『魔法使いとわたし』
わたしには夢があった。
小さな頃からずっと想いつづけている夢が。
それはみんなが子どものころ一度は考えて、挫折する夢。
——わたしは、空が飛びたかった。
「ばーか。人間が空なんて飛べるわけないだろ」
幼稚園でバスを待っているとき、聡くんはそう言って笑った。
もちろんわたしは怒った。大きな声で叫んだ。
「飛べるもん! お母さんがいってたもん! かなえがいい子にしてたら飛べるようになるっていってたもん!」
けれど、聡くんは、
「おまえ知らないのかよ? 空が飛べるのは魔法使いだけなんだぜ?」
と言ってまた笑った。
その日、家に帰ったわたしはお母さんの胸でずっと泣いていた。
「わたし、空、飛べないの……?」と、わたしはお母さんに抱きついたまま尋ねた。
お母さんは、わたしの頭をやさしく撫で続けながら答えた。
「大丈夫。いつかきっとかなえは空を飛べるわ」
「ほんと?」と、わたしはお母さんの目を見つめた。
「きっとね」と、お母さんはにこりと微笑んだ。
そうしてすっかり安心したわたしはお母さんの胸の中でぐっすりと眠った。
それから月日が流れて、わたしは中学二年生になった。
あの頃よりはちょっと大人になったわたしは、もう誰にも空が飛びたいだなんていうことはなくなった。
友達に夢を聞かれても、適当な夢を語ってごまかしてきた。
もちろん聡のバカにも……。
けれど、空への想いは、今も消えることなく胸に燻り続けている。
ある日の国語の授業で、将来の夢についての作文を書くことになった。
締め切りは一週間後。
授業のあと、わたしは課題用紙にむかってシャーペンを動かしてみた。
——わたしは空が飛びたい。
そう書いた途端に恥ずかしくなって、消しゴムを手にしようとしたら、誰かがわたしの手元を覗き込んでいるのに気がついた。
聡だった。あの頃よりずっと伸びた身長で聡はわたしを見下ろしていた。
「お前、まだ空を飛びたいって思ってんの?」と、聡は意地悪く笑った。
「……ほっといてよ」わたしは紙を腕で隠した。「わたしの勝手でしょ」
聡はしばらくじっとわたしの目を見ていたが、やがて肩をすくめて立ち去っていった。
ほっといてよ、とわたしは小さな声でもう一度呟いた。
その夜、眠っていたわたしは何かの気配で目を覚ました。
電気をつけようとして、気づく。
「え、さとし……?」
窓のそば、雲の切れ間から漏れていた月明かりをバックに、聡が壁にもたれかかっていた。
わたしが起きたのに気づいたのか聡はにやりと笑って、「いくぞ、かなえ」と言った。
「ちょ、ちょっと待って……!」
わたしの頭は疑問でいっぱいになった。
けれど聡はお構いなしとばかりにもう一度言った。
「いいから、行こうぜ」
「だから、どこによ!?」
叫ぶわたしに、聡は悪戯小僧のような笑みを浮かべて言った。
——「おれさ、じつは魔法使いなんだ」と。
信じられない。
わたしは今、聡に手を引かれて空を飛んでいた。
眼下をわたしたちが住む街が流れていく。
「ちょっと目つぶってろ」と聡が言った。
そして、雲を突き抜けた。
目を開けて、わたしは思わず息を呑んだ。
絶景が広がっていた。
どこまでも見渡せる地平線。
今まで見たことのないぐらい大きな満月。
月光を浴びて青白く染められた雲海。
わたしは聡の顔を見上げた。
「今夜のことは秘密だぜ」聡は唇にひと差し指をあてて囁いた。
わたしはこくりと肯いた。
そしてあらためて今のこの状況を噛み締めていた。
——わたしは今、空を飛んでいるんだ。
朝、目が覚めると、わたしは自分の部屋にいた。
あれは夢だったのかもしれない。
いや、きっと夢だったのだろう。だってあれが現実だなんて、とても信じられないから。
でも、結局わたしにはどっちでもよかった。
だって、わたしは空を飛んだのだから。
夢だろうが、現実だろうが、わたしは空を飛んだのだ。
嬉しくて、ベッドの上をわたしはお母さんが呼びにくるまでずっと転がっていた。ごろごろ、ごろごろ。
——わたしは空を飛んだのだ。