6月の話
いつ、あの男がここに訪れるようになったかを、私は思い出す事が出来ない。
ただいつも、いつも、いつも、毎日、彼は私に花を届けてくれるのだ。
彼の素性など、私には知る由もない。
ただ、花を届けてくれる男、それだけでよい。
森も薄暗い、どこか鼻に残る湿った空気、明るく日の差す場所でもなく、木々が生い茂り、沼に近い。
そんな湖に私は住んでいる。
そこへ、彼は毎日、足を運ぶ。
湿って足にまとわりつく湿気を払いながら、花と、外の世界の話をもって、やってくるのだ。
私の体はとても大きくて、自分でも動かすことすら億劫である。時折森の中をはいずることもあるが、動く度に何かを破壊したり、へし折ったり、殺してしまったりする。
その度に私はなんともいえない心持ちになって、無駄に図体の大きな自分を責めるのだ。
この長い長い蛇の胴体は本当に厄介なのである。
私は俗に「蛇女」と呼ばれる種類の種族で、随分長い事この世界を生きている。
蛇の長い胴体の上に、人の体がついているのだ。そういう風に進化したのだと、彼の男より聞いた。
母親の顔は覚えていない。彼女はこの場所に卵を産み、そうしておいて行ってしまったからだ。
私達はこうして繁殖する。
母が産み、地熱で卵がかえる。
その子はその場所を縄張りにして、生きていくのだ。
だから、この近辺に蛇女はいない。
生息範囲が重なってしまうと、争いが起こってしまう故だと、そう聞いた。
それまでは自分のことなどまったく興味などなかったのだが、来るたびに男がそう話してくれるから、私は、私を知る事が出来た。
吹雪くように降り立ってくる雨を頬に体に受けながら、そんな事を思い出していた。
夕方頃から降り始めた雨は、随分と強く、森の木々を揺らす。
耳に残るギッシギッシと揺れる幹の音が、その激しさを伝えているだろう。
沼に浸した体も随分とつめたいが、私の体を暖めるものなどここにはない。
あぁ、そう言えば言っていたな、雨が降ると。
本当に彼は何でも知っているのだと、私は少し微笑みを浮かべた。
それは昼のことだった。
「今日はご機嫌ですね。」
男の声に私は、目を細める。
そんな事はない、と答えたかったが、表情に出てしまっていたのなら仕方ない。
男がこの場所に訪れる時間が少し早かったからだ。
こうして会話を続けていられる時間が増えた事が、嬉しくてたまらない、それが端々に出ていたのだろう。
「…外の話を、たくさん聞けて、嬉しいのです。」
そうして答える私の返事は、あの人にどんな風に感じられただろう。
男は学者だと随分前に聞いた。身なりは余り構っていないのか、大体は新しくはない服をきている。
ただそれが薄汚れているかと言えば、そんな事はなく、深い目元を隠す帽子と一緒に、私のところへとやってくる。遠くから足音が聞こえると、私はいつもそわそわして、いてもたってもいられなくなるのだ。
柔和そうな目元、帽子を脱いだ時にあらわれる柔らかな茶色の髪。
その全てが私にとって、喜びである。
今日の花は、紫陽花であった。
柔らかな紫の色が、目に映る。この暗い場所には不似合いなぐらい、美しい青色をしていて、私は、自分の居場所を思い出して、少しだけ気分が沈んだ。
「…紫陽花…綺麗ですね。」
私がそう言うと彼は顔をあげて、はい、と微笑んだ。
「紫陽花って綺麗ですよね、本当にとても美しい。僕、とてもすきなんです」
そうやって語る彼の表情は柔らかく、私はより一層彼と己の違いについて考えこんだ。
紫陽花には確か花言葉があったはずだ、そう思考をめぐらせる。
「そうそう、明日は雨が強いそうです。今日の夕方から降るようですから、気をつけてくださいね。」
森に住む私にそういう男に、大丈夫ですよ、丈夫だけが取り柄です、と笑うと、随分と困ったような表情が見えて、思わず同じように見返した。
「だって、女性一人でこんな場所にいるなんて、心配ですよ。もし余りに雨が強くなったら、僕の家が森の入り口にありますから、来てくださいね。」
そういってくれるが、彼の家には私の体は入らないだろうし、そこへ行く前に、それは色々なものをなぎ倒してしまうだろう。
私にはそれが辛い。
彼もわかっているだろうが、申し訳ありませんが、と付け足して、何度も何度もそう言って、それでもまだ心配そうに帰っていったのだ。
そんな事を思い出しながら、私は雨に打たれた。
紫陽花の花言葉、随分昔に、何かで見たことがある。
美しいが冷淡であるとか、移り気だとか、そういう意味を思い出す。
真っ先にいつも、悪い方ばかり思い出すのは私の悪い癖だ。
吹きすさぶ風が飛んできた木の破片を頬に投げかけてくる。
尻尾の先ではたいてよけるものの、こんな状態なのに、今日の事ばかり考えているせいで、時折体に破片が当たる。
痛いとは思わないし、人より丈夫な皮膚をしているので、怪我もしないが、やはり面倒くさいし、出来ればあたりたくはない。
そう思いながら尻尾をフル活動させていたところだった。
「大丈夫ですか!」
突然飛び込んできた声に、私はびっくりして顔をあげる。
レインコートを着込んだ彼が急に飛び出てきたのだ。
この酷い雨の中、人の身で随分と歩きづらかったろう、彼こそ大丈夫だろうか、そう思う私の心と裏腹に、ミシミシと酷い音がした。
吹きすさぶ風に押し倒された大きな幹が倒れてこようと彼の上に大きな影を作る。
私は咄嗟に彼の体に尻尾を巻きつけ、既に雨で泡立ち、濁って沼のようになった湖の中に引き込んだ。水の中は、それほど雨の影響を激しくは受けないからだ。
そうして、沈んだ彼の体を追うように、上半身も、泥に近い水に沈める。
にごった水の中、彼の姿を捉え、ゆっくりと水上に上げようとするものの、ふと、頭を掠めた。
「このままここで」
このままここで、こうしてしばらくしていれば、彼の命は露と消えるだろう。
今はこうして私と一緒に話して、毎日戯れを届けてくれる彼だが、人は移り気だ。
いつかー来なくなってしまうだろう。
そうならば、いっそ。
そんな思いが一気に胸に去来した。
今の今まで考えないように、深い戸棚の奥にしまっていた心が、激しい雨と一緒に噴出してくる。
そうしたら、私のものになるのに。
そうしたら永久に私の心に居てくれる。
優しい、優しい貴方を思い出としておいておける。
そうー思った。
…本当にそれでいいの?
投げかける声に誰かがそう返す。激しい雨の音に混じって、確かに私に投げ返してくる。
私はー…。
私は、何が好きなのだっけな。
何が、大切なのだっけ。
望みどおりになるあの人?
初めてここを訪れた男は、今までの人間のように私の姿を見て逃げたりはしなかった。ずっとここに居るのだと、そう聞いた男は毎日たわいもない話をしにきてくれた。
森の薄暗い場所に住む私が、花に興味を持って居ることを聞き、外の世界の太陽が降り注ぐ場所の花を、毎日持ってきてくれるようになった。
そんなあの人が、私は。
「ありがとうございました、僕が結局迷惑かけただけになってしまいましたね」
泥だらけの彼の顔を見ていると、私の胸がチクリと痛んだ。
私は私の中の、誘惑に勝って、彼を水の中から引き上げたが、本当にそれでよかったのか、今はわからない。
いずれ来なくなるこの人のことを思うと、今も、深くて温い胸の内が溢れ出そうになる。
「いえ…その、ありがとうございます…こちらこそ、その、心配していただいて」
私のことを心配してここまで来てくれたこの人に、私はなんてことを考えてしまったんだろうと、自己嫌悪の雨の中、彼を風からかばうように、胴体を伸ばした。
「でも、良かった。貴方が無事で」
そうして笑った彼の顔に、私ではどうにもならない程、暖かいものが心の隅から隅までいきわたって、広がっていくのがわかる。
この笑顔のためなら、そんなもの、どうでも良かったのに。
気まぐれであっても、そうでなくても、私とあの人が今ここに居ることが、私にとっての幸いなのだ。
紫陽花の花言葉をもう一つ思い出して、私は、濡れた体をそっと相手に寄せた。
辛抱強い愛情―…
先のことはわからないけれど、私はこの人の優しさの傍に居たい。
辛抱強い愛情が、いつか届くその日まで。




