ウサギ、家出する。
―― ‥‥貴方の名前はラヴィ。この世界の破片の一つ
遠くで誰かが私の名前をそう呼んだ。
でもその時はまだ『自分』ということを認識しておらず、ただぼんやりとその声を聴いていた。
水の中でゆらゆらと漂うように、少しずつ、『自我』というものが確立していき、気が付いた時にはその声の主の姿は見つけられなくなっていた。
「‥私の名前はラヴィ、なはずだ。…でも、だからと言ってヴィヴィアンと同じなわけない!」
「お、落ち着いてラヴィ。どうしたの?」
おろおろするカサンドラの横で、アードラは少し冷めたような瞳でこちらを見ている。
「カサンドラ。本来なら僕たちには名前なんて与えらえていない。…ラヴィだけだ」
「ア、アードラ」
「‥っ!お前に何がわかる!君だって、元は私と‥っ」
元は私と同じ赤い瞳の色だったくせに、僕と相反する存在だったのに。
…‥あんなにも互いが違う存在であるように望んでいたのに。
その言葉を飲み込んだ。口に出した途端、何かに負けてしまいそうだったから。
(さっきの勝ち誇ったような笑顔が憎らしく思う)
自分の中に眠る、錆びついた曖昧な記憶を必死に手繰り寄せる。
形を成さない記憶の欠片を必死に集めてみでも、誰が付けたのかなんて、思い当たらなかった。
でも、確かに…目が覚めた時誰かが自分を「ラヴィ」と、そう呼んだんだ。だが、それさえも不確かなもので、心は沈んでいく。
「…私の名前は誰が付けたんだろう」
「ラヴィ?大丈夫?」
(…この胸の痛みは気のせいじゃない。)
なんだかやりきれなくて、私はその場から逃げ出した。
「ラヴィ!!」
「‥いいんだよ、ご主人様。そろそろはっきりさせないと」
「はっきりって‥」
「あいつが本当は誰のもので、何の為にここに居るのか。見極めなければならない」
その日、ラヴィは帰ってこなかった。
**
「はぁー‥‥」
「…で、オレんとこに来るってどういうことだよ?」
ここはギルト・シュヴァルの経営する酒場の一角。夜は情報交換が盛んな酒場だが、日が昇り切った今頃は軽食を提供する喫茶店に変わるらしい。
今日のノエルは紫の髪をひとくくりにして、前掛けをしてなら店のカウンターに立っている。
彼は本当に何でもやるんだなあ。
「一応ウサギは草食動物だから、サラダでも食べておけ」
「うん‥ありがとう、ノエル君」
そう言って、菜っ葉類とパンをひとかけ小さな皿にのせてくれるので、それをありがたく頂戴した。
あれから、ウサギの姿で行く当てもなくさ迷っていると、森で野犬に襲われてしまった。
そこをたまたま通りがかりのノエルに助けてもらったのだった。
私はしゃくしゃくとレタスの葉を食べながらため息をつく。落ち込んでても、お腹は減るものなんだ。
「食べるのか落ち込むのかどっちかにしろよ、ラヴィ」
「うん、とりあえずいただきます」
「それにしても、サンドラと喧嘩でもしたのか?」
サンドラと喧嘩‥はしていない。けど、アードラと喧嘩したわけでもない。
ただ、自分が勝手に飛び出してきただけなので、なんとも言えず目をそらした。
「ううん、私‥いや、僕が勝手に嫉妬して‥勝手に逃げ出しただけだ」
「嫉妬、ねえ。‥お前もやっぱりサンドラが好きなのか?」
「‥好き?って…いっても、僕は人間じゃない」
するとぐりぐりと頭を撫でながら彼は笑った。
「何言ってやがる。こうやって思い悩んで落ち込んで‥それが人間というものだろ?」
「ノエル君…」
なんだか、一番欲しかった言葉を言ってくれたような気がする。‥本当にいい奴だ。
「ちょっと…自分の存在について悩んでしまって…」
「…そんなの誰もわからないだろ。わかったら苦労しない」
申し訳ないことだが、ちょっと驚いた。
彼はいつもつかみどころがなくて、何でも器用にこなしているように見えたから…わからないことがないように思っていた。
「あのなあ。…オレだって迷い戸惑い、焦りもする。つかみどころがないのは、そう言う風に演じているから、だ。その方が色々便利なんだ」
「…僕の心、読んだ?」
「見て欲しかったんじゃないのか?」
「そ、そう言うわけでは、‥あ、そうだ。ノエル君は何でも屋でしょう?…ヒューベルトっていう人のことを知っている?」
昨日も結局カサンドラに言い忘れてしまったけれど‥ずっと気になっていることの一つだ。
「ヒューベルト‥ファーストネームと苗字は?」
「え?‥‥さあ、レアルド王子にそう間違われたんだ」
「‥レアルド王子?‥‥ふむ。ちょっと待ってろ」
そう言ってノエルは立ち上がると、店の奥に引っ込んだ。
ややしばらくしてから、手に分厚い本を持って再び登場した。彼が持ってきたのは、金糸の装飾が施され、見るからに上等そうな布で覆われた一冊の本だった。
「‥王室名鑑表?」
「ヒューベルト‥っていう人物だが、実は該当するものが一人いる」
パラパラとページをめくると、ルベリアムという豪華な紋章のページに止まる。
「ルベリアムって」
「ハルベルン王家の苗字みたいなものだ。‥ほらここ。ヒューベルト・ルベリアム・アスク・ハルベルン。」
「‥な、長い名前だね??」
「ルベリアム王家の長男だからだな。アスクは正統なる後継者に贈られる称号みたいなものだ」
ヒューベルトの名前の横にレアルド・ルベリアムの名前が並んでいる。二人は兄弟だろうか?
けれども、兄であるヒューベルトの方には白いバラの花が描かれていた。
「この白薔薇は?」
「それは故人を現す‥まあ暗号みたいなもの。レアルドの兄、ヒューベルトは14歳の頃事故で亡くなったと言われている」
ドクン、と胸が跳ねたような気がする。
「‥死んだ?」
「ああ。…事故の原因は確か狩猟大会の時、何者かが放った弓矢で死亡している。…誤射だ」
「誤射‥って。それ、暗殺じゃ」
むぐぐと口にパンを放り込まれてしまった。…言うな、って言うこと?
「あくまでも、公式的には事故、だ。…そう王室で認めている」
「‥…ちなみに、犯人は」
「弟のレアルドだ」
「…え…?」
そんなのおかしい、と言い掛けたとき、店の入り口のベルがけたたましい音を出して、来客を告げる。あまり上品とは言えないドアの開け方に、ノエルは少し顔をしかめた。
「いらっしゃいませ」
「‥‥ここは、シュヴァル・ギルトと聞く。金さえ払えば何でもしてくれると」
やってきたのは、少年とよべるほどの年齢の男性と、護衛らしき複数の男たちだった。
中心にいる黄色い髪の少年は、フードで顔を隠してはいるが、興味津々で辺りをきょろきょろしている。‥服装からして、どこかの貴族だろうということが一目でわかった。
「金さえ‥という良い方は気になるけど。まあそうだ。‥ご用件は?」
すると、護衛の一人が金がいっぱい入った革袋を大げさな音を立て、カウンターに乱暴においた。
その反動で身体ごと跳ねてしまうのだが、ノエルはひょい、とウサギの身体を持ちあげた。
しょうがないので、一応彼の肩へと逃げ込む。
「金はこれだけある。…10万ギルでどうだ」
「内容によるなぁ。仕事を選ぶ権利はこちらにあるもので」
すっ、とノエルの眼が少し金色の光を帯びる。
例の力はこういうときに使うのか。
「とあるご令嬢の心を射止めたいんだ」
「‥恋のご相談はご自身でどうぞ。うちは恋愛相談所じゃないんで」
「ち、違う。射止めるのは勿論僕がやるさ。‥けれど、仕込みが必要なんだ。彼女の周りを調べてほしい」
ノエルは肩をすくめると、右手で頭をかいた。
「…そんなに難しいご令嬢なのかい?人に頼むものではないだろうに」
「僕は絶対に彼女を射止めて、必ず妻に迎えなければならないんだ!」
「どうしてそこまで?」
「僕の家の為にも」
「なら、正式に婚約を申し込めばいいだろう?それとも、他に婚約者がいるとか?」
少しからかうようなニュアンスでノエルが言うのだが、少年の瞳を見るなりはじかれたように驚いた。
あ、危ない。‥私が落ちるところだった。
「?な、なにか??」
「‥…あ、いや。どこのご令嬢で、お客さんの名前は?」
すると少年はびしっと背筋を伸ばしてコホンと咳払いをする。
「僕の名前はカシル・フラムベルグ。‥ご令嬢の名前はカサンドラ・グランシアだ」
何だって?!
思わずがばッと前のめりなるが、そこはノエルに抑えられた。
「‥…へぇ。そのご令嬢に、婚約者が?」
「ああ!そうなんだ‥僕の目の前で見せつけるようにキスをして、婚約者だとのたまった。…ユリウス・フォスターチめ!」
き・き・き・きすぅーーーー?!!
危うく叫びだしそうになるが、ノエルに押さえつけられているので身動きができない。しかし、ついにはノエルも我慢できなくなったらしく、椅子から立ち上がった。
「ほっほぉ…なるほどねェ。…よーし分かった。少し時間をくれるか?事実と関係性を入念に調べるとしようかな?…フラムベルグ殿、その後についてはまた後日」
「おお!やってくださるか!!ありがとう。」
「ちなみに、君の言う仕込みとやらについては、どんなもの?」
「そ、それはまだ秘密だ!!とにかく彼女のことをもっと僕は知りたいんだ!」
カシルとやらが笑顔になるのを張り付いた笑顔で見つめながら、ノエルは契約書やら請求書やらをテーブルに広げた。手早くサインをいただいて、連絡先等などを確認して、彼を追い出した。
「ユリウス・フォスターチ‥あんの腹黒め…!‥はぁ、全く!!こうもガンガン敵が増えるとは!…ヘルトでも手に余るっているのに」
言いながら、乱暴に椅子に腰かける。
ぶつぶつと呟くノエルに私はうんうんと頷き、ほとんどに同意する。
彼女の周りには。どうしてこうも普通じゃない男性が集まるものだろう?まあ、彼女自体美しい、魅力的だからだろうけど。
「ノエル君!!私は君に協力するよ!!」
「‥そりゃあ助かるなあ。でも、いいのか?」
「構わないさ!こうなったら、アードラもカサンドラも!思う存分僕を心配すればいいさ!!」




