化
男がいる。麻の着物を着流して、腰には手入れの行き届いた刀を帯びている。髷はきっちりと整えられ、決して立派な身なりではないが、心のほうは清廉であろうとうかがえる。
男は切り株に腰掛けていた。静かに視線を落として、物思いに耽っている様子である。刻はそろそろ日も暮れようかという頃合いだが、男は家に帰ろうとする気配もない。
辺りに知られる浪人である。
すっかり人通りの絶えた町のはずれに、ぽつりと行燈の灯がともった。向こうの塀の陰から、数人の男たちが顔を出した。少し急ぎ足で歩いてゆく。腰かける男の前を通り過ぎる寸前で、一人がその姿に気が付いた。
「これは、伊藤殿。今日はこのようなところでいかがしたか」
歩いていた男の一人、最初に気付いた者とは別の男が話しかけた。
「何、することもなくここで座り込んで、今後のことを考えているだけですよ」
「さようか。では」
「待たれよ」
歩き出した男たちの足が止まった。不思議そうな顔をして振り返ると、伊藤が立ち上がっていた。
「夜道は暗い。拙者もたった今帰ろうと思い立ったところですから、共に行きましょう」
「そうか」
男たちは再び早足で歩き始める。
やがて日が暮れた。月のない夜の帳が町を包んでいく。
だれが言い出したか、
「そういえばこのあたり、妖が時折姿を見せるそうな」
「おお、それなら私も聞いたことがありますな」
「何でも様々な姿に化ける猫だそうな。人にも化けるのだろうか」
「おお、怖い怖い」
「しかし、伊藤殿がいれば問題はあるまい」
のう、と一人が振り向くと、伊藤は、はははと笑い、
「拙者の腕前などそう大したものではござらぬが、気休めぐらいにはなりましょうな」
と言った。誰も深刻には考えていないようだ。
しばらくの間、くだらない駄弁を繰り広げていたが、やがて一人が言った。
「この切り株は、先ほど伊藤殿が腰かけていた切り株ではござらぬか?」
確かにそこの風景は町の外れ、森との境にある切り株の前に他ならなかった。提灯がその周囲を照らし、それを手にしていた男が怯えたように声を漏らす。
「確かにそのように見える……はて、道に迷ったか」
「そのような馬鹿げたことがありましょうか。これはもしかすると、妖怪に化かされているのかもしれません」
「ほう、狸が木陰に隠れておるか」
「いえ、そのような生易しいものではないでしょう」
「よもや化け猫というのではあるまいな」
「なんと。それこそ馬鹿げているというものでござろう」
不意にうすら寒い風が男たちの間を吹き抜けた。
「伊藤殿、どう思うか?」男の一人が訊ねる。
だが、しばらく待っても答える声がない。一人がもう一度問いかけるが、やはり風が吹き抜けるばかり。
次の瞬間、前を照らす灯が消えた。鈴のような音が耳に残る間に、提灯の下半分が地に落ちる音が重なる。
「何事か」一人が狼狽える。
「辻斬りではあるまいな」
「まさか。我らを襲う理由があるまい。それに、いかなる作法があって提灯を切るか」
「ということは、やはり無法の妖……」
「そのようなことがあってたまるものか」
「だがしかし、現にこうして襲われているではないか」
などと口論している間に、誰かが大きな声を上げた。それは呻くような叫び声で、同時に衣を断つ刀の残響も耳に届いたが、光の無い夜道では誰が斬られたかもわからない。残る男たちは一斉に怯えた声を上げた。そしてさらにばさり、ばさりと彼らは斬って捨てられていく。断末魔が森に吸い込まれていった。
最後の一人となったと気づくと、その男は逃げだした。踵を返して一目散に道を駆けていく。だが、十歩と進まぬうちに切り株の根に足をとられ転んだ。聞き苦しい声で喚きながら地を掻き、這って進もうとする。それを、後から追っていた何者かが蹴って転がした。
「まさか伊藤殿か!? 何故なのだ! まさか貴様が化」
そこで男の声は途切れた。
伊藤は刀を収めた。
伊藤は屈みこみ、足元の遺骸をしばし見聞して、
「化かされておったのは、村人と妖のいずれの方だったのだろうな……いや、拙者とて本当に一介の浪人か、これではわからんわ」
しみじみと呟いて、その場を立ち去った。
翌朝、町の者が通りかかった時、切り株の周囲には鴉が集って大きな猫の腸を突いていたという。
こういう雰囲気の小説は前から描きたいと思っていたので。