忘れない日々
俺の名前は高畑淳平。俺は今物凄く人生を楽しんでいる。彼女のさつきの両親には挨拶を済まし式をあげるだけ、仕事の方は来月にやっと希望していた部署へ異動する辞令が出ている。このまま上手くいけばいいな。
「高畑君」
おっと、部長が呼んでいる。
「はい?」
「今日はもう上がっていいぞ。待たせちゃいけないからな」
そう、今日はさつきに婚約指輪を渡す日だ。
「すいません。ありがとうございます」
「気にするな。楽しんでこい」
「はい、お言葉に甘えて」
ちょっと早めに会社をあがらせてもらい、丸の内から待ち合わせ場所である駅まで行く。部長のおかげで余裕を持って着けそうだ。駅に着くと二十分程早く着けた。何度か人が駅から吐き出された後、さつきはやってきた。相変わらず彼女はわかりやすい。なんて言っても日本人とは思えない見た目の美人、正直言って俺には勿体無いくらいだ。告白された時はイタズラかと思ってしまったが嘘じゃないとわかるとアゴが外れてしまうほど驚いた。その時のオロオロとして普段は見せない彼女の姿は可愛かった。それからはいつも通り楽しく過ごした後、隅田川のそばを何気ない話をしながら二人で歩いた。
「今日も楽しかったね」と彼女はニコニコとしている。
「そうだね」自然と俺も笑ってしまう。
「実はね、今日伝えたいことがあるんだ」
「えっ?」一瞬彼女の顔に影が差し込む。
「心配しないでそういう話じゃないから」
「なんだ、良かった。じゃあ、話って何?」
「ごめん、結構待たせたかな?仕事も落ち着いてきたからさ」彼女に指輪を見せ、頭をさげる。
「えっ」先ほどとは違い彼女の頬が赤く染まったのが見えた。
「さつき、結婚して欲しい」
しばらく沈黙が流れた。あまりにも長くて不安に思い顔を上げてみると
彼女は顔を覆い泣いていた。
「!ごめん」
「ち、違うの。これはね、嬉し涙なの。あんまりにも嬉しくてね」彼女は涙を拭いながら
「ほら、嬉し涙は甘いの」と口元に流れた涙を恥ずかしげに舐めた。
「そうか。それは良かった」
それから俺たちは会社に報告したり、両親に報告したり。更には式場の準備や書類関係で二か月があっという間に過ぎていった。
小さなアクシデントがあったが、式も終わった。
そして新婚旅行はハワイへ四泊五日で行くことにした。
そして、四日目の夕方。さつきと一緒に南太平洋へと沈んでいく太陽な眺めながら話した。
「楽しかったね」
「そうだな」
「また来たいね」
「ここだけでは無く色んな場所に行こうな」
「それもいいね。もう今から楽しみ」
「全く、気が早すぎるよ」
「えへへ」
こんな会話をしながら一日が終わった。
数週間後、さつきが体調を崩したので病院に行くと、妊娠中だということが分かり喜びを分かち合った。そして出産をし、新しくかえでという可愛い可愛い女の子が家族に加わった。
そんな幸せな日々を過ごしていた俺だったが、会社の健康診断でガンが見つかった。精密検査を受けたが現代の医療では治すのが難しい位置にあり、薬で頑張っても余命が一年半だろうと言われた。目の前が真っ暗になった。その後は何も考えられず雨が降っているのに傘もささずに帰った。
家に帰るとさつきが濡れている俺を見て驚いたが、なんでもないと言いごまかした。こんなこと言えるはずがない。人生これからなのに。
だが、隠し通せるものでは無い。それを説明すると、さつきは
「大丈夫。きっと治るわ。」と微笑み励ましてくれた。
それからは実家に帰り治す為に入院した。さつきはかえでの世話をしながら毎日病院に来てくれた。
そうして日は過ぎて一年が経った。一年の間にかえでは大きくなりパパと呼んでくれるようになった。娘の成長が毎日聞けて嬉しいのだが、日に日に増していくガンと痛みと抗ガン剤で髪の無くなった頭をみて同時に俺の生命は長く無いと感じた。
そんなある日担当の山中先生が一時退院を許してくれた。最後に家族での思い出を作るといい。という事だった。三日間しか無いが旅行に行きたい。新婚旅行であったが旅行をするという話。かえでもいる家族での最初で最後の旅行。行き先は京都となった。もう飛行機に乗れるほど体力も残されていなかった。
痛みに耐えながらの旅行。辛かったがそんな表情は見せられないから頑張った。写真も沢山それはもう山のように写真を撮った。撮り忘れることを恐れるように。それでもやっぱり旅行は楽しかった。
旅行から帰ってくると痛みが更に増した。モルヒネを打ってどうにか会話が出来るくらいになってしまったが、もうしょうがない。未練は山ほどある。旅行をもっとしたい。かえでが成長するのをさつきと見たい。さつきともっと色んな事を話したい。生きたい。だがその全てが叶わないという事は分かっている。人っていう生き物は貪欲なんだな。そんな事を考えていた。
そうしているうちに深い深い沼に沈むように意識が混濁していった。
私の名前は高畑さつき。私の夫の淳平はガンである。日に日に弱まっていく姿はとても見ていられるものでは無い。だけれでも惚れた者の弱みなのか。やっぱり離れたく無い。そして今日も看病する。
そんなある日。彼に三日間程の一時退院の許可が出た。これが最後になるらしい。そんな時彼はこう言った。
「旅行に行きたい」
新婚旅行での会話を思い出す。あの頃は幸せだった。最後になるけどかえでもいる家族旅行。忘れられない物になりそう。
京都での淳平は辛そうだった。痛みを我慢しているのが何となく分かる。でも、旅行だからか楽しそうに笑っていた。そんな彼を写真で沢山撮った。決して忘れないように。
旅行から帰ると、ガンの痛みは更に増したらしい。痛み止めが処方されたが副作用で淳平の起きている時間が短くなった。今日もそんな彼を看病していた。
「お父さんはどうして寝ているの?」かえでにはまだ伝えていない。淳平が短い覚醒時間でこう言ったからだ。「かえでには伝えなくていい。まだ死というのを理解出来ないだろうし。かえでを頼んだぞ。俺の事を覚えていなくてもいいが、毎日幸せだと思えるように育ててくれ。出来れば俺もそばにいたかったが、出来ないしな」泣いてしまいそうだった。だけど、無理して彼が笑っているのに泣けるわけが無かった。
そんなある日彼は息を引き取った。余命宣告から約二年、梅雨明けがすぐ側の七月の晴れの日だった。
葬式も済んで彼がいなくなっただけの日常に戻った。なんだか心がぽっかり空いてしまった無機質な日々を過ごしていた。
かえでが三歳の誕生日。彼の元同僚からビデオが届いた。仕事が終わった後かえでと一緒にそのビデオを見た。そこには旅行前の病室にいる淳平が映っていた。
「かえで三歳の誕生日おめでとう。さつきもかえでも元気にしているか?もうすっかりお姉さんだな。これからもお母さんに迷惑をかけないで頑張れよ。かえでが良い子でいたらまた会いに来るよ」
ビデオはそこで終わっていた。かえでは久しぶりに見たお父さんに大喜びだったが、私は涙が止まらなかった。
更に数年後。かえでが小学校の入学式の日、彼のビデオが届いた。前と同じ病室で撮られてものだった。「かえでが良い子にしているからまた会いに来たぞ。元気にしているか?これから勉強とかで大変になるが、お母さんを助けてあげてな。あともう一回だけ会いに来るよ」
最後のビデオは中学校の入学式だった。ただビデオデッキが無いからDVDへダビングしてから見た。
「さつきとかえでも元気にしているか?お父さんだぞ。かえではさつきに似てビックリする位の美人さんになったかな?ごめんな。一緒にいてやれなくて、お父さんも一緒にいてやりたかったよ。でもな、人にはどうしても出来ない事がある、諦めなければならない事もある。しかし、それに挑む事は自由なんだよ。諦めてダメになるなよ。これからも頑張れよ。さつき。相変わらず君は綺麗そうだな」
画面の中で淳平が嗚咽を漏らす。
「ごめんな、一緒にいてやれなくて。子育てとか手伝ってやれればよかったな、旅行で色んな所を周ろうと約束したのに守ってやれなかったな。でもな、俺は君と結婚出来て本当に幸せだったよ。ありがとう。俺は君の記憶に残れるような男だったかな?迷惑をかけたけど本当に本当に俺は幸せだった。ありがとう。これでもうお別れだ。俺はさつきとかえでに会えて本当に幸せだった。ありがとう」
映像が終わった。部屋は泣き声が支配していた。
「淳平。私もあなたと会えて、結婚出来て幸せだったよ」
この涙は酸っぱかった。