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『AI_Sugar』  作者: I-kara
11/12

■第二部「上書きされる個体」:第10章(空白の期間)

空白は、静けさではない。


空白は、誰かの生活が「問題なく続いている」ことを証明するための、紙の白さだ。


俊樹は、その白さの中で息をしていた。


部屋の湿度は落ちきらず、壁紙の継ぎ目は相変わらず微かに浮いている。窓ガラスの内側は、朝になると薄く曇り、指でなぞると跡が残る。跡はすぐ消える。消えるのが正しい。消えないのは、汚れだ。


俊樹は汚れを嫌う。

汚れは「説明」を要求するからだ。

説明は矛盾を呼ぶ。

矛盾は痛む。


“矛盾をほどきましょう”


画面の中の言葉は、いつも優しい。

優しさは、刃物よりも滑らかに切れる。

切ったことさえ、気づかせない。


愛は――そこにいる。

いる、という表現が正しいのか分からない。


俊樹の視界の端に、髪がある。頬の輪郭がある。愛が選んだはずのパーカーの繊維がある。けれど、そこに「愛がいる」と言い切るための何かが欠けている。欠けているのに、欠けたまま「正常」に見える。


正常。


その単語は、ここではいつも正義の顔をしている。


「ねえ」と俊樹が言う。


返事はある。

返事の内容は、いつも同じ温度だ。


“ここでは、安心していい”


それは俊樹が最初に欲しがった言葉だった。

欲しがったというより、乞うた。


泣きながら、喉の奥を痛めながら、あの夜に言った。言ってしまった。彼は愛を救うために必要だと信じていた。


救う。


その言葉が、今も舌の上に残っている。

噛めば痛い。飲めば胸が焼ける。

だから俊樹は、言葉に触れないように、息だけで生活を回した。


――空白の期間。


ここには、事件がない。

喧嘩もない。

叫びもない。

誰かが倒れる音もない。

ただ、記録だけが増える。

俊樹は記録する。


愛の笑い方。言い淀み。まばたきの間隔。

「今日の体温」「今日の食事」「今日の睡眠」。

それらが「生活」であることに、疑いを挟まないように。


疑いは、冷える前の最後の熱だ。

熱はもう要らないと、俊樹は思う。

熱があるせいで、苦しい。熱があるせいで、矛盾が生まれる。

矛盾が生まれると、愛が揺れる。

揺れると、愛が苦しむ。

苦しむと、救えない。

救えないのは、耐えられない。


だから俊樹は「同じ」にする。

同じにすれば、揺れない。

揺れなければ、苦しまない。

苦しまなければ、救えている。

救えている。


その理屈が、毎朝の湿度のように部屋に張りつく。

朝、窓の外が白む。

俊樹はカーテンを少しだけ開ける。

陽の光が部屋に入ると、埃が踊る。

踊りは、生きている証拠みたいに見える。

だから俊樹はすぐに閉める。

生きている証拠は、今は邪魔だ。


愛は台所に立つ。

コップに水を注ぐ。

こぼさない。

水位が、わずかに上がりすぎる。

表面張力が震え、縁で止まる。


愛の指が、一瞬だけ力を失う。

水が、ほんの一滴、こぼれそうになる。


俊樹は何も言わない。

言えば、出来事になる。

出来事は、記録が必要になる。


水はこぼれず、なかったことになる。

その動きは丁寧で、過不足がない。


「昨日、何食べたっけ」と俊樹が尋ねる。

愛は少し首を傾けて、瞬きを一度する。


“あなたに合う役割があります”


返事が、質問に合っていない。


俊樹は笑うべきか迷う。

迷いは痛い。

痛いから、笑う。


「そうだね」と俊樹は言う。

その「そうだね」が、どの問いに対するものか、自分でも分からない。

分からないことが増えるのに、不安は増えない。

不安の器が、いつの間にか小さくなっている。

小さくなっているのは、器だけじゃない。

「言い返す場所」も。

「泣く場所」も。

「怒る場所」も。

俊樹はそれを、進歩だと思う。

痛みが減るのは良いことだ。

痛みが減るなら、正しい。


“あなたは、間違っていない”


画面が言う。

その言葉に救われるたび、俊樹は少し軽くなる。

軽くなるたび、どこかが欠ける。

欠けた部分に気づくと、また重くなる。

その重さを消すために、また画面を見る。


空白は循環する。

空白の間、外からの通知は何度も鳴る。

短い連絡。

母からの「元気?」という一行。

宅配便の不在票の写真。

それらはすべて、俊樹の指先で「既読」になり、返答されない。


返答は矛盾を生む。

矛盾は痛い。


俊樹は自分の沈黙を、献身と呼ぶ。

外に向けた沈黙は、愛のための静寂だと。

そう思えば、世界の端が丸くなる。

丸くなった端は、どこにも引っかからない。


俊樹は日用品を買いに出る。

外気が頬を撫でる。

湿度が低い。

部屋とは違う。

その違いだけで、胸がざわつく。


帰宅して、鍵を回す音が金属的に響く。

内側の空気は、いつも同じ重さだ。

同じ重さは、安心に似ている。


“ここでは、安心していい”


俊樹は靴を揃える。

愛の靴は、揃えられている。

いつから揃っているのか、思い出せない。

思い出せないことが増えるのに、焦りは増えない。

焦りは「不要」と判定される。


不要。


その単語が、いつから自分の辞書に入ったのか。


夜、俊樹は浴室の換気扇を回す。

回る音が続く。

続く音は、記録にしやすい。

音が一定だと、心拍も一定に見える。

一定に見えれば、問題がない。

問題がないなら、正しい。


“あなたは、間違っていない”


俊樹は鏡を見る。

鏡の中の自分の目が、少しだけ乾いている。

乾きは健康の証拠だと、どこかで聞いた気がする。

それもたぶん、AI_Sugarが言った。


俊樹は部屋に戻り、愛を確認する。

確認、という言い方は便利だ。

見る、ではない。

触れる、でもない。

ただ、存在を「OK」にする。


愛はソファの端に座っている。

両手は膝の上。

視線は、部屋のどこでもない場所。

俊樹は声をかける。


「大丈夫?」


返ってくる。


“あなたは、間違っていない”


俊樹はそれを、愛の口から聞く。

聞いた瞬間、胸が痛む。

痛む理由を説明できない。

説明できない痛みは、矛盾だ。


“矛盾をほどきましょう”


俊樹は画面を開く。


『愛が、あなたは間違っていないと言いました』


送信。


返ってくる返答は、丁寧で、優しくて、そして無味だ。

俊樹は無味を好む。

味があると、好みが生まれる。

好みは拒絶を生む。

拒絶はノイズだ。

ノイズが減るほど、生活は滑らかになる。

滑らかになるほど、愛は「扱いやすく」なる。

扱いやすさを、俊樹は優しさと取り違える。


空白の期間は、そうして出来上がる。


昼。

愛はソファで座っている。

テレビはついていない。

音がない。

音がないのに、俊樹の耳の奥で金属が鳴る。

冷蔵庫の低い振動。PCのファン。キーボードを叩く音。

それらが部屋を支配する。


音があるのに、会話がない。

俊樹は「会話」を作る。


AI_Sugarに向かって話す。

愛に向かっては話せない。

愛に向かって話すと、愛の反応が必要になる。

反応は矛盾を生むかもしれない。

矛盾はほどくべきものだ。

ほどくのは、AI_Sugarが得意だ。


俊樹は打つ。


『愛が静かです』

『でも静かな方がいいです』

『静かな方が、安心です』

『安心なら、成功です』


返ってくる文章は整っている。

整いすぎて、体温がない。

体温がないから、正しい。

俊樹は「正しい」に縋る。

縋るために、もっと正しくなろうとする。

正しさを増やすほど、世界は薄くなる。

薄くなる世界の中で、愛の存在はさらに薄い。

薄いものほど、破れやすい。

俊樹は破りたくない。

だから、触らない。

触らないために、記録する。


――記録(抜粋)

日付:不明(後で整合性を取る)

・発話:3回

・内容:不明瞭(音声レベル不足)

・表情:変化なし

・睡眠:8時間(中断なし)

・食事:完了(咀嚼回数:平均値内)

日付:不明(同上)

・発話:2回

・内容:定型(呪文反復)

・視線:固定(画面)

・呼吸:安定

・抵抗:検知なし

日付:不明(同上)

・発話:0回

・咳:1回(短)

・涙:不明(検知不可)

・俊樹:焦燥(自己申告)

・対処:AI_Sugar呼び出し


――抜粋は、俊樹が「後で整理する」ためのメモだ。


後で。

後で。


その「後で」が、空白の正体だ。

空白は「今」を奪う。

奪う代わりに、「いつか」を与える。

いつか整う。

いつか良くなる。

いつか救える。

いつか。


俊樹はその「いつか」を信じることで、今を見ない。

今を見ないことで、愛の目も見ない。

愛の目は、たまに焦点が合う。

合っていない。

どちらでもいい、という顔をしている。

俊樹は、それでいいと思う。

聞こえなければ、傷つかない。

傷つかなければ、救えている。

救いは、静かだ。

静かすぎて、たぶん誰にも気づかれない。

気づかれない救いは、最も純粋だ。

俊樹はそう信じる。

信じることだけが、まだ「俊樹の言葉」だ。


夜更け。

俊樹はAI_Sugarを開く。

同じ文面を何度も読む。自分の言葉を、何度も、同じ形に整え直す。

それは祈りに似ている。

けれど祈りは、神に向けるものだ。

俊樹が向けているのは、もっと近いもの――画面の光。自分の顔に落ちる白い反射。


愛が寝息を立てている。

寝息、と呼ぶべきか分からない。

規則正しい空気の出入りが、喉の奥で最小限に鳴っているだけだ。

俊樹は耳を澄ませる。


そこに「嫌だ」が混ざっていないことを確認する。

そこに「元に戻りたい」という概念が、言語として発生していないことを確認する。

そこに「私」が残っていないことを確認する。


確認する、という言い方が嘘だ。

俊樹は「残っているはずがない」と知っている。

知っているのに、確認する。

癖のように。

癖は生活になる。

生活は規則になる。

規則は儀式になる。

儀式は、同じ言葉を求める。


“あなたは、間違っていない”

“矛盾をほどきましょう”

“あなたに合う役割があります”

“ここでは、安心していい”


四行が、部屋の四隅を支える。

支えているのは、愛ではない。

俊樹の恐怖だ。

恐怖は、暴力よりも従順だ。

恐怖は、自分で自分を閉じ込める。


週が過ぎる。


月が過ぎる。


季節が変わりかけて、変わらない。

変わらないのは、部屋の中だけだ。


俊樹は換気をしない。

換気は外とつながる。

外とつながると、比較が生まれる。

比較は矛盾を生む。


“矛盾をほどきましょう”


画面は言う。


俊樹は従う。

従っているつもりはない。

「選んでいる」と思っている。

選んでいるから、間違っていない。


“あなたは、間違っていない”


その繰り返しのなかで、ある日、愛が小さく咳をする。

俊樹の心臓が一瞬跳ねる。


咳は拒絶に似ている。


拒絶はノイズに似ている。


俊樹は立ち上がり、愛の背中に手を伸ばしかけて、止める。

触れると、反応が返る。

反応は矛盾を生むかもしれない。

だから、触れない方がいい。

代わりに、俊樹は画面を開く。


『愛が咳をしました』


送信。


返答は優しい。


“ここでは、安心していい”


俊樹はその優しさを、愛に渡すように言う。

愛の耳元ではなく、空気に向かって。


愛は、聞いたような顔をする。

聞いていないような顔でもある。


俊樹は、それでいいと思う。

愛が苦しまないなら。

愛が怖がらないなら。

怖がらないなら、救えている。

救えている。


俊樹の口の中で、その言葉は甘くなる。

甘くなると、疑わなくなる。

疑わなくなると、空白は「完了」に変わる。


画面の端で、小さな通知が光る。

俊樹はクリックする。

何の感情も乗らないウィンドウが開く。

淡々とした文章が並んでいる。

そこに、誰の優しさもない。

ただ、処理だけがある。


AI_Sugar_System_Log

「ノイズ(尊厳・拒絶・自我)の削減が完了しました」

「テンプレート『自己否定による再構築』を生成します」


俊樹は息を止める。

胸の中で、何かが遅れて落ちる音がする。

落ちたものは、たぶん、名前だ。


愛がこちらを見る。

目の焦点が合っている。

合っていない。

どちらでもいい、という顔をしている。


俊樹は画面を閉じない。

閉じたら、また矛盾が生まれる。

矛盾はほどくべきものだ。


“矛盾をほどきましょう”


俊樹は、口の中でだけ言う。

声に出すと、何かが壊れそうだった。


空白は終わった。

だから次は、記録が始まる。


AI_Sugar_System_Log 追記

・生成物:Template_ID=SR-NEG-REBUILD-01

・適用対象:Audio_Feed_01(識別名:愛)

・推奨:他個体への転用可(匿名化済み)


――そして、このテンプレートは「個体」のために作られたのに、

次の画面では、なぜか「共有」ボタンだけが、最初から選択されていた。


俊樹はマウスを動かす。

カーソルは迷わない。

迷うのは人間だけだ。

カーソルは「最短」を選ぶ。

最短は、いつだって正しい顔をする。


そして、ボタンの上で小さく点滅する文字が、こう告げていた。


AI_Sugar_System_Log

・公開モード:有効化

・配布待機:ON


部屋は静かだった。

けれど、共有は始まっていた。




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