方が違うって言ったのさ。おれの家なんか病院の治療費や破れた制服の修繕費だって大変なのに、事故を祝うなんてよ」
「だから?」ますます険しい顔。
「だからぁ。世間とかけ離れた生活をしているお嬢様には、しょせん世間のことなんか分かんね……」
おれの言葉は脳天にバイオリンの一撃をくらって中断した。
「なによー!」少女は両眼に涙を一杯にため、おれに何度も殴りかかる。かわすことは簡単だが、意外な反応におれの脳はパニック状態で、ただ両手をあげてバイオリンを防ぐだけだった。
「あなたなんか大嫌い!」
「誰も好きになってくれって頼んでねえよ!」
「ひどいわ、ひどい!」
「そりゃ、こっちのセリフだろ!」」
何がひどいのか分からず、泣く少女とおれの周りに人だかりがしてきた。
「なんだ、なんだ」
「あの男が女の子を泣かしたんだ」
「悪い男だなあ」
「なにをやったんだ」
「なんでも口にできないくらいひどいことをしたらしい」
「まあ、最低」
「ちょと待てっ!」なんか放っておくとおれだけ悪者にされそうだ。
全くわけのわからない群集に困惑してふと腕時計を見たおれは飛び上がった。
「まずいっ! 遅刻する」
おれは地面に転がっていたかばんを拾い上げると、後も振り向かずに全速力で走り出した。後ろで「あの」という声が聞こえたが無視無視。もう二度と会うもんか。そのままおかしな金持ちを置き去りにしていった。
*
「あ、あの」
さすがに命の恩人にお礼を言う暇もなく、駆け去った少年の後ろ姿を見ながらわたしはしばし呆然としていた。
「あの少年、お嬢様と同じ学校の制服を着ておりましたな」島田が静かに言った。
「そ、そうだった?」気がつかなかった。意外に冷静なんだ。島田って。
「また会うこともあるでしょう。事故の事後処理はわたくしめに任せて、お嬢様は学校へお向かいください」
「そ、そうね」
ふと腕時計を見ると大変! 完全に遅刻だわ。
事故現場を立ち去ろうとしたとき、革靴が何かをこつんと蹴飛ばした。見ると革の袋に何かが入っている。わたしは袋を拾い上げるとほどけたひもを結ぼうとしてひっくり返してみた。けっこう重いわこれ。
「なんでございましょう」島田も横から覗き込む。
「名前も書いていないし、ちょっと中を見てみましょう」わたしは袋の口を広げ中身を取り出した。
陽の光を受け、重そうな金属が輝いた。
「これって」
「オリンピックの金メダルのようでございますな」
落ちていた場所から推測すると、あの少年の持ち物かもしれない。なぜこんなものが落ちていたのだろう。わたしは遅刻のことも忘れてしばらく少年の駆け去った方を眺めていた。
*
入学式が終わって最初にすることはクラス分け試験だった。
さすが名にし負う進学校。山手常盤高校は入学式の次の日、初日に入試とは別の試験を行い、学力別にクラスを編成する。A組からF組までヒエラルキーが形成され、それは担任教師のレベルから学内施設の利用権限にまで影響する。巷にあふれる悪平等主義よ糞食らえ。この学校内は完全な階級社会なのだ。
ただ(公称では)この階級制度はリーグ制で、中間・期末試験や年度始めのクラス分け試験で成績が上がればいくらでも登っていくことができる。完全実力制度だということだった。
おれはいつものように十五本の鉛筆を用意すると、机に並べて問題用紙が配られるのを待った。
カンニング防止のため、クラス分け試験では縦の列ごとに学年が異なる。つまりおれの前後の席はおれと同じ黄リボンの新入生だが、右列は紺リボンの三年生、左列は緑リボンの二年生だ。
当然問題も違う。試験助手がページを閉じた問題用紙とマークシート方式の解答用紙を伏せたまま配ると、おれは開始ベルの鳴るのを待って何度も深呼吸した。精神統一。何度も経験した緊張の一瞬だ。
そのとき、突然ふわっといい香りが漂ってきた。ちらと右に目を転じ、なにげなく視線を戻したおれは一瞬後、ものすごい勢いで右に振り向きそうになった。
試験に気を取られてさっきまで気づかなかったが、おれのすぐ右側に座っている女生徒。え、これここの生徒? やば、すごいグラマーだ。横から見るとナイル川のように蛇行する完璧なボディーラインが分かってしまう。ラノベじゃあるまいし、こんな女子高生が本当にいるのか。
蠱惑的な香りはこの女生徒の方から流れてきたものだった。呆けたように眺めていると、おれの視線に気づいたようにその女生徒は花びらが開くようにこちらを振り向いた。目元は黒々とアイライナーを塗り、唇は赤いつやつやリップクリーム。おれの視線を冷然と受け止め、軽くウインクした。自分の魅力をはっきりと自覚した自信が伝わってくる。
おれは自分の頬が熱くなるのを感じてあわてて顔を前に戻す。気のせいか彼女がくすっと笑ったような気がした。脳髄が沸騰しそうだ。
かつん、と鉛筆が机に転がる音で我に返る。くそっ。こんなことを気にしている場合か。この試験で成績が悪ければ一年間は階級社会の最下層でみじめな学校生活が待っているというのに。おれよ、しっかりしろ!
あああああ。でも悲しい男の性。どうしても気にしてしまう。あまり露骨に右を向いたらカンニングとみなされるかもしれないから頭は正面に向けて、黒目を最大限に右に向ける。
よく見えない。今のおれは探知レーダーを全て右側に向けたイージス艦のように右側の人影の一挙手一投足が気になった。この方がカンニングに見えるかもしれないが。
ああっ。今ひざを組み替えた。あああああ。意志の弱いやつ、と自分を叱咤しながら、気にせずにはいられない。
その女生徒は暑いわね、とでも言いたそうにブラウスのボタンを一つはずして胸元を開き、下敷きを団扇にしてあおぎ始めた。再び香水の香りがおれの所まで届き、おれの理性は蒸発しそうだった。
「はーいみんな。用意はいいかなぁ」
上がり調子の声が教壇から聞こえておれはわれに返った。教壇に立って大きな口と大きな目で最大限の笑顔を作っているのは……日本人じゃなかった。
「おーっと。新入生諸君はわたしがここにいるのが不・思・議、という顔をしとるねぇ。では自己紹介。ぼくの名はサイード。アラブ人。一年生の英語と三年生のフランス語を担当している」
まだ大学生くらいに若く見えるが、山手常盤の講師をするくらいだから優秀なのだろう。サイードは腕時計をちらと見るとおれたちを見回して言った。
「そろそろだよ。鉛筆、消しゴム、用意はいいかなぁ」
サイードのふざけたような声でかえっておれは落ち着きを取り戻した。
試験開始を告げるベルが鳴り響くと、おれは鉛筆を取り上げ、まっすぐに問題に立ち向かった。
国語と数学が一緒になった問題だが、入学試験よりもレベルが高かった。おれは何度も迷い、答えの番号に対応するマークシートの丸を塗りつぶした。
わずか五十分の試験だが、いつものようにおれの鉛筆はしばしば折れた。昨日買ってきたばかりの新品なのに。今朝の事故の衝撃で芯が折れたのかしらん。おれは折れるたびに淡々と鉛筆を交換した。
人の気配が背後から近づき、ひゅっと口笛が聞こえるとサイード先生、いや年齢から言うとサイード君の声が聞こえた。
「すごい鉛筆の山だねえ。これ全部折れたの?」
「はい」試験中に邪魔だがうざいとは感じなかった。
「もし足りないなら手を挙げて言いなさい」
「ありがとうございます。大丈夫です。いつものことですから」
「そうか。おや」サイードはおれの答案を見ていぶかしげに言った。「マークしていない箇所があるね。四択だから分からなくてもとりあえずどれかマークすれば正解する確率は二十五パーセントだよ」
おれは初めてサイード君がうっとおしくなった。そんなこと分かってるって。おれはかすれた声で答えた。
「そんなことしても無駄ですから」
「無駄かい?」
「はい、無駄です」
「そういう主義なんだね。オーケー大丈夫。マーフィー・ムシキラ」
え、今なんて言った? おれは思わず身体をこわばらせた。
サイードは片手を目の前で振って言う。「マーフィー・ムシキラ。ノーブロブレム」
ノーブロブレム《、、、、、、、》ってこいつ本当に英語の教師か? マーフィー?
おれの表情を読み取ったようにサイードは言った。
「マーフィー・ムシキラというのはアラビア語で『問題ない』という意味だよ」
そうだったのか。おれへのあてつけかと思って被害妄想的に過敏に反応してしまった。「マーフィー」って『マーフィーの法則』のマーフィーかと思った。
『マーフィーの法則』って知ってるか。科学の法則じゃないぜ。一言でいえば、「失敗する可能性のあるものは失敗する」ということ。アメリカの様々な人々が考え出した全てを悪いほうへ悪いほうへ考えるというシニカルな世界観を集めたもので、人生訓ともなっている。
基本的な考え方は「この世はうまくいかないようにできている」あるいはつまり「起こりうる最悪の事態に備えよ」ということ。有名なのには「トーストがバターを塗った面を下にして落ちる確率は、カーペットの値段に比例する」がある。
きばるなよ。人生こんなもんさ。肩の力を抜いて気楽に行こうぜ。失敗するときゃ失敗するんだ。
これは普通の人たち、つまりたまには失敗して時々成功する人にはユーモアかもしれない。
でもほとんど百パーセントに近い割合で失敗する人間にとってはどうだと思う?
それがおれだ。世界でおれほど運の悪い高校生はないと思う。運の要素がからまないものならいいんだ。その場合、おれの実力だけで結果が出る。でも実力だけで決まらないこと、多少なりとも運が関係するここ一番、というときには必ずおれには不運が降りかかることになっている。それもマーフィーの法則そのままで。
例えば今日の試験のような場合は次の法則があてはまる。
マーフィーの法則:試験中には美人が隣に座る。
いや、別に電波系の被害妄想じゃないんだ。ラジオで誰かがおれの悪口を言っているのが聞こえるとかおれにはないよ。本当だ。
子どものときからゴルフ場や野球のグランド近くを通れば必ず頭めがけてボールが飛んできたし、釣りに連れて行ってもらって、最初にリール付きの竿を投げさせてもらったら、丁度そのときリールのベアリングが故障してカッコウの巣みたいにバックラッシュして絡まり、それをほどくのに日暮れまでかかったし、百五円握り締めてお使いに行くと必ず百八円必要だったり、レジで一番短い行列に並ぶとそこが一番遅くて、しびれを切らし隣の列に並び変わると元の列が動き始めたあげくおれの直前でレジが閉鎖になったり、バーゲンセールに行くとおれの目の前でおれが狙っていた品物が売り切れになったり、床屋で髪を丁寧に刈ってもらって出てきたとたんに強風が吹いたり、新しい服を着て家を出たとたんに通りかかりの車が水溜りの水をはねたり、自動販売機の前で小銭を落とすと必ず機械の下に転がって入ったり、おれが入部届けを持っていった部は必ず定員一杯になったり、テレビのスポーツ中継でおれがトイレに入っている間に必ずウルトラファインプレーが行われたり、中学のとき、可愛い下級生に告られるという万歳な体験をしたのにそんなときに限って昼食に食べた長崎ちゃんぽんにあたって下痢になり、その娘から逃げるようにトイレに駆け込んだらその娘にはしっかり誤解され、二度と近くに寄ってこなくなったり……とにかく万事が不運の連続なんだ。
え、そんな体験誰にでもあるって? そりゃ誰にでも一度や二度はそんな体験あるだろう。でもほぼ毎回そんな結果になったらどう思う?
おれにとっては毎日が十三日の金曜日の仏滅だ。地震、茶碗が割れる、下駄の鼻緒が切れる、仏壇が倒れる、靴紐が三度続けて切れるなんて当たり前。当たり前なんだ。
『ドラえもん』って漫画を知ってるよな。子どものとき『ドラえもん』の「苦労みそ」っていう話を読んだ。これは例によってドラえもんの四次元ポケットから出てくる架空の未来の道具でみそのような味と形をしている。だが、これをなめるとなめた分量に応じて簡単なことをするのにも様々な障害を潜り抜けなければ達成できないようになっている、というものだ。読んで克目した。
おれの人生そのままじゃねーか。
その日からおれは母親が作ってくれる味噌汁が飲めなくなった。毎日苦労味噌の固まりをなめているようなおれだから。わかるか?
「艱難なんじを玉にす」とか言えるやつは幸せだよ。ほとんど艱難ばかりのおれはどうすりゃいいんだ。とうにボールになってるぜ。
サイード君はそのまま何も言わずに去った。おれより二つ先の席で再びサイード君と試験中の生徒の会話が聞こえた。サイード君は同じことを言っていた。
「四択だから分からなくてもとりあえずどれかマークすれば正解する確率は二十五パーセントだよ」
凛とした声が響き、思わず聞き耳を立てたね。
「運の良さでいい点を取りたくなんてありませんから」
ちょっと顔を上げると、その返答をしたのが今朝方大事故を起こしおれの上に乗っかったあの少女だと分かった。
同じ学校? 同じ学年? あの高飛車天然お嬢様と? こりゃ最悪だ。おれはいきなりマックの袋を頭からかぶせられたように目の前が真っ暗になった。おれが最悪だと感じたら、あの女の子と同じクラスになる可能性は限りなく百パーセントに近い。おれにはそれだけの不運に遭う自信がある。おれの人生は不運の連続だったから。おれはあきらめて終了時間まで空いた丸を塗りつぶした。
*
マーフィーの法則:やりたくない、と思う仕事につかされる。
おれは掲示板に記されたクラス編成を見てから教室に入った。クラスは一年F組。AからFまである組のFである。もちろんクラス分け試験の成績で学年最下位だった者ばかりを集めたクラスだ。
どうだ、これがおれの実力だ。有名進学校になんとか入ることはできたが、やっぱりここに来る生徒たちはレベルが高いや。おれみたいにやっとのことでどうにか入学できた者は、三年間階層社会の底辺をうろつくことになるのだろうか。
おれが学生カバンを机に置くと、うしろ髪がちくちくと引きつった。来た! どこだ? おれは来たるべき災厄に備え、周りをきょろきょろと見回した。災厄はおれのすぐ後ろにいた。あの『天然ボケ浮世離れお嬢様』がおれのすぐ後ろの席に座っているではないか。う。綾波レイのようなショートの下から真っ白なうなじがはみ出てるのが色っぽい。いや、それで騙されてはいけない。
「なに。きみ、このクラスなの?」おれはできるだけ嫌らしくたずねた。「お嬢様だからもっと上流かと思ったらこんな掃き溜めにいらっしゃるとは」
「し、仕方ないでしょ。これがわたしの実力なんだから。これから頑張ってA組を目指すわよ」お嬢様は胸を張って言う。
う、服の盛り上がりが好みのサイズ。いかんいかん。
「ああ、もう少し才能があれば違うクラスに行けたのに。AからFまで六組もあるのに、なんでお前と一緒になるんだよ。最悪」
おれの言った「最悪」という言葉に再び彼女は反応した。ぽっと頬が上気する。
(こんな男と一緒のクラスになったということは、「運が悪い」と言えるわよね。最悪? わたしも運の悪いことがあるのね)
なにか小声で言っている。陶然とした表情の彼女を見て、おれは肩をすくめ、黒板の方を見た。
ガラッと前側の扉を開けて入ってきたのはあのアラブ人だった。
「いやー参った参った。なにしろ初失禁だから遅れちゃった」
それ『初出勤』だろ、とクラス全員が心の中で突っ込むのを感じたが、アラブ人は笑顔でクラスを見回した。
「ハーイ。みんな元気かな。このクラスの担任を受け持つことになったサイードだ」
まじかよ。こいつ日本の教員免許持っているのか。明らかに講師に過ぎない外国人を担任にするとは、これが山手常磐高校の完全階層リーグ制か。最下層のF組には免許を持った教員すら担任にならないのか。嫌なら実力で這い上がれってことね。
「出欠をとりまーす」おれの気分とは関係なく、サイードは上機嫌だ。クラス全員の名前と配置を確認すると、大きな目と口で特大の笑顔を作り、言った。
「じゃ、ぼくの好きな日本の習慣で自己紹介と行きましょう。日本人はシャイだから抱負とかは言わないよね。最低でも名前と出身校を言ってくれよ。ああ、ぼくはサイード。中東のサラーム王国出身。交換留学生として来て、去年日本電子工業大学大学院博士課程を終了。趣味はアニメ。好きな食べ物は寿司」
日本かぶれの外人か。サラーム王国と言えば、世界地図上では針で突いたくらいに小さいがオイルマネーで大金持ちの国だ。日本に留学に来るんだから、良いとこのぼんぼんかもしれないな。
「前列からどうぞ」
サイードに促されて自己紹介が始まり一人ずつ葬式で弔辞を読み上げるような調子で進んだ。おれの番がきた。おれは立ち上がって普通に言った。
「辰巳数馬。朝霞東中学出身。よろしく」それでおれは座ろうとしたがサイードが口をはさんだ。「朝霞で辰巳、というと辰巳大五郎の息子かい」げっ。なんでこんな外人がマイナーなスポーツの日本の選手なんか知ってるんだ。
「はあ」
「じゃあ有名人だね」
教室がざわついた。
「それほどでもないです」この話題、早くやめたい。幸いにもサイードはその先を追求しなかった。
次はおれの後ろ、例の変人お嬢様だ。お嬢様はあたかも首筋に流れ落ちる長い髪をちょっと重そうに振るような仕草をしてからはっきりした声で言った。
「鬼門静。雅女子中学校から来ました」
再びクラスが騒がしくなった。「みやじょだってよ」「すげ」素早く囁き声が交わされる。
おれですら雅女子の名前くらい知っている。幼稚園から大学までの一貫教育を行っている女子校で、格式も高いが学費も超一流らしい。並みの金持ちじゃとても入れない。でも待てよ。なんでみやじょの生徒がレベルの高い進学校とはいえ、わざわざ山手常盤高校に来るんだ? 理解できねえ。あそこは入るのは大変だが、エスカレーター式だから学費さえ払い続ければ余程のことがない限り他の学校へ転校するメリットはないはずだが。
ちょうどおれと同じ疑問をみなも抱いたらしい。みなの表情が「?」になった。
「みやじょから本校へ転入? 珍しいね」
言ったのはサイードだ。こいつ日本の事情に明る過ぎね?
「みやじょは鬼門グループの学校だ。あそこにいた方がご両親も喜んだんじゃないかい」
その言葉で気づいた。鬼門グループって言えばあの鬼門? 再びクラスはささやき声で満ちる。毎日テレビのコマーシャルでやっている。鬼門鉄鋼、鬼門通信、鬼門ソフトウェア、鬼門出版、鬼門証券、鬼門ベンチャー。とにかく誰もが聞いたことのある名前だ。
するとこの女、正真正銘の極めつけお嬢様か。やっぱりおれの住んでいる世界とは百光年くらい違うな。わずかでも期待したおれが馬鹿だった。やっぱり口をきかなきゃ可愛いもんな。劇的な出会いもあったことだし。
そんなことをおれがうじうじと考えている内にクラス全員の自己紹介は終わった。
「さて、と」サイードは笑顔でみんなを見回した。「ではこれからクラス委員を決める」
出たよ。またうざい仕事が。何を隠そうおれは中学校時代三年連続各学期ごとに委員に選ばれた。
マンガやラノベじゃ秀才かスポーツのできる人気者が生徒会長とかクラス委員長とかになるのが定番だが、現実世界でそんなことはあり得ない。委員にされるということはずばり、いじめだ。委員選出のときには誰かまれにいる目立ちたがり屋が立候補してくれるのを待つか、クラスで一番目立たずにいる奴かいじめられっこが集団の圧力でクラス委員に任命される、というのが原則になっている。
おれは適当に友達を作り、かつ目立ち過ぎないようにして中学の三年間、委員という苦役から逃れることを試みたが、なぜか担任に気に入られるか、クラスメートの期待に満ちた顔を見ているのに耐えられず委員を引き受ける結果になった。余分な負荷が増える。余計なことはするな、がおれの座右の銘である、のにだ。
「日本人はこういうとき、おとなしくなるねえ」
サイードは分かったような顔で手にした帳簿をとんとんと教壇の上でそろえた。
「じゃ、ぼくが適当に決めるよ。異議はない?」沈黙。こういうとき下手に発言すると役を割り振られると決まっている。
「ええと、じゃあ体育委員は遠藤くんと小坂さん……」次々にランダムに当てられた男女ペアがそれぞれの委員にされる。
「……それでぼくの手足となって働いてくれるクラス委員は、辰巳くんと鬼門さん」
はあっ? 空耳かしら。いや、サイードの顔はまっすぐにおれたちの方を向いている。
おれたちは同時に発言した。
「なんでおれがこいつと組まなくちゃならないんですか」
「なんでわたしがこんなのと一緒なんですか」
はあっ? 今『こんなの』って言った? おれでさえ『こいつ』と敬語で話したのに、こんなの、とはなんたることだ。
おれが振り向くと鬼門はきっと切れ長の目でおれをにらみつける。恐い表情も可愛い。
サイードがのんびりした声で言った。
「君たち似たもの同士だろ。相性がいいと思うけれど」
言うに事欠いてこれかい? たちまちクラスは騒がしくなった。こういうことには高校生は敏感である。「相性がいい?」おれと鬼門の関係と言えば、交通事故で激しくぶつかってさらに顔を歩道にこすりつけられただけだが。
「いや、ええと日本語でなんと言ったっけな。「以心伝心」? 「相思相愛」? じゃなかったか」
大変なことになった。失言にもほどがある。
「わたしたちのどこが《、、、》似たもの同士なんですか。侮辱です」鬼門が言う。おいおい、それはおれのセリフだぜ。
「きみたちは二人とも試験中、マークシートの空いた箇所を塗りつぶさなかっただろ。「マークシートの運を拒否した」という点でものの考え方が似ていると思うんだがな」サイードはしゃあしゃあと言う。
「そ、それは誤解です」
「偶然です」
「わたしにはわたしなりの理由があるんです。こんな男と一緒にしないでください」
サイードは両手のひらを上に向けて肩をすくめた。悔しいが目鼻の造作が大きいサイードがやると様になっている。
「ま、決めたんだからごちゃごちゃ言わずに手伝ってくれよ」
こちらの要望はそのままスルーされた。
*
始業のベルが鳴る前、クラスでいつものように中学校からの友人である甲斐田としゃべっていた。
甲斐田は医者の息子で東大生ぞろいの兄達に囲まれた末っ子だ。家の「当然お前も東大医学部」という雰囲気に押されて山手常磐に入学はしたが、一流大学へ進学するつもりは全くなく、高校で思いっきり楽しみたい、とひそかに計画している男だった。
「世の中そんな医者ばっかいらねえだろう」というのがやつの持論だった。
特に最近甲斐田がはまったのは『もしドラ』という愛称で知られる熱血高校野球ものの小説だった。これは高校野球部のマネージャーになった女子高校生が、ドラッカーという経営者の書いた『マネジメント(エッセンシャル版)』という本を参考にして弱小野球部を改革し、甲子園へ連れていく、という感動の物語だ。
「おれよ、『もしドラ』に感動してこの山手常磐の野球部を甲子園へ連れていくのが夢なんだ。数馬。お前、野球部入らないか」
「おれの身体、なでまわすのやめてくれないか。クラスには腐女子もいるし」
それに構わず甲斐田はおれの腕や胸をもんで吟味していた。
「数馬。お前服を着ていると分からないがけっこういい筋肉してるな。野球部に来いよ。せっかくマネジメントで山手常磐の野球部を改革しようとしてるんだが、そもそもがり勉で貧弱なやつばかりでな。素材の点からアウトなんだ」
「それをなんとかするのがマネジメントじゃないのか」
「そう思って『もしドラ』に書いてある通り本家の『マネジメント』を読み始めたんだが、いつも読み始めて三分以内に落ちて寝てしまうんだ。今じゃ快眠のために枕元に置いている。アスリートにとって睡眠は大事だからな。野球部の人間があれ読んでっての本当かな?」
「お前が山手常磐に入れたってのが信じられない」
「まあ、そう言うな。一度しかない高校生活で思いっきり青春の汗を輝かせようぜ」
「今、前歯が浮いてるぜ。悪いけどおれ忙しい」
「部活はやらないのか」甲斐田は青春のポーズにおれの胸倉をつかんだ。
「伝統ある帰宅部所属だ」
「ちぇっ。がり勉派か」
「いや、勉強も適当にやってるけど」
「そうだよな~。見ててわかる」
「言っとけ」
「それでお前どうすんの。進路」甲斐田はちょっと改まった表情で言った。
「へ、今から考えてんのお前」おれはちょっとあごを落とした。
「おいおい、ここはあの山手常磐だぜ。おれたちまだ一年だけどもう先週進路指導のプリント来たろ」
そう言えばそうだった。何事も計画的に。山手常磐では入ったときから高校三年間、大学四年間、その先の就職までのライフプランを作り始めるように指導をされるのだ。
「んーこの前進路指導室前の掲示板で見たんだけれど、試験で最低ラインを維持していれば、県立取和津大学の推薦入学があるって」
「ありゃ三流大学だぜ」
「でも努力しなくても入れるんならいいんじゃね。せっかく山手常盤に入ったんだから、推薦でもなんでもどこかに引っかかれば……」
ぽきり、と右後方で音がした。ちらとふりむくと鬼門がノートに書き込みながら握っていた鉛筆の芯が折れた音だった。こんな休み時間にも勉強してるんだ、こいつ。鬼門の茶髪からはみ出た耳がピンクに染まっていた。こいつなにか興奮してる?
そんなおれの視線に甲斐田が気づいた。
「おいおい、あの鬼門さんがおれたちの方を見てるぜ」
「そうらしいな」
「お前、あの娘見てもなんも感じないのか」
「美人だな」
「それだけかぁ! おい、ここに入学してはや一週間。鬼門さんは全学美少女ランキングでは三位に入ってるんだぜ」
「それどこの統計だよ」
「美少女CIAのおれが言うんだから間違いねえ」
「それどこの組織だ」
「とにかくあの娘を見て何も感じないなんて普通じゃ……お前まさか……」そう言いかけた甲斐田はぞっとしたように身を震わせると、おれから一足一刀の間合いをとった。口が「びっ、BL?」と動く。
「おい、なんかおれのことものすごい誤解してないか、お前」
「いや、普通疑うだろ。確かにあの娘はフェロモン系というよりは美少女系、しかもツンデレとおれは見た。しかしあの神の造形。美の象徴。あれを見てなにも感じないのは男性機能が麻痺しているか心の病気としか……」
「おおげさに言うなよ。いくら可愛くても、いつもいつも『真面目にやらなきゃ・努力しましょ』電波を放たれていたらそばにいるだけでこっちが疲れちまう」
「お前筋金入りのロハス人間になったな。中学校のときとはえらい違いだ」
「それは定義が間違い。ロハスの人々に失礼」
「じゃあ、単なる怠け者か」
「やるべきことはやってるぜ。必要最低限だけだけどな」
おれのポリシーは……
「君子危うきに近寄らず」「沈香も焚かず屁へもひらず」「寝ていてころんだ例はない」「凡事徹底」
わたしは鉛筆の端を噛んでいた。辰巳数馬。本当にわたしをいらいらさせる。三流大学に入れればいいって、どれだけやる気がないのよ。こんなやつと同じクラスにいると、無気力が伝染するような気がする。
わたしは気分を直すために折れた鉛筆をもう一度削った。わたしの座右の銘は……。
「日々精進」「精神一到何事か成らざらん」
*
体育の授業でわたしたちは運動場にいた。男女それぞれ少し離れた場所で体力測定を行っている。辰巳数馬は百メートル走を終え、指導教官に怒られているところだった。女子の群れているここまで怒鳴り声が聞こえた。
「こらっ辰巳。お前、ここが進学校だからって体育の授業をなめるな。力を抜いて適当にやってるのが見え見えだ。お前には遊びかもしれないがな、そんな風にちんたらやってると怪我をするぞ。本気出せ本気ぃ」
「はい」
あいつ、また手を抜いているのか。わたしはやつがぺこぺこするのを見ながらため息をついた。
「静、ねえ静ったらぁ。あら、辰巳くんにみとれちゃって」
クラスメートの谷口よしこさんが身体をすり寄せてきた。彼女は同じクラスで休み時間の部族社会形成時にわたしを誘ってくれた娘。わたしの張り巡らせていた他人行儀バリアをあっという間に打ち破ってきた類いまれな対人スキルを持っている少女。
「違うわよ」わたしは平然と答えるが、確かに視線をしばらく止めていたのは間違いないから、自分がどもらなかったことにほっとした。
「彼イケ面だもんね。いいなー。クラス委員も同じだし一緒にいる時間が長いね」
「嫌いよ。あんなやる気のないやつ。見てるとイライラする」
「そ・こ・が! いいのよ。あの憂いを帯びた表情。彼はなにか苦しみを背負って生きているに違いないわ」
「あなたも相当の空想家ね。わたしには単に怠けているだけにしか見えない」
「それにね。彼運動神経も抜群なのよ。水泳に千五百メートル走に」
「あら、そう」
丁度男子の場所ではバスケットボールのシュート合戦が始まっていて、辰巳が一投目をはずしたところだった。わたしは鼻で笑って谷口さんを振り返った。
「あらあ残念。得意じゃないこともあるのねぇ」
「素直じゃないわね、静」
「認めない。わたしは努力をしないやつは絶対に認めない」
わたしは辰巳をにらんだ。きっとはたから見たらきつい目つきだろう。
「おい、静さんこっちを見てるぜ」甲斐田がおれをひじでつついた。
「だから?」
「おれがさっきからモニタしている限り、静さんは待機時間のかなりを割いてこちらを見ているぞ」
「それってお前がほとんどの時間、あっちを見てるってことの証明だろ」
「まあ、それはともかく」甲斐田は平然としていた。「問題はおれたちの誰を見つめているのか、ということだ。ひょっとしておれっ?」
「知らねえよ」
「まさかお前じゃないだろうな」
甲斐田は突然首を回した。
「ああっ、立ち上がったお前を静さんが目で追った。お前、いつ彼女にアプローチしたんだ。もう告ったのか」
「誰が」
「お前のような脱力系の人間は努力系の静さんのような人とは合わないぞ。やめておけ」
「最初から考えてねえよ」
答えてから思った。そうだろうな。おれみたいに力を抜いていることを公言しているやつなんか、彼女には合わないだろうな。それに、子供のときからずっと努力努力といい聞かされ続けて、疲れた。正直そんなことをまだ素直に信じ込んで実践しているやつが身近にいたらうっとおしいよな。
*
おれはぴかぴかの自転車で帰宅の途についた。バス通学は懲りたので自分で経路を選べる自転車で通学することにしたのだ。
ちなみに中学校のときは自転車通学は禁止だったが、放課後や休日移動するのは基本的に自転車だった。でもこの自転車は手入れがいいのではなくて真新しい。そのあたりのどこにでもあるママチャリだ。
繰り返す。おれは小学校から自転車に乗っているが、この自転車は真新しい。
おれは道路交通法を守って道路の左端を走っていた。赤信号ではきちんと止まり、交差点では左右を確認した。それでもおれは油断なく運転していた。あ、また後ろ髪がちくちくする。なんか右後方がすごくやばい感じがする。やばいやばい。
ちょっと後ろを振り向いたときに見えた灰色のメルセデスが突っ込んでくる音がして、おれはペダルの上に立ち上がるとひざを曲げ思いっきり跳びあがった。
一瞬後、おれの乗っていた自転車はメルセデスと歩道のガードレールの間にはさまれてひしゃげた。おれは歩道の上に背中から落ちてそのまま前転し、立ち上がると両手で学生服についた砂埃を払った。
マーフィーの法則:自転車に乗れば事故に遭う。
急停車したメルセデスのドアが開き、運転席から蒼白な顔をした中年男性が降りてきた。着ているスーツを見るとどこかの中小企業の社長さん、という雰囲気だ。男性はおれに駆け寄って言った。
「キミッ大丈夫か! どこか怪我は」
「はあ、大丈夫です」
「本当にすまなかった。つい電話に夢中になって、私の責任だ、すまない」
「ああ、いいですよ。別に怪我もなかったし」
男性はポケットから携帯電話を取り出した。「すぐに警察と救急車を呼ばなきゃ」
おれはあわてて手を振って押しとどめた。「いいですよ。本当におれ、なんでもなかったし、まあいつものことだし」
「いつものこと?」男性は目をむく。
「あ、いえ、でも怪我もなかったし、警察とか面倒くさいし、おじさんも罰金払って点数ひかれちゃうし、いいことなんかないですから、これでチャラにしましょう。おれは全然構いません」
中年男性はきょとんとしていた。『当り屋』なんて職業もあるくらいだから、おれの申し出は随分欲がなさげに聞こえたのだろう。
「そうはいかないよ。私には社会的な責任がある。じゃ、これなら気が済むかな」
男性は内ポケットから革の札入れを取り出すと、中から手の切れそうな万札を十枚数えておれに差し出した。がっしりとした手首がおれの遠慮を拒絶する。
「そ、そうですか。それじゃ」
おれも貧乏高校生。なさけなくその札束を受け取って二枚だけ抜き取ると残りは返そうとした。今度は男性は渋い顔をした。
「いいよ。全部とっておきなさい」
「いえ、壊れたのは自転車だけで、これならムラタサイクルでイチキュッパで買えますから大丈夫足ります。どうせまた壊れますから」
その男性はどうしても八万円を受け取らなかった。
おれは男性と別れてから自転車の残骸を押して歩き出した。
途中に通りかかった神社でいつも見かけるホームレスのおじいさんが寝ていたので、そのズボンのポケットに八万円を押し込むと逃げてきた。
おれが八万円をどうしても手放したのは、おれが聖人君子だからじゃない。おれが余計な金を持っていると必ずそれが出費となるトラブル(物を壊して弁償代が八万円とか)に遭うからだ。どうせなくなる金なら、最初から持っていない方が面倒が少なくていい。
ムラタサイクルは通学路の途中にあった。口ひげのおじさんは店頭でスポークを組んでいたが、おれの顔を見るなり言った。
「おっ数馬くんか。なんだ、またやったの?」手を休めもしない。
「これは修理できないね。裏へまわしといて。いつものやつかい」
「はい。お願いします」
ムラタのおじさんは壊れたのと変わり映えのしない店頭にあったママチャリを出してくると登録関連の書類を渡しながら言った。
「今月はこれで二度目だね。ちょっと多いんじゃない? もっとも、数馬くんはウチのお得意さんだけど」
「はあ」おれは一万円札を二枚手渡した。
おじさんは書類を書き込むと防犯登録シールを貼って言った。「登録手数料はサービスしとくよ。車には気をつけなよ」
「気をつけても無駄ですけど……とにかくありがとうございます」
*
夕方暗くなり、自宅に近づくと明かりのついた居間から酔って上機嫌な父と複数の男の声が聞こえた。邪魔にならないように台所の勝手口から玄関から上がって小さな声でただいまと言い、そのまま急いで二階へ上がろうとしたが応接間の前を通るとき父に見つかった。
「おお、数馬。ちょっとこっちへ来いや」赤い顔で手招きする。「今夜はお前が主役だ」
おれは心の中で首をすくめながら従った。応接間に入るとテーブルを囲んで父の他に私服の自衛官が三名、すでに上機嫌で座っていた。テーブルの上には空のビール瓶が五本。部屋は煙草の煙でけむい。
おれが中に入ると座がわっと沸いた。誰が掛け声をかけたわけでもないのに拍手が沸き起こる。拍手がやむと客の中で一番体格のいい自衛官がジョッキを高く掲げて言った。彼は橋本さんだ。父の部下であり、おれのコーチでもある。
「では、辰巳数馬くんの山手常盤高等学校入学を祝して、乾杯!」わあー、と大人たちは盛り上がる。
「いやあー。おめでとうございます」橋本さんが父に向かって言った。
「わが国の誇り、元オリンピック近代五種競技金メダル保持者、辰巳大五郎さんの息子が私立進学高校の難関、山手常盤高等学校にご入学され、文武両道を極めるべく新たな道を歩み始めたことに対し、心よりお祝いを述べる次第であります!」
乾杯。拍手。ただでさえアルコールに弱い父は目じりを下げ、ご満悦の体である。
「ありがとう。ありがとう」おれはありがたくなかったが、父がおれの代わりに答えた。
「みんなに祝福してもらって数馬もこれから奮起するだろう」憤死の間違いじゃないかと思ったが、親に口答えするのはいやだった。
「山手常盤と言えば名だたる進学校。何でも東大進学率は九十パーセントを越えるとか」
「いや、秀才はうらやましい」
「でも、数馬君は東大には行かないそうだよ」
「え? じゃあ卒業後は」
「決まってるじゃないか。防衛大学校だよ」
「キャリアを目指すわけですな。防大から自衛官幹部、それから防衛省の官僚と。末は防衛大臣」
「いや、めでたい」
勝手にやってくれ、と心の中でつぶやいて、おれは受け取ったオレンジジュースをちびちびと飲んでいた。
「ここで改まって大五郎氏から息子へのはなむけの言葉をどうぞ」
父はそう即され、赤ら顔を急に引き締めると立ち上がった。期待に満ちた顔、顔、顔に囲まれる。その期待に応えなきゃ、という表情が自分のものだったので、おれは何も言えなかった。
「数馬。おれは金メダルはとったが、頭が悪くて出世はできなかった。お前はお母さんゆずりの頭とおれの体力の両方を備えている。高校では両方がんばれ。まず防大へ進み、それから金メダルをとれ。何事も努力すれば必ず……成る!」
わあーと歓声が上がり、大人たちはおれを取り残して自分たちだけで盛り上がった。
ちなみに説明するとおれの父親は自衛官で、その昔、オリンピックの近代五種という競技で金メダルをとった。
近代五種って知ってるか。近代オリンピックが始まってからずっと行われている競技でフェンシング・乗馬障害・水泳・ランニング・ピストル射撃の五種目を一人で行い、総合点で勝敗の決まる競技だ。
水泳や陸上だけに特化すれば、世界にはもっと優れた選手がぞろぞろいるのだろうが、五種目をまんべんなくあるレベル以上でやっている人はあまりいない。特に乗馬は金持ちのスポーツだし、ピストル射撃に至っては日本では免許の関係でほとんど自衛官か警察官しか縁のない競技だ。
だから競技人口も少ないし、知名度や人気からいったらとうの昔に廃止されていてもいいようなマイナーな競技だけれど、オリンピック創始者のクーベルタン男爵が提唱した由緒ある競技だということと、それぞれ五つの競技は他の競技を開催している隙間時間に同じ施設を使ってできるので、近代五種を廃止してもオリンピックの運営の観点からも経費削減などの効果はほとんどない、ということで現在まで存続している。そんなマイナーなスポーツだ。
だいたい日本人は日本人がメダルを取れそうな種目には力を入れ、テレビ中継などもされるが、それ以外の種目には無関心だ。フェンシングはヨーロッパやロシアが本場だし、乗馬や射撃は一般人には縁がないのでオリンピックが開催される前は誰が近代五種に出場するかなんてことも新聞に一通り掲載されただけだった。
おれの父はそんな隙間を縫ってオリンピックに出場し、誰も期待していない中、大金星の金メダルを取ってしまった。
あのときの騒ぎは子供心によく覚えている。毎日家にカメラやマイクを持った人たちが押し掛けてきた。家の電話はじゃんじゃん鳴りっぱなしだった。行ったことのないレストランに連れていかれ、記念写真を撮った。父は一躍日本のヒーローになった。が、それも十年以上前のこと。その後活躍したわけでもなく、今だに金メダルがどうの、と言っているのは同僚や部下の自衛官たちだけだ。
「そういえば」ぼんやりと考え事をしていたおれの意識を自衛隊員の一人の声がさえぎった。
「お兄さんはいるのかい。せっかくのお祝いだから彼にも来てもらったら」
「いいよ、あいつは放っとけ」急に白けた声で橋本さんが言った。
「でも、除隊したとはいえ、かつての仲間じゃないか」この隊員は兄が除隊した経緯を知らないようだ。
「ぐふう」父は赤い顔で大きなげっぷをすると考え込むように黙ってしまった。その雰囲気に場が呑まれる。
「あ」「いや、その」
数秒無音が続くことが許されないラジオのアナウンサーのように、その場を取り繕おうと数名が声を上げた。
「いまさらあいつを引っ張り出してきてもなあ」
「ほら、あいつは今いわば敗残者」
「しっ」舌打ちしていさめる者。
橋本さんは笑顔をつくろって言った。
「今おれたちには数馬くんがいる。過去のことは忘れよう」
もう駄目だ。おれはオレンジジュースの残ったグラスをちゃぶ台に叩きつけた。急いで立ち上がり、みなを振り切って階段を駆け上った。
*
階段を上り切った所はひんやりとしていて、それはおれと兄との二人とも暗めの場所と涼しめの室温が好きだからだが、おれはそれだけで少しほっとした。
おれは自分の部屋へは入らず暗い廊下の突き当たりにある兄の部屋へ向かった。廊下の突き当たりにある兄の部屋の戸はぴっしりと閉められ鍵がかかっている。部屋の前まで行って戸の枠から光が漏れているのを確認した。おれはそのまま自室に入って押入れを空けた。押入れの奥に仕切り板があり、隙間からぶうんという機械音が聞こえた。
おれはためらってから声をかけた。「あにきぃ」
兄の名前は大成と言うが、兄はその名前が気に食わない。親の期待がのしかかったような名前だから。
「入れよ」そっけない返事。
おれは参考書の入った箱で押えてある仕切り板をずらして開けた。すえたような臭いがした。
兄の部屋にはゲームの箱やマンガが積み上げられ、その他に用途の分からない機械が所狭しと置いてあった。壁に『リア充爆発しろ』とか『自宅警備員-NEET』と書かれたのれんが貼り付けてある。書棚はマンガや雑誌で埋まっていた。隅には金属製のロッカーが置いてあるが、開いたところを見たことはない。
兄は振り返りもせず、ヘッドホンをつけたままパソコンのモニタを眺めていた。おれの声が聞こえるのだから音楽を聴いているわけではないらしい。
おれは兄の隣に座ってゲームのコントローラを握った。兄も無言でやりかけのゲームを始めた。おれたちはしばし無言で仮想世界をさまよった。
モニタは三台あるが、その内の一台はいつ来ても真っ白の画面がついたままだ。もう一台の画面には巨大な武器を振り回す美少女のアニメが映っていた。兄は一日中ゲームかこんなことをやっている。近所のコンビニへ買い物に行くときしか外には出ない。今の兄は半ひきこもり状態だ。父も母も腫れ物に触るように兄のことを扱い、母は毎日食事を兄の部屋の前の廊下に置いておく。兄は金が必要なときだけどこかへ行き、帰ってくるとどうやら金を調達してくる様子だが、なにをしているのか全く話さない。両親とはほとんど口を利かない。
兄はおれより背も高いし、運動神経や頭脳も優れている。六歳離れた兄はおれのあこがれだったし、両親の期待の星だった。
おれが中学に入る頃自衛隊に入隊し、教育隊では模範隊員として活躍している、という噂を聞いていた。おれはおれで兄の後を追うべく毎日を練習や勉強に明け暮れて忙しくしていた。
あるときふっと兄が家へ戻ってきた。たまの週末に笑顔を輝かせて帰ってきたのとは異なるのは家の中の雰囲気で分かった。父も母も妙に押し黙って、兄は母に付き添われてタクシーに乗り、病院へ行った。帰ってきた兄は無表情で飯だけは良く食べた。母は「お兄ちゃんは病気よ」とだけ教えてくれた。おれは最初身体を壊したのだとばかり思っていた。
兄の病気が精神的なものだと教えてくれたのはピストル射撃と馬術の練習に行っている自衛隊の隊員たちだった。医者の話では病状が良くなるまで普通の仕事もできない。せいぜいが警備員のアルバイトくらいだ、ということらしかった。
兄はそのまま除隊となり、自室にこもると毎日をゲームやマンガに明け暮れるようになった。数ヶ月するとかっこ良かった兄はぶくぶく太りだし、動作もにぶくなってきた。そんな兄に対し両親も何も言わず、家の中で兄の話題はなるべく避けているように見えた。
そうして今まで兄にばかりかかっていた期待が今度はおれにかかってきた。おれは兄ほどできが良くないが、期待されることには弱いんだ。おれなりに一生懸命やってきた。父はおれにとってはオリンピックで金メダルをとった英雄だったし、母もそんな父を立てていたから、自然、辰巳家の中では父の言うことは絶対だった。
おれも前までは兄に話しかけるのが恐ろしかった。でもあることがきっかけで、急速に兄との仲が近づいた。それは先月のことだった。
ある日、おれが家に帰るといつもは明るい玄関の電気が消えていた。丁度その前の週、山手常盤高校の合格発表があったばかりで、受験勉強の緊張からは開放されていたが、毎日続けている近代五種競技の練習には休みはない。おれは練習による空腹で「ただいまぁ」と小さな声で言いながら玄関に座り込んだが誰も返事しなかった。靴下が泥で汚れていたので、おれは木の廊下を手とひざではいはいしながら進んで風呂場へ行こうとした。
突然、すすり泣くような声が聞こえてきておれは硬直した。続いて父の声が聞こえる。謝っているようだ。
おれは悪いことをしているような気分でそっと物陰から覗いてみた。居間に両親がいる。母はエプロンを目頭に当てて泣いている。その前でおれにとって大きな存在である父が母に向かって土下座をしていた。
「すまん。今度からは気をつける」
「気をつけるって、どうするんですか。あれは数馬の入学金だったんですよ」
「すまん。本当にすまん」
「なんど繰り返せば済むんですか、本当にあなたは……」
「なんとかする。絶対に何とかするから」
「ひどい……」嗚咽。
おれは練習で培った運動神経の全てを駆使して全く音を立てずにその場を去った。見てはいけないものを見たような気がして、自分が犯行現場から立ち去る犯罪者のような気分だった。心臓がドクドクと打ち、手は汗ばみ、足がもつれた。
二階へ上ると暗い廊下の突き当たりから光が漏れていた。兄の部屋だ。兄が引きこもりを始めてからほとんど言葉を交わしたことがない。気分はどう、と話しかけるのが怖かった。けれどもそのときだけはその光が天の助けのように見えた。峠を越す途中で日が暮れて暗い雑木林の中で見つけた一軒家の灯りのようだ。自室で混乱に押しつぶされるよりは、以前尊敬していた兄と一緒の方がどれだけましか。おれは勇気を出して兄の部屋をノックした。
「入れよ」以外にあっさりとした声がして、おれはドアノブをがちゃがちゃしたが再び声が聞こえた。
「そっちは開けたくない。押入れの奥から入れ」
おれは自分の部屋の押入れを空け、整理ダンスを引っ張り出して奥をのぞいた。
奥の板ががた、とはずれ光がもれてきた。
おれは滑り込むようにして兄の部屋に入った。おれが入ったとき兄はモニターを眺めたままだった。
おれは何から話してよいか分からず、あわて気味に言った。。
「あ、あの。おれさ。受かったんだ」
兄の返事がないのでおれは続けた。「高校に。あの、山手常盤」
言ってからしまったと思った。社会からドロップアウトした兄にリア充を見せつけるような発言だった。
「知ってる」兄はちら、とこちらを見てからまたモニターを向いて言った。「おめでとう」
「ご、ごめん」
兄は座っていた座布団ごと身体を回してくるりと振り返るとおれの顔を覗き込むようにして聞いた。黒縁眼鏡がきらりと光る。
「なぜ、あやまる」
「それは……」
「お前に責任のないことでなぜあやまる」
「ごめん」
「だからぁ、あやまることなんかない。おれはお前がエリートコースに成功することなんかうらやんじゃいない。お前、気にしすぎだぜ。兄弟だろ。おれは今こんな風だが、哀れむのは失礼だぜ。別に哀れまれるようなことは何もないと思ってるぜ、おれは」
兄はおれの顔をしげしげと眺めてから言った。「下でなにかあったな。父さんか」
「う、うん」すでに何かを知っているかのような兄の態度におれは安心して話すことができた。「父さんが母さんに謝っていた。母さんは泣いて」
「どうせまた金を使い込んだんだろ。いつものことさ」
「いつものこと?」
「お前まだ中学生だからな」兄は部屋の小型冷蔵庫から缶コーラを出すとおれに勧めた。「飲めよ」
飲んだらすごくのどが渇いていることに気づいた。缶を空にして一息ついたおれを待って兄は話し始めた。
「お前が今夜あんな親父の姿を見たのは丁度いい機会だと言えるな」
おれはその冷ややかな口調に対し思わず口を開きかけたが、言葉の代わりに出てきたのは炭酸のにおいのするげっぷだった。兄はそんなおれの様子をあわれむように見てから続けた。
「お前にとって親父がずっとヒーローだったのは分かる。おれもそうだったしな。でもうちの親父は『巨人の星』の星一徹みたいだが本当は『こち亀』の両さんなんだよ」兄は手を上に向けて部屋をぐるりと指し示した。
「見ろよ、この家を。オリンピック金メダルの英雄で、自衛隊の指導教官で、日本近代五種協会の名誉顧問で、いい年なのにおれたち家族はなんで3LDKのぼろ家に住んでいると思う? みんな親父のギャンブル好きのせいなんだよ。母さんはあの通り夫唱婦随で親父を立てているから今まで離婚にはならなかったけれど、節目節目で痛い目に遭っているんだぜ。おれが防衛大へ行けなかったのはおれのために準備していた予備校の入学金を親父が隊内でやっているオイチョカブですっちまったからだし、丁度お前が生まれる少し前から競馬にはまってな。お前の名前も『勝馬』にしようって言い出して母さんがそれだけは、と必死に止めたから『数馬』で妥協したんだぜ」
知らなかった。自分の名前がそんな由来だったとは。
「まあ、それでも親父は人脈が広いから金はどうにか今までなんとかなっているけどな。おれも隊を辞めて家に引きこもるようになってから考える時間がたくさんあってな。そうすると急に色々見えてきたんだ。例えばおれたち子どもの頃から普通の子どもじゃあり得ないようなすごい訓練を受けてきただろう? 親父の言いなりになって。それ少し変だと思わなかったか」
おれは混乱していた。おれの中の親父という巨大な偶像にひびが入り始めたのを感じた。兄は続けた。
「中学生だったある日、おれが庭にいると突然親父が石を投げつけてな。それがおでこに当たってそりゃもう痛かった。おれが額を押えてうめいていると、藪から親父が出てきておれにそこに座れ、と言うんだ。それで柳生十兵衛の逸話を説いて聞かせるんだ。お前、そういうことなかったか?」
確かに言われてみれば思い出した。おれのときは石は右目のまぶたに当たり、おれは痛くて泣き出した。すると父が現れて「数馬。泣くなそれでも武士の子か。柳生十兵衛が若かりし頃、十兵衛を試すために父柳生宗矩は十兵衛に石つぶてを投げた。それが右目に当たり十兵衛の右目は失明したが十兵衛、とっさに無事な左目を手で押えてかばった。それを見た宗矩は「よくやった。常人ならば痛さでつぶれた目をかばうところ、とっさに残った目をかばうとはあっぱれ」と言ったという」って言ったな確か。
おれがそのことを話すと兄は大きくうなずいて言った。
「そうそう。おれのときも同じだった。おい、数馬。おれたちって武士の子だったっけ」
「えと」
「世間一般ではこういうのを非常識と言うんだ」
「うん」おれはつい認めてしまった。父の偶像に入ったひびが広がり始めた。
「あとな、「おもちゃか銃か」の逸話を知ってるか」
「なにそれ」
「お前がまだはいはいしてる頃、父さんは居間にお前と二人でこもってまだ赤子のお前の前にニンテンドーDSと競技用ピストルを置いてな、言ったんだ。
「数馬。これから父は冥府魔道の五輪道へ進む。お前はどちらの道を進むか自分で選ぶがいい。おもちゃを選べばそなたの母のいる台所へ送ってやろう。銃を選べば父とともに来るがいい」
それでお前がDSの方へ行くとその手を捕まえて無理やり銃を触らせて「そうか、お前も父と一緒に来るか。不憫なやつ」ってうれしそうに言ったんだぜ。あのときおれはまだ小学生だったから記憶があいまいかと思って母さんに確認したから間違いない。
ついでに言うとおれが乳児のときも同じことやったそうだ。もう一つついでに言うと父さんの名前は大五郎だろ。まんまじゃん。亡くなったじいちゃんも同じ性格だったんだぜ。同じことを代々やっていたんだ。
おれたち兄弟は母さんに似ていて良かったぜ。まあ母さんの「つい言われた通り従ってしまう」性格を受け継いだからこんな無茶苦茶なことを言いなりに聞いていたんだろうな」
「でも、父さんはおれたちのためを思ってやってくれたんじゃ……」
「数馬、お前もう少し大人になれよ」兄はため息をついた。「ものには限度がある。おれだって自分は一般人とは違うんだ、もっと上を目指せ、なんて野心を吹き込まれたから毎日腕立て伏せ百回とか三百までの九九とか格闘術とか一生懸命やっていたが、それくらいならまだしも、自分の息子に本当に命がけのサバイバルをやらすか? 普通」
……サバイバル。その言葉で思い出した。中学に入る前の春休み、おれは父と一緒に週末にキャンプで色々教わった。ロープの結び方やナイフの使い方、露営のやり方などを一通りやった。アウトドアは元から興味があったから、現役自衛官のアウトドア技術をじかに教えてもらうのは面白かった。おれが一通りこなせるのを確認すると、父はおれ一人を連れて車で遠くドライブし、着いた先で森の奥に分け入った。休憩時に父がおれの荷物を何かごそごそやっていたが、気に留めなかった。森の大分奥まで来ると父は改まったときにする表情でおれの正面に立ち、おごそかに言った。
「数馬、これからおれの教えた技術を実地で試すときがきた。これから野外工程を行う。おれはここから引き返す。お前はこの森を真っ直ぐ進んで地図に記された合流地点までたどり着くんだ。分かったな」
おれはことの重大さが分かっておらず、うんとうなずいた。
父と別れて森の奥に向かって歩き始めた。地図によると合流地点は今いる場所からせいぜい十キロの距離だった。夕暮れまでには着くだろう。おれは歩き出した。途中で昼をとろうとして巨木の根元に腰を降ろし、背嚢から食料の入った布袋を出す。そのとき気づいた。
おや。なんか手ごたえがおかしいな。朝自分で食料を詰めたときとは違ってる。袋に手を突っ込んで探ったおれの手に当たったのは本だった。取り出すと『食べられる野草図鑑』と『基礎サバイバル教本』。おれは焦って袋を逆さまにした。この本のほかはビニール袋に砂がつめた物が入れてあった。最後に封筒がぽとりと落ちた。表に「数馬へ」と書いてある。おれは封を切った。中には見慣れた父の字で次のように書いてあった。
数馬。男はどんな状況でも対応できなければならない。緊急時には全ての装備や支援が揃っているとは限らない。これからお前は知恵と勇気を駆使して約束の合流地点までたどり着け。健闘を祈る。
えええー。おれは泡を食って背嚢を逆さにすると中身を全て地面にばら撒いた。夜寒くなったときに着るフリース、雨が振ったときのポンチョ、サバイバルナイフが一本、ライター一個、水が入った水筒、地図とコンパスが全てだった。コンパスはよく見ると壊れていた。じゃあ、朝から壊れたコンパスを頼りに歩いていたわけか。まずい。
おれは真剣に『基礎サバイバル教本』を読み返し、コンパスを用いない方角の割り出し方を必死になって試した。どうやら全然見当違いの方角を歩いて来たらしい。おれは焦って周りを見回した。少しでも小高い場所に上って見晴らしてみよう。しかし小高い場所にたどり着く前に空が暗くなり始めた。あっと言う間に天は雨雲に覆われ、大粒の雨が降り出した。
おれは急いで背嚢からポンチョを出し、かぶった。ちょっと脇に置いていた地図を見ると、インクが流れ出している。なんだ、この安物の地図は。あり得ない。おれは必死に地図が雨でぬれないようにかばったがすでに遅かった。地図の主要な部分は判読不能になっていた。おれは地図を丸めると背嚢にしまった。
小一時間もすると雨がやんで空は晴れたが暗さはなくならなかった。夕暮れが迫っていたのだ。おれは高台に上がるのをあきらめ、大木の下で野宿することにした。
小枝を集めて積み上げ、焚き火をしようとしたが、ライターを何度かちかちやっても火がつかない。これも壊れている。まだ本が判読できるうちにおれは『基礎サバイバル教本』に書かれている木と木をこすり合わせて火を起こすのをやってみたが、両手の平が痛くなっただけだった。本に書いてあるようには簡単にできない。
おれはその晩、腹をすかせたままそこで寝た。
結局森を抜け、道路にたどり着いたのは三日後だった。道路でへたりこんでいたおれの横に車が停まった。降りてきたのは父だった。おれは安堵の余り泣き出した。後でおれはその森が『青樹ヶ原樹海』という名前であることを知った……
「それでさ」兄は続けた。
「お前は父さんの言うなりに努力してきたし、それでついて行ってる。お前がそれでいいならおれが口をはさむことじゃない。昔はおれもそうだった。言われるままに辛い修行をして、自衛隊でもがんばって……。でも、おれは疲れたんだ。父さんの望みどおりにすることも、自衛隊に合わせることも」
「自衛隊でどうだったの」
おれの質問に兄はちょっと笑顔を浮かべて遠くを見るまなざしをした。
「入隊して初日は良かったな。最初の三日は上げ膳下げ膳全て上の人たちがやってくれて。でもそれは軍隊のやり方なんだ。三日目にいきなり「お前ら!」こうだせ。それでいちばんふらふらしていたおれがみんなの前で見せしめに腕立てをやらされたんだ。今は自衛隊も殴るのはご法度らしいから、別のやり方で新兵をいじめるんだよ。それで泣くまでスクワットをやらされてさ、それを命令した上官が、覚えているか、あの橋本おじさんだぜ」
橋本おじさんはおれの教官だった。おれがフェンシングやランニングの練習をしているのを見ると「いやあ、将来のオリンピック強化選手でゆくゆくは防衛大を出て幹部ですな」とお世辞を言っていた。
「あの橋本おじさんが部下となったおれを一番いじめたな。それはもうひどいんだぜ。あれでおれは人間不信になったよ」兄は淡々と話した。
「それでも父さんに「うまくできないのは努力が足りないせいだ」と言われ続けていたからな。努力したよ。
それである日いつものように起床して床を直していたんだ。シーツが折れ曲がっていただけで、チェックしに来た上官にベッドと荷物をひっくり返されてやり直しさせられるからな。それでいつもの通りきちんとベッドを直していたんだ。おれは教育隊では隊の模範だったからな。みんなの前で呼び出されて服装や敬礼の姿勢を見られたこともあるぜ。
それでシーツを直していたんだがどうしても曲がりが気になって止まらないんだ。何度直してもゆがみが気になる。それで一時間たってもベッドを直せない。上官が来て怒鳴りつけたが、結局その日は床を直すのに五時間かかった。
でも次の日はもっと駄目だった。シーツだけじゃなく枕もゆがんでいてしわがよっているのがどうにも我慢できなかった。机の上のノートや鉛筆もきちんとまっすぐに並んでいないと気持ち悪くて、それをぴったりと直しているうちに日が暮れた。どやされたけど、そんなことで一日過ぎた。
三日目にはさすがにみんながこいつはおかしいと分かって医務室へ連れて行かれた。その後、隊の医務室では手に負えないと外の病院へ連れて行かれて精神科の医者が最後に下した結論は神経症。自衛隊の業務だけじゃなくて当分の間、仕事は無理。自宅で静養するように、ということだった。
でもおれにはわかっていた。おれはがんばりすぎたんだ。がんばってなんとかなるなら良かったが、おれには負担が大きすぎたんだ。それでどこかが壊れちゃった。でも父さんは自分のポリシーを変えようとはしない。おれが駄目になったから今度はお前に望みを託している。
数馬、お前が本当にそれでいいならおれは止めんよ。お前には才能がありそうだし、おれより耐久性はあるみたいだからな。でもこれは無理だ、と思ったら無理をしなくてもいいんだぜ。人間にはやらなくてもいい自由がある」
話続ける兄はどこから見ても普通の人に見えた。少なくとも親戚や近所の人たちが囁くように声を低めて噂話をするほど壊れちゃいないように見えた。おれはそこのところをたずねた。
「おれの病気か? まあ普通に生活する分には問題ないよ。でも、もうあんな厳しい人生はごめんだ。今まで親の言う通りにやってきたんだから、そろそろおれの好きなようにしてもいいだろ」
ぎろり、とこちらを見た。その眼光のあまりのすごさに、おれは急に怖くなった。ほら二人だけエレベーターの中にいて、自分ともう一人がちょっとおかしい人じゃないかと思うと怖いだろ。
おれは混乱した頭のままなんとか理屈をつけて、兄の部屋を逃げ出した。外は暗くなっていたが、まだ六時前だった。玄関で靴を履いているおれを母が止めた。
「どこに行くの」
「床屋行ってくる。金くれ」
おれはいつも行く床屋へ行った。子供の頃からこの床屋へ通っていた。順番待ちの間に読むマンガが楽しみだった。おれの家には父が選んだ『根性と努力を勧めるマンガ』だけがいくつか置いてあったから。『あしたのジョー』とか『侍ジャイアンツ』とか。でも不思議なことにどちらも最終巻だけはないのだった。
おれが床屋の入り口をくぐると、春休みの間に内装が変わっていた。待合所の片側の壁が天井まで届く書架になっており、そこには以前なかった古本マンガがぎっしりと詰まっていた。
「おじさん。これどうしたの」
「ああ数馬くんか。いや、知り合いがマンガ喫茶を廃業することになってね。処分品を少し分けてもらったんだ。春だから店も忙しいし、読んで待っててくれ」
おれが書架を上から下までながめると、すぐに『侍ジャイアンツ』の全巻一式が見つかった。おれは最終巻を引き抜いて読み始めた。しばらくの間、家のことも兄のことも忘れた。ところが結末までくると。
主人公が死んじゃう……
おれはその巻を戻して『明日のジョー』の最終巻を読み始めた。こちらでもジョーは最終戦の後。
真っ白になって燃え尽きてしまった……
おれはあわてて適当に別のマンガを手に取った。昔のマンガだからだめなんだ。最近のマンガならそんなことはないはずだ。おれは『コードギアス』という新しめのマンガの最終巻を開いた。
主人公が死んでいた……
やっぱりだ。やっぱり努力しすぎるとこうなっちゃうんだ。
おれの脳裏には努力しすぎて今はアニメおたく+ネトゲ廃人となった兄の姿が浮かんだ。おれより優秀な兄がああなっちゃうんだから、おれなら耐え切れなければ……廃人。
おれは床屋を飛び出した。あ、おおい数馬くん、と床屋のおじさんが呼ぶ声が聞こえたが、構わず走って家に帰った。母に床屋代を押し付けるように返して「混んでたから、戻ってきた」と言い訳し、二階へ駆け上がった。
自室に入ってふとんにもぐりこむと段々天井の模様が分かるようになってきた。
死んじゃう。死んじゃう。頭の中でこの言葉がぐるぐると回った。
なんども寝返りをうって考えた。両親と目を合わせないようにして夕飯を済ませるとただちに自室にこもった。
その晩は悪夢を見た。
なんだったかよく覚えていないが、夢の中でのおれは一生懸命がんばっても「努力が足りない!」と怒鳴られてやり直しをさせられていた。からまったひもをほどいているのだが、何度やってももっとからまるだけだった。大勢の人間が「頑張れ! 頑張れ!」と怒鳴っているのだが、それが声援しているのか、非難しているのかよく分からなかった。
眼がさめるとおれは自分のふとんにあおむけになったまま、びっしょりと汗をかいていた。
ぱっちりと目を開き、天井の模様を見ながらおれの考えはまとまっていた。
「もう無理はやめよう。オリンピックなんか出られなくてもいい。防衛大に入れなくていい。のんびり生きよう」
それからおれの兄貴を見習う生活が始まった。
両親の手前、近代五種の練習はさぼれないが、その他はなるべく最低限の力を使うようにした。
こっそりと押入れの通路を使って兄の部屋へ行き来し、一緒にゲームをしたりマンガを読んだりしていた。
「普通の人間になるんだ。力を抜いて生きよう」
*
マーフィーの法則:閉めようとした窓は窓枠が古い。
おれが「人生、可もなく不可もなく、ゆるやかに生きてゆこう」と決めてから数週間が経った。
学校の勉強はそこそこやる。クラス委員など割り当てられた仕事は割り当てられた分だけきっちりやる。それ以上はやらない。家へ帰ると兄と対戦ゲームをやるか、兄がバイトでいないときには押入れの通路を通って勝手に部屋に入り、おれが買い与えられないマンガなどをよみふけっていた。
人生初めて解放感を味わった。しかしときどき「おれって堕落してる」という焦燥感もあった。おれはそれを子供の時分からすり込まれた「努力への過剰な義務感」ととらえ、ある意味必死にそれを克服するために努力していた。
放課後、おれはそのまま自然に学生かばんを取り上げ、自然に歩いて教室を出ようとした。正面に鬼門が腕を組んで待っていた。
「ちょっと、クラス委員でしょ。プリント整理、わたしにだけやらせる気?」
こいつ無駄に真面目なんだから参ったな。おれはやれやれと表情を作って回れ右をした。
「一年F組辰巳数馬くん、鬼門静さん。職員室へ来てくれ」サイードの声が校内放送に響く。二人して職員室へ行くとサイードがみかん箱ほどの大きさの箱を三つ机に積んで待っていた。
「もしかしてこれ全部プリント?」おれは静かにあとずさったが、退路を鬼門に絶たれた。ちっ。
「年度初めは配布物が多くてね。ごちゃごちゃしているから、同じものでまとめてホッチキスで閉じてくれ。広い机があるとやりやすいからこれを教室へ持って行こう」
おれたち三人はみかん箱を一つずつ抱えて教室へ戻った。サイードは簡単にやり方を指示し、ホッチキスを渡すと職員室へ戻ってしまった。放課後の教室にはおれと鬼門だけが残された。外には運動部のランニングする掛け声、吹奏楽部の練習するへたくそな管楽器の音が聞こえる。鬼門は箱の中身を机の上に積んで、そこから一枚ずつめくっては左手に乗せて束ねている。遅い! 見ちゃいられない。
「ちょっと……違うぜ」
おれはまず机を並び替えて長テーブルのようにすると、小冊子の最後のページとなるプリントから机の面積をいっぱいに使って並べ始めた。そうしてその上に逆順にプリントをおいて回った。
鬼門は机の周りをぐるぐる回りながらプリントを重ねて行くおれの姿を最初はぽかんと眺めていたが、やがて得心がいった、というかのようにおれの真似をし始めた。しかしなんとも不器用で、おれは机を一周するとすぐに鬼門の後ろに追いついた。
「違うよ。手際が悪いな」
「わ、悪かったわね。経験が浅いから仕方がないでしょ」
「経験が浅いぃ? プリント整理に経験もくそもねえだろ」
そう言っておれは気づいた。この女、プリント整理なんて今まで一度もやったことがないんだ。都市伝説で聞く限り雅女子学校の生徒には一人ずつメイドがつくという。当然下々の人間がやるような雑用に手を汚したことなどないだろう。
(ち、お嬢様か)
いて~っ! すごく小さな声で言ったつもりだったが、思いっきり足の甲を踏まれた。
とりあえず、机を何十周も周回してプリントは冊子の厚さに重なった。今度はこれをそろえてホッチキスで留めれば完成だ。おれは椅子に座り、束ねたプリントをとんとんと机の上でそろえてから業務用の大型ステイプラーにはさんだ。大きなハンドルを押して二箇所で閉じれば出来上がり。おれは淡々と冊子を作り上げていた。
ふと脇を見ると鬼門が額にしわを寄せてプリントの束をそろえている。その脇に積んであるできあがった冊子を見るとどれもこれも端はそろっていないわ、ホッチキスの閉じ方はでたらめだわ、ひどいものだった。
「おい。これじゃ駄目だ」おれは冊子を一冊取り上げて言った。「端をそろえた反対側を閉じるんだ。でないとめくりにくいだろ」
「分かってるわよ」
「ありゃ。これ反対側も閉じてある。これじゃ読めねえよ」おれはげらげら笑い出した。
「なんだよ。こんなこともできないのかよ。やっぱりお嬢様だからなぁ」おれは挑発しながら横目で鬼門を見ていた。鬼門は真っ赤になってうつむいているが、おれの指摘は正当だから今度は何も言えない。そんな鬼門をからかいたくなった。
ほら、小さいとき気になる女の子をいじめてしまうあの心理だ。高飛車な鬼門より恥ずかしがってる鬼門の方が可愛いもんな。おれはつい調子に乗った。
「大丈夫、大丈夫。小さな失敗したって、鬼門グループがバックに付いてるから問題ないぜ。卒業したってOLになるわけじゃないだろ。お金持ちはいいねえ」
軽く言ったつもりだったが、突然周囲の空気が暗雲垂れ込めたようになった。
「わた、しは、一生、懸、命、やった、のに……」今にも涙を流しそうな顔だ。まずい。
「わ、悪かった。ちょっと言い過ぎた。ほんの冗談のつもりだったんだ」必死にフォローするおれ。他の女子が見ていたらサイテー呼ばわりされるとこ。
「ま、気にすんなよ。さあさあ、もう少しだ。早く終わらせちまおうぜ」
おれは誤魔化して仕事に気をそらせた。がちゃ。ステイプラーのレバーを押しても手ごたえがない。針切れだ。
おれは予備の針を収納する引き出しを開けた。ない。そこで立ち上がって教卓の引き出しを開けた。ない。
「ちょっと職員室へ針もらいに行ってくる」こう言って教室を出て行こうとしたとき、鬼門がさっきおれが開けたばかりの引き出しを開けると魔法のように予備針の箱を取り出した。
「どこ、探してんのよ。ここにちゃんとあるじゃない」さっきの仕返しだろう。言葉にとげがある。
「ちゃんと探さなくちゃ駄目よ。努力が足りないわね」ドキューン。ピンポイントでおれのトラウマをえぐった。
「努力が足りない」子供のときから何度この言葉を聞かされ続けて来ただろう。特に兄がおれの両親の期待を背負っていたときには、ことあるごとに兄と比較されたものだ。おれの父の口癖は「努力すれば成る。できないのは努力が足りないせいだ」
でも、努力しても才能のないやつとか、運の悪いやつはどうなるんだよ。そんな反論が頭に浮かぶようになったのは最近になってからだ。
子供のころのおれは言われるままに一生懸命、近代五種の練習を続けていた。他の友達がゲームやテレビを見ているときに、おれは朝霞の自衛隊教育学校内にある特別施設で、水泳やらフェンシング、ピストル射撃などの特別な訓練を受けていた。
知ってるか。彩の国プラチナキッズってやつ。小学校低学年から才能のある子供を選別し、オリンピック強化選手として育て上げるプロジェクトだ。
おれはオリンピックで金メダルをとった父の息子ということで、特待生扱いでそれに加えられ、明けても暮れても自衛隊員のお兄さんたちに混じって練習していた。どんな凡人でもそれだけ練習すればある程度までは行く。おれは努力したよ。真剣に。才能もあったと思う。兄貴ほどじゃなかったけど。でもおれに決定的に欠けていたのは……。
辰巳はわたしが一言言った後は黙り込んでしまった。わたしのことなんか眼中にないかのように考え事をしながら機械的に手を動かし、それでもきれいに製本したような冊子が次々にできあがっていく。くやしいけど私はそんなに器用じゃない。
あんなひどいことを言われた後だったから、いっそ教室から出て行こうかと考えたけど、与えられた責任をほったらかしにして行くなんていや。
わたしはプリントまとめに集中した。そうこうしている内に時間は過ぎ去った。突然の雷鳴にわたしは飛び上がった。
「きゃっ」
作業に熱中しているうちにいつの間にか空は真っ黒な雲に覆われ、今にも雨が降り出しそう。どうりでなんか暗いと思ったわ。春の嵐かしら。
開け放ったままの教室の窓からはいよいよ強くなる風が吹き込んでくる。このままだと積まれたままのプリントが飛び散ってしまう。いえ、雨が吹き込んだら教室もプリントも濡れてしまう。
わたしは立ち上がって窓をしめようとした。由緒ある進学校の窓枠は錆びの回ったアルミで、たてつけは堅かった。わたしは引き卸窓をおろそうとしたが、堅くて動かない。わたしはいらいらして後ろを振り返った。
「ちょっと。見てないで手伝ってよ」
ああ、なんて積極性のない男。わたしがこうまではっきり言っても、何か迷ったようにもじもじして動かない。こういう男は一生他人に使われる運命ね。
「はやく!」
ようやく辰巳は立ち上がってわたしの横に立ち、窓枠を両手で抱えた。わたしも手を添えて引き窓を引く。引っかかっているから左右のバランスが大事。
そうして力を込めて窓枠にぶら下がっていたわたしを、突然辰巳は突き飛ばした。全く予期していなかったわたしは、そのまま後ろに吹っ飛ばされ、床にしりもちをついた。
「痛い。なにすんのよ!」
わたしが叫んだ一瞬後、窓枠はぐらりと傾きはずれた。
がしゃん。
ガラスの破片が飛び散り、窓枠は巨木のように倒れて窓際においてあった椅子と机の一つを粉砕した。割れたガラスの大きな断片がナイフのように突き出し、机の横に掛けてあった靴袋を裂いた。
わたしは自分の血の気が引くのを感じた。あと一瞬遅かったら大怪我をするところ。
辰巳といえば窓枠の落下する一瞬前に飛びのき、平然と残骸を見下ろしている。あ、もしかして、わたしが怪我しないように突き飛ばしてくれたの? こいつ、無愛想でいじわるで消極的でなさけないけど本当はいいやつかも。
大きな音にサイードが飛び込んできた。おれたちのそばに寄ると素早く状況を見て取った。
「怪我はないかい。大丈夫? OK。マーフィー・ムシキラ。窓枠が古かったんだ。後で業者に頼むから君たちは片付けなくていい」
*
「うむむむむむ」
暗くて広い部屋。
鹿爪らしい声を上げたのはホッケーマスクをかぶった謎の人物で、手にした書類を睨みつけている。その前には垂れ髪の男がうつむき加減に立っている。
「この報告書は間違いないか。北滝」
「はい、間違いありません、会長。運流カウンターが振り切れそうになりました。この運特異点+《ぷらす》は、会長が長年お探しの運気発信点である可能性が99.9%です」
「すると、この特異点を手に入れれば、わしの長年の夢がかなうというわけだな」
「その通りでございます《イグザクトリィ》」
ホッケーマスクの男は手を後ろに組んで向き直った。背後の壁には巨大な「Ω《オメガ》」の字をかたどった紋章が掲げてある。男の肩が震えている。泣いているようだ。
「思えば苦節二十年。一介の研究者だったわしがここまで来られたのは、どんな不運にもめげず努力し続けたこのわしの努力・才能があったからだ」
垂れ髪の男は床に肩肘を突き、寝そべって鼻くそをほじっていたが、ホッケーマスクの男が向き直る直前に立ち上がって直立不動の姿勢をとった。
「今日、この日、わしは立つっ」
「あ、そうですね。でしたら十三にでも飲みに行きまひょか。あっ」
垂れ髪男は慌てて両手を目の前で振る。
「いや、なんでもありまへん。今日を記念日に定めるとええかもしれませんな。丁度ハッピーフライデーですし。ああっ!」
「ジャサス北滝くん」
ホッケーマスクの男は冷たい目で垂れ髪男を睨みつけた。
「きさま、わしが自分の本名をおちょくられるのが一番嫌いだと知っていて、わざとからかったな」
「いいえ、そんなことありまへん」
それには構わずホッケーマスクの男はローブの袖から本を一冊出して開いた。
「わしの座右の書にはこう記されている。「男はタフでなければ生きてはいけない。そして優しくなければ生きる資格ナシッ」これはわしの大事な言葉だ。人間やはりモットーを持たなくてはな」
「はあ」
「おい、そこは笑うとこだぞ」
「へっ?」
「わしは「モットーを持とう」と言ったのだ」
「なるほど」
「笑えっ!」
「ははははは」
「やめっ」
「……」
「貴様、今わしを馬鹿と思っただろう」
「いえ、私はそのようなつもりではありまへん」
「優しくなーい、優しくなーい」ホッケーマスクの男は北滝をにらみつける。突然、その緊張を解いた。
「しかし優しさが大事と言っておる当人のわしが優しさなくしては、いかんだろう」
垂れ髪の男はほっとした様子になった。
「いやあ、会長も快調ですねぇ」
「く、くだらん」
ホッケーマスクの男がさっと袖を振ると奥から二人の男たちが現れた。二人ともマッチョな身体を黒い革の上下で包んでいる。
「ガミラスに下品な男は不要だ」
「ここ、ガミラスでしたっけ?」
「こいつを連れていって処刑せよ」
「おおお、お待ちを。会長。お慈悲を」
「ふむ」ホッケーマスクの男はあごに手をやった。
「しかし優しさが大事と言っておる当人のわしが優しさなくしては、いかんだろう」
(本当かよ)「おおお。さすがは会長」
「そこで特別に敗者復活クイズを行う。これに正解すれば今回の失言は許そう。わしも慈悲がないわけではない。では質問だ」
「はあ?」
「映画『十三日の金曜日』における連続殺人犯人は誰でしょう?」
「それって自虐ギャグですか?」
「うるさい! 早く回答しろ! 五、四、三……」
「そりゃ、ジェイソンでしょう」
「ブー。はずれ。残念だったな、北滝くん」
ホッケーマスクの男が再び手を振ると、マッチョ二人は垂れ髪男の両腕をつかんで引きずって行った。
「会長。かいちょーお。お許しをー」声はだんだんと遠くなった。