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ひとつの時代が終わる日に

作者: 半田南都
掲載日:2026/03/31


「年々減っていくな……」


そう独り言のように呟くと、悦子は不思議そうに俺を見て、それから視線を落とした。


「ああ、年賀状ね」


いや、今一瞬、俺の頭見ただろ?

気のせいか?


「髪の毛のことかと思ったわ」


あ、やっぱりそうか。


「この年にしちゃまだある方だと思うけどな。確かに薄くなってきたけど、別に禿げているわけでもないし」


「まあ、そうかもね」


本当にそう思っているのか怪しい。洗い終えた皿を一枚ずつ拭き、戸棚に戻しながら悦子はくすくすと笑っている。


「確かに少なくなったわよね。年賀状仕舞いをする人が増えたし」


話は年賀状に戻った。

年が明けて一週間。リビングのテーブルの片隅に重ねていた年賀状をそろそろ片付けようか、となんとなく見返しているところだ。


『2029年』『令和十一年』『あけましておめでとう』『酉年』──そんな言葉の中に、『お誕生日おめでとうございます』の文字が目に入り、ふと手が止まる。


裏返すと、『杉山康広様』と俺の名が印刷されていた。よく利用する家電量販店からの誕生日割引のお知らせハガキだ。


あ、そうか。明日か。


「佐和子たち、来るんだよな?」


一月八日は俺の誕生日だ。今年は成人の日で祝日でもある。全国民が祝ってくれるって感じかな──なんて言ってもきっとスルーされるだけだろう。やめておこう。


まあ全国民はともかく、娘夫婦と息子が婚約者を連れて祝いに来てくれるという。


「昼前には来るって。康一がケーキ買ってきてくれるそうよ」


「佐和子は大丈夫なのか?」


「うん。安定しているって」


「それならいいけど」


来月出産予定の娘は三十半ばだ。生まれてくる子は、長年の不妊治療の末にようやく授かった。俺にとっては初孫になる。


「……俺もおじいちゃんか」


そう感慨深げに言うと、悦子はいたずらっぽく笑った。


「明日、おじいちゃんになるじゃない」


え? まだ生まれないよな?


「明日になれば、あなた高齢者よ」


ああ、そうか。六十五歳に俺はなるんだ。そりゃ髪も薄くなるわな。


大学を出て、中堅の印刷会社に就職して四十年以上。誕生日の前日──つまり今日で、ひとまず退職だ。


とはいえ、七十歳までの再雇用契約を交わしたから条件は変わるが、まだ働くつもりだ。老後の資金も貯めないといけないしな。

……あ、明日から老後か。


「誕生日おめでとうは明日だけど、とにかく、とりあえずは退職おめでとう」


「いや、『退職おめでとう』って何だかおかしくないか? せめて『定年退職おめでとう』だろう」


「そうかな。あ、『おめでとう』より『お疲れ様』の方がいいか」


屈託なく笑い、さらに付け足す。


「あと五年、また頑張ってね」


妻の悦子は五歳下で今年還暦だ。思えば結婚生活も三十五年。少し天然なところはあるが明るく前向きで、その明るさに何度も救われてきた。


娘と息子にも恵まれた。娘は来月出産予定で、息子も今年の六月に結婚を控えている。

四十年間、リストラにも遭わず、しかもあと五年働かせてもらえる。そりゃあ苦労も多少あったが、俺は恵まれている方だろう。


「さてと。じいさんはそろそろ寝るかな」


悦子はくすっと笑いながら時計を指差した。


「まだあと二時間はじいさんじゃないわよ」


十時か。二時間後はじいさん、ってわけだな。


苦笑いしながら年賀状を棚にしまい、風呂に入る。そして、十一時前には寝室へ。


ベッドに入り、天井を見上げる。


眠るにはまだ少し早い。目を閉じて、これまでの六十五年間をなんとなく思い返す。


大きな失敗もなければ、大きな成功もない。波風を立てず、無難にやってきた人生だ。


人を蹴落とすようなことはしてこなかった。だが、誰かのために何かを犠牲にしてまで動いたこともなかった気がする。


出る杭は打たれる──そんな言葉を言い訳に、打たれない位置にい続けてきた。それで後悔したことがなかったわけでもない。


……今さらどうしようもないが。


もし人生をやり直せるなら、今度はもう少し積極的に、思い切って動いてみてもいいのかもしれない。

だが──それでもどうせ、俺は変わらないだろう。


とにかく今日で仕事も一区切りだ。明日になれば、年齢的には『高齢者』だ。


明日から新しい『俺』が始まるのか──

そんなことを考えながら、目を閉じた。



◇◇◇



目を覚ますと──いや、俺はなぜか立っている。

立っているというより、立たされている感覚だ。足が勝手に地面を踏みしめているようだ。


家の中ではない。足元はアスファルト。頬に冷たい風が当たり、周りは人だらけ。


騒音。

人の話し声。

車の行き交う音。

そして、飛行機のジェット音──


この状況は何だ? 訳がわからない。


あ、夢か。


そう思ったが、どうも違う。騒めきも冷たい空気もやけに生々しい。とても夢だとは思えなかった。


深く息を吸う。

とにかく周りを見る。


『羽田空港』と書かれた表示が目に入る。俺は長い列に並んでいる。タクシー乗り場だ。


足元には小型のスーツケース。ベージュのコートを着ている。


このコート──若い頃、母に買ってもらったやつだ。何十年も前のはずだ。


走っている車は古い型ばかり。列に並ぶ人たちの服装や髪型も、どこか時代が違う。


今は──いつなんだ?


スマホで確かめようとポケットに手を入れる。


ない。


手に持っていたビジネスバッグを開く。書類ばかりだ。そういえば若い頃は大阪への出張で飛行機を使うことが多かった。

今はその帰りなのか──


本当に訳がわからない。


バッグの中にスマホは見当たらない。ふと手元を見ると、袖口から腕時計が覗いていた。


これは大学の卒業祝いに父からもらった時計だ。


どうして、これをしている?


針を見ると二時前だ。日付はわからない。


思わず頭に手をやる。


……フサフサだ。


視線を上げると、並んでいるタクシーの窓ガラスに若い男が映っている。片手をそっと上げると、その男も同じように上げた。


俺だ。


……若い。


見える景色も、着ている服も、すべて昔だ。

どういうことだ。俺は、過去に戻ったのか?


タクシー乗り場に並んでいる。

どこへ向かう?

会社か。家か。

それとも──


とにかく落ち着け。

もう一度、深く息を吸う。


吸った息を大きく吐き出すと、列のそばで話している若い男性二人の会話が耳に入った。


「何になるんだろうね。『正化』って噂もあるけど」


「俺は『あさひ』って聞いたけどな」


「朝昼晩の朝に日?」


「いや、一字の。漢字の九に日」


「元号で一字は聞いたことないよな」


「まあ、そうなんだけど。発表、もうすぐだっけ?」


……新元号?

令和が始まる時か?


いや、違う。


今の俺の姿は二十代だ。

ということは──


平成だ。


今日は、昭和最後の日──


昭和六十四年一月七日だ。



◇◇◇



呆然とする。


前に並んでいる人にでも確認してみるか? いや、無意味だ。

「今日はいつですか」なんて聞いたら、変なやつに思われる。


前の二人は、二十歳(はたち)そこそこの若い女性だ。


一人はボリュームのあるソバージュヘア。もう一人はストレートのロングヘア。前髪はトサカのように立っている。

二人のコートには肩パッドが入っているのだろう。どっしりとしたシルエットだ。


服装も髪型も、太い眉も──どれを取ってもバブル真っ只中の証だった。

紛れもなく四十年前にタイムリープしてしまったようだ。


半ば呆然と二人を見つめていると、突然ソバージュの女性が声を上げた。


「ミサキ!? ミサキ!?」


もう一人の肩に手をかけ、強く揺さぶっている。


「あ……」


呼びかけられたトサカヘアの女性は小さく声を漏らし、周りをきょろきょろと見渡した。


その一瞬、目が合ってしまった。


「ミサキ? 大丈夫? 急に黙るから……顔色悪いよ?」


「……あ、ごめん。ちょっと気分悪い……」


「わかった。休もう。少し休んでから帰ろう」


タクシーの列から外れる瞬間、女性がもう一度俺を見た──


何だ? 俺がじろじろ見ていたことに気付いて気持ち悪がったのか?

しかし、怒っているとか嫌悪するような目ではなかった。


何とも形容し難い視線を残し、二人はガラガラとスーツケースを押して、ゆっくりと俺の前から遠ざかっていった。


気が付くとそろそろタクシーに乗る順番が回ってきていた。長いと思っていた列だが彼女たちが抜けたせいか、それともタクシーの数が多いからか、ずいぶん早く感じる。


さあ、どうする?

俺はどうしたらいい?


列から外れて考えるか?


そうだ。それがいい──


「──さん」


え?


「お客さん」


目の前でタクシーの運転手が手を差し出していた。無意識に足が前へ出ていたらしい。いつの間にか列の先頭に立っていた。


「トランクに入れますよ」


そう言って俺の足元のスーツケースを持ち上げ、トランクに収めた。


まだ考えがまとまらず、その場に立ち尽くしていたが──


「はい、早く乗ってくださーい」


気付けば、俺はタクシーに乗っていた。



◇◇◇



後部座席に座ったものの、行き先はどうしたらいい? 出張帰りのようだから、会社に行くべきか。


「どちらまで?」


一瞬ためらったが、早く答えねば。


「……品川区の『成光グラフィック』までお願いします」


とりあえず会社まで行こう。そこで考えよう。


「品川区のどの辺りですか? 住所わかります?」


答えかけて思い出した。

違う。

昭和六十四年、平成元年は本社は品川区じゃない。まだ大田区だ。


「すみません、大田区でした。蒲田です。えっと、番地は……」


覚えていない。

言い淀む俺に、運転手が言った。


「蒲田ですね。とりあえずそっち方面に向かいますね。下道でいいですか?」


「はい」


タクシーが走り出す。


あ、そうだ。

スマホを探している時、スーツのポケットに名刺入れがあったっけ。


急いで取り出し確認する。


「えっと、大田区蒲田……」


言いかけて気が付いた。社名が違う。


「すみません、行き先、成光印刷でした」


本社移転の際、社名も『成光印刷』から、ちょっとおしゃれな『成光グラフィック』に変えたのだった。


運転手は無線のマイクを取り出し、住所と社名を告げる。ガーガーピーピーというノイズの向こうから、道順を伝える返事が聞こえてきた。


ナビのない時代は、タクシーの場合、知らない場所に行く時はいつもこうやって確認していたんだよな。


少し焦ったが行き先を告げたことで、わずかに落ち着いた気がする。車内を見回しながらシートベルトを締めようと手をまさぐる。


あれ? ないな。


「すみません、ベルトどこですか?」


「ベルト?」


バックミラーに映る運転手の表情は訝しげだった。


「ええ。シートベルト」


すると、笑いを含んだ声が返ってきた。


「珍しいですね、お客さん。あるにはあるけど、大丈夫ですよ」


一瞬、『大丈夫』の意味がわからなかった。だが、すぐに思い付いた。

──ここは昭和だ。


この時代、シートベルトの着用義務はまだなかったはずだ。まして後部座席となれば、それはずっと後の話だ。


なるほど。義務じゃないから大丈夫、ということか。


そうだとしたら、義務もないのにベルトを締めようとする客は、運転手の腕を疑っていると思われかねないよな。


ふと見ると、座席の隙間にシートベルトが押し込まれるように埋まっていた。わざわざ取り出すのも気が引ける。


……まあ、いいか。



◇◇◇



車内をあらためて見回すと、時代の違いを感じる。


目の前には座席の背面に取り付けられた灰皿。車内にはタバコの匂いが染み付いている。


運転席のメーターパネルは針式。当然ナビはない。


ラジオから流れてきたのは、Winkの『愛が止まらない』。俺にとっては懐メロだが、ここでは最新ヒット曲だろう。


ふと、運転席の乗務員証に目が止まった。


今のタクシーには、カスハラ対策や個人情報保護の関係で置いてないだろう。この時代はSNSもないから、情報は簡単に広まらない。そういう面では、平和なのかもしれないな。


顔写真付きのその証明書の名前は──羽田港一。


……ん?


俺の視線に気付いた運転手が笑った。


「僕の名前ね、読みは『ハタ』なんですけどね。『ハタコウイチ』。字面だけ見ると『羽田空港』みたいでしょ? しかも今はこの地域の担当だから、空港から乗ることが多いんですよ。たまたまですけど、運命ですかね」


慣れた口調だった。


運転手は四十代半ばくらいだろうか。俺よりかなり若い──いや、ここでは逆か。


物腰は柔らかく、言葉遣いも丁寧で好感が持てる。


ラジオはニュースに変わった。天皇崩御の報道が流れる中、運転手が口を開いた。


「元号の発表、もうすぐですよね。何になるんでしょうね」


──平成。


「……何でしょうね」


言えるはずがない。



◇◇◇



走り出してから十分ほど経っただろうか。


窓の外に目をやると、見慣れない景色が広がっていた。バブルの真っ只中だからか、建設中のビルもあるが、古い建物も多い。


今はどの辺りだろう。

よくわからない。


会社に着いたらどうする?

状況を説明しても、誰も信じないだろう。


そんなことを考えていると、急に違和感を覚えた。


何だ?


振動だ。


車の揺れが強くなっている。

速度も上がっている気がする。


何かがおかしい。


前方に目をやると、運転手の肩が小さく揺れている。胸元の動きから、苦しんでいると直感した。


次の瞬間、運転手の体がハンドルに崩れかかる。


車が大きく左にぶれ、視界が歪んだ。


──え!?


衝撃が全身を打ち、目の前が真っ暗になる。


俺は──死んだのか……。



◇◇◇



頬に当たる冷たい風で我に返る。


騒音。

人の話し声。

車の行き交う音。

そして、飛行機のジェット音。


俺は──同じタクシー乗り場の列に立っていた。


死んだと思った直後なのか、ずっと先なのか──わからない。


目の前には、あの二人の女性。


時計を見ると、午後二時。


同じ午後。

同じ場所。


何が起こったのか、すぐには理解できない。


ただひとつ確かなのは──この先に待つ出来事を、俺は知っているということだった。


このまま列に並んであのタクシーに乗ったら事故に遭い、そしてまたこの場所に戻るのか? 

俺は永遠にこのループを繰り返すのか?


いや、事故に遭った記憶が残っている以上、そんなことをするはずがない。列を抜ければいい。そうすれば回避できる。


……列を抜ける?


そうだ。

一回目に、前の二人は列から抜けた。

あのまま列に残っていたら、あの二人が犠牲になっていたはずだ。


……知っていたのか?


その時、聞き覚えのある会話が聞こえてきた。


「……何になるんだろうね。『正化』って噂もあるけど」


「俺は『あさひ』って聞いたけどな」


若い男性二人の会話。彼らに目を向けてから再び視線を前に戻す。


その瞬間、視界が捉えた。


女性二人の前に並んでいた中年の男性が、列から離れていく姿を。


もし彼がそのまま列に残っていたら、事故に遭ったのは……彼か?

列から抜けたのは偶然か? 

それとも故意か?


もしかして──目の前の女性も、あの中年男性も、俺のように事故に遭うことを知っていたのだろうか。


いや、この三人だけではない。もしかしたら、そのさらに前に並んでいた人たちも、同じ体験を繰り返し、事故を避けるため列を離れていたのかもしれない。


前回並んでいた時、思いのほか順番が早く回ってきたと感じたのは、列から次々と人が抜けたからではないだろうか。


列のどこが始まりなのかはわからない。だが、前に並んでいる人たちの中のある地点から、同じ体験をした者が続いている──そんな気がしてならない。


この列には、あの事故を経験した人間が何人も並んでいる──


「ミサキ!? ミサキ!?」


中年男性が列から外れてしばらくして、声が聞こえた。


聞き覚えのある焦った声。肩を揺すられたトサカヘアの女性が周りを見回す。

一瞬、俺と目が合う──


間違いない。

今、この女性は『ここ』に戻ってきたのだ。


「ミサキ? 大丈夫? 急に黙るから……顔色悪いよ?」


「……あ、ごめん。ちょっと気分悪い……」


「わかった。休もう。少し休んでから帰ろう」


俺は知っている。この会話のあと、二人は列から外れる。そして彼女はもう一度俺を見るはずだ。


……来た。

目が合った。


その瞬間、俺は気が付いた。


あの時はわからなかった。形容し難い彼女の視線の意味が。


だが、今ならわかる。

これは──謝っている目だ。


列を抜ければ次に事故に遭うのは俺になる。それを彼女は知っているから、あんな目で俺を見たのだ。


前回はただ目が合っただけだった。

だが、今は表情まで見て取れる。


目の下に泣きぼくろがひとつ。それが、彼女のもの悲しげな顔をいっそう際立たせていた。


彼女たちが列を抜けたあと、俺はどうするべきか答えは出ていた。それでも、一瞬ためらう。


列を抜ければ俺は助かる。しかし、その代わりに事故に遭うのは後ろの人間だ。


トサカヘアの女性も、その前に列を抜けた中年の男も、きっと同じ罪悪感を抱えているはずだ。それでも彼らは列を離れた。


そうしなければ、この無限ループから抜け出せないからだ。


後ろの人には申し訳ない。だが、彼らも戻ってきたらきっと同じことをする。


俺だけが背負う罪じゃない。


深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。


よし。


抜けるぞ。


もう一度、この時点から人生をやり直す──


そう決めて、俺はトサカヘアの女性がしたように後ろを振り返った。

謝るような目をして。


そして、俺は固まった。


後ろに並んでいるのは──妊婦だ。



◇◇◇



踏み出しかけた足が止まる。

慌てて体の向きを前に戻した。


後ろにはお腹の大きな女性が幼い男の子の手を握って立っていた。

ただでさえ列を抜けることに罪悪感があるのに、よりにもよって妊婦とは──

出産を控えている娘の佐和子と重なる。


「おばあちゃんちにお泊まり?」


「うん。しばらくお泊まりね」


会話が聞こえた。出産のための里帰りなのか。


どうする?


俺が列を抜ければこの親子が事故に遭う。だが、彼女たちも俺と同じように、その瞬間またこの場所に戻ってくるはずだ。


そして、俺や前に並んでいた人たちと同じく列を離れるだろう。


それでいいじゃないか。


……本当に、それでいいのか?


一瞬でも事故という恐ろしい体験を、この親子にさせるのか。この妊婦は事故の恐怖と、後ろに並ぶ人への罪悪感を抱えたまま出産に臨むことになる。


もしも彼女が佐和子だったら──そう考えた瞬間、答えは決まった。


俺は──列から抜けない。


たとえこの無限ループに落ちることになったとしても。


このまま並べば、俺はまたあのタクシーに乗ることになる。事故に遭い、再びここに戻る。終わらない。同じことを延々と繰り返す。まさに地獄だ。


だが、決めたことだ。列からは抜けない。


じゃあ、どうする?


タクシーに乗る順番が近づいている。


……どうすればいい?


そうだ。事故が起きなければいいんだ。


運転手を助ける。それなら、このループは断ち切れる。


どうやって?

説明するか?


いや、信じてもらえないだろう。

「あなた、もうすぐ意識を失いますから」なんて言ったら気味悪がられるだけだ。


どうすれば……何かいい考えはないか。


ふと顔を上げた。


──次は俺だ。



◇◇◇



「はい、お待たせしましたー」


運転手は笑顔で挨拶をし、俺の足元のスーツケースを手に取ってトランクに収めた。


鼓動の激しさを感じながら後部座席に座る。


「どちらまで?」


目的地を聞かれ、一瞬戸惑った。咄嗟のことで思い浮かばない。


しょうがない。とりあえず会社にしておこう。


「大田区の成光印刷まで」


今回は間違えずに、移転する前の場所と社名を告げる。


そうだ。住所を聞かれるな。番地までは覚えていない。スーツのポケットから名刺入れを取り出し住所を伝える。


やはり二度目だから行動がスムーズだな。


「下道でいいですか」


「はい」


──そうだ。シートベルト。


俺は座席に埋もれているベルトを抜き取り、しっかりと締めた。


事故を止めるつもりではあるが、まだどうしたらいいかわからない。念のため締めておくほうがいい。前回だって、締めていればあるいは助かったかもしれないのだから。


ラジオからはWinkの『愛が止まらない』が流れている。この歌が終わると昭和天皇崩御のニュース。そして、その数分後に事故が起こるはずだ。


運転席の乗務員証に目をやる。


羽田港一。


『ハタコウイチ』と読むんだよな。こういち、か。俺の息子は康一。字は違うが読みは一緒だ。


乗務員証を見つめる俺の視線に気が付いた運転手が笑った。


「僕の名前ね、読みは『ハタ』なんですけどね。『ハタコウイチ』。字面だけ見ると『羽田空港』みたいでしょ? しかも今はこの地域の担当だから、空港から乗ることが多いんですよ。たまたまですけど、運命ですかね」


前にも聞いたこのセリフ。確かに前回は羽田空港みたいだなと思ってこの名前を見たが、今回は違う。息子の顔が浮かんでいる。


考えたら、俺も含めあの列に並んでいた人たちは列を抜ければ事故を免れ、その後はそれぞれの人生を送ることができるだろう。


だが、この運転手はどうだ。


運転手目線で考えると、事故を起こし、また元に戻って客を乗せて事故を起こす。事故を起こした記憶が残っていたら続けるはずがない。列に並ぶ乗客と違い、記憶がないまま繰り返しているんだ。


──何度も。


Winkの歌が終わり、昭和天皇崩御のニュースが流れる。


「元号の発表、もうすぐですよね。何になるんでしょうね」


運転手の問いかけに心の中で答える。


次は平成。その次は令和。


でも、この運転手は今日終わる昭和しか知らない。


もし、俺が助けなければ、この先の時代を知ることもなく、これからも同じことを繰り返すんだ。


人のよさそうな笑顔。

物腰柔らかな対応。

息子と同じ名前──。


絶対助けよう。

そしてこの無限ループを断ち切るんだ。


でも──どうする?

あと五分もないはずだ。

このままだと俺もまた死ぬ。

そして、またあの列に戻るのか。


わからない。

だが、とにかく今止めるべきなんだ──


「……お客さん? 気分悪いんですか?」


俺が返事をしなかったからか、運転手が声をかけてきた。


気が付くと、俺は頭を抱え込んでいた。手が小さく震えている。


「どこかで休みますか?」


そう聞かれ、閃いた。


そうだ。この流れならどこかで停めてもらえる。それで事故は防げる。


でも……そのあとどうする?


事故は起きない。だが、この人は意識を失うはずだ。


頭の中に光景がよみがえる。胸元を押さえ、ハンドルに突っ伏していた運転手。


心臓発作か?


心臓に持病があった親父の発作の時と重なる。


なら……救急車を呼べばいい。

スマホで──


……スマホはない。


じゃあ、どうする? 

近くの人を呼ぶか?

いや、それじゃ遅いかもしれない。


だったら──


病院だ。


すぐ病院へ連れて行けばいい。俺が運転を代わって──


……待て。


それなら、最初から病院に向かえばいいんだ。


そうだ、それだ!


俺は身を乗り出した。


「あの、すみませんが近くの病院へ行ってもらえませんか? すぐに!」


さっきまで頭を抱えて黙り込んでいた俺が、突然声を上げたので驚いたようだ。ミラー越しに俺を見る。


「……大丈夫ですか?」


そして、窓の外を見回してから、前方を指して言った。


「確かこの先に大きな病院がありますね。そこへ行きましょう。土曜日だから午後の診察は終わっているかもしれませんが、救急なら──」


いや、俺じゃない。

運転手さん、あなたのための病院なんだ。


……そんなこと言えるわけがない。


とにかく急いでほしい。

もう時間がない。



◇◇◇



早く、早く──

焦る俺の目に、病院らしき建物が前方に見えた。あと二、三分しか残されていないはずだ。間に合うか。


病院の敷地内に入るため、車はスピードを落とす。


よかった。ぎりぎり間に合った。


あとは発作が起きるまで、このまま車内にいればいい。発作が起きたら、すぐに人を呼ぶだけだ。ここは病院。医者はいくらでもいるだろう。


「あ、ここで停めてください」


「ここでいいんですか? もっと近くまで行きますよ」


「いや、ここで」


運転手は少し不思議そうな顔をしていたが、俺の言う通り病院の建物から少し離れた場所で車を停めた。


午後は休診らしく敷地内にはほとんど人影がなかった。それでも、面会客らしき人がちらほらと歩いているのが見える。


車が建物の前まで行ってしまえば、ほかの人が乗ろうとする可能性が高い。そうなれば、まだ降りるつもりのない俺も、降りざるを得なくなる。


発作が起きる前に誰かが乗ったら意味がない。


「加減、大丈夫ですか?」


「はい。だいぶよくなりました。ありがとうございました。えっと……」


メーターを見ると千八十円。こんな時にこんなことを考えるのもなんだが……安い。感覚的には三千円は超えているはずだ。まあ、物価が安いぶん、給与も安いのだろう──いやいや、そんなことどうでもいい。今は時間稼ぎだ。


財布が内ポケットにあることは、さっきスマホを探した時にわかっている。だが、すぐには出さない。金を払ったら降りなければならないからだ。


「あれ、おかしいな……」


とぼけて探すふりをしながら、運転手の様子をうかがう。


おかしい。

もう十分は経ったはずだが、苦しむ様子がない。今回は発作は起こらないのか──そんな気がしてきた。


……違う。

ただ思っていた時間と、実際に経っていた時間が違っただけだ。発作はもう少しあとに来る。


──時間を稼がなければ。


「お客さん、具合悪いんだから、もう行っていいですよ。立て替えておきますから」


……つくづくいい人だ。この人を絶対助けなくては。


「いや、大丈夫です。払いますから、ちょっと待って……」


カチャッという音に顔を上げると、運転手はシートベルトを外し、車を降りた。トランクからスーツケースを取り出すと、俺の肩に手をかけてきた。降りろ、ということだろう。


「本当にいいですから。行ってください」


ここまでされると、もう降りるしかない。


せめて、と探すふりをやめて財布を取り出す。千円札と──今ではほとんど見かけない五百円札。


「ありがとうございます。お釣り、お釣りっと……」


釣りはいらないと言いたい。だが、時間稼ぎのため、受け取ることにした。

運転席に戻る後ろ姿を見ながら、まだか、まだか、と焦る。


「はい、四百二十円のお返しです。午後は休診みたいですが、救急なら診てもらえると思います。お大事に」


釣りを俺の手に握らせ、心配そうに立つ運転手。見送るつもりなのだろうか。


「あ……ありがとうございました。お世話になりました……」


なるべくゆっくりとした口調で、最後の時間稼ぎをする。しかし何も起こらない。


背を向け、正面玄関に向かう。本当に体調が悪いわけではないから中に入るつもりはないが。


振り返ると運転手が運転席に戻る姿が見えた。エンジンがかかる音。すぐに発車するだろう。


もしこのまま何も起きなければそれに越したことはない。だが、また運転中に発作を起こしてしまったら……。


──今、止めなければならない。


全部話そう。信じてもらえなくてもいい。

もしかしたら、心臓に持病があれば、心当たりがあって信じてくれるかもしれない。


そう思いタクシーに近づこうとしたその時──時間がほんの一瞬だけ止まったように感じた。


離れていても、運転手が前に倒れ込むのがはっきりわかった。

その瞬間、クラクションが鳴り響いた──


やっぱり来た!



◇◇◇



「なんだ?」

「どうした?」


クラクションの音に面会客らしき数人が振り向き、様子をうかがうようにタクシーへと近づいていく。


俺は──タクシーには向かわない。すぐに医者を呼ばなければ。背を向け、正面玄関へ走る。


だが、休診でドアは開かない。慌てて建物の横へ回ると、『夜間・救急』と書かれた入口が見えた。


その時、鳴り響いていたクラクションの音が止んだ。

誰かが運転手を動かしたのか?


親父の発作で知っている。ああいう時、無理に体を起こしたり揺すったりしてはいけない。危ないんだ。

急がないとまずい。

ああ、焦る。

早く医者を!


そのまま建物の中に駆け込み、大声で叫ぶ。


「心臓発作です! 先生を呼んでください!」


年老いた男性が守衛室から顔を覗かせる。


「どうかしましたか?」


悠長な声で聞いてきた。


「外で人が──心臓発作です! 早くAEDを持って来てください!」


「まあ落ち着いてください。……AEDって?」


だめだ。

中に入り、進みながら叫ぶ。


「お医者さんを呼んでください! AEDを持って来てください! 外のタクシーです!」


「ちょっと! 勝手に入らないで!」


駆け寄ってきた守衛を振り切り、叫び続けると、廊下の一室から白衣の男性が飛び出してきた。


「場所は!?」


「正面玄関の少し先です! タクシーです!」


除細動器(じょさいどうき)を持ってきて!」


それだけ言うとその男性はすぐに動いた。まだ二十代に見えるが白衣姿からしておそらく医者だろう。部屋の中の看護師に指示を飛ばし、そのまま俺と一緒に出口へと走り出す。


そこへ、さっきタクシーに向かっていた男性が駆け込んできた。


「タクシーの中で人が倒れています!」


通り過ぎざま、医者が短く答える。


「今、向かってます」


その男性は、自分が知らせるまでもなく事情が伝わっていたことに呆然としつつ、俺たちを見送った。


その視線を背に、俺と医者は運転手のもとへ急いだ。


運転席の周りには先に駆け寄った人たちがいた。その中で、一人が運転手の肩をつかみ、揺すりながら声をかけていた。


「下がってください!」


医者が声を上げて近づく。


ガラガラと音を立てて、看護師もカートやストレッチャーを押しながら駆けつけてきた。


医者は運転席に身を乗り出し、運転手の状態を確かめると、手際よく体勢を整えた。看護師が隣に付き、カートから電極のついた機器を取り出す。

あれは──AEDの親玉か。


胸に電極が当てられ、電気ショックが走る。運転手はかすかに動き、呼びかけに応じたように見えた。


医者は確認すると、看護師に病院内へ運ぶよう指示した。


……よかった。どうやら助かったようだ。



◇◇◇



ストレッチャーに乗せられた運転手が運ばれていく。医者も続き、数歩進んだところでふと振り返った。


「あなた、医者ですか?」


思いがけない問いに、俺は一瞬戸惑う。


「いえ、違います。タクシーに乗っていた者で──」


「そうですか。AEDって普通は言わないので」


「あ……」


「除細動器が必要だとわかる言い方だったので、すぐ状況は把握できました。おそらく心筋梗塞でしょう。あとは中で対応します。落ち着いたら詳しくお話を聞かせてください」


俺が頷くと医者はストレッチャーを追って駆けていった。


俺はその背中を見送りながら、しばらく医者の言葉を頭の中で考えていた。


──そうか。


この時代、まだAEDは一般に普及していなかったんだ。

AEDが何の略かは知らないが、医者は何度も『ジョサイドウキ』と口にしていた。それが正式名称なのだろう。


今の世界ではどこにでも設置され、使い方も広く知られているが、ここでは違うようだ。

一般人が扱える自動のものではなく、医者や救急隊員だけが使う機器としてしか存在しないのだろう。


だから、俺が咄嗟に口にした『AED』という言葉は、この場ではかなり異質だったに違いない。

守衛が反応を示さなかったのも無理はない。


そして、あの医者も──

医者はAEDを知っていた。だから俺の言葉で、『AEDが必要=心臓発作の可能性』と判断したのだろう。

医療知識のある人間だと信頼し、すぐ行動に移してくれたんだ。


とにかく、よかった。もう安心だ。


運転手を助けたことで、後ろに並んでいた妊婦は事故に遭わない。あのタクシーの列のループも、もう繰り返されないはずだ。


──で、俺はどうなる?

ここからまた人生をやり直すのか。


……それも、悪くないかもしれない。


俺は未来を知っている。

今はバブル絶頂期だが、一年後には崩壊が始まる。焦らず備えればいい。

投資を始めるのもありだ。IT産業の伸びや、リーマンショックも知っている。うまく立ち回れるはずだ。

いや、自分のことだけじゃない。大地震も来る。止められなくても、防災を広めることはできるかもしれない。


未来を知るということは、そういうことだ。俺の第二の人生はある意味、責任重大だ。


そんな先のことに思いを巡らしながら、医者のあとを追うように歩き始めた──その時だった。


エンジン音に気づく。


振り返ると、タクシーはアイドリングのまま止まっている。ラジオの音も、かすかに聞こえていた。運転手の処置を優先して、そこまで気が回らなかったのだろう。


切っておくか。


そう思い、運転席に体を入れ、キーに手をかける。


その瞬間、ノイズ混じりの声がラジオから聞こえてきた。


「……臨時ニュースを申し上げます。政府は、新しい元号を──」


思わず手が止まる。

ラジオの声に引き込まれた。

続いて、会見の音声が流れる。


「新しい元号は、『平成』であります」


──平成。


聞き慣れているはずのその言葉が、なぜか今は異様に生々しく響いた。


そうだ。今日は、昭和最後の日。


ひとつの時代が、終わった日だ──




そして次の瞬間、目の前が真っ暗になった。



◇◇◇



「──さん」


……ん?


「お父さん!」


あれ? 妻の声が聞こえる。夢か?


「お父さん! もうすぐ八時よ。そろそろ起きて」


目を開けると、ベッドに横たわっている。


意識を失って運ばれたのか?

……いや、ここは俺の寝室だ。


いつもの天井。見慣れた照明。カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。


──夢ではない。

夢は……あっちのほうか。


いや──夢にしては、生々しすぎる。


タクシー乗り場の喧騒。

トサカヘアの女性の、申し訳なさげな目。

車内に染みついたタバコの匂い。

鳴り続けるクラクション。

ラジオから流れる、ノイズ混じりの声──


あれは──昭和最後の日。


確かに、経験したはずだ。だとしたら、俺はあの時点から人生をやり直したのか?


──未来は、変わっているのか?


「佐和子たち、十一時過ぎには来るって。康一も」


カーテンを開ける悦子をぼんやりと見つめる。


「もう。寝ぼけた顔しちゃって」


笑う彼女は、いつもと変わった様子はない。見た目も、着ている服も。


周りを見回す。やっぱりいつもの寝室だ。家具も、窓から見える景色も変わらない。

……豪邸に変わっている気配はない。


着ているパジャマも量販店の安物だ。

どうやら投資で儲けて未来が変わったわけではないらしい。


とすると、やっぱりあれは夢だったのか?


まだ半分納得できない気分のまま、起き上がる。


「昼はご馳走だから今のうちに軽く食べておいて」


娘たちが来るからか、悦子は朝から掃除や料理の準備で忙しそうだ。


「何だか変な夢を見たよ。過去に戻って人助けした夢」


昨晩の夢の話を悦子にしてみた。


「へー」


の一言。

……人の夢の話ほど、聞いていてつまらないものもないからな。


リビングでトーストをかじりながらスマホで今日のニュースを確認する。

そういえば昔は新聞を読みながらこうしていたな。


今は大体の情報がスマホで済む。便利になったものだ。知りたいことも、知らない言葉もすぐに調べられるし……。


その時、ふとある言葉が脳裏によぎった──『ジョサイドウキ』。


夢の中で医者は、AEDの親玉のことをそう呼んでいた。だが俺は、その名前を知らなかったはずだ。

本当にそんな名前なのか?


スマホに『ジョサイドウキ』と入力する。

出た。『除細動器』。こんな漢字なのか。


画像を見て確信する。これだ。この器械だ。


……なぜ、俺はこれを知っている?


この除細動器というものは、あの時代では一般的だったのか? それで俺は、この言葉を知っていたのか? 忘れていただけで。

いや──俺は当時も、この言葉を知らなかったはずだ。


だとすれば──どの程度知られていたものなんだ?


……そういえば、AEDはどうだ? 

夢の中では、AEDは一般的に知られていなかった。


スマホで、『AED』『普及』『いつから』『日本』と入力してみる。


検索結果がずらりと並ぶ。一番上の見出しに目を走らせた。


『AED(自動体外式除細動器)は、2004年7月1日から日本で一般市民による使用が解禁され……』


どうやら、1989年では存在はしていたものの、医者などの限られた人にしか知られていなかったようだ。これは夢の中の状況と合致している。


知らなかったはずの言葉も知っていたし、あれは本当に夢だったのか──


なんだか釈然としないまま、ほかの検索結果にも目を通す。スクロールしながら流し見していると、ある文字が目に飛び込んできた。


『羽田港一』


……えっ?



◇◇◇



──羽田港一。


俺は、この文字……いや、この名前を知っている。忘れるはずがない。

夢の中で見た乗務員証が、鮮明に蘇った。


──鳥肌が立った。


『AED普及に尽力 川崎市の羽田港一さんに藍綬褒章』


記事にはこうあった。


「秋の褒章で、AED普及への貢献が評価され、川崎市の羽田港一さん(85)が藍綬褒章を受章した。羽田さんは元タクシー会社役員で、現役時代からタクシー車両へのAED導入を働きかけてきたという。


その原点となったのは、約四十年前の出来事だった。当時タクシー運転手だった羽田さんは、乗務中に突然体調を崩し、車内で意識を失った。

その際の行き先は、偶然にも病院だったという。乗車していた客が異変に気づき、迅速に医師を呼んだことで一命を取り留めた。


その経験について羽田さんは、『自分が助けられたように、今度は自分が誰かを助けたいと思った』と振り返る……」


記事には、2004年に一般市民によるAEDの使用が解禁されて以降、普及が進み、2014年頃からはタクシーへの導入も広がりを見せたとある。


当時タクシー会社役員となっていた彼の会社でもAEDの車載を進め、その後も退職後に至るまで、AED搭載タクシーの普及に尽力してきたという。


──この人物は、間違いなく俺が助けた運転手だ。


名前。

タクシー運転手。

きっかけとなった出来事。


ここまで一致している。

間違いない。

やはり、あれは夢ではなかったんだ。


俺はタイムリープをして運転手を助けた。そして彼はAED搭載のタクシーの普及に努め、少なからず人命を救い、社会に貢献した。

そのきっかけを作ったのは俺だ──


と、ここで疑問が湧いた。


あの運転手もループに巻き込まれていたはずだ。俺が助けるまで、客を乗せては事故で死に、また同じ場面に戻る──それを繰り返していた。俺も、前に並んでいた人たちも同じだ。


だが、俺たちは事故の記憶を持ったまま列に戻る。だから次はそれを避けようと、列から抜けようとした。


では、運転手はどうだ?


もし彼も記憶を持って戻っていたのなら、事故を避けられたはずだ。発作を起こすと分かっているなら、運転をやめることもできたよな……。


──なぜだ?

わからない。整理が必要だ。


俺は紙とペンを用意しようと立ち上がった。


「お父さん食べた? そこ、掃除機あてるから」


「ああ……じゃあちょっと上にいるわ」


二階の部屋に行き、机に向かう。頭の中でこんがらがっていることを整理しようと、紙を広げ、ペンを取って書き出した。


・俺

・運転手

・女性 (トサカ)

・妊婦


それぞれに起こった、あるいは起こったであろうことを書き出していこう。


まず、俺だ。


――


2029 → 1989(1回目)

タクシー乗り場 → 事故


→ 1989(2回目)

タクシー乗り場 → 事故を防ぐ


→ 2029

人生はやり直さず元に戻る


――


運転手


1989

運転 → 事故 → ループ

※記憶なしで繰り返す


1989(俺の2回目)

運転 → 俺が助ける → 一命を取り留める


→ 2029現在まで人生を送っている※助けられた記憶は残っている


――


トサカ


?→ 1989(1回目)

タクシー乗り場 → 事故


→ 1989(2回目)

タクシー乗り場 → 列から抜ける → ?

① 何も起こらず元の年代に戻る

※俺と同じ

② 列を抜けたまま、その時代を継続して生きる

※記憶が残ってるかは不明


――


妊婦


1989

タクシー乗り場 → そのまま別のタクシーに乗る?

※リープかその時代の人物か不明


――


ここまで書いてペンを置き、紙を見つめて考える。


まず、運転手だ。

俺が助けるまでは、乗客を乗せては事故を起こし、その記憶を持たないまま再び事故の直前に戻る──そんなことを繰り返していたはずだ。


だが俺は違った。事故のあと列に戻っても記憶は残っていた。俺の前に並んでいた乗客たちも同じだ。

だから、もう一度戻ったときには事故を避けるために列を離れたり、俺は運転手を助けようとしたのだ。


もちろん、中には理解できず再び乗り込んでしまい事故に遭った者もいたかもしれない。だが、いずれは列から離れるはずだ。


それに──もうひとつ引っかかることがある。

運転手を助けたあと、俺は人生をやり直すことなく2029年に戻った。


だが、運転手は違う。俺に助けられた記憶を持ったまま、その後の人生を生きている。


記事にも、「乗客に助けられたことがきっかけで」とある。そう考えて間違いないはずだ。


……何が違う?


俺やあの列に並んでいた人たちと運転手との違いは──ただ、『乗客と運転手』という立場の違いだけなのだろうか。



◇◇◇



スマホを取り出し、運転手の記事をもう一度確認する。


「……羽田さんはそう振り返る。『自分が助けられたように、今度は自分が誰かを助けたいと思ったんです』……」


スクロールしてその先に目を通すと、彼の別の活動についても書かれていた。


「……また、羽田さんはAEDの普及に取り組む一方で、車内の安全対策にも力を注いできた。特にシートベルトの着用については、後部座席を含む全席での着用が義務化される2008年以前から、勤務先のタクシーで乗客へ着用を促していたという……」


シートベルト──。


最初にタクシーに乗った時、俺は締めなかった。締めようとしたが、不思議がられて、なんとなく締めにくい空気だったからだ。


もし締めていたら事故で死ぬことはなかったのかもしれない。義務がなかった時代だ。他の乗客も、おそらく締めていなかっただろう。


では、運転手は──?


彼もしていなかったはずだ、と一瞬思う。いや、待てよ。何か引っかかる。


そうだ、音だ。


カチャッという音。シートベルトを外した音だった。


二度目のタクシーで、発作が起きるまで車内に留まろうとしていた俺に、彼は降車を促すため先に車を降りた。その直前に聞こえたカチャッという音。


ああ、降りてしまうのか──そう思ったその一瞬の感覚がはっきりと蘇る。つまり、彼はシートベルトを締めていたのだ。


一般道路では着用義務はなかった。だが、運転席に関しては、高速道路では着用が義務づけられていたはずだ。


羽田からなら高速道路を使うことも珍しくないし、彼は普段から締めていたのかもしれない。そうであれば、運転手は事故を起こしても死ななかったのではないか──そんな考えが頭に浮かんだ。


もちろん、シートベルトを締めていたからといって、必ず助かるとは限らない。逆に、締めていなくても助かることはあるだろう。あくまで確率の問題だが、締めていれば助かる可能性は高い。


もしあの運転手が、何度事故を起こしても生き延びていたとすれば──彼は元号が変わる話をしていた若い男性たちやほかの通行人と同じように、ただその時代に生きる一人だったのかもしれない。


一方で、あのタクシーの列に並んでいた俺たち数人だけは、何らかのきっかけでタイムリープし、事故のループに巻き込まれた。

俺たちだけが、運転手や周囲の人たちとは違う運命に置かれたのだ。


そう考えると、運転手の運命は決まっていて、何度同じような発作や事故を経験しても、結果的には死なずに生きていたのだろう。俺が助けなくても。


──だとしたら。


俺は、結局何もしていないのかもしれない。


たまたまそこに居合わせて、たまたま動いただけで──運転手は最初から助かるはずだった。

そう考えてしまえば結局、それまでのことだ。


しばらくスマホの画面を見つめたまま、指が止まる。


いや、違う。


記事を思い出す。


「自分が助けられたように、今度は自分が誰かを助けたいと思った」


──あの言葉。


あの時、あの車内で何があったのか。どんなふうに助けられたのか。そしてそれを彼がどう感じたのか。どう受け止めたのか。その受け止め方ひとつで、その後の選択は変わるのかもしれない。


俺があの場で動いたこと。医者の説明を聞いたこと。あの瞬間の空気や、焦りや、切迫感──そういうものが、ほんの少しでも彼の中に残っていたとしたら、それが彼の活動の一歩につながった可能性だってある。


たとえ結果が同じだったとしても、そこへ至る『理由』は変わったのかもしれない。そう思うと、俺の行動にも意味はあった。


そして、もう一つ。

あのループのことだ。


誰かが乗って死んで戻る。そしてまた誰かが乗り、同じことを繰り返す。終わりの見えない、あの連鎖。


だが俺は、事故が起きると分かっていながらあのタクシーに乗った。そして死ななかった。後ろに並んでいた妊婦に、それを押しつけることもなく。


そう。あの瞬間で、終わったんだ。どうしようもなく続いていたであろうあの流れは、俺が乗って生き延びたことで、静かに、だが確かに──あのループは断ち切られた。


いや、俺が断ち切ったんだ。


だとしたら──


あの場でループに巻き込まれていた人たちはどうなったのだろう。

あのトサカヘアの女性や、列に並んでいたほかの人たちも……。


列を離れ、事故を避けて元いた時代に戻っていったのだろうか。


もし彼らが、事故の記憶や誰かの犠牲を感じながら生きているのだとしたら……それは少しつらいことかもしれない。


今も覚えている。列を離れる瞬間、申し訳なさそうに俺を見たあの目。


俺だって同じだ。後ろに並んでいたのが妊婦でなければ、きっと列を離れていただろう。あの時は娘と重なって、どうしても抜けられなかった。


それだけの違いだ。誰かが特別に強かったわけでも、弱かったわけでもない。


その場で何を選んだか。それだけのことだ。


だから、ただそれを抱えたままであったとしても、せめて前を向いて生きていてほしい。そう思わずにはいられなかった。



◇◇◇



そんな思いを胸に、もう一度あの運転手の記事を見返す。


社会貢献の関連記事が並ぶ中、何気なく流していた視線の先で、ある写真が目に留まった。


落ち着いた雰囲気の六十歳前後の女性。なんとなく気になり、思わずその見出しをタップする。


『野々村美咲さん、戦争孤児支援に総額1億円の寄付』


どこかで聞いた名前だ。確か作家かなんかだ。

美咲──ミサキ? あのトサカヘアの女性はそう呼ばれていたはずだ。


まさか……いや、偶然だろう。それでも気になって、本文に目を通してみる。


「作家・ジャーナリストとして知られる野々村美咲さん(60)が、国際的な孤児支援団体への多額の寄付を行っていたことが明らかになった。寄付総額は1億円にのぼり、アジアや中東地域の戦争孤児の生活支援や教育環境整備に充てられるという。


野々村さんは5年前から支援活動に取り組み、取材に対して『自分にできることを少しずつでも形にしたい』と語っている。


寄付の背景は明かしていないが、多くの子どもたちの生活や教育に貢献したいという思いが、継続的な活動につながっていると見られる……」


記事だけではトサカヘアの女性と繋がっているかはわからない。『美咲』という名前も、珍しくはない──今なら。


だが、記事の女性は現在六十歳。その年代で美咲という名前は、当時は今ほど多くなかったはずだ。少なくとも俺のクラスにはいなかったぞ。


写真をじっと見つめる。

あの申し訳なさげな目だけは覚えているが、顔の細部ははっきり思い出せない。


写真の女性の髪型は当然トサカヘアではないし、何より年月も大きく流れている。たとえはっきり覚えていたとしても、印象は変わっているだろう。


それでも、指で写真を拡大した瞬間、思わず息を呑む。


左目の下にほくろが一つ──泣きぼくろ。

トサカヘアの女性と同じだ。


偶然……なのか。

いや、そうじゃない気がする。


もし、この女性があのトサカヘアの女性だとしたら──

彼女は、あの時に抱えたであろう罪悪感や後悔に縛られてはいないだろう。


むしろ、それを力に変えて前を向き、自分にできることを見つけて生きてきたように思える。


そう考えるだけで少しほっとする。そして、あの女性だけでなく、列から抜けたほかの人たちも同じように、後悔や迷いを力に変えて前を向いて歩いているのかもしれない──と。


「やっぱり、あれは夢じゃなかったんだ」


スマホをパタンと閉じ、呟く。


あの経験はとても夢とは思えない。

運転手やトサカヘアの女性のことを考えれば、なおさら偶然とは思えなかった。


だとしたら──

そもそも、なぜこんな出来事が起きたのだろう。


野々村美咲さんがあの女性だとすれば、まず時期が合わない。記事によれば、彼女が社会貢献活動を始めたのは五年前。


もしあの出来事が、活動を始めるきっかけだとしたら、タイムリープはそれより前に起きていなければおかしい。だが、俺が体験したのは昨晩、眠りについたあとだ。


時期は合わないし、年齢も性別も職業も違う。


こういうのって、特に理由もなくランダムに起きるものなのか──



◇◇◇



「お父さん!」


「うわっ」


突然の悦子の声に、思わず声を上げる。振り向くと、腕を組んでドアの前に立っている。


……あ、これ、怒ってるパターンだ。


「下から何度も呼んでいるのに! 一体何をしてたの?」


「あー、ごめん。ちょっと考え事をしていて」


俺はさりげなくメモ書きを畳みながら謝る。さっき夢の話は軽く流されたばかりだ。


こんなことを真剣に考えていると知られたらどう思われるか。

……いや、話したところでまた軽く流されるだけか。


「佐和子たち来たの?」


「そうよー。康一たちも一緒。早く来てよね」


よし。とりあえずあの話は胸にしまっておこう。また、あとで考えればいい。


リビングに顔を出すと、大きなお腹の佐和子が真っ先に目に入った。


……あの妊婦は、事故に巻き込まれずに済んだはずだ。そう思うしかない。


あ、いかんいかん。今は考えるな、考えるな。


佐和子夫婦に康一と婚約者。みんな揃っている。


「お父さん! おめでとう!」


佐和子がお腹をさすりながら笑いかけてくる。俺は苦笑いする。


「おいおい。正月も来たじゃないか。まだ一週間しか経ってないぞ」


一瞬の沈黙のあと、ドッと笑いが起きた。


「やだー、お父さん。あけましてじゃないわよ! 誕生日! 誕生日おめでとう!」


──ああ、そうだ。

今日は一月八日。俺の六十五歳の誕生日だ。


夢から……いや、タイムリープから覚めて以来、そればかり考えていたせいで、すっかり忘れていた。


佐和子たちが今日来ることは覚えていたが、何のために来るのかは頭から離れていたようだ。


「さあ、もう用意はできているから始めましょうか」


悦子がテーブルの真ん中に置かれたガスコンロに火をつける。

蟹すきか。奮発したな。俺の好物だ。


「ちょっと手を洗ってくるわ」


そう言って洗面所へ向かう。



◇◇◇



鏡に映る自分の顔を見ながら、もうおじいちゃんの顔だよな、と小さくため息を吐く。


自分の誕生日を忘れるなんてダメだな。やっぱり年か。

いや、昨晩はしっかり覚えていたぞ。悦子ともそんな会話をした。で、ベッドに入ってから、今までの人生を振り返ったんだ。


もう一度、自分の顔を見る。

すると、タクシー乗り場で車の窓に映った若返った自分の顔がふと浮かんだ。


そうだ。眠る前に、もし人生をやり直せたら、と考えたよな。それがきっかけで、過去に戻ったのだろうか。意識だけが──


だが、人生をやり直せたらなんて、誰でも一度くらいは思うはずだ。それだけで、過去に戻ってしまうものなのか。


しかも、真剣に願ったわけでもない。ただ、頭をよぎる思いつきに過ぎない。


もしかしたら、あの時の思いは、自分でも気づかないところで、思っていたより深く沈んでいたのかもしれない。


六十五歳の誕生日の前日という節目。

思っていた以上の後悔。どうせやり直しても自分は変わらないだろう、という気持ち。


よくわからないが──そうしたものが整理されないまま重なり合い、俺自身もよくわからないまま、何かが動いて過去に戻ってしまったのだろうか。


そういうことなら、タイムリープする時期はランダムではなく、ただ人によって違うだけになる。

野々村美咲さんの場合、それが五年以上前だったと考えれば理解できる。


俺は過去に戻ったとはいえ、人生をやり直したわけでも、今までの人生が変わったわけでもなさそうだ。あのタイムリープ自体に何か意味があったのか、正直よくわからない。


ただ、あの運転手を助けたことで、AEDの普及が少しでも進み、誰かの命が救われた──それだけは事実だろう。


だからあの出来事も──意味があったってことにしておこう。



◇◇◇



「ちょっとー! お父さん、まだあ!?」


リビングから佐和子の大声が聞こえる。お腹の子が飛び出しそうなくらいの声だ。


「すまーん! 今行く!」


急いで戻り、席に着く。


「今日は朝からお父さん、なんだかぼーっとしてるのよ」


「ひとつ老けたからかしら」


悦子と佐和子は笑いながら肩を寄せ、楽しそうに話す。


「はい。じゃあ、お父さん、六十五歳の誕生日おめでとう! それと、定年退職お疲れ様でした!」


康一がグラスを手に取り、音頭を取って乾杯する。


悦子と佐和子も、さっきまで俺をからかうように笑っていたが、今は妙に真面目な顔だ。


佐和子の夫の忠司君や康一の婚約者の晴香さんも、優しく微笑んで俺に視線を向けている。


何だか照れ臭い気分の中、六十五歳と定年退職という言葉を聞き、人生の節目を迎えたんだなとあらためて実感する。


とにかく俺は、またいつもの生活に戻ることができた。


あの過去での出来事で俺自身は何も変わっていなくても、これからも変わらなくても、それでいい。変わらないのが一番だ。


──本当に、俺は何も変わっていないのだろうか。


そう考えた瞬間、康一が聞いてきた。


「で、お父さん、これからどうするの?」


「え? 何が?」


「仕事を続けるとはいえ、今までより少し楽になるんでしょ? もう年なんだし、そろそろ人生楽しんでもいいんじゃない?」


そんな質問か。答えは簡単だ。


別に何も──そう言いかけて、ブレーキがかかった。


いや、違う。答えは、ちゃんとある。


「そのつもりだよ」


静かに、でもはっきりとそう答えると悦子が少し身を乗り出した。


「あら。何をするつもり?」


俺は自分でもよくわからないまま、何かに背中をグイッと押されたように言葉を返した。


「仕事は確かに一線を退くけど、新たな気持ちで挑戦するつもりだよ。全力でね」


思いのほか力強く言ったせいか、みんな少し驚いたようだ。


「でも、別にがむしゃらに働かなくてもいいんじゃないの? お父さんも前は『あと五年適当に頑張る』ぐらいの調子で言ってたじゃない」


佐和子のツッコミに、思わず苦笑いしてしまった。


そう。俺は、本当にそんな気持ちだった。あと五年だけ再雇用でやる──だから、まあ無難にやっておけばいいか、くらいの感覚。


でも今は違う。

今は、しっかり向き合っている感覚だ。


思えば、これまではただ無難に仕事をしてきただけだった。

責めず、挑戦せず、目立たず──そんな毎日。


そこにはいつも、『どうせ』という言葉が付きまとっていた気がする。何をしても意味がない、どうせ俺は──そんな思いが、心のどこかに常にあった。


それでも、あの現実とは思えない体験の中で、今までの自分ならやらなかったことを、俺はやった。

妊婦のために逃げずに列に残った。

運転手を助けようと必死になって動いた。


その自分に、一番驚いたのは、ほかでもない俺自身だった。


ためらわず、一歩を踏み出せる──そう思える自分が、今ここにいる。


「もちろん、仕事だけじゃなくて、これからの人生も楽しむつもりだよ」


そこで一瞬ためらいながらも、もう一度口を開いた。


「実は……前々から考えていたんだけど、キャンピングカーを買おうかなと思っていて」


一瞬、場の空気が止まった。それから、みんなが顔を見合わせる。


そう。三か月に一度は悦子と近郊のキャンプ場へ行き、テントを張って過ごしている。俺にとっては、それが唯一と言っていい楽しみだ。娘や息子も、小さい頃はよく一緒に連れて行ったものだ。


「やだ、お父さん。そんなこと一言も言ってなかったじゃない」


悦子の声は驚いていたが、そこに否定の色はない。むしろ、どこか楽しそうですらある。


反対されると思っていた俺は、ほっと息をついた。


今までは言わなかった。いや、言えなかった。キャンピングカーなんて高いし、維持費もかかる。今の車を手放さなければ、駐車場代だって倍になる。


それに、これから高齢者になる身だ。いつまで安全に運転できるかもわからない。

……交通事故だけは、もう二度とごめんだ。


だから、夢のまた夢だと諦めていた。


──でも。


「いいんじゃないですか?」


それまで黙って聞いていた忠司君が、静かに言った。


「テントを張るのもいいですけど、キャンピングカーなら天候も気にせずに行けますし、遠出してもその時の気分で予定を変えられますしね」


頼もしい味方だ。


「それに……」


そう言って、忠司君は隣に座る佐和子のお腹に目をやった。


「この子が少し大きくなったら、一緒に行きたいですね。子どもって、そういうの喜ぶでしょうし」


すると、康一もすぐに乗ってきた。


「じゃあさ、お父さんが運転怪しくなったらさ、それ俺にちょうだいよ。その頃には俺たちも子どもできてるかもしれないしね」


そう言って、ちらっと晴香さんを見る。彼女は少し照れたように、そっと微笑んだ。


その光景を見て、何かがわかった気がした。


あの昭和から平成に変わる瞬間。

ひとつの時代が終わる日に経験した、あの出来事。

きっかけも、意味も、正直わからない。


それでも──


俺は、あの時確かに動いた。


あの運転手を助けた。

トサカヘアの女性──野々村美咲さんも、今は誰かのために生きている。

二人とも、誰かの役に立っている。社会に何かを返している。


でも、俺は違う。


そんなふうに大それたことはできない。

世界を変えることなんて、俺にはできない。


それでもいい。


あの時、動いた自分がいる。

そして今、前を向こうとしている自分がいる。


それだけで、十分だ。


今日から、六十五歳。世間で言えば、高齢者だ。


だからどうした。


もう年だから、なんて今は思わない。


あの日──昭和という時代が終わった。

そして、平成という新しい時代が始まった。


ひとつの時代が終われば、新しい時代は必ずやって来る。




そう。昨日、俺の時代がひとつ終わった。

そして──

新しい時代が、今日から始まるんだ。





『ひとつの時代が終わる日に』 完



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