いつの日か、きっと
「もう、五十年は前の話になる。俺が、親戚らと一緒にジオから出てきて、まだ鼻水垂れのガキの頃だ。……その日も、今日みたいに寒い日で、俺は工場の兄貴分と魚を釣りに川を上った。一匹の走竜に二人して跨って、フォリオ河をな。……で、あちこち釣り場を変えてる内に、洞窟を見つけたんだ。
……探険をする事になった。
その中で俺達は迷い、なんとか洞窟を出られたモノの、肝心のどこに出たのかがわからねえ。夜は冷えた。夜の間は木のうろで竜と一緒に丸くなって、朝になったら、霧が出た。でも夜よりはましだ。俺達は動いた。なにより腹が減っていた。
………………水の音が聞こえた。
どこからどこへ流れる川かもわからなかった。でも、辿り下りればフォリオ河につくんじゃないか。家に帰れるんじゃないか。少なくとも、水が飲める。今考えりゃ馬鹿な頭だが、それしかなかった。走った。林を掻き分けて、山の中を。走竜にすら乗っていなかった気がする」
「……俺達は見た。林の向こう、立ち尽くした足下より少し下がった川から立ち込める湯気の中、小さな川を、さーっと下って行くおかしな生き物の群れを。丸くて、細長くて、黒い、魚の背中みたいなのが、こう、何匹か列になって。静かに川を泳いでたんだ」
「………………真ん中辺りの一匹に、人が乗ってるように見えた。魚の背中に立って、霧の先を覗き込もうとしているような、怪しい男が。ローブを着て、頭にも布がはためく帽子をかぶって――」
お爺さんは、そこで笑ったように見えた。
「……それが、異様に怖くてな。付いて行ったら、どこか知らない場所に連れていかれっちまいそうで。声が出なかった。見つからない様に、しばらくその場に隠れてた」
「ほぇ〜、なんだか凄い、凄いですね。私、ドキドキしてきました」
腕組みをしてそれを聞いていたディンは、隣でパルムシェリーが感想を漏らした隙に周りの様子を盗み見た。
おかしい、と思ったのだ。違和感があった。老人の話にではなく、それを語る彼が纏う雰囲気に。あるいは、洗い物をしながらそれを聞いているもう一人の老人の背中に、上手くは言えないが、それが決して『ドキドキするお話』などでは無いのだと。
そんな疑い深い冒険家が戻した視界の中で、意外な事に、老人は髭の奥の口を蠢かして――それから小さく不器用に、今度ははっきりと声に出して笑って見せた。
「ふは。ふはは。……多分、俺達も、そうだったと思う。太陽が出るまでその場にへたり込んで、それからやっと、川沿いを下り始めた。運良く、その川は見慣れた積出港まで俺達を導いてくれた」
「よくぞ御無事で」
指先で小さな拍手をしながらかつての冒険を讃える金髪少女に、語り部は微笑み、少し温くなった飲み物を髭の間に流し込んでいく。
パルムはうんうんと頷きながら、彼が見ただろう風景を頭に思い描いていた。
が。
「……で、この玩具がその河の主ってのはどういうことだ?」
お爺さんの冒険譚でほんわかと温まった少女の胸に、まるで高い所から冷や水を注ぐようなディンの声は隣から。
しかしそんな無粋な物言いにも、お爺さんは、むぅと唇を尖らせたパルムの正面で頷いて。
「街に戻った俺達は、その話をあちこちでした。ジオから来た余所者共はあっというまに悪ガキの人気者になった。調子に乗って話す度に、ガキだった俺達は思い出を少しずつデカくしていった。…………《フォリオ河の主》ってのも、そん時にできた言葉さ。んで、その内噂は首都まで歩き出し……その《河の主》はちょっとした流行になった」
まるで出過ぎた果実茶の様に、華やいでいた老人の笑みが苦みの強い自嘲に変わった。
「…………ちょうど、アレリアが変わる頃だった。林業は廃れていって、俺達が駆けこんだ積出港もすぐに潰れた。切り出した場所に果樹園が出来始め、首都まで自走車が走り出し、アレリアは避暑と果物の、風光明媚な川辺の街になろうとしていた。
…………政治家と、商売人と、思惑が合致した。
俺達が見た《変な生き物》はうまい具合に膨らんで、《伝説のフォリオ河の主》になり、土産なんかがたくさんつくられた。三十年は前の話だ。
…………伝説は観光客だけじゃ無く、冒険家と学者を呼んだ。
《伝説》は、当然否定された。元が、膨らみ切った作り話だからな。
そんな生き物は、どこにもいないと。
どこかの誰かが、流木か腐った死骸を見間違えたんだろうと。
これが、二十年位前だ。……首都から来た新しい行政官が、遺跡に目をつけ、冬場の観光に使おうとしていた。
街から、《河の主》は急激に消えた。『遺跡の正しい歴史』に、『作り話』の街は相応しくねえと、全く正しい判断だ。今となっっちゃあ《河の主》は老人の頭には恥ずかしい思い出話で、若ぇ奴には馬鹿な老人共の笑える話さ」
目元に皺を寄せながら髭の中で笑うお爺さんに、パルムはふるふると首を振って。
「笑い話だなんて、そんな事はありません」
感情が先んじて上手く言葉にならないのが、もどかしかった。
だってそれは、人を呼び、お金を呼んで、一つの街のとある時代を作った物語なのだ。当人たちが思い出として笑い合うことは大いに結構だけれども、結末だけを見た他の誰かが馬鹿にして嘲笑していいものじゃない。
例え滑稽に思える結末でも、それは必死に頑張った情熱の物語であり、例え悲しい幕切れが訪れたとしても、そこに至る旅路に響き合った笑い声を、誰が無視していいものでしょうかと。
しかし、言葉に詰まり頬を抓った少女の隣、相棒は一人遠くにいるかのような低い声で。
「で、なんで爺さんはその玩具を川に流してんだ?」
またしても胸の火に水を掛けられた少女は、黒髪の相棒に向けて全力の脹れっ面を作って見せた。
「……何だよ?」
「……」
「何だって」
ディンは、ぷくーっと膨らんでいるパルムの頬を両手でぷひっと押しつぶした。
「……ひんはんをひほへなひ」
「ん? なんだ?」
「う〜、はなひへふははい。……っもう、ディンさんの人へなひ――ん〜っん〜っ!」
「どうした? 自慢の発音が悪いぜ、相棒」
意地悪な笑みを浮かべたまま両頬をうにうにと弄んでくる少年の腕をべしべしと叩きながら、パルムが必死で抗議を続けていると。
「ふふ、長い話で退屈よねぇ。どうぞ、新しい紅茶が入ったわよ」
と言ったお婆さんが、テーブルの真ん中に茶器を置いてお爺さんの隣にゆっくりと腰を下ろした。
その間もずっとディンを睨むように見ていたお爺さんは、頷いて。
「……何年か前に、その時の兄貴分が死んだらしい。河の主の伝説があった時は行政官まで務めた人だったが、アレリアに居場所がなくなってからは首都に行ったと噂で聞いた。……作り話の伝説を知ってる奴はいても、それを見たのはもう、俺だけだ。だから、まあ、弔いのつもりで、流すことにした。毎日一つずつ、俺が死ぬまで。あの日俺達が見たもんを、今度こそ、あの日見た通りに造ってな」
老人の長い話が終わった時、パルムの頬を掴んだままだったディンは、目の前の少女が声を出すことも無く青い瞳を揺らしているのをしばらく見つめ、それからそっと両手を離し、くしゃくしゃと黒髪を掻くと。
「……ありがとな。突然訪ねてきて、悪かった」
と言って、相棒に『いくぞ』と言って席を立った。
胸に戸惑いを残したまま、静かに微笑むお婆さんと席を立とうと杖を手にしたお爺さんを振り向き振り向きしながら相棒の背を追ったパルムシェリーは、振り向きざまにディンのローブの裾を引っ張ろうとして。
「ディンさ――ぐばっ」
と、少年の背中に思いっきりぶつかってその場に尻もちをついた。
そして、
「いったぁ……」
と目の前に火花を飛ばした少女が、抗議をしようと顔を上げると。相棒は詰まらなそうな顔で振り向いて。
「……なあ、婆さん」
「あら?」
と微笑んだお婆さんに、髪を掻きながら。
「マサノの実で果実茶を作る時は、種を抜いて皮を混ぜた方が良い」
ジオの森で育った少年の唐突な助言に、お婆さんはきょとんと。
ディンは、足元で尻もちを着いている金髪娘に手を伸ばしながら。
「婆さん、あんた運が良いぜ。このちっこい女は、世界一の冒険家になる予定なのさ。だから、その内、いつかきっと、こいつが、婆さんあんたの願いを叶えてくれるさ。種を抜くと渋みは弱くなるが、その分爺が長生き出来る。あんたも、多分その方が良い」
身体を椅子に落としたお爺さんとその隣でにこにこ笑顔のお婆さんの方を見ないままにぼそぼそとそんな事を呟いて、相棒を助け起こしたディンはすたすたと小屋を出ていった。
「ちょ、ちょっとディンさん、何ですか、今の?」
慌ててぺこりと頭を下げて先を行く背中に駆け寄り、その腕をくいくい引っ張るパルムに、ディンは。
「ん? ああ、マサノの種にゃ、ほんのちょっと毒があるんだ。老人や子供はなるべく食べない方が良いってことさ」
「ほほう、成程。そうなのですねって、そうじゃないです。そうじゃなくて……えっと、えへへ、私が世界一の冒険家であるという真実を、どうしてお婆さんに? お爺さんにではなく? それに、お婆さんの願いとはなんですか? 彼女が運がいいというのは?」
矢継ぎ早の質問にディンは一端首を傾げて、それからせっかくタダで拾った土産を小屋に置いて来てしまった事に気が付き小さく舌打ちをしながら。
「あの木、匂いがしたろ?」
パルムは目をぱちくり。そう言われれば、確かにあの木からは何とも言えない不思議な匂いがしたのを思い出す。
「ええ、はい」
ディンは頷き、近くの林で草をはんでいたグルに足を向けつつ。
「あの爺さんは、ジオからの移民だって言ってた。で、あの匂いは、ジオで流行ってる香水の香りだ。主原料はスエの未熟な蔦の煮汁、その蔦で花環を作ったときに持つ言葉は編み方によって三つある。『未来』と『希望』と『真実』。じいさんは立ち上がるのも大変そうだった。毎日流してるなんて言ってたが、あの足で河原まで歩いて行くのはおっくうだろう。爺が作って、婆さんが流す。二人でやってんじゃねえかなって思ったんだ。だから、アレは爺さんの言う様なただの弔いじゃねえ」
鐙に手と足を掛けたディンは『掴まれ』と、金髪娘に手を伸ばしながら。
「未来も希望も真実も、死んだ奴には関係ねえだろ。そもそもジオで葬送の花環は一つだけだ」
「成程成程、そうですね」
笑ったパルムシェリーの尻をグルの背の籠に押し上げて。自らもよいしょと乗り込むと。
「だからきっと匂いを付けたのは婆さんだ。これは嘘じゃないんですよって、アレを見ても笑っておしまいにしないどこかの誰かに、見つけてほしかったんじゃねえか?」
肩を竦めた相棒に、パルムはくすりと微笑んで。
「成程成程、それが本当なら、どこかで聞いた様な話ですね。果たしておばあさんはいつからそんな匂いを付け始めたのでしょうか?」
ディンは笑った。カラカラと。
「どうだろうな。まあ、この街じゃジオ一番の渡し屋と王女様の伝説を聞いてても、おかしかねえ。行くぞ、相棒。どっかその辺掴まってろ」
「はい。では参りましょうか、相棒さん」
元気よく応じて、パルムはディンの腕に掴まった。いつの日か、あのお婆さんが私達の冒険譚を読んだら驚くだろうなあとわくわくしながら。