空腹しか残らなかった男
私には、元大食いチャンピオンの友人があって、
数ヶ月前、彼の住むアパートを訪ねた。
連絡を取らなくなって長かったが
アパートの前を通りかかると急に懐かしさがこみ上げ、
思い出を頭の中に浮かべ終わる頃には自分の手が
彼の部屋番号の書かれたドアを叩いていた。
ドアの隙間から覗きこむようにして私を見た彼は
記憶の中にある彼の姿とは変わり果てていた。
かつては「イケメン大食い王」として各種メディアに取り上げられ、
追っかけの女性ファンさえもいた彼の顔は
皮膚がまるでしぼんだ風船のように垂れ下がり、
肌は荒れ、顔をにきびで赤く浮かせていた。
落ち窪んで深い隈のある目が
伸びすぎた前髪の間から疑い深く私を捕らえたとき、
私は思わず後ずさった。
ドアの隙間から覗く体は妊婦のように腹が膨れ上がっている。
まるで形相が以前と違うが、確かに彼だった。
かける言葉を見つけられず立ち尽くしていると、
荒れた唇が動き、入れよ、と喉の奥から染み出すような声を出した。
部屋の様子も以前とはまるで異なっていた。
かつては洒落た生活用品が並び、
いつも彼の好きなロック音楽が
大きなスピーカーから聞こえていた部屋は、
春であるのに、どこか寒さを感じるほど殺風景だった。
床の上は、白色で統一した家具の代わりに
大量の弁当の空き箱が散乱していた。
部屋の奥に薄汚れた布団が張り付いている。
「みんな売ってしまったんだ」
プラスチックの容器と割り箸を押しのけて座り、
彼はことの顛末を口の端を歪めて語り始めた。
テレビの仕事が次々と入り、有頂天になっていたこと。
詐欺に遭い、貯金がほとんどなくなってしまったこと。
それから気力が失せ、仕事が手につかなくなったこと。
すぐに誰も助けてくれなくなったこと。
「俺は所詮一発屋の人間だったんだ。世の中の目がたまたま一瞬俺に向いただけだ。一度スター気取りで偉そうに話しかけたことがあったけど、あの時は悪かったな」
彼は床を見つめ、体を揺すって低い笑い声を出した。
薄汚れた肩からフケが舞った。顔は髪に隠れて見えなかった。
彼は茶色い食器が溜まった台所の方を見つめ
また話し始めた。視線は定まらず、間延びした口調で話す。
私に話しかけるようでいて、自分に語りかけるようでもあった。
今は廃棄されるコンビニ弁当を頼って暮らしている。
「それだけじゃもちろん足りないんだ」
彼は口の端を吊り上げ、
「俺は元大食いチャンピオン、だからな」
と、つらそうに言った。
彼は水道代と家賃だけは残った貯金で払い続けていた。
弁当だけでは物足りない彼は、そこで水を飲むらしい。
水道にかじり付いて、肥大した胃がいっぱいになるまで水を飲む。
「満腹になってもまだ飲むんだよ。何でかっていうと、もしかしたら死ねるかもしれないからだ。水にも致死量があって、飲みすぎると死ぬ。自殺を実行する勇気も行動力も残ってないが、出来たら死にたいと思ってるから、嫌になっても水を流し込むんだ。苦しくなっても飲み続ける。そのせいでコレが元に戻らなくなった」
彼は自身の膨張した腹を掴んで言った。手を離しても形はなかなか元に戻らない。
「でもな、不思議なことに、いくら水を飲んで苦しくなっても、まだ腹が減る気がするんだ。変な話だろ」
彼はどうしてもそれが納まらないとき、
部屋の片隅のダンボールに入った紙の束を読むそうだ。
中身は昔届いた、女性ファンからのファンレター。
男性からのものは全て捨てたらしい。
それを読むと、彼の不思議な空腹は収まる。
もはや、空腹と他の衝動の区別はつかなかった。
「ああ、話したらまた腹が減った気がする」
彼は蛇口の下に、口を限界まで開けて身を乗り出し、
水を喉の奥に落とし込み始めた。
上からの水を底なしに吸い込む彼の口は
排水溝を連想させた。