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「シェリー」


 朝にはまだ遠い、暗い時間に隣室にそっと入ったザイドは、シェリーの耳元で囁いた。

 泣き腫らした目をゆっくりと開け、シェリーが驚く。

「ザイド様……?」

 体をすっぽりと覆うフード付きのマントを着て小さめのランタンを持ったザイドは、人差し指を口に当てて「静かに」と言った。

「シェリー、出かけるから準備をしなさい」

「出かける……のですか?」

「ああ、早く」

 ザイドはシェリーの腕を引っ張り、強引に立たせる。

「急いで」

「は、はい……」

 ザイドがシェリーに背を向け、シェリーはわけが分からぬまま着替えをし、髪を梳かした。

「ザイド様、準備が出来ました」

 ザイドは振り向くと、手に持っていた自分が着ているのと同じマントをシェリーにも着せる。

「少し我慢をしてくれ」

 そう囁いて、ザイドはシェリーを抱き上げた。

「ザイド様、いったい――」

 戸惑うシェリー。

「静かに」

 少しだけ厳しく言ってシェリーを黙らせ、ザイドは部屋から出て、更には屋敷の外へと出た。先日二人で散歩した庭を突っ切り、片隅にある小屋のドアを開ける。途端に、むっとする空気と、例えるならば木や葉が腐ったような独特の臭いが鼻をつく。

 ザイドは小屋の中に入ると、そこでやっとシェリーを降ろした。

「ザイド様、これは……」

 シェリーが目の前で蠢く巨大なモノに体を硬くする。

「私の蟲だ。怖がらなくても大丈夫。とてもおとなしくて賢い生き物だ」

 小屋の中には二匹の大型の蟲が居たが、その内の一匹、長い一本のツノと節のある長い肢を何本も持つ黒光りする蟲の傍らにザイドは立った。

 大きな口を開けて細い舌を出す蟲の背に、ザイドは素早く鞍をのせ、そこに顔を強張らせたままのシェリーを座らせる。そして蟲を小屋の外に出し、自らもシェリーの後ろに乗った。

 ザイドが手綱を軽く揺らすと、蟲が畳んでいた翅を広げた。もう一度ザイドが手綱を揺らすと、ブーンという音と共に、蟲が空へと舞う。

「ヒッ!」

 短い悲鳴を上げて振り向くシェリーの体を落ちないように後ろから抱きしめ、ザイドは告げた。

「これから人間界へ行く」

 シェリーが目を見開く。

 悩んで悩んで、ザイドが出した結論。


「シェリーを人間界へ、愛する者の元へ帰してやろう」


 信じられない出来事にシェリーは激しく動揺し、ザイドのマントを掴む。

「ザイド様、やめてください! そんなことをすれば……!」

「大丈夫だ。陛下には後で私が上手く言っておく。シェリーは何も心配しなくていい」

 勝手なことをすれば、いくら側近であるザイドでもタダでは済まないだろうが、それは隠してザイドは笑った。罰は自分一人が受ければいい。

「それより速度を上げる。しっかり捕まっていなさい」

「ザイド様……」

 嗚咽を漏らすシェリー。

 抱きしめる力を少しだけ強くして、ザイドは蟲の速度を上げた。



◇◇◇◇



 シェリーを抱えて蟲に乗り、魔界と人間界の境界まできたザイドは、そこで地図を広げた。

 世界はもうすぐ朝を迎える。早起きの執事は今頃、部屋の机の上にある置手紙を見つけて顔面蒼白になっているかもしれない。罪悪感はあるが、今はシェリーを優先させる為に、地図を確認しながら蟲を進める。

 ザイドは人間界に来るのは初めてだった。しかし人間界の王都に行くための道筋――何を目印に進めば良いかは知識として知っていた。シェリーの故郷は幸いにも王都から程近いので行ける筈だ。

 地上から見えないように高度をできるだけ上げて、ザイドは進んだ。そして――。

 日が完全に昇りきった頃、シェリーの故郷であるメイロウの街から少し離れた人気のない森に、ザイドは蟲を着地させた。まず自分が降り、それからシェリーを降ろす。

「シェリー、大丈夫か?」

「……はい」

 少し足元がふらついているシェリーの体を支え、ザイドは蟲に向かって「ヒュッ」と指笛を吹いた。蟲が空へと飛んで行く。指笛は上空待機の合図であった。

「行こうか」

 ザイドはそう言いながら、フードを深くかぶる。

「ザイド様……!」

 途端に、シェリーが驚きの声を上げた。目の前のザイドからツノが消え、肌と目の色が変化している。

 ザイドは笑った。

「このマントには特殊な魔力が込められているのだ」

 主に人間界を偵察する為に作られたマントは、魔人が着ると人間の姿に見えるという幻覚作用があった。今回人間界に赴くにあたり、祖父の遺品であるこのマントの存在を思い出したザイドは、物置部屋を必死に探してこれを見つけ出した。

「ちゃんと人間に見えるか?」

「はい。人間に見えます。驚きました」

 呆然とするシェリーにも深くフードをかぶせ、ザイドはシェリーを片腕で抱きかかえる。

「街までは少し距離がある。すまないが我慢してくれ」

「ザイド様、わたくし歩けます」

「シェリーの足では時間がかかる」

 ザイドはシェリーを抱えたまま歩き始めた。森を出て、石の転がる道を行く。

 ザイドにとって初めての人間界の風景は、意外にも魔界とそれほど変わりなかった。それは小一時間ほど歩いて着いた街でも同じで、ただ人間と魔人、馬と蟲の違いがある程度なのだなとザイドは思う。

「たいして変わらないな」

 ザイドの呟きに、シェリーが首を傾げた。

「何が、でございますか?」

「人間界と魔界は、たいして変わらないのだな」

 シェリーが驚きの表情になる。

「ザイド様には……そう映るのですね」

「ん?」

 何故それ程驚くのか分からず首を傾げるザイドにシェリーは微笑み、俯き加減で緩く首を振った。

「いいえ、なんでもございません。それよりザイド様、少し目立っていますので降ろしていただけますか?」

「え? あ、ああ」

 抱きあげたままだったシェリーを降ろすと、寂しさがこみ上げる。できれば腕の中にずっと閉じ込めていたい、という思いを唇を噛んで堪え、ザイドは手を差し出した。

「はぐれるといけないので、手を繋いでもいいか?」

「はい」

 繋いだシェリーの手はいつもより少しだけ温かく感じ、よく見ると頬も赤みをさしている。故郷に帰れて興奮しているのか、それとも人間界の『気』が合っているからなのか、おそらくは両方なのだろう。

「シェリー、ここからどう行けば良いかは分かるか?」

「はい。案内します」

 シェリーに手を引かれて歩き出す。大通りを進み、途中でシェリーの体力を考慮して辻馬車に乗った。

 馬車はガタガタと揺れながら進んでいく。暫くすると、シェリーが「あ……!」と小さな声を上げて窓から身を乗り出した。

「シェリー、危ない」

「わたくしの実家です。あの建物の間から見える青い屋根です」

 シェリーが指をさす方向に目をやれば、確かに青い屋根がチラリと見えた。

 そういえば自分はシェリーのことを何も知らないと、今更ながらザイドは気づく。

「シェリー、家族のことを聞いてもいいか?」

「はい。両親と弟がいます。父は、わたくしをとても大事に育ててくれて、母も――義理の母なのですが、血のつながらないわたくしにもとても優しく、幼い弟は体が弱くてあまりベッドから起き上がることはできないのですが、頭がよくて素直ないい子です」

「そうか」

 父親は下級貴族で、恋人はこの街を支配している上級貴族の息子である、とシェリーは語った。

「もうすぐ……会えるのですね」

 シェリーがザイドの手をギュッと握る。

「今更わたくしが現れて、マテリオ様は迷惑ではないでしょうか?」

 マテリオ、というのが恋人の名なのか。ザイドの胸が締め付けられる。

「大丈夫だ。恋人を信じろ。将来を約束していたのだろう?」

「……はい」

 シェリーの恋人なら、きっと素晴らしい男に違いない。もし、魔界から帰ってきたシェリーとの関係を周囲が認めないならば、二人を遠くの街にでも逃がしてやろう。

 そうザイドが決意していると、馬車が止まる。

「着いたのか?」

「はい。少し先の、あのお屋敷です」

 シェリーが示す方向に、大きな屋敷が見えた。二人は馬車を降りる。

「……行こう」

「はい」

 ザイドとシェリーは屋敷に向かって足を踏み出した。


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