1.彼女の願いごと
第1章 神の卵
1.彼女の願いごと
港町サモンといえば、町を南北に二分し、そのままベマの大山脈へと続くアラデ・ミフの大運河があまりにも有名であろう。
だが逆に言えばそれ以外に見どころはさほどなく、観光地に挙げられることの少ない町である。
だからここ何日かの人出の多さは明らかに異常で、今やあらゆる国の来賓客やら旅人やらが、運河のあちらにもこちらにも詰めかけていた。
とはいえグレス大陸の玄関口とも称される交易町であるから、人の流れは年中多いのが普通である。
それにしたって訪れる客が多過ぎて、港町サモンの宿屋やら食堂やらショップやらは、どこもパンク寸前であった。
その時勢は織物や鉱石の物流と売買を担うポートレア商会にも他人事ではなく、ポートレア家四女のユイエル・ポートレアでさえ、接客や人員手配に駆り出される有様であった。
倉庫番の男に2、3の指示を飛ばして店先に戻ると、
「すみません、試着って出来ます?」
「加工ってここでやってもらえるんですか?」
「あの、これプレゼント用に出来ますか」
と、矢継ぎ早に客の声が飛んでくる。
「いやあ、ここも大変ですね」
ポートレア商会の別店舗から応援で来た商会員が、帳簿台から顔を上げた。
彼はそっと声を潜めて、
「明日ですよね、『勇者の出陣式』」
「そうだね」とユイエルが応じる。
「それが終わるまでは、こんな感じだろうね」
「勇者効果で鉱石が売れるってのも、変な話ですけど……」
「まあ、珍しいから。普段ならサモンからアニムの加工所に卸しちゃって出回らないから、
記念にお土産にする人が多いんじゃないかな」
言いながら、ユイエルは苦笑する。
勇者効果、とはよく言ったものだ。
そう、突然の好景気の原因は、その「勇者」にあった。
話は十日ほど前に遡る。
王都からの使者が占い師を連れてきた。
かの占い師は港町サモンの一角の、剣士ギルドのそばに住む1人の剣士を指差して、
「この者が勇者だ」
とそう告げた。
世界に巣食う魔物の王「魔王」を打ち滅ぼし人類を救う救世主だと、明朗に告げたのだ。
その瞬間世界は形相を変え、魔王と人類の戦いは、魔王と勇者の戦いへと塗り替わった。
そして一躍勇者の故郷となったこの町には、一目勇者を見ようという観光客で賑わった。と、そういうわけである。
「あ、そうだ。私、ギルドに確認に行かないと」
帳簿台の男と話していたら思い出した。
「明後日またアニムに行くから、その手配をしときたいんだ」
「うへ、この店からエルさん引いたら戦力が厳しいですよ」
「なんとか頑張ってよ、アベル」
帳簿台の男のことである。
「……分かりました。なんとか、踏ん張ってみます」
店を出ると、そこにもまた人だかりが出来ていた。
「あなたですよね、勇者って!」
「わあ、ほんとに居た。生で見れたの嬉しい」
と騒いでいる。
人の輪の中心には1人の青年が、いかにも困り果てた様子で立っていた。
青み掛かった銀髪と合わせたのか、銀装飾をあしらった豪華な衣装に身を包み、これまた豪華な装飾の剣を腰に差している。
昼夜を問わずに目立つ見た目で、それはもう人目を引くことだろう。
ユイエルがぼんやりと思ったその刹那、青年の目がこちらを向いた。
目が合う。
すると彼は助かった、というように輪をかき分けてやって来ると、
「ユイ、かくまって!」
と飛びついてきた。
この女は誰だ、と群集の目が集中する。
居たたまれず、ユイエルは青年の手を引っ掴んで、店の裏手へと引き返した。
私有地である、流石に誰も追っては来ない。
「ごめん、助かった……」
「めちゃめちゃ囲まれてたね、大丈夫?」
ユイエルの呆れた声に、彼はしゅんと下を向く。
「王都の王様だとか貴族だとかから、色んな装備品が贈られてくるから…
なんかこう、装備しないと悪いかな、って気になって」
「それであんなに目立ってたんだ」
変なとこで真面目なんだから。
「でも勇者になるんなら、慣れないといけないだろうし」
ぎらぎら光る剣の柄をじっと見つめて、青年は声を吐き出した。
「そんなに、気負わなくても良いんじゃないかな」
ユイエルが笑いかけると、すがるような彼の目が、すいとこちらを向いた。
雲ひとつなく抜けるような青空と同じ、混ざりっ気の無い蒼い瞳。
静かで神秘的で、それでいて寂しさを覗わせるこの色が、ユイエルは昔からずっと好きだった。
何かあると落ち込んでやって来る彼の目を、よくこうして覗き込んでいたっけ。
その時は屈んでちょうど良かったその目の位置は、今となってはユイエルの20センチほど高いところにあるのだけれど、色だけは変わらない。懐かしい頃のままである。
シロム・エル。
すっかり大きくなって、今や手の届かないところに行こうとしている幼馴染の、たったひとつの、大事な名前。
ユイエルにとってはまったく信じ難いことに、勇者と告げられ世界の命運を委ねられたのは、他でもない、この幼馴染であった。
「戦うのも、逃げるのも、どっちもシロムの権利なんだって、自由なんだって。
昔からずっと言ってるでしょ? 忘れちゃった?」
「忘れてないよ、忘れたことなんて」
言いかけた言葉をごくと飲み込んで、シロムはかぶりを振った。
「ユイエルの言った一言だって、俺は忘れてないよ」
それはどういう意味だろう?
思いがけずシロムの語気が強いので、一瞬思考が止まる。
そんな彼女にふっと笑って、「それは言い過ぎたかもね」と誤魔化してから、
「どっか出かけるの? これから」
「ああ、うん。ギルドにちょっと」
「今からだと、帰りが暗くなるだろ。俺も行く」
「え? いいよ。準備あるんでしょ、明日とか、旅立ちとか」
「関係無いよ。どうせ荷物なんて大して無いんだから」
こうなると、シロムは頑固である。
「じゃあ、せめて上着は脱いで行けば?
ギルドに着く前に、また見世物小屋みたいになっちゃうよ」
通りに出ると、人だかりは無くなっていた。
流石に剣は仕舞えなかったが、シロムはぎらついた上着をくるりと丸めて布袋に詰めて、器用に背負っていた。
よくある紺の剣士服に戻ったシロムは、剣こそどうにも高級品であるが、それならまあ気取った格好の剣士としては、ありがちな風貌である。さっきと同じ騒ぎにはなるまい。
ユイエルの方はと言えば、帰り道用の携帯ランプを腰に提げている以外に荷物はなく、気軽な恰好で連れ立っていた。
「忙しいんだって? 店」
突然の世間話に笑いそうになるが、彼は大真面目に訊いてくる。
「ほかとおんなじだよ」と返して、
「そっちこそ、もう旅の計画は決まった? やっぱりまずは王都?」
「うん。色々準備、というか、王様に会ったり、仲間を決めたりしないと」
「仲間募集するんだ?」
「そりゃあね。ひとりで魔王に挑むわけには行かないでしょ」
港町サモンの大通りはアラデ・ミフの大運河に沿うように作られていて、運河に荷物船がいくつもいくつも浮かんでいるのを、すっかり眺めることが出来る。
この十何年かで技術は進んで、手漕ぎだった船のほとんどは魔力推進のものに変わっていて、それを珍しそうに川べりで見ているのは、観光客や訪れた商人や、そのほか様々な人たちである。
時代は変わる。
当たり前の事実を、この十日で、ユイエルは嫌になる程思い知った。
だって、シロムが出て行くんだよ? この町を。
子供の頃から、一緒に育ってきたこの町を出て、魔王を倒しに行くんだって。
そんなこと、想像もしていなかった。出来るはずもなかった。
「なんか、変な感じ。シロムが旅に出るなんて」
「俺だってそうだよ」
「ギルドに行く時はいつも、クエストの受け方分からないからついてきて、って言ってたくせに」
「それは……良いじゃないか。どうせ俺の顧客はほとんど、ポートレア商会だったんだし」
「商会っていうか、私のアニム行きに着いてきてもらったのがほとんどだよね。
鉱石とは言え、荷馬車は山賊に狙われるし。護衛必要なんだもの」
「いやあ、俺はほんと、あの報酬で生きてたよ。
おかげでひもじい思いはしなかった」
「……懐かしいね」
言ってしまってから、しまったと思った。
シロムの決意を邪魔する話は、しないと決めたのに。
昔話はきっと、彼の心を鈍らせる。
この町につなぎ留めたいわけじゃないのに。
寂しいのは、私だけで良いのに。
「あのさ」とやけに改まった声で、シロムが切り出した。
「今日の夜。ちょっとだけ、出て来れる? ほら、いつもの川沿いの広場にさ」
「いいけど、どうしたの? 改まって」
「ユイに話があるんだ。俺の、その。なんていうか、気持ちを。
聞いて欲しい」
運河の上をカモメの群れが飛んでいて、港町は穏やかである。
人は多く賑やかだが、暗い気配は微塵もしない。
地方によっては魔王の進軍が酷く、魔物に荒らされていると聞くが、そんなこと、まるで現実感がない。
シロムの話と同じに。まるで現実感がない。
「……馬鹿じゃないの? 旅立ちの前日だよ?」
「そうかな」
「そんなの聞いて、どんな気持ちで送り出せばいいのよ」
「何の話かは、まだ分かんないだろ」
それが冗談なのかそうでないのか、ユイエルには測りかねた。
何の話か、分からないわけないでしょうに。
私だって、そこまで鈍感じゃないよ。
「おい、町の入口に魔物がいるぞ!」
突然の怒号に、話が途切れる。
ユイエルとシロムが顔を見合わせる、とその瞬間には、シロムは駆け出していた。
ユイエルも後を追う。
方角はちょうど、剣士ギルドのある一角だ。
剣士ギルド、商人ギルドがかたまったその辺りはほとんど町の端で、ギルドの裏手からはもう、ベマ地方へ続く山道が始まっている。
剣士ギルドの建物の脇に、装備の整った剣士が一団になっていて、
「シロム。お前も来たのか」
と声を掛けてくる。
シロムも剣士ギルドの所属だから、当然顔見知りも多い。
「オルカジャックだ」
剣士のひとりが、苦々しそうに吐き出した。
見れば肩に傷を負っていて、逃げ帰って来たのが見て取れる。
「なんだってあんなのがここにいるんだ? 生息地が変わったのか」
「1体だけですか?」
シロムの問いに、剣士は首を振った。
「分からん。俺が見たのは1体だが」
「俺が見てきます。1体ならともかく、群れでいるなら手に負えなくなる」
言いながら既に、シロムは山道へと歩き始めている。
「ユイはそこに居て」
「分かった。……気を付けてね」
「無理はしないって。心配すんな」
振り返って見たユイエルの、不安げな瞳が、妙に引っかかる。
こういうのを虫の知らせというのだろうか。
少しばかり大げさに頭を振って、シロムは気持ちを仕切り直した。
ユイエル・ポートレア。
俺に生き方と生きる意味をくれた、たったひとりの、大事なひと。
色素の薄い赤髪赤目の外見は凡庸な印象を与えるが、大手商会の娘とあって、仕事熱心な、芯の通った娘である。
家族の居ないシロムにとっては家族のように頼れる唯一の存在であったし、実際、姉代わりとしての振る舞いも、ユイエルには多かった。
だが彼女が意外にも寂しがり屋なことや、押されると弱いところも、すっかり分かっていた。
そんな彼女に「好き」と言ったら。一体どんな顔をするのだろう?
「姉弟」と違う関係を求めることは、彼女を困らせるだろうか。
だが決めた。もう決めた。
「俺の帰る場所になって欲しい」と、今夜、彼女に告げるのだ。
彼女は笑うだろうか。我儘だと詰るだろうか。
一度で良いから抱き締めさせて欲しいと言えば、どんな顔をするだろう?
全ては今夜だ。今夜決まる。
だがその前に、目の前の敵である。
山道を少し登った、町にごく近い崖上に、そいつは居た。
「オルカジャック」と呼称されるその魔物は、魔物分類学によれば、キマイラ種に定義される。
キマイラ種の特徴は、ふたつの動物をくっつけた異形の外見。
すなわち、頭はシャチ、体は犬の、六足の魔獣である。
つるりとした皮膚に覆われた頭とヒレ上の前足は水棲生物のそれだが、長い毛をまとった体部分は、後ろ足の4本ともに、凶暴な爪が控えている。
体長は3メートル程度。
デカい犬で片づけるには、やや過言な大きさであろう。
オルカジャックはシロムに気付くと、土埃と共に突っ込んできた。
切り立った崖に小石が跳ねて、足元の不安定さを強調させる。
群れは居なさそうであるが、相手がこの辺りによく居る、ジェルスライムやオオムカデのような初心者歓迎の魔物でないことは、火を見るよりも明らかだった。
咄嗟に剣を抜いて突進をいなすと、かの魔物は崖の反対側の、山の裾に頭をぶつけてそれで止まった。が、止まるや否や振り向いて、黒白のだんだら模様の中の、真っ赤な瞳をぎらりと光らせた。
次の突進が来る。
動きは単調だが、当たれば死ぬだろう、というのが確かなのは、気持ちの良いものではない。
あの頭部にばらばらにされるか、崖下に突き落とされるか、理由がどちらにせよ。
だが逆に動きを釣って崖下に落とせれば、勝機はある。
シロムは慎重に立ち位置を探りながら、作戦を決めた。
無理はしないと言いはしたものの、何故だか、やるしかない、という気持ちがそれに勝った。
だが魔物もそのくらいの知能はあるらしく、山の方へ向かう突進と、崖の方へ向かう突進とでは、勢いを変えているようだった。
山を背にして立ち、シロムは考える。
さあここからどうやって、崖側へ誘導するか――
その刹那。
山側でがしゃりと嫌な音が鳴って、見上げると、人間の頭くらいの大きさの石が数個まとまって、山の上から落ちてきていた。
小さな崖崩れはよくあることで、それ自体は珍しいことではない。
ただそのタイミングは余りにも、運命の悪戯であった。
石を避けようと身をよじったその場所に、オルカジャックも突っ込んできた。
咄嗟に頭を守ると、肋骨のあたりにオルカジャックの頭が直撃した。
一瞬、世界の上と下が分からなくなって、気が付くと地面に転がっていた。
身体が痛い。
だが立ち上がらなければ、次が来る。
轢き潰される。
頭では分かっているのに、上手く体と繋がらない。
正直、ギルドに所属して剣士として働いてはいたけれど、魔物と戦った経験自体は、それほど多くはないのである。
山賊や盗賊や、人間との戦いの方が多かったくらいで。
それも賊の類は命を失う無茶をする前に逃げて行くから、シロムにはそもそも、命がけの戦闘の経験というのが、ほとんど無いのだった。
そんなこと、今さら思い当たっても、もうどうにもならないけれど。
どうすれば良かったのだろう。
なんだか妙に進みの遅くなった時間の中で、シロムはぼんやりと考えていた。
逃げれば良かったのかな。
けれど勇者になれば、こんな場面はいくらでもある。
なら遅いか早いかの違いなだけで、この結末は変わらなかったのかも知れない。
俺には無理だったと。そういうことだったのだろうか?
さあ、次が来る。魔物が突っ込んでくる――
だが突進は来なかった。
いや厳密に言えば、その動きはあったのだ。
ただシロムの目の前に人影がひとつ飛び出して、オルカジャックに向かって、こっちだよ、と手を振ったものだから、魔物の矛先が変わったのだ。
向きを変えた魔物に、「彼女」は、手に持った携帯ランプを投げつけた。
出掛ける時に咄嗟に持ったそれが、思いがけない形で役に立った。
「ユイ!」
シロムが叫ぶ。
だってそんなの、叫ぶしかないだろう。
何が起きたのか信じられないとか、そんな生易しい言葉では足りない。
彼女が、ユイエルが、オルカジャックと対峙していた。
それどころかランプの光に眩んでぐらりと傾いたオルカジャックを思い切り掴んで、彼女はそれを崖際まで引っ張って行った。
勢いの付いた魔物の体は、女の身でも向きさえ変えてあげれば、簡単に動かせた。
そうしてユイエルは、最期にシロムの方をちらりと見た。
そして笑った。
頑張れ、と口の形がそう言った。
それからオルカジャックの体をひと押しして、一緒に、崖の下へと落ちて行った。
小石が跳ねる。
魔物の巨体が崖を滑り落ちる。
世界が終わるかのような、派手な砂礫音と共に。
比喩ではない。これで終わりだ。
落ちて行くからだの中で、ユイエルは静かに空を見ていた。
五感を引き裂かれながら、それでもユイエルの目には青い空の色が映っていた。
ユイエルはこの色が好きだった。
願わくば。
彼の目が、色を失いませんように。
自分が居なくなった悲しみを癒す誰かが、そばに居てくれますように。
自分がなりたかったその場所を、未来が埋めてくれますように。
最期に、そんなことを願った。
転生エアプです。よろしくお願いします。