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2.神の卵

2.神の卵


ありとあらゆる「朝」と同じように、それは穏やかな目覚めであった。

ああ、よく寝たと言ってしまいそうな気分だったが、それにしては様子がおかしい。


辺りは闇に包まれていた。


瞬間、五感がばらばらになる「死」の瞬間が、まざまざと蘇ってきた。

滝のような冷や汗をやり過ごすのに、しばらく身じろぎも出来なかった。


そうしてようやくユイエルは、静かに立ち上がった。

どうやら体は繋がっている。

怪我も無いようだ。

それはそれで不気味なことである。


ここはどこだろう。


何の音もない。

途方もない闇の中でとにかく歩き始めると、ほどなくして大きな壁に突き当たった。

腕を伸ばして周囲を探ると、壁の足元にくぼみがあって、そこから上げ戸のように壁の一部分が持ち上がった。



壁の向こうは王都の図書館のような、本棚の詰め込まれた部屋だった。

灯りの類は見当たらないが、暗さはかなり和らいでいるから、何かしらの光源はあるのだろう。

所狭しと並べられた本棚にはこれまたぎゅうぎゅうに本が詰められていて、皮で出来た重厚な背表紙が、静かにこちらに向いていた。


見上げると大きな吹き抜けになった上階に立派な廊下があるのが見て取れたが、階段の類は無い。

物音は何一つ無く、踏み出した自らの一歩が、みしりと床を鳴らすばかりである。


片手を壁について慎重に歩き出すと、角を二度曲がった壁の一辺、すなわち入って来た場所の対面の位置に、同じようなくぼみがある。

持ち上げると、同じように開くようだ。

かなり大きな部屋だが、王都の図書館と比べると、どうだろう。同じくらいではないだろうか。


上げ戸の向こうは、また別の部屋である。

そこもまた薄暗いが、闇という程ではない。


そして今度は前のふた部屋と違って、中央に椅子がいくつか並べられていて、そのうちのひとつに人影があった。


人影。

それはもう、そう呼称するしかない「何か」であった。

真っ黒な暗闇に塗り潰された人のカタチの中に、光る目と赤い口が浮かんでいる。

その口がふいに開いて、

「やあ、ようこそ。『神の領域』へ」

と、そう告げた。


「こっちへ来て、座りなよ」

とそいつは言って、黒い指先で空いている椅子のひとつを指差した。

「そんなことに立ってないでさ」


勧められるがままに腰掛けると、

「君、名前は?」

とそいつが訊くので、

「ユイエル・ポートレア。あんたこそ…何者よ」

「ボクかい? ボクは、そうだなあ。神の卵。そう呼んでくれていいよ」


けらけらと心底楽しそうに、そいつは笑う。

不気味でしかない彼のことを、ユイエルは密かに「タマ」と呼ぶことにした。


「いやあ、しかしびっくりしたなあ。あんなでっかいのと一緒に落ちてくるんだもの」

「ここは……見慣れない場所みたいだけど。あの崖の下なの?

私が落ちた、のは。こんなとこじゃないと思ったけど」

「言ったろ。ここは『神の領域』。

たまたまどこかに『座標』が合ったんだろうけど、ボクはその場所のことは知らないよ」


噛み合わない会話を楽しむように、タマはまたけらけら笑った。


「ま、せっかく来てくれたんだもの。面白いチャンスを、君にあげるよ」

「チャンス?」

「何のチャンスかなんて聞かないでよ?

生き返るチャンスだよ、もちろん。死んだろ、君」


そう率直に問われると、そうだね、死んだね、と肯定せざるを得まい。

ユイエルは不思議と穏やかな気持ちで、タマに頷いた。


「オーケイ、契約は成立した」


その声を合図に、ふっと辺りが闇に閉ざされる。



戸惑った瞬きを何度か繰り返すと、景色は再び、見慣れたものに戻っていた。

すなわち、港町サモンの建物を木々の向こうに透かして見られる、あの崖の下に。


今の一瞬は、あの人影は、あまりにも明晰な夢だったのだろうか。

それにしてはどきどきと、胸の鼓動が鳴りやまないのだが。


ユイエルは地べたに座り込んでいて、足元には卵の殻のようなものが、粉々に砕けて散っていた。

これがまさか、神の卵なのか?


じゃり、と殻を踏みつけて、とんでもないことに、ユイエルは気が付いた。

殻を踏む足が、自らの足が、黒く長い毛をまとった獣の足であることに。


弾かれるように立ち上がって手を見ると、それは黒く艶やかなヒレの腕で。

さらにこれは、どう呼ぶべきか分からないのだけれど、足と手の間にもうひとつがいの腕があって、それは足と同じように長い爪とふにふにの肉球の付いた、獣のそれであった。


オルカジャック。

六足の魔獣。


思い当たる名前にかぶりを振る。

そんな馬鹿げた話があるだろうか。


思わず崖の斜面を見やるが、そこには確かに何かが滑り落ちた生々しい痕があるから、どうやら夢幻ではないらしい。

それにしては、周りに死体らしきモノがない。

あの魔物も。それに、自分のものも。


近くに小さな水場を見つけ、駆け寄って水に頭を突っ込んでみる。

だが夢が醒めるようなことはなく、ただ赤い瞳の魔物の頭が、水面からこちらを見つめ返していた。


恐怖のあまり自らの身をぎゅっと抱き締めてみる。

4本の「前足」を体に巻き付けると、体の震えは随分収まった。

なにしろ6本の手足を不自由なく操れるらしいことが分かって、その不思議さに、なんだか落ち着けてしまったのだった。



そしてユイエルは途方に暮れた。


ただまあ、空腹を感じていないことは、彼女にとって救いであった。

魔物が何を食べるかなど知りはしないが、もし人を食べるのだとしたら、自らがおぞましい化け物になったことを自覚しなければならないところだった。


これからどうしよう、という無駄な思考を巡らせてみるが、当然、町に戻るわけには行かない。

だから、とにかく崖を登ってみよう。とそう決めた。


港町サモンへ行くのと反対方向の山道は険しい獣道だが、枝伝いに登って行くのは難しくなさそうだ。

もっとも、人の身でなければの話である。

六足のうちヒレの前足はものを掴むようには出来ていないが、後ろの4本でちょっとした崖くらいなら登れるし、ヒレと長い尾のおかげで、重心の移動には苦労しなかった。


登っているうちに、王都へ行ってみようか――という気になった。

王都へ行く。

そして、シロムに会おう。

きっと彼は王都に行くだろうから。


そこで感動の再会を遂げられるのか。

はたまた彼に魔物として殺されてしまうのか。


ユイエルには、分からなかった。




さて、王都デリアへ行くには、二通りの方法がある。

ひとつはアラデ・ミフの大運河を行き来する連絡船に乗ることだ。

だがこの方法は選べない。

まさかこの見てくれで、連絡船の切符を買うわけには行くまい。


もうひとつは、このまま山道を進んで行って、ベマの大山脈を越えることだ。

かつてはグレス大陸流通の難所と呼ばれたベマの山越えであるが、アラデ・ミフの大運河が開通してからは、滅多に通る人はいない。


ユイエルだって子供の頃に旅人の土産話で聞いたきりで、実際に通ったことはない。

しかしどうやらこの体は丈夫で、体力も申し分なさそうだ。

行って行けないことはないだろう。


目的が定まると、途端に元気になってきた。単純なものである。

そういえば自分はこんな性格であった。

それをシロムには、しょっちゅう不思議がられていたっけ。

ユイは怖くないの? なんでそんなに平気なの――



崖を登り切ると、草木の茂った山道が、鬱蒼と伸びていた。

だがよくよく見れば、所々に枝を踏んだ痕があり、人の入った形跡がある。

町の誰かだろうか、と首をひねるが、魔物の中でもエルフ種などは人に近しい姿を持つし、人間とは限らない。


なにしろここはもう、町の外だ。

町を守るギルドの目の届かない、魔物とケモノの領域である。


気を引き締め、山道を進む。

だが拍子抜けすることに、しばらく進んでも、魔物どころか鳥一羽、リスの一匹も見かけなかった。

ただ風の鳴る音だけが響く、それはそれは静かな山旅である。


そうして陽の傾きが険しくなって、どうやら夕方と呼べるくらいの時間になる頃、ふいに獣の毛皮の匂いが鼻についた。

匂いを辿ると、相変わらず鬱蒼とした山道の脇に、獣の死骸がひとつ、ふたつ、転がっていた。


狼のようだが、それにしては手足が大きく、額に巻貝のような3本の角が生えている。

ワーウルフ。魔物だ。


ユイエルは辺りを見回してみる。

人影は無い。


魔物というのは魔力を閉じ込めた水風船のようなもので、死ぬと中の魔力が溶け出してしぼんでしまうから、死体が腐敗することはほとんどない。

こんな風に形を保っているということは、死後から時間が経っていないということだ。


そうして見てみれば、確かにワーウルフの周りには踏み荒らした痕、何かが争った形跡があって、それはごちゃ混ぜの足跡となって、茂みの向こうへと続いていた。


それに釣られるように、ユイエルはそれを辿って歩き始めた。

あるいは、何かに導かれるように。



茂みの向こうは開けていて、ちょっとした庭のようになっていた。

庭、というからには家屋があって、それはもはや壁と屋根だけの廃墟であったが、苔むした赤煉瓦を夕陽に晒していた。

朽ちかけた三角屋根の頂には傾いた十字架が掛かっているから、かつては教会か何かだったのだろう。

言われてみれば、窓枠らしき部分に色とりどりのガラスが引っかかっていて、ステンドグラスのように見えなくもない。


そして足跡は、廃墟の中に続いているらしかった。


近付くにつれ、今までにない、きん、きん、という金属音が聞こえてきた。

剣の擦れる音。戦いの音である。


前足を窓枠に引っ掛けて中を覗き込むと、数えて5体のワーウルフと、それに囲まれた剣士の姿が視界に映った。

青み掛かった銀髪。紺の剣士服。手には銀装飾の剣を握っている。


シロムだ。


ユイエルの胸は高鳴った。

やった、会えた。


魔王討伐の旅路だろうに、シロムはひどく軽装で、荷物も左右に振り分けた腰巻き鞄くらいのものである。

寒くないのかな、などと呑気な心配をしそうになり、その場の血生臭さに我に返った。

ワーウルフは各々の牙を剥いて、シロムを取り囲んでいる。


先述したように、魔物は魔力を閉じ込めた水風船であるから、そもそも斬撃にはすこぶる弱い。

ワーウルフのように皮膚の柔らかい魔物はなおさらだ。

傷口が開けば開くほどにそこから魔力が流れ出して、生命を維持出来なくなって行く。


だがそれでも、多勢には無勢であろう。

ユイエルは加勢すると決めて、決めるなり窓枠を越えて中に飛び込んだ。


どのみち、どちらに「味方」するかなんて、分かり切ったことだ。

この場を見過ごせない性格であることも、21年も生きていれば、自分のことは分かっている。

それでもほんの一瞬悩んだのは、怖かったからだ。


人間の剣士と魔物の戦いに、「魔物」が飛び込んでくる。

その意味をきっと、シロムは誤解するだろうから。



ともかく、ユイエルは戦いの中に降り立った。

ちらりとシロムを見るが、ちょうど彼の位置は陰になっていて、表情は分からない。

少なくともその剣は、闖入者を歓迎してはいないらしかった。


ユイエルは構わず、ひらりと跳んでワーウルフの1体の鼻先に身を移した。

そいつはシロムの一太刀を浴びたのだろう、顔の半分に刃傷を負って、そこから赤い血液と透明なビーズ玉のような、魔力の粒をぼたぼたと滴らせていた。


涎に塗れた牙が、ぎらりと光る。

どうやら仲間だと、誤解してはくれていないらしい。


ユイエルは後ろ足に力を込めた。

この体の使い方はまだ分からないが、とりあえずはあの、自らの仇たるオルカジャックを参考にしてみよう。


後ろの4本で地を蹴ってワーウルフ目がけて飛び込むと、想像以上に筋肉のバネは強靭に働いた。

風音が、はるか後方でひゅんと鳴る。

次の瞬間には、目の前のワーウルフと、その後ろに居たもう1体を巻き込んで、反対側の壁にそれらを押し付けていた。

ごり、と骨の鳴る音がリアルに響く。

ユイエルの頭と壁に挟まれて、2体のワーウルフは口から多量の魔力を吐き出した。


透明の玉粒に血が混じり、血の赤さかあるいは夕陽のせいか、ともかくも辺りを赤く染め上げた。

獣の悲鳴に振り返ると、シロムがもう1体、ワーウルフを倒したところだった。

立っているのは残り2体。


そのうち1体は既にシロムと対峙していたから、ユイエルはもう1体に的を絞った。

それはシロムの背後を狙って姿勢を下げていたが、突っ込んでくるユイエルに、鋭敏に反応した。


一発目の突進を避けられて、勢いを殺そうと、なんとか体を制御する。

6本の手足で地面を掴めば、ブレーキは掛けられそうだ。


止まった隙にワーウルフの牙が飛んできたので、前の4本足でそれを迎え撃った。

これも意外なことであったが、この巨体は後ろの2本だけでも立ち上がることが出来て、その姿勢になれば前の4本を自由に出来た。

ワーウルフと取っ組み合いになるが、足の数で言えば負けはしない。

魔物の顎に頭を押し付けて体重を掛けてやると、いとも容易く押し勝てた。


ワーウルフを地に組み伏せて押しつぶすと、また骨の軋む音がして、それきり相手は動かなくなった。



頬についたワーウルフの血をべろりと舐め取って、ユイエルは自らがバケモノになったことを知った。

ワーウルフは種族としては強い魔物ではないが、軽々と3体轢き殺してしまえるのは、流石に人間業ではないだろう。


さてシロムはどうしたろう、と振り返った時、首筋にひやりとしたものが当たった。


彼は剣の切っ先をユイエルに突き付けて、静かに彼女を見下ろしていた。


廃墟には物音ひとつなく、時折、戦いの名残でがれきが崩れる音が、やけに大きく響いてくる。

夕陽はますます赤く、屋根の隙間を伝って、彼らを赤く照らしていた。


シロムの足元にはワーウルフの死体が転がっている。

剣撃でずたずたに引き裂かれたそれは、それでも首と手足は繋がっていた。

かろうじて、という言葉にこの上なく相応しい形で。


ユイエルはようやく顔を上げ、その時はじめて、シロムの顔を見た。

ひどい顔をしていた。


三日三晩泣きはらしたような腫れぼったい目の中に、変わらず蒼い瞳がある。

だが彼の瞳、青空のようなその瞳はすっかり様変わりしていて、世界の全てを憎むかのような、ぎらぎらした光を纏っていた。

それでいて今にも泣きそうな顔をしているものだから、近寄りがたいような、アンバランスな危うさを感じさせた。


深い悲しみが、彼を襲ったのは明白だった。


「ごめんね」と、思わず声に出た。

だが声は人間の言葉とは大きくかけ離れて、甲高い笛の音のようなそれが、びりびりと辺りを震えさせた。

ある種の魔物は、声を音波にして攻撃手段に用いるという。

旅人の噂話だが、ある種の魔物に自分が成り果てるとは。人生とは分からないものである。


剣先が震えて、少しずつ首筋に食い込んでくる。

ふわふわの毛で覆われたこの太い首は、斬るのに多少は手間取るだろう。


苦しくないといいな、と他人事のようにユイエルは思った。


ぼんやりと視線を巡らすと、向かい合うシロムの背後に、女神メラヴィラスの胸像が見えた。

となるとやはりここは教会だったのだろう。

真っ赤に染まったこの場所で、女神はそれでも優しい笑みを浮かべている。


慈愛と勝利の女神に看取られるなら、短い生き返りも無駄ではなかった。

あの崖の下で、魔物の死体に押し潰されるよりは、ずっと良い死にざまじゃない?


「何がしたいんだ、お前」

その時、震えた声でシロムが言った。

人間の言葉を理解出来たことを、ユイエルは女神に感謝した。

あるいは感謝すべきは、神の卵になのかも知れないけれど。


「逃げるか、戦うか。選べるはずだろう」

ユイエルは黙って、シロムの目を見ていた。

「なぜ俺を助けた? 魔物の分際で、人助けをしたつもりか?

お前は……俺と戦った、あの崖の魔物なのか?」

なら容赦しない、とシロム。

「そうだとしても、そうでないとしても。

俺は魔物を許さない。あいつを奪った、お前らを」

許さない、とシロムが繰り返す。



そういえば、前にもこんなことがあった。

ユイエルも、シロムも、恐らくは2人とも、同じことを思い出していた。


あれは12年前。

冬を目前にした、ある昼下がりのことである。


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