初雪の夜
(頭が朦朧とする…)
大分深く眠っていたのだろうか。
目を覚ました時、窓の外は既に暗くなっていた。月明かりのせいか、ちらちらと小さな黒い影が窓に映し出されている。
(‥雪?この世界でも降るんだ)
「…まだ、寝てろ」
静かな声が聞こえると、大きな掌がカサンドラの目を覆う。
「…ヘルト」
「寝てろって。‥体調が万全じゃないんだろう」
大きな手は頬を少し撫でると、そのまま優しく頭を撫でる。
それがとても心地よく、カサンドラはそっと瞳を閉じた。
(…こうやってもらうのって、もしかして初めてかも)
橋本真梨香に、両親の記憶はほぼ、ない。
と、言うのもあまりに早くに両親を亡くしたせいもあって、誰かに対してぬくもりや暖かさを求めたことなど一度もなく、マリカはいつも人と距離を取って生きてきた。
毎日、人の顔色を窺い怒られないように振る舞い、目立たぬよう、誰の迷惑にもならぬように過ごしてきたのだ。
「お兄様…」
カサンドラの頭を撫でていた手がピクリと少し震えた。
「‥ん?」
「いつも、ありがとう」
「‥なんだ、突然」
「ううん、‥言っておきたくて」
なぜか無償に切ないような、哀しい気持ちが胸を掠め、カサンドラの瞳から一筋の涙が零れる。
ヘルトはそれを指で拭うと、その指をカサンドラの白く長い指が軽く握った。
「私‥ここにこられて、良かっ … ‥」
「…サンドラ?眠ったのか?」
すやすやと安らかな寝息が聞こえてくる。
捕えられた指はしっかり絡まり合い、すぐには外れなかった。
「ここに、こられて…か」
今の言葉がどういう意味を指すのか、ヘルトにはわからなかった。
と、いうよりも、分からないふりをした。
(その意味を一度、認めてしまったら。)
カサンドラに【兄】と呼ばれるたび、ヘルトはいつも何かが壊れていくような気がしていた。
それは、一時の【感情】のようで、時に激しく胸を揺さぶった。
「君は…」
握られた指をじっと見つめながら、ヘルトは小さく呟く。
その指をすくい上げると、そっと唇で触れる。唇はゆっくりと指から手の甲に降り、やがてカサンドラの手のひらへ到達した。
(きっと、心から兄と思って慕ってくれているのだろう。でも…俺は)
カサンドラの掌を自分の掌に合わせて指を絡ませ、言葉に出せない想いを隠すように、その指から手首にかけて口づけをした。
すると、ギィ、と寝室の扉が開く気配を感じる。
「!!」
(俺は何をして…!)
ヘルトはぱっとカサンドラの手を離すと、何度か大きく息を吐いた。
その様子を見て、やってきたアリーの方が飛び上がるほど驚いてしまった。
「!!!あ す、すみませっ…」
「‥‥はぁ。いや…助かった」
「え?!」
「いいや、こちらの話しだ。…後は頼む」
そう言って静かに席を立つヘルトを見て、アリーはつい声をかけてしまった。
「あ、あの!」
「…どうした」
逆光であまり表情が読めないので、今、ヘルトがどういう表情しているのか分からない。
(しまった。つい声かけっちゃったけど?!)
「え。ええと、そのっ!あの!」
「…いい、何もいうな」
「あ‥あっ諦めたら戦いはそこで終わりです!!」
「‥‥え?」
一瞬まずい、と思いはしたものの、それよりもアリーの口は滑らかだった。
「お、おぅ、応援してますから!!私!!お嬢様には幸せになってもらいたいのでッ‥」
「‥‥…」
(い,言ってしまったわ!!)
やがて、しばらく間が空いたのち、ふっと、ヘルトが笑った気配を感じた。
「アリーの言う通りだな。…全く、その通りだ。」
そう言って、ヘルトは振り返らずに退出していった。
その様子を茫然と見送りながら、アリーはその場に座り込んだ。
「ふぅう‥‥よ、余計なお世話だったよね、うん…」
思う存分に反省したのち、カサンドラの容態を確認しに行く。
すやすやと安らかな寝息が聞こえて、ほっとした。
「明日は、雪が積もりそうですね。‥早く良くなってくださいね」
アリーが退出したのを確認すると、カサンドラは布団の中で、思わず片手で自分の顔を蔽った。
少し熱い自分の右手首をにらみつけるように眺めて、ぎゅっと目を瞑る。
「今のは何よ、…ヘルト」
自分の顔が赤く火照っているのは、熱のせいだけではないことを、カサンドラは知っていた。
(…夢じゃない)
夢であった方がいいのか、悪いのか、分からない。
ただ、触れられた指の感触が忘れられなかった。
次の日、またその次の日とカサンドラの熱が下がらなかった。
寝込んでからのべ4日目にようやく熱が下がり、次の日の朝には大分回復した。
そして5日目の朝のこと。嘘のように体調がすっきりとしたカサンドラは、窓の外に広がる光景に驚いた。
「うわぁ…!真っ白だ!」
外は一面の雪に覆われ。どこまでも広がる真っ白い雪原にうっとりと目を細める。
「おはようございます、カサンドラ様。あ、すっかりお元気になられましたね!」
「おはよう、アリー。いつの間にこんなに雪が降ったの?知らなかったわ!」
「一昨日から降り始めて、今日の明け方、やっと雪が止んだんですよ。あ、そろそろ冬用のコートもご用意しなくては!」
いそいそと衣裳部屋へと向かったアリーを見ながら、カサンドラは再び窓の外に眼をやる。
(冬を迎えて‥また、春になる。そしたら、ここに来てちょうど一年になるかな)
カサンドラがこの世界にやってきたのは、まだ冬の名残が残る、初春のこと。
その後も結局まる2か月寝込んだせいもあってか、チューリップ以外春の花を知らないのだ。
「冬、かあ。‥こちらでは初めてね」
とはいえ、根雪になるのはまだ先だろうな、などと考えて、窓をそっとしめた。
「あれ、そういえば…アードラがいない」
辺りを見まわしてみるもの、その姿は見当たらない。
物陰から机の下までくまなく探したが、結局見つからなかった。
「…本当、神出鬼没な奴」
「カサンドラ様、そういえば、レアルド様がお呼びでした。‥目が覚めたら教えてほしい、とのことでした」
「レアルド様?…分かったわ、すぐ向かうから、用意をお願いできる?」
・・
「おはよう、体調はどう?」
レアルドは後光が差すような眩しい笑顔でカサンドラを迎えると、朝食を一緒に取るように促した。
「あ、申し訳ありません‥もしかして待っていてくださったんですか?」
時計を見ると、時刻は既に9時を過ぎている。
(ヘルトはもうすっかり出かけた後のようね。‥‥ちょっと、ほっとしたかも)
正直、ヘルトとはどういう顔をしたらいいのか分からない。
少し気まずいような気持ちのせいか、なんとなく安堵した。
「ここ数日随分とゆっくり寝込んでいたせいか、すっかり回復しました。」
「それは良かった。病み上がりで申し訳ないのだが、また君と一緒に例の場所に同行してもらいたくて」
レアルドの表情は冴えない。
その様子を心配そうに見ながら、力強く頷いた。
「勿論です。‥何かわかりましたか?」
「…そうだな。ユリウス卿のお陰で色々な情報が手に入ったよ」
そう言ってレアルドが手に持って見せてくれたのは、以前ユリウスががファルケンの研究室から持ち出した黒い手記のように見える。
「どうしてそれを‥」
「ユリウス卿から預かった。…話が長くなりそうだし、先に食事をとろう?そろそろ彼も来る頃だろう」
「彼?」
「そう、君のアドバイス通り…」
レアルドが言いかけると同時に、ユイナがものすごくヘンな表情でカサンドラの前に現われた。
「あの、カサンドラ様、レアルド様。…お客様が」
「ああ、来たみたいだね」
「え?」
ユイナの表情が気になり、様子を窺うが、ユイナは更に微妙な表情になっていく。
「??」
「おはよう!カサンドラ!」
爽やかな笑顔で現れたのは、ノエル・シュヴァルと…黒い髪の端整な顔立ちの青年、人型アードラだった。
「?!!」
ぎょっとして椅子から立ちあがるカサンドラを楽しそうに見やりながら、アードラはわざとらしく気取った挨拶をしてきた。
「初めまして、レディ・カサンドラ」
流れるような動作でサッと手を取ると、そのまま甲にキスをした。
「私の名前はアードラと申します。‥以後、お見知りおきを」
「‥あ…あ…あんた」
思わず叫びだしそうな衝動を抑えて、ぎゅっと口を閉ざす。
「はは、驚いた?…先日付けでオレが雇った助手のアードラだよ」
ノエルはカサンドラからアードラを力づくで引きはがすと、にこにこと紹介した。
(じょ、助手ですって?!)
カサンドラは力づくでノエルの腕を引っ張り、ずるずると壁際に引きずってゆく。
「…どおいうつもり?!」
「やあ、今日は随分積極的だね?」
「何考えてるのよ‥」呆れながらカサンドラが言うと、ノエルは耳元で囁いた。
「いやいやー、だって魔法とかそう言うのは専門家がいた方か何かと楽だろう?オレや君じゃちんぷんかんぷんなままだし」
確かにノエルの言う通りアードラなら、あの廃神殿の研究についてもわかるかもしれない。
「うっ‥それは‥まあ」
「そうそう、一応ユリウスも推してくれたし、いいじゃん」そう言って会話に割り込むアードラを見ながら、レアルドは小さく首を傾げた。
「‥?三人は知り合い?なんだな」
やや遠慮がちに言われ、カサンドラは頭を抱えてしまう。
「知り合い、というかなんというか‥、まあ確かに頼りにはなるでしょうけど」
「嬉しいな。そう言ってくれるなんて…」
尚もくっ付こうとするアードラを見かねて、今度は横からユイナが割り込んだ。
そのままノエルとアードラをきっとにらみつけ、カサンドラを守るよう立ちはだかる。
「お嬢様はまだお食事の途中です。お客様の皆様方はどうぞ応接室でお待ちくださいませ」
「ユイナちゃんは有能なメイドさんだね~」
「お褒めに預かり光栄ですわ、ノエル・シュヴァル様」
ぐいぐいと半ば強引にふたりを部屋から追い出すと、再びにっこりとレアルドに向き直った。
「ああ、せっかくのお料理が冷めてしまいましたわ。すぐに温め直してまいります!」
「あ、ああ…」
ユイナが去っていくのを見送り、カサンドラはため息をついた。




