閑話 とある警護兵たちの驚愕②
彼は城の中を走っていた。己の全力を足に懸けて走っていた。
彼の心中にあるのは、ある女性の姿。僅かに恥じらいながらも、毅然と立つ普通の女性。
その女性のために、彼は叱責覚悟で、城内の一般的な隠し通路を後宮に向けて走っていた。
彼の名はジーク。ガルディナ帝国皇帝の私室の警護を任されている内の一人だ。本来なら、人を呼び出すのに警護兵であるジークが警護を離れ、自ら呼びに行くというのは、緊急事態でもない限り許されることではないのだが、気づいた時には身体が勝手に動いていたのだった。
なるべく人目につきにくい道を選びつつ、後宮までの最短距離を頭に思い描く。それでも、すぐに着くというわけにはいかず、苛立たし気に舌打ちを鳴らすと走る速度をあげた。
走りながらジークは考えた。何故自分が名前すら知らない側室のためにここまでしているのかを。
皇帝の私室から出てきたのが仮に、自分が想像していた側室ならこんなことをしたのかどうか…。
きっと、答えは否だ。
彼女たちはプライドが高く、一介の警護兵如きに礼は言わないはずだ。
けれど、あの側室は礼を言った。
それが衝撃的であったのは確かだ。
それに、あの側室は昨夜の情事で辛いはずの身体をおくびにも出さず、微笑みさえ浮かべていたのだ。
皇帝の噂が本当であれば、起き上がることさえままならないはずなのに、何があったにせよか弱い婦女子が誰の手も借りずに気丈に振舞う姿は誰もができることではない。
きっと、そんな側室だったからこそ自分はこうして走っているのだろうとジークは思うのだった。
そうこうしているうちに、後宮の入口が見えてきた。城内にあるとはいえ、さらに囲いのある後宮はさながら巨大な鳥籠のようだ。
色とりどりの女性の集まる鳥籠はまるであの側室には似つかわしくないと微かに思うジークは、後宮の入口である巨大な門に立つ門番の女性警護兵に声をかけた。
「すまんが頼みがある。こちらで側室の護衛を務めるリンクスという者を呼んでもらいたい。急を要するんだ!」
息も整わぬうちに口早にそう伝えると、ジークの話を聞いた警護兵が訝し気に口を開いた。
「…そんなに慌ててどうなさったんですか?リンクス殿が何かしたんですか?」
門番をしていた警護兵の女性はどうやらリンクスという者を知っているようだった。
あまり事を大袈裟にはしたくないが、早く部屋に戻りたそうにしていた側室の姿が頭を過ぎり、一か八かの賭けに出る。
「秘密は厳守出来るか?」
女性警護兵を見ながら、いつもより低めで話すと、その女性はハッとした様子で首を縦に振った。
「私は後宮警護を任されているタニアと申します。尊き神鷹に誓って秘密を厳守します」
厳かにガルディナ帝国の神に誓う彼女は、もう一人の門番である女性に目配せをすると、ジークに視線を戻した。
「彼女の名はハンナ、彼女もここで見聞きしたことは他言しないでしょう」
しっかりとジークを見据えるタニアの目に曇りがないのを感じ、ジークは腹を決めた。
「俺は城で陛下の私室の警護を任されているジークという。現在陛下の私室にリンクスという者が護衛を務める側室様がいらっしゃるのだが、お身体の調子が思わしくない。お戻りになりたいご様子だが、一人で戻れるものでもなく、こうして俺が来た次第だ。聞けばリンクスという者に言伝をせずにいらしたらしく、その者も側室様を探していると思うのだが…」
言葉を切ると、一つ大きく深呼吸をするジーク。身体を鍛えていても、全力疾走でここまで来て、すぐに頼みごとをしたので未だに息は整っていなかった。
一方タニアはリンクスが護衛をしている側室と聞いた瞬間、愕然とした。
その側室の顔がすぐさま浮かび、次いで皇帝の姿を思い出した。
昨夜の騒動の顛末は、噂好きによって既に後宮内を駆け巡っている。
その後、その側室もといヤヤの元に宰相と皇帝が訪れたことも後宮内を揺るがす噂として登っていた。
その噂は酷いものでは、反乱の共犯者として即死刑されただの、反乱者として重要な立場にあったのだのと、根も葉もないもので酷くなくてもヤヤを犯罪者として見ているものばかりであった。
しかし、一部の後宮警護兵たちは何故ヤヤと反乱が結びつくのか、全くの謎であった。
何故なら管轄がまるで違いすぎるからだ。
犯罪者として連行されるなら、皇帝はともかく、一緒にいなければならないのは執行部であるはずなのだ。もしくはそのトップであるはずの法務大臣か。
いくら後宮が現在、宰相の管轄下にあるといっても、法の下では等しく裁かれる。犯罪者ともなれば宰相の管轄外でその場合、第三者の後宮介入が認められているのだ。
タニアは疑問に思っていた一人であり、またもう一人の門番をしていたハンナも同じ意見であった。
しかもヤヤやリンクスは知らないが、後宮の女性警護兵たちの間ではリンクスはかなりのモテ具合を発揮しており、その主人であるヤヤも自ずと観察対象にされている。なので、ヤヤが不審な行動をしたかどうかぐらいはわかってしまうのだ。
タニアはジークの話を聞いて、ヤヤが何故連れていかれたのかを察すると、信じられない面持ちでハンナを見やる。すると、彼女も目を溢さんばかりに見開いてこちらを見ているではないか。
何がどうなれば、ヤヤが皇帝の閨に呼ばれるのかは甚だ疑問だが、リンクスの主従愛を嫌というほど観察してきた彼女たちは、一つ頷き合うとジークを見つめた。
「わかりました。リンクス殿が知らないのであれば、今頃必死に探しておられるでしょう。すぐに呼んで参りますが、その前に側室…ヤヤ様の御用体は如何なものなのでしょう?」
タニアもハンナも一応は騎士の端くれだ。皇帝の噂を知らないわけではなかった。気遣わし気にジークに問えば、ジークは罰が悪そうに軽く咳払いをして、あまりよろしくないと答えるしかなかった。
タニアはそれを聞くと、はぁとため息を吐き、少々お待ちくださいと言って門の奥へと走り去っていった。
門の外に残るのは、ジークとハンナ。
「ジーク殿…、何故ヤヤ様だったのですか?」
昨夜の事情を詳しく知らない彼女は、どこからどう見ても普通にしか見えないヤヤが何故皇帝の寵愛の対象になったのか気になって仕方がなかった。
こっそり覗き見ていたヤヤとリンクスは、いつも穏やかでまるで姉弟のように仲が良かった。それにヤヤは皇帝の寵愛を望んでいるようには見えず、他の寵を競う側室とは一線を置いていた。今まで噂にも登ったことはなく、このまま後宮に埋れていくのかと思っていた矢先にこれだ。
ハンナを含め、女性警護兵の殆んどがヤヤとリンクスにはいつまでも穏やかに暮らしていて欲しいと願っていたのだった。
ジークはハンナの疑問に答える術をもっておらず、
「わからん…」
そう答えるしかなかった。
ただ、彼の脳裏にあるヤヤは普通の容姿をしていながらも、どこか普通とは違うそんな姿に変わっているのだった。
それは宰相であるセリウスが感じたものと同じであったのを彼は知らないー。
えっ、まだ続きますよ?
本編をお待ちの方はもうしばらくお待ちください(;´Д`A