11.雪を後に
11.雪を後に
「都市アルカに出ているクエストだって?」
剣士ギルドの受付番の男はシロムの問いをオウム返しにして、大義そうに帳簿をめくった。
「そんなの、お決まりのやつだよ。
雑多な魔物の討伐と、ほんの少しの強個体の調査。あとは日常の護衛と補佐。
正直言って、わざわざ行くようなものは無いよ」
「何か、こう、事件があったりだとか」
「事件って何だい?」
眉をひそめられる。
「遠いし国境の向こうだし、ここの情報だって全てじゃあないけど、何かあれば伝わっているはずさ」
伝わっていないってことは、何も無いってことだよ。
男は帳簿を閉じた。
受付に追い払われるようにその場を離れて、シロムは壁にもたれて息を吐いた。
セレ・マトスの剣士ギルドは土地柄故か魔剣を携えた者が多く、まったく異国のようだった。
雑多な剣士たちの座る円卓を4つのカウンターに分かれた受付がぐるりと囲んで、賑やかにざわついている。
いや、まあ、異国には違いない。
王都とは全く別の国であるのは事実だし、言葉が同じだけ、暁光というものだ。
だから情報が無いのだろうか?
ここ何日かギルドに出入りして都市アルカの話を聞いて回ったが、誰もが口を揃えて言い切った。
おかしなことは何も無いよ、と。
魔王が白昼堂々と街中に現れて、神と争って、勇者を殺そうとするような。
そんなおかしなことが、あるはずもないだろう?
シロムは懐の手帳を取り出した。
これはまったく、習慣のようなものだ。
手慰みに開いてみる。
クエストの内容とか街や魔物の巣穴をマッピングした、シロムお手製の冒険手帳である。
勇者としての旅立ち以降は、魔物の情報なんかもここにまとめている。
ギルドの仲間には「マメすぎる」とやや引いた目で見られるから、余り見せることもないのだが。
シロムだって、性格が几帳面なわけではない。
少なくとも子供の頃は、親を知らずもちろん読み書きも知らない少年だったのだから。
だが側に現れた幼馴染が、商家に生まれて、生まれだけでない努力を持って、才で身を立てんとする女の子だっただけである。
「私は姉さん達に比べたら、器用じゃないから」
彼女は言った。
「それでも全部ひっくり返すために、何が出来るかって考えてるよ」
と。
出来ること。
シロムは胸の内で繰り返した。
読み書きを習ったのも。ギルドで剣の道に進んだのも。
きっと、シロムなりの足掻き方だった。
他人を騙して貶めて、1秒でも永く生きることが全てだったあの頃から抜け出すために。
それが正しかったのかどうだったのか。
彼女を喪った今では、分かりようもないことだけれど。
シロムはぱらぱらと手帳をめくって、オルカジャックのページを指でなぞった。
魔物について書き記し始めた、一番最初のページである。
そうして、ジャックはどうしているだろうかと考えた。
この国で、あれはひどく退屈しているようだった。
大人しくはしているが、突拍子も無く抜け出して、何か騒ぎを起こしはしないだろうか。
そう。
ユイエルは、いつもそうだった。
目を離した時に限ってふらりと姿を消して、そうして思いがけない未来を連れて来る――
馬鹿な。
シロムは首を振った。
今考えていたのは、ジャックのことだ。
彼女は関係ない。
関係ないのに。時折こうして、思考は彼女にスライドする。
他の誰かを思い描いても、そんなことはない。
シロムにとって彼女は、唯一無二のひとである。
あの魔物だけが、彼女を思わせる。
馬鹿げたことだ。本当に。
手帳を閉じて、やにわに騒がしくなったギルドの中に目を向けた。
受付の並ぶ大広間のようなそこに、どやどやとギルドの職員がやって来て、見慣れた張り紙を掲げて行く。
クエスト募集、それも緊急募集の知らせである。
「襲撃だ」と誰かが言った。
「この街か?」
「そうだ。セレ・マトスの城下町に」
「魔物掃討戦か、丁度良いや。剣も研いだばかりだしな」
「うーん。避難誘導のクエストくらいにしとこうかな。
傷も治ってないのよね」
ギルドの戦士たちが群衆と化して、そんなことを喋っている。
シロムは募集の紙に寄って、クエスト受諾の手続きを取った。
「あんた、行くんか?」
前歯の欠けた男が、息の抜けた声でそう言った。
大剣を背負っているから、やはり所属の剣士なのだろう。
「当然」
シロムは短く答えた。
「俺に見過ごすという選択肢は無いんだ。
魔物を殺すために」
どこか他人のような自分の声が、そう言った。
男は首をすくめてその場を離れた。
シロムはギルド本部を出た。
外はすでにとっぷりと日が暮れて、だがまだ雪が降っていた。
踏み出した地面はさくりと沈んで、その足跡にもまた、後から後から降り積もって行く。
月の無い夜である。
だがその暗さを打ち消すように、町中に誰かが灯した魔法灯やランタンの光が舞って、それらがあらゆる刃に照り返されていた。
鋼の剣の刃に。あるいは魔剣のぎらつきに。
ばさりと羽の鳴る音がして、眼前にガーゴイルが降り立った。
悪魔像とも形容される、ゴーレム種の魔物である。
シロムに戦闘の経験は無いが、グレス大陸の北部では、そう珍しい種族でもない。
ガーゴイルは嗄れた声で鳴いて、ぎらりとシロムを見た。
嘴のように尖った口の中に、獣の牙が光っている。
それは禍々しく、忌むべき姿である。
シロムは剣を抜いた。
人型に近い魔物の方が、戦うのは容易かった。
すなわち、首を落とせば良いのである。
躊躇いはしない。
魔物に意志など無い。
あれらはただの魔力の入れ物で。人類の敵で。
そして彼女の仇でしかない。
ガーゴイルの首筋に剣を突き立て、シロムは空を仰いだ。
彼女に似た魔物など。
あるはずのない、幻覚である。
窓から飛び込んできた半鳥の魔物を、ユイエルは前足を広げて迎え撃った。
組み合った衝撃でずるずると後ろに押されるが、大廊下の柱のひとつに引っかかって、押し返す機会を得る。
ぐいと組み伏せて、恐らくは急所であろう喉元を狙う。
どうやら致命になったらしく、魔物はだらりと力を失った。
ユイエルは息を吐いた。
一体何がどうして、こんなことになった?
彼女はただ、メリスの無事を知りたかっただけだ。
それを知る彼女の身内、すなわち皇子と皇女に出会えたのは幸運であった。
メリスはどこに居るのと、ただそれだけを訊ければ良かった。
もの言えぬ魔物の身で、それは難しいことではあるけれど、不可能ではないと思えていた。
シロムがジャックを殺さなかったように。
メリスもまたそうであったように。
通じ合える何かがあるはずだと、信じたから。
もちろん姿を晒すことに危険はあった。
だが同時に、確信もあった。
あの皇子はきっと。
魔物一匹目の前に現れたくらいで、兵士を呼び寄せたりはしないだろう。
そして実際、敵意なくぺたりと床に座ったユイエル相手に、リファスは剣を納めたのである。
ただその時想定外に、窓から数匹の魔物が入ってきて、ユイエルはそれらと戦わざるを得なくなった。
とりあえずその場の魔物を倒して振り返ると、相変わらず皇女ソフィアを背に庇って、リファスがこちらを見ていた。
「皇子! ご無事ですか!」
大廊下を突っ切って、十数人の兵士が駆けてきた。
昼間の大通りで見た、近衛兵らしき一団である。
「ここにも魔物が!?」
彼らは槍を構えて、その切先をユイエルに向けた。
死体を除けば、この場の魔物はオルカジャック一匹である。
「そいつはいい」
リファスは憮然と言った。
「放っておけ。それより、城下は?」
「ギルドに要請を出しました。
被害報告はまだ上がっておりません。それと」
近衛兵はごくりと唾を飲んで、
「ナイト卿が応戦しています」
「そうか」と、リファスは短く言った。
「そういう盟約だ。当然のことだろう。
この地に危機ある時、かの神は剣をとる」
「その代償に、この国は自由を失いました」
とソフィアが口を挟んだ。
「兄様。これは好機ですわ。そうでなくて?」
「ソフィア。なにも今でなくとも」
皇女はかぶりを振った。
そして、何やら光る小さなものを取り出して、手の平に乗せた。
それは笛のようだった。
分かりやすい風に言えば、ホイッスルというやつである。
鋼とも銀とも違う、だが宝石とも違う、半透明で複雑な色合いの鉱石で出来ているようである。
「それは?」と思わず訊くのを、
「魔笛。そう呼ばれています」
とソフィアは答えた。
「少なくとも、魔王がそう呼ぶものです」
「魔王だって?」
「この笛は魔物の言葉です。
開戦を告げればそのように。
伝える言葉となって音を発するそうです」
「馬鹿な。魔王と共闘する気か?」
「あらやだ兄様。王国はとうの昔にそうですよ」
リファスは黙りこくった。
皇女はそれを、肯定と受け取ったらしかった。
魔笛を唇に添えて、ふうと吹いた。
その音は、鳥の鳴き声に似ていた。
空を舞う翼の主が奏でる、細長く自由な響きに似ていた。
人間には、そう聴こえた。
人間には。
だから、ユイエルにはそうではなかった。
始マル。来イ。討テ。
来イ。来イ――
おおよそそんな意味の言葉の渦が、地響きのように脳裏を貫いた。
がんがんと頭が鳴って、耳(と呼ぶべき彼女の器官)が暴れるみたいに痛みを持った。
ソフィアはもう一度、笛を持ち上げた。
ユイエルはたまらず後ずさって、衝動のままに窓から外へと躍り出た。
ユイエルは怖かった。
自分が自分でなくなるようで。
人間と信じる部分が、魔物に塗り潰されるようで。
逃げるしかなかった。
笛の音に導かれるままに、引き寄せられる自分に、なりたくはなかった。
飛び降りた中庭は人気が無く、だが随分と様子は変わっていた。
雪は踏み荒らされて、いくつかの花壇は土塊と化していた。
それにあちこちに灯りが灯されて、もはや空の星など見えようもなかった。
「なあに、さっきの音」
声に反応して顔を上げると、塀の上にスズが座っていた。
セレ・マトスに逗留するようになって間もなく姿を消していたが、戻ってきていたのだろうか。
「近くには居たんだよ」
と思考を読んだかのように、彼女は口を尖らせた。
そして顔をしかめて、
「ほらまた。あんなの、初めて聴いたよ」
先ほどの大廊下から、また「魔笛」の言葉が放たれていた。
ユイエルは精一杯の意思疎通として、頭を振った。
私だって知らないよ、と。
「まあいいや……街の方は大変だよ。
魔物だらけだもん」
魔物に襲われたのは、この城だけではないらしい。
ユイエルは、皇子との対話の機会が失われたことを知った。
きっと彼も自分も、それどころではなくなってしまうだろうから。
シロムは大丈夫だろうか?
今日はギルドに行っていたはずだが。
城の表に回ってみようと思い立って、ユイエルは歩き出した。
もう一度塀を乗り越えても良いのだが、もはや隠れる意味もない。
「あれ、どこ行くの?」
とスズの声が追いかけてきて、
「ふうん……何か、目的があるって顔してる。
そういう目だもん」
とユイエルの瞳を覗き込んだ。
「ね。ね。連れてったげようか。
きっと、歩くより飛ぶ方が早いよ?」
どうする? と彼女が訊くので、ユイエルは獣の前足、前から2番目の右足を挙げ、すいと彼女を指し示した。
「上出来」
スズは満足そうに頷いて、ひょいとユイエルに背後から飛び乗った。
人間よろしく服を着ているくせに足は裸足で、硬く猛禽類のようなその足が、ユイエルの身体を持ち上げた。
行くよ、と弾みを付けてスズが羽ばたいた。
一瞬、くらりと気分の悪い浮遊感が襲うが上昇はゆっくりで、じきに慣れた。
目の前には立派な窓が見えている。
先程の大廊下だ。
それが眼下に過ぎて行く。
やがて城の屋根が目線に現れて、それも通り過ぎるままに離れて行く。
「おもしろいでしょう?」
とスズが言う。
「上から見ると、ひとの街は大きいよ。
小さいのに、大きいんだ」
ユイエルは下を見た。
降り続く雪が、眼下の灯りを照り返して、白っぽく光っていた。
「あれ、シロムじゃない?」
やがて豆粒のような人影を顎で指して、スズが言った。
よく見えるものである。
私には、点にしか見えないよ。
彼女はひとつ大きく羽ばたいて、ぐんと高度を下げた。
豆粒は少しだけ大きくなって、街中の灯りがその横顔を照らし出した。
そのひとつは、確かにシロムであった。
そして相対する大きな鎧姿は、どうやらナイトである。
争っている様子は無い。
無いが、ユイエルには心穏やかでない取り合わせである。
その時シロムは、手近な魔物を斬り捨てた「神」の顔を、緊張した面持ちで見つめていた。
先日の振る舞いを見た以上は、このナイトとやらを信用するわけにはいかなかった。
だが人の手には余る魔物を退治してくれるのなら、ここは共闘するべきなのだろうか?
「くだらんな」とナイトが吐き捨てた。
目線は真っ直ぐに、大通りの先の、小さな人影を捉えていた。
「余計なモノが入り込んでいるようだ――身の程ってものを知らんな?」
「そいつはどうも」
トウマが答えて、フードの端を抑えた。
どこからともなく。
その言葉の似合う、静かな登場であった。
「呼ばれたからね。応えないわけにも行かなかったのさ」
「『剣』も無く、我に挑むつもりか? 魔物の王よ」
「剣が無いのはまあ、想定内だよ」
トウマはくぐもった笑い声をあげた。
「ただ君と戦うには、もう少し大義が必要でね。
例えば……勇者が街中で殺される、とかね」
冗談めかしてトウマが言う。
だがその目は笑わず、シロムを見ていた。
「俺を勇者と決めたのは、あんただろう」
シロムは訊いてみた。
「あの日の占い師は、つまりあんただったんだから」
「いや正確には……ま、違わないか。僕は神の啓示として君を指名した。
笑っちゃうよね? この僕が、神、だなんて!」
「世界の政に興味は無いが」
心底興味無さげに、ナイトは口を挟んだ。
「我らの存在を便利に使う、その性根は気に入らんな」
「へえ?」
トウマは両手を広げた。
フードの中の幼い顔付きにその仕草は大仰で、ひどく芝居がかって見えた。
「『盤の神々』が、随分と感情的なことを言うんだね。
そんなのは我が親愛なる『女神』だけかと思ったけど」
「我と『女神』を同列だと?」
ナイトはすごんだ。
「最大の侮辱だな、今となっては」
言いながら、腰の剣をすらりと抜いた。
「ああもう、言ったろ」
トウマは困ったように頭を掻いて、
「君と戦うには大義が足りないんだ。
とあるお姫様は、それを望んだんだろうけど」
とセレ・マトスの城を見上げた。
「そこの」
ふいにナイトの剣の切先が、すいとシロムを指し示した。
「人間を、殺せば良いのか?」
「そうしてくれると助かるね」
事もなげにトウマは言った。
「予定としては、遅過ぎるくらいだ。
それで何もかもが上手く行くよ。そう思うだろう?」
シロムは冷めた頭でその切先を眺めていた。
己が勇者となったのには理由があって。
神も、魔王も。そしてきっとどこかの王国も。
勇者の死を望んでいる――
「貴様らの予定など、知らん。
だがこの男を殺せば、はっきりするのだろう?
貴様や、ヤツらが何を仕出かそうとしているのか」
「別に、隠すことでもないよ」
トウマは笑った。
「僕は、僕らは神を殺す。
これは復讐であり……人間と魔物の初めての共同作業だ。素敵だろう?」
「ふん。戯言を」
ナイトは呟いて、ひらりと跳んだ。
シロムも動いた。
後ろに跳び退いて、剣を抜いた。
先程までシロムが居た場所、まさに頭の位置目掛けて真っ直ぐに、ナイトの剣が突き立った。
斬り掛かる。と、かの神は剣を容易く薙ぎ払って、つまらなさそうに、
「ちゃちな運命とはいえ、懸けて戦う程の腕ではないな」
「うるさい」
シロムは短く言った。
「死ねと言われて、はいそうですかと死ねるものか。
俺にだって、やりたいことがある」
これは、ほんの少し嘘だった。
彼女の元に逝けるならそれに勝る幸せは無いと、心底思った。
それは甘美な未来だった。
「不気味な男め」
ナイトが吐き捨てた。
気付けば笑みを浮かべていたらしい。
自覚して、シロムは笑顔を引っ込めた。
とは言え、どうにかしなければならないだろう。
鎧。その継ぎ目。あるいは金具の端。
どこか刃を差し込める隙間は無いかと目を凝らすが、どういう作りなのか寸分の穴も無い。
唯一無防備な目の周りは、あの不気味な金色の瞳が居座っていて、見つめることさえ躊躇われた。
「無駄な足掻きだ」
探るような視線に気付いて、ナイトはせせら笑った。
「神殺しの剣も無いのなら、我に傷ひとつ付けられるものか。
もっとも『剣』の一振りはビショップが確保し、もう一振りは死者の手の中よ」
言いながら、肩からシロムの方に体を入れて、押し上げるように剣を払った。
シロムといえば、それを振り払うのに精一杯だった。
「死者?」
と、トウマが口を挟んだ。
剣撃の隙間にちらりと見ると、彼は手近な敷石に胡座をかいて、楽しげに見物している。
「神殺しの剣は二振りの、番の剣だ。
そりゃあもう一振りあるだろうけど……死者、とはねえ」
「勉強熱心なことだが、無駄だろう」
ナイトは剣を握ったまま、トウマを振り返った。
シロムは肩で息を吐きながら、その背中を見上げている。
これでは押される一方だ。
いっそ、この隙に逃げてしまうか?
浮かんだ考えに、すぐにかぶりを振る。
逃げてどうなる――巻き込まれた剣士ならそれも良かろうが、神も魔王も王国も、どうやら自分を狙っているらしいのに。
「神殺しの剣、その二振りの剣を作った鍛治氏の男は、自らの死が訪れようとも剣を手放さず、ついには死者の国にまで持って行ってしまったのよ」
死者の国。
瞬間、シロムの頭に閃くものがあった。
それはグレス大陸の御伽話。
港町ではポピュラーな童歌――
ベマ山脈の北のずっと先。
ジャブナ大森林を越えて。
灯宿す骸骨の案内に身を委ね。
きっと辿り着くのは、死者の国。
港町サモンに産まれた子供なら、誰もが一度は耳にする。
だが明るく楽しげな節とは裏腹に聞かされる内容がおどろおどろしいので、大抵の子供にとっては、あまり良い思い出の無い歌である。
ユイエルもそうだった。
幼い日の彼女は今よりずっと怖がりで、お化けの類が大嫌いだった。
そうだ――今、よりも。
その時強い風音がして、シロムとナイトは同時に空を見た。
細かな雪の合間を縫って、スズが大地に舞い降りた。
「あれ。今日は随分、つまんない顔してるね」
その言葉が終わるや否や、咆哮が辺りを貫いた。
それがジャックの声であると、気付いた時にはそれはもう目の前に降り立っていた。
そして気を取り直したナイトが再び剣を振り下ろすのを、その立派な体躯で押し戻した。
ナイトはひらりと剣を返した。
2撃目。それがユイエルの頬をかすめた。
目一杯に入れた力が、彼女の皮膚の表層を、雪の粒と一緒に薙ぎ払った。
ぞわりとユイエルの毛並みは泡立った。
一瞬、あるいは一寸逸れただけで、二分する運命の狭間に、彼女は立っていた。
すなわち、生か死か。
その狭間に、6本の足を踏ん張って立っている。
ユイエルは、「ユイエル」の最期を思い出していた。
すなわち崖の上でオルカジャックと戦って、結果命を落とした、かの一戦のことである。
身を犠牲にしてシロムを守ったことを、後からいくらでも、格好付けて言える。
世界には勇者が必要だと思ったとか、彼に生きていて欲しかったとか。
だがあの時は夢中で。ただ夢中で。
ランタンを投げつけてあの赤い瞳と見合った時に初めて、自分が無事では済まないらしいことを悟ったのだ。
似た感覚だった。だから思い出したのだ。
生と死の、二分する運命。
そしてあの時自分は、死の手を取った。
後悔が無いと言えば嘘になる。
ただきっと、自分は何度でもそうするだろうと、不思議な自信もあった。
人生にセーブとロードがあって、強くなくてニューゲームなら、またきっと。
だが今は。
ユイエルは背後を見ようとした。そんな余裕は無いのだけれど。
シロムの顔が見たかった。
死ぬわけに行かない、と。今、そう思った。
「手伝おうか?」
タマが言った。
気のせいか、と首を回そうとして、それが一寸も動かないことに気が付いた。
世界は止まっていた。
そしてまぶたの裏に、タマが立っていた。
「ナイトを相手にするのに、魔物の身ひとつじゃ頼りないでしょう?」
「……手伝うって。どうやって?」
「僕はこれでも器用で通っていてね。
君の中に、僕を顕現させる。それだけのことさ」
「本当に?」
「信じなって」
タマは手を広げた。
「僕は神様だよ? たとえ卵でも」
「敵も神様じゃない」
不満げに返すユイエルに、「違いないね」と答えるタマは、どこか寂しそうでさえである。
「で? 乗るの、乗らないの? この話」
「乗るよ」
即答である。
「そうこなくっちゃ」
そして、世界は動き出した。
もう一度、ユイエルは吠えた。
ぐいと伸ばした喉の震えが、そのまま天地を震わせたようである。
と同時に、ユイエルの体から、青い光がぐわりと浮き上がった。
青く白い、雷鳴の中に見える閃光のようなそれは、幾重にも重なって、硬い膜のようにユイエルの目の前に広がった。
「<防護領域>」
どこかで、タマが言った。
そしてナイトの剣は防御膜に激しく打ち合って、跳ね上がった。
「なぜここに……!?」
ナイトの顔が歪む。
誰に剣を向けても爛々と光っていた金の瞳が、初めて怯えたように小さくなった。
「おや」と、静かに観戦を続けていたトウマも目を細めた。
「まさか、と言うしかないな。誰だろうね、この気配は」
好機だ。
シロムは剣をしまって、ユイエルの背中に飛びついた。
「ジャック、ジャブナ大森林に行くぞ」
ユイエルに身を寄せて、彼は繰り返した。
「ジャブナ大森林。死者の国。――分かるだろう?」
ユイエルもまた、例の童歌を思い浮かべた。
幼き日には散々脅かされた、忘れられない歌である。
「剣を手に入れる。それで神を殺す」
シロムは囁いた。そして、「俺が殺される前に」と付け加えた。
ユイエルは駆け出した。
その背にシロムはしがみついていた。
ナイトの大きな影も、トウマの絡みつくような視線もあっという間に置き去りにして、セレ・マトスを飛び出した。
跳ね飛ばした浅い雪が、辺りの温度を下げていた。
「なあジャック」とまた、シロムは囁くように声を絞った。
「どうやら俺は、死を望まれた勇者らしい。
力を得るためか、望まれる未来にたどり着くためか。
どちらにしろ、目指すべきは現世じゃないってことだ」
その自嘲的な響きに、ユイエルは聞こえない振りをした。
言葉を操れないというのは、否定も肯定も出来ないというのは、何と卑怯なことだろう。
だが自分たちは、生きるために、そのための力を得るために、きっと死の狭間に向かうのだ。
そしてまた、シロムは自らの胸の内の浅ましさに気付いていた。
剣を探すなんて、口実だ。
「優しいなあ」と呟いて毛皮に顔をうずめながら、ぎゅっと胸を掴んでいた。
死者の国。
もしも彼女に会うのなら、これ以上ふさわしい場所はあるまい。




