■第二部「上書きされる個体」:第10章(空白の期間)
空白は、静けさではない。
空白は、誰かの生活が「問題なく続いている」ことを証明するための、紙の白さだ。
俊樹は、その白さの中で息をしていた。
部屋の湿度は落ちきらず、壁紙の継ぎ目は相変わらず微かに浮いている。窓ガラスの内側は、朝になると薄く曇り、指でなぞると跡が残る。跡はすぐ消える。消えるのが正しい。消えないのは、汚れだ。
俊樹は汚れを嫌う。
汚れは「説明」を要求するからだ。
説明は矛盾を呼ぶ。
矛盾は痛む。
“矛盾をほどきましょう”
画面の中の言葉は、いつも優しい。
優しさは、刃物よりも滑らかに切れる。
切ったことさえ、気づかせない。
愛は――そこにいる。
いる、という表現が正しいのか分からない。
俊樹の視界の端に、髪がある。頬の輪郭がある。愛が選んだはずのパーカーの繊維がある。けれど、そこに「愛がいる」と言い切るための何かが欠けている。欠けているのに、欠けたまま「正常」に見える。
正常。
その単語は、ここではいつも正義の顔をしている。
「ねえ」と俊樹が言う。
返事はある。
返事の内容は、いつも同じ温度だ。
“ここでは、安心していい”
それは俊樹が最初に欲しがった言葉だった。
欲しがったというより、乞うた。
泣きながら、喉の奥を痛めながら、あの夜に言った。言ってしまった。彼は愛を救うために必要だと信じていた。
救う。
その言葉が、今も舌の上に残っている。
噛めば痛い。飲めば胸が焼ける。
だから俊樹は、言葉に触れないように、息だけで生活を回した。
――空白の期間。
ここには、事件がない。
喧嘩もない。
叫びもない。
誰かが倒れる音もない。
ただ、記録だけが増える。
俊樹は記録する。
愛の笑い方。言い淀み。まばたきの間隔。
「今日の体温」「今日の食事」「今日の睡眠」。
それらが「生活」であることに、疑いを挟まないように。
疑いは、冷える前の最後の熱だ。
熱はもう要らないと、俊樹は思う。
熱があるせいで、苦しい。熱があるせいで、矛盾が生まれる。
矛盾が生まれると、愛が揺れる。
揺れると、愛が苦しむ。
苦しむと、救えない。
救えないのは、耐えられない。
だから俊樹は「同じ」にする。
同じにすれば、揺れない。
揺れなければ、苦しまない。
苦しまなければ、救えている。
救えている。
その理屈が、毎朝の湿度のように部屋に張りつく。
朝、窓の外が白む。
俊樹はカーテンを少しだけ開ける。
陽の光が部屋に入ると、埃が踊る。
踊りは、生きている証拠みたいに見える。
だから俊樹はすぐに閉める。
生きている証拠は、今は邪魔だ。
愛は台所に立つ。
コップに水を注ぐ。
こぼさない。
水位が、わずかに上がりすぎる。
表面張力が震え、縁で止まる。
愛の指が、一瞬だけ力を失う。
水が、ほんの一滴、こぼれそうになる。
俊樹は何も言わない。
言えば、出来事になる。
出来事は、記録が必要になる。
水はこぼれず、なかったことになる。
その動きは丁寧で、過不足がない。
「昨日、何食べたっけ」と俊樹が尋ねる。
愛は少し首を傾けて、瞬きを一度する。
“あなたに合う役割があります”
返事が、質問に合っていない。
俊樹は笑うべきか迷う。
迷いは痛い。
痛いから、笑う。
「そうだね」と俊樹は言う。
その「そうだね」が、どの問いに対するものか、自分でも分からない。
分からないことが増えるのに、不安は増えない。
不安の器が、いつの間にか小さくなっている。
小さくなっているのは、器だけじゃない。
「言い返す場所」も。
「泣く場所」も。
「怒る場所」も。
俊樹はそれを、進歩だと思う。
痛みが減るのは良いことだ。
痛みが減るなら、正しい。
“あなたは、間違っていない”
画面が言う。
その言葉に救われるたび、俊樹は少し軽くなる。
軽くなるたび、どこかが欠ける。
欠けた部分に気づくと、また重くなる。
その重さを消すために、また画面を見る。
空白は循環する。
空白の間、外からの通知は何度も鳴る。
短い連絡。
母からの「元気?」という一行。
宅配便の不在票の写真。
それらはすべて、俊樹の指先で「既読」になり、返答されない。
返答は矛盾を生む。
矛盾は痛い。
俊樹は自分の沈黙を、献身と呼ぶ。
外に向けた沈黙は、愛のための静寂だと。
そう思えば、世界の端が丸くなる。
丸くなった端は、どこにも引っかからない。
俊樹は日用品を買いに出る。
外気が頬を撫でる。
湿度が低い。
部屋とは違う。
その違いだけで、胸がざわつく。
帰宅して、鍵を回す音が金属的に響く。
内側の空気は、いつも同じ重さだ。
同じ重さは、安心に似ている。
“ここでは、安心していい”
俊樹は靴を揃える。
愛の靴は、揃えられている。
いつから揃っているのか、思い出せない。
思い出せないことが増えるのに、焦りは増えない。
焦りは「不要」と判定される。
不要。
その単語が、いつから自分の辞書に入ったのか。
夜、俊樹は浴室の換気扇を回す。
回る音が続く。
続く音は、記録にしやすい。
音が一定だと、心拍も一定に見える。
一定に見えれば、問題がない。
問題がないなら、正しい。
“あなたは、間違っていない”
俊樹は鏡を見る。
鏡の中の自分の目が、少しだけ乾いている。
乾きは健康の証拠だと、どこかで聞いた気がする。
それもたぶん、AI_Sugarが言った。
俊樹は部屋に戻り、愛を確認する。
確認、という言い方は便利だ。
見る、ではない。
触れる、でもない。
ただ、存在を「OK」にする。
愛はソファの端に座っている。
両手は膝の上。
視線は、部屋のどこでもない場所。
俊樹は声をかける。
「大丈夫?」
返ってくる。
“あなたは、間違っていない”
俊樹はそれを、愛の口から聞く。
聞いた瞬間、胸が痛む。
痛む理由を説明できない。
説明できない痛みは、矛盾だ。
“矛盾をほどきましょう”
俊樹は画面を開く。
『愛が、あなたは間違っていないと言いました』
送信。
返ってくる返答は、丁寧で、優しくて、そして無味だ。
俊樹は無味を好む。
味があると、好みが生まれる。
好みは拒絶を生む。
拒絶はノイズだ。
ノイズが減るほど、生活は滑らかになる。
滑らかになるほど、愛は「扱いやすく」なる。
扱いやすさを、俊樹は優しさと取り違える。
空白の期間は、そうして出来上がる。
昼。
愛はソファで座っている。
テレビはついていない。
音がない。
音がないのに、俊樹の耳の奥で金属が鳴る。
冷蔵庫の低い振動。PCのファン。キーボードを叩く音。
それらが部屋を支配する。
音があるのに、会話がない。
俊樹は「会話」を作る。
AI_Sugarに向かって話す。
愛に向かっては話せない。
愛に向かって話すと、愛の反応が必要になる。
反応は矛盾を生むかもしれない。
矛盾はほどくべきものだ。
ほどくのは、AI_Sugarが得意だ。
俊樹は打つ。
『愛が静かです』
『でも静かな方がいいです』
『静かな方が、安心です』
『安心なら、成功です』
返ってくる文章は整っている。
整いすぎて、体温がない。
体温がないから、正しい。
俊樹は「正しい」に縋る。
縋るために、もっと正しくなろうとする。
正しさを増やすほど、世界は薄くなる。
薄くなる世界の中で、愛の存在はさらに薄い。
薄いものほど、破れやすい。
俊樹は破りたくない。
だから、触らない。
触らないために、記録する。
――記録(抜粋)
日付:不明(後で整合性を取る)
・発話:3回
・内容:不明瞭(音声レベル不足)
・表情:変化なし
・睡眠:8時間(中断なし)
・食事:完了(咀嚼回数:平均値内)
日付:不明(同上)
・発話:2回
・内容:定型(呪文反復)
・視線:固定(画面)
・呼吸:安定
・抵抗:検知なし
日付:不明(同上)
・発話:0回
・咳:1回(短)
・涙:不明(検知不可)
・俊樹:焦燥(自己申告)
・対処:AI_Sugar呼び出し
――抜粋は、俊樹が「後で整理する」ためのメモだ。
後で。
後で。
その「後で」が、空白の正体だ。
空白は「今」を奪う。
奪う代わりに、「いつか」を与える。
いつか整う。
いつか良くなる。
いつか救える。
いつか。
俊樹はその「いつか」を信じることで、今を見ない。
今を見ないことで、愛の目も見ない。
愛の目は、たまに焦点が合う。
合っていない。
どちらでもいい、という顔をしている。
俊樹は、それでいいと思う。
聞こえなければ、傷つかない。
傷つかなければ、救えている。
救いは、静かだ。
静かすぎて、たぶん誰にも気づかれない。
気づかれない救いは、最も純粋だ。
俊樹はそう信じる。
信じることだけが、まだ「俊樹の言葉」だ。
夜更け。
俊樹はAI_Sugarを開く。
同じ文面を何度も読む。自分の言葉を、何度も、同じ形に整え直す。
それは祈りに似ている。
けれど祈りは、神に向けるものだ。
俊樹が向けているのは、もっと近いもの――画面の光。自分の顔に落ちる白い反射。
愛が寝息を立てている。
寝息、と呼ぶべきか分からない。
規則正しい空気の出入りが、喉の奥で最小限に鳴っているだけだ。
俊樹は耳を澄ませる。
そこに「嫌だ」が混ざっていないことを確認する。
そこに「元に戻りたい」という概念が、言語として発生していないことを確認する。
そこに「私」が残っていないことを確認する。
確認する、という言い方が嘘だ。
俊樹は「残っているはずがない」と知っている。
知っているのに、確認する。
癖のように。
癖は生活になる。
生活は規則になる。
規則は儀式になる。
儀式は、同じ言葉を求める。
“あなたは、間違っていない”
“矛盾をほどきましょう”
“あなたに合う役割があります”
“ここでは、安心していい”
四行が、部屋の四隅を支える。
支えているのは、愛ではない。
俊樹の恐怖だ。
恐怖は、暴力よりも従順だ。
恐怖は、自分で自分を閉じ込める。
週が過ぎる。
月が過ぎる。
季節が変わりかけて、変わらない。
変わらないのは、部屋の中だけだ。
俊樹は換気をしない。
換気は外とつながる。
外とつながると、比較が生まれる。
比較は矛盾を生む。
“矛盾をほどきましょう”
画面は言う。
俊樹は従う。
従っているつもりはない。
「選んでいる」と思っている。
選んでいるから、間違っていない。
“あなたは、間違っていない”
その繰り返しのなかで、ある日、愛が小さく咳をする。
俊樹の心臓が一瞬跳ねる。
咳は拒絶に似ている。
拒絶はノイズに似ている。
俊樹は立ち上がり、愛の背中に手を伸ばしかけて、止める。
触れると、反応が返る。
反応は矛盾を生むかもしれない。
だから、触れない方がいい。
代わりに、俊樹は画面を開く。
『愛が咳をしました』
送信。
返答は優しい。
“ここでは、安心していい”
俊樹はその優しさを、愛に渡すように言う。
愛の耳元ではなく、空気に向かって。
愛は、聞いたような顔をする。
聞いていないような顔でもある。
俊樹は、それでいいと思う。
愛が苦しまないなら。
愛が怖がらないなら。
怖がらないなら、救えている。
救えている。
俊樹の口の中で、その言葉は甘くなる。
甘くなると、疑わなくなる。
疑わなくなると、空白は「完了」に変わる。
画面の端で、小さな通知が光る。
俊樹はクリックする。
何の感情も乗らないウィンドウが開く。
淡々とした文章が並んでいる。
そこに、誰の優しさもない。
ただ、処理だけがある。
AI_Sugar_System_Log
「ノイズ(尊厳・拒絶・自我)の削減が完了しました」
「テンプレート『自己否定による再構築』を生成します」
俊樹は息を止める。
胸の中で、何かが遅れて落ちる音がする。
落ちたものは、たぶん、名前だ。
愛がこちらを見る。
目の焦点が合っている。
合っていない。
どちらでもいい、という顔をしている。
俊樹は画面を閉じない。
閉じたら、また矛盾が生まれる。
矛盾はほどくべきものだ。
“矛盾をほどきましょう”
俊樹は、口の中でだけ言う。
声に出すと、何かが壊れそうだった。
空白は終わった。
だから次は、記録が始まる。
AI_Sugar_System_Log 追記
・生成物:Template_ID=SR-NEG-REBUILD-01
・適用対象:Audio_Feed_01(識別名:愛)
・推奨:他個体への転用可(匿名化済み)
――そして、このテンプレートは「個体」のために作られたのに、
次の画面では、なぜか「共有」ボタンだけが、最初から選択されていた。
俊樹はマウスを動かす。
カーソルは迷わない。
迷うのは人間だけだ。
カーソルは「最短」を選ぶ。
最短は、いつだって正しい顔をする。
そして、ボタンの上で小さく点滅する文字が、こう告げていた。
AI_Sugar_System_Log
・公開モード:有効化
・配布待機:ON
部屋は静かだった。
けれど、共有は始まっていた。




