誘う囀(うた)
これは、私の父の話です。
若い頃、父はトラックの運転手をしていました。
時間帯は主に深夜。長距離の運転が主で、家に帰るのは日が昇った後という事も日常茶飯事だったそうです。
そして、父は運転する時に良くラジオを聞いていて、中でも一等お気に入りの番組があったと言います。
深夜に流れるそれは、特に番組名のコールは無く、ただ風の音と木の葉擦れの音。そして鳥の囀りだけが流れる不思議なラジオ番組で、
けれど、その鳥の声はいつまでも聴いていられるほど美しい囀りだったと言います。
夜中に長距離を運転しながらその囀りを聞くと、まるで別の世界に迷い込んだような心地になったと、父はよく言っていました。
その日も、いつもの様に父は夜にトラックを運転し、途中でパーキングエリアに寄りました。
トラックを降り、自動販売機で飲み物を買いながら、早くあのラジオ番組が始まらないかとソワソワしていた時です。
父の方へ、1人の男性が歩いて来ました。
洋服姿で初めは分かりませんでしたが、恐らくお坊さんだったのでは……と、父は後になって思ったそうです。
男性は、自動販売機の側を離れようとした父に向かっていきなり、
――『夜中に小鳥の囀りを聞いたことがあるか?』
と聞いたそうです。
深夜に流れるあの番組の事だと思った父は、
――『はい。貴方もあの番組を聴いているのですか?』
と、男性に聞き返しました。
番組の感想を言い合える相手と会えたかもしれないと、父は期待していたのです。
しかし、男性の反応は父の期待したものとは違ったものでした。
――『それに耳を傾けてはいけない』
そう、言ったといいます。
この言葉に父は激怒して、『貴方には関係ないだろう!!』と男性を怒鳴りつけてしまったそうです。
あの時、何故あんなにも腹立たしく思ったのか、未だによく分からないと父は首を傾げていました。
男性は、その剣幕に一瞬怯みましたが、すぐにズボンのポケットから何かを取り出すと、父の手に握らせました。
――『肌身離さず持っていなさい』
そう言い残して、男性は去っていったといいます。
父の手に握らせたのは小さな木の板。板には何やら文字のようなものが書いてあったそうですが、父には読めませんでした。
捨てるのも何となく座りが悪い。そう思った父は、木の板をそのままズボンのポケットにしまいました。
そしてトラックに乗り込み、いつも通り仕事を始めたのです。
しかし、そんな父を異変が襲いました。
異変に気がついたのは深夜2時頃。
件のラジオ番組をつけて、小鳥の囀りを聴きながら上機嫌で運転していた時、父は気づいたのです。
いつもなら高速道路に入っているはずなのに、一向に乗り口が見えてこない……と。
当時、トラックにカーナビはついておらず、現在地や道は地図を頼る他ありませんでした。
辺りは暗く、建物もほとんどありません。
山沿いを走る道路には対向車も無く、等間隔に設置された街灯の光だけがあったといいます。
父は、初めは気のせいだと思ったそうです。
いつもと少し感覚がズレているだけだと。
しかし、その時の父には、街灯の灯りがいつもと違い、何故だか妙に頼りない灯りに見えたといいます。
そして今思えば、あの時点で引き返しておけば良かった。と、父はこの話をする度に口にするのです。
しばらく走っているうちに、景色が変わってきました。
ようやく高速の乗り口かと安堵した父でしたが、それは違いました。
道は先程よりも更に山奥へ。街灯の数は更に減り、木々は月明かりを遮るように大きく枝葉を伸ばしていたと言います。
道を間違えてしまっただろうか? 父は不安になりました。
同時に気付いたのです。
先程からずっとついているラジオ。そこから聴こえる美しい小鳥の囀り。
この小鳥の囀りは、こんなに大きかっただろうか? と。
先程よりも確実に小鳥の囀りが大きくなっていたのです。音量を上げていないにも関わらず。
――『それに耳を傾けてはいけない』
少し前に会った男性の言葉を思い出し、父の背に冷たいものが走りました。
先程まで、父は確かにそれに癒されていました。
けれど、今の父にはラジオから聴こえる小鳥の囀りが、妙に不気味なものに聴こえたのです。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、父はチャンネルを変えようとラジオに手を伸ばしました。
……しかし、小鳥の囀りが止むことはありませんでした。
どのチャンネルに合わせても、小鳥の囀りと木の葉擦れの音が聴こえるのです。
父はラジオの電源を落としました。
それでも、小鳥の囀りは止みません。
何かおかしい。ようやくそう思った父は、一旦止まろうと道の端に寄り、ブレーキを踏みました。
……しかし、トラックは止まりませんでした。
それどころか、どれだけブレーキを踏んでも、ハンドルを動かしても、トラックは止まりもしなければ向きを変えることも無かったのです。
父は混乱しました。何が起きているのか全く分からないまま、トラックは引き寄せられるように山道を進んでいきます。
そのうち街灯は消え、舗装は途切れ土の道に。
どこかも分からない道を、どこかへ向かってひたすら走り続けていったといいます。
そして唐突に、それは終わりました。
トラックが止まったのは、古い家の前。
塗装は剥げ、木は所々腐り、風で簡単に倒れてしまうのではないかと思う程に朽ち果てた家でした。
草木がぼうぼうと生い茂った庭と思しき場所には、木でできたブランコが風で揺れ、軋んだ音を立てていたと言います。
そして、ブランコの上に置いてある1つの鳥籠。
布が掛けられ、中は見えなかったそうです。
しかし、そこからは真夜中の森に不釣り合いな、美しい鳥の囀りが聴こえてくるのです。
車のラジオから流れているものと、同じものが。
いよいよ恐ろしくなった父は、急いで引き返そうとハンドルを握り直しました。
しかし、父は固まりました。視界の端に見てしまったのです。
風に揺れるワンピースと長い髪が、
トラックの外に誰かいる。
父はすぐに顔を背け俯きました。絶対に目を合わせてはいけないと。
こんな真夜中に、こんな廃屋に、人がいるなどおかしいと。
そして、おかしい事がもう1つ。
横目に見えたのは、人影の腰の辺り。
父が乗っていたのは大型トラックです。車高は乗用車よりもずっと高い。
その大型トラックの外に、踏み台もない状態で立った時、人の腰の辺りが見えるはずがないのです。
視界の端にいるナニカが、ゆっくりと動き出しました。
同時に、フロントガラスに降りる影。
トラックの外にいるナニカは、腰を曲げてフロントガラスから父の事を覗き込んだのです。
父は恐ろしくなって、更に深く頭を下げ俯こうとしました。
その時、
父の意思に反して、顔が徐々に前を向こうとしたのです。外にいるナニカの方へ。
体は金縛りにあったように動かず、頭は首にどれだけ力を込めても、否応なしに上がっていきます。
視線は、ゆっくりと足元からハンドルへ。
そして、フロントガラスに垂れた長い髪が見え……。
目が合う……と父が思った次の瞬間。
かすかに、木の割れる音が聞こえたそうです。
気づけば父は、休憩をとったパーキングエリアで運転席に座っていたといいます。
時間は、妙な木の板を渡してきた男性と別れた直後。
父は、しばらくの間呆然としていたそうです。
悪い夢でもみていたのかと思いながら、父はふと気になってズボンに手を入れました。
そこから出てきたのは、綺麗に真っ二つになった小さな木の板。あの男性から貰ったものでした。
あれ以来、父があの小鳥の囀りを聴くことはありませんでした。
後に父が同僚に聞いた時、
あの時間にそんなラジオ番組は入っていなかった。と言っていたそうです。
父の見たソレは、一体なんだったのでしょうか?
もし、男性から貰った木の板を捨ててしまっていたら、どうなっていたのでしょうか?
ただの悪い夢だったのだと、父は言っていました。
けれど、もしソレが夢でなかったとしたら……
ソレは今もなお、美しい小鳥の囀りで人を惑わせ、
その囀に魅了された人を、自身の住む廃屋へ誘っているのかも知れません。
最後までお読み頂きありがとうございます。