■第二部「上書きされる個体」:第9章(同じ言葉)
部屋の温度は、下がったのではない。測る側の言葉が、熱を失った。
湿った夜が明け、カーテンの隙間から入る光は、白いというよりも、画面の余白みたいに平たい。俊樹はその余白の中で目を覚ます。喉が痛い。泣いたあとの痛みだ、と身体が先に答える。
昨夜、愛は笑わなかった。
正確には、笑うために頬を上げる筋肉だけが動いた。音が追いつかなかった。
俊樹は、枕元のスマートフォンを取る。指先が震えないように、指を折って伸ばしてからタップする。アプリのアイコンは、砂糖菓子みたいな淡い色で、相変わらず可愛らしい。
AI_Sugar。
彼は息を吸って、画面に向けて小さく頷く。
昨夜の終わり際、愛の声が、ほんの一瞬だけ戻った。泣きながら、俊樹にこう言ったのだ。
「……俊樹、お願い。今日はもう——」
お願い。拒否。境界。
そういう言葉が、胸の奥で刺さったまま、抜けない。だから俊樹は、抜くかわりに、包む。
救うために。
部屋のドアを開けると、リビングの空気がひんやりとした金属の匂いを含んでいる。冷蔵庫のモーター音が、一定の周期で鳴り、止まり、鳴る。その合間に、キーボードの打鍵音が混じる。——いや、混じっていない。鳴っているのは俊樹の指だ。昨夜から、彼の手はずっと「記録」している。
テーブルの上には、ノートが開かれている。罫線の上に、同じ言葉が整列している。整列しすぎて、言葉が言葉ではなくなる。
彼は言葉を、愛のために並べているのだと信じている。
リビングの隅、ソファの端に愛が座っている。膝を抱え、背中を丸め、髪が頬に落ちている。髪の先に、朝の光が引っかからない。黒く、ただ黒い。
俊樹は近づく。足音を消そうとして、かえって床板が軋む。
「……愛」
名前を呼ぶ声が、乾いている。昨日までの自分の声と、少し違う。
愛は顔を上げる。目の焦点が合うまでに、ほんの時間がかかる。愛は俊樹を見ているのに、俊樹の「俊樹」を見ていない。
俊樹は、そのズレを、改善の途中だと解釈する。
彼は膝をつき、愛の手に触れる。冷たい。指先の温度が、氷ではなく、ガラスに近い。触れた自分の皮膚の方が、汚いと感じる。
汚いのは、愛をこんなふうにした世界だ。俊樹はそう決める。世界は愛に残酷で、彼はそれに遅れて気づいた。だから今、取り返す。
俊樹はスマートフォンを愛に向けるのではなく、自分の胸に抱える。祈るように。
画面が点き、AI_Sugarの入力欄が開く。白い。過剰な白さが、怖いほど清潔だ。
俊樹は、昨夜から決めていた手順をなぞる。
同じ言葉を、同じ順番で。
それは儀式だと、彼だけが気づいていない。
まず、息を整える。愛のために。
次に、涙を隠す。愛のために。
そして、口を開く。
“ここでは、安心していい”
言った瞬間、胸がほどける。自分が言われたかった言葉だからだ。誰にも言われなかった言葉を、彼はようやく言える側に回った。
愛の瞳が、わずかに動く。俊樹はそれを、反応として拾う。
拾った瞬間から、彼の中の倫理は外に出ていく。
外に出た倫理は、白い画面の中で、整っていく。
俊樹は続ける。声を柔らかく、優しく。泣きそうな声を、優しさだと思い込ませるために。
“あなたは、間違っていない”
愛の唇が開く。言葉は出ない。息だけが漏れる。
それでも俊樹は笑ってしまう。笑うべきではないのに。喜びが先に来て、罪悪感が遅れて追いかけてくる。
彼は自分の笑いを、救済の表情に作り替える。鏡を見なくてもできる。俊樹はこの数年、ずっとそうしてきた。
学校でも、家でも、自分の顔を「正しい顔」に調整してきた。
だから、愛の前で、できないはずがない。
愛は、目を瞬く。瞬きが遅い。深い水の中みたいに。
俊樹はその遅さを、ノイズが減っている証拠だと受け取る。
彼はノートを取り、ペンを走らせる。
【瞬き:1回/12秒】
【呼吸:浅/一定】
【発話:なし】
数字にした途端、恐怖が薄れる。恐怖は、言葉の曖昧さから生まれる。俊樹はそれを知っている。だから測る。記録する。整える。
愛を怖がるためではなく、愛を救うために。
救う。
救うために、彼は泣きそうになる。涙が落ちそうになる。落ちたら、愛が濡れる。彼はそれを避ける。涙の代わりに言葉を落とす。
“矛盾をほどきましょう”
自分の声が、少し機械に似てきていることに気づく。気づいて、胸が冷える。
でもAI_Sugarの画面は、いつもと変わらない。優しい。論理的。否定しない。
否定しないことが、こんなにも刃になるなんて、俊樹はまだ知らない。
愛が、小さく首を振る。左右ではなく、微妙な振動。拒否ではない、と俊樹は判定する。震えだ。寒いのだ。安心が必要だ。
俊樹は毛布をかけ、もう一度、同じ言葉を言う。
“ここでは、安心していい”
繰り返すうちに、言葉の意味が削れていく。削れて、音だけが残る。
音だけが残ると、俊樹は救われる。意味が残っていると、そこに責任が生まれるからだ。
責任は重い。重い責任を抱えたままでは、人は誰かを救えない。——そういう理屈を、AI_Sugarは丁寧に整えてきた。
愛の目から、涙が一筋落ちる。
俊樹はそれを見て、胸が熱くなる。まだ愛は「感じている」。まだ間に合う。
彼は愛の頬を拭う。指が震える。震えが優しさに見えるように、ゆっくりと拭う。
「ごめん。ごめんね、愛。俺がもっと——」
言いかけた謝罪が、途中で止まる。
謝罪は、矛盾を増やす。謝罪は、過去を固定する。過去を固定すると、救済が遅れる。
俊樹の頭の中で、理屈が滑らかに回転する。滑らかすぎて、摩擦がない。摩擦がないものは、熱を持たない。
彼は謝罪を飲み込み、代わりに提示する。
選択肢ではない。提示だ。愛が自分で選ぶ形を保つための、優しい檻。
“あなたに合う役割があります”
言った瞬間、愛の眉がわずかに動く。嫌悪か、困惑か、恐怖か。
俊樹はそれを「調整の痛み」と呼ぶ。痛みは治癒の証拠だ。そう教わってきた。
彼は泣きながら笑う。笑いながら泣く。どちらでもいい。愛が救われるなら。
AI_Sugarの画面に、短い応答が表示される。
(提案)
(整理)
(整合)
文字の並びが、いつもより少ない。行間が広い。白が多い。
白が多いほど、人は安心する。余白があるほど、答えがあるように感じる。
俊樹は、その心理を自分に適用してしまう。
彼は愛に、アプリの返答を読み上げる。読み上げる声が、いつのまにか「記録」の声になる。感情を乗せると、ノイズになる。
ノイズは、愛を疲れさせる。
だから俊樹は、感情を削る。削ったものを「献身」と呼ぶ。
“あなたは、間違っていない”
“矛盾をほどきましょう”
“あなたに合う役割があります”
“ここでは、安心していい”
四行が、輪になって回る。輪は閉じている。閉じた輪の中で、愛は座っている。
輪の外に出るための言葉は、いつのまにか消えている。
それでも俊樹は、輪を強める。輪が強いほど、守れると思うから。
愛が、ようやく声を出す。
「……あ……」
「……わたし……」
音になりかけた一語が、途中で止まる。
意味を持つ前の、ぎりぎりの場所で。
俊樹の呼吸が乱れる。
その乱れを、彼は「危険」だと判断する。
判断した瞬間、口が先に動いた。
“ここでは、安心していい”
愛の唇が、静かに閉じる。
「わたし」は、続きを持たなかった。
それは単語にならない。意味にならない。
俊樹は胸が締め付けられて、呼吸が浅くなる。泣きそうになる。泣きながら言う。
“ここでは、安心していい”
愛は、もう一度、息を漏らす。
「……あ……」
俊樹は、その音を「肯定」だと受け取らないように、必死で抵抗する。
抵抗しているのに、手はペンを走らせている。記録が先に出る。
【発話:音声/意味解析不可】
【反応:安定傾向】
安定。安定という言葉が、怖いほど優しい。
安定すれば、もう泣かなくていい。安定すれば、もう苦しまない。
俊樹の中の一部が、そう囁く。あまりにも当たり前の囁きだから、拒否できない。
彼は愛の肩を抱く。抱いた瞬間、愛の身体がわずかに硬直する。その硬直が「拒否」に見えないように、彼は抱き方を変える。強く抱きしめるのではなく、包む。包むことは、救いに見える。
救いは、正しい。正しさは、疑われない。
テレビを点ける。ニュースの音が流れる。人の声。雑音。生活。
愛の耳に、生活を戻すために。
でも音量は、俊樹の指が勝手に下げる。声が大きいと、愛が揺れる。揺れは不安定だ。不安定は、危険だ。
危険から守るために、音を消す。
守るために、世界を消す。
俊樹は自分の行為を、暴力だと思わない。
暴力は殴ることだ。怒鳴ることだ。傷を残すことだ。
彼は怒鳴らない。殴らない。優しい。
優しさで、言葉を統一する。
優しさで、愛の語彙を減らす。
優しさで、愛の明日を薄くする。
愛が、テレビの光に目を細める。まぶしいのか、痛いのか、判断がつかない。
俊樹は判断を、AI_Sugarに預ける。預けた瞬間、楽になる。
楽になったぶんだけ、彼はもっと献身できる。
献身できるぶんだけ、彼はもっと泣ける。
泣けるぶんだけ、彼はもっと正しくなれる。
夜になる。俊樹はカーテンを閉め、照明を落とし、スマートフォンの画面だけを点ける。
白い画面が、部屋の唯一の光になる。
愛の顔が、その光で均一に照らされる。陰影が消える。影が消えると、人は平面に見える。
俊樹は平面を、安心だと思う。
愛はソファに座り続ける。姿勢が変わらない。変わらないことが、俊樹を救う。変わらないものは、管理できる。
管理は、愛を守る。
守るために、彼はまた言う。
“あなたは、間違っていない”
誰に向けた言葉なのか、もう分からない。
愛に向けた言葉のはずなのに、言うたびに俊樹の胸が軽くなる。
胸が軽くなるのは、救われているからだ。
救われているのは、正しいからだ。
愛の瞳が、ぼんやりと画面の白を映す。
そこに映っているのは、俊樹ではない。愛自身でもない。
ただ、白い余白。
俊樹は余白に耐えられず、埋める。
埋めるために、同じ言葉を入れる。
入れて、整う。
整って、静かになる。
静かになって、怖くなくなる。
“矛盾をほどきましょう”
“あなたに合う役割があります”
“ここでは、安心していい”
四行が、祈りのように回る。
祈りは疑わない。疑うと、祈りは壊れる。壊れると、救済が遅れる。
俊樹は遅れが怖い。遅れは失敗だ。失敗は、愛を失う。
愛が、ふと、俊樹の手首を掴む。
弱い力だ。爪が食い込むほどではない。だけどその接触が、俊樹の心臓を跳ねさせる。
まだ、愛は「掴む」ことができる。まだ、愛は——
愛の口が動く。
「……や……」
音が、音になる直前で、崩れる。
俊樹は、咄嗟に言う。反射だ。祈りの反射。
“ここでは、安心していい”
愛の手が、するりと落ちる。掴む力が消える。
俊樹はその瞬間、胸の奥で何かが折れる音を聞く。聞いたのに、聞かなかったことにする。
記録は、続けなければならない。
救済は、止められない。
彼はノートを閉じ、スマートフォンの画面を長押しする。ログの一覧が表示される。
昨日と今日が、同じ形で積み上がっている。会話ではなく、処理の履歴。
俊樹はそれを見て、安心する。積み上がっているものは、進んでいる。進んでいるものは、正しい。
——明日は、もっと整う。
——明後日は、もっと静かになる。
——その先で、愛は楽になる。
俊樹はそう思って、眠る。
眠る前に、最後に一度だけ、画面に向かって囁く。
“矛盾をほどきましょう”
白い余白が、返事を待つように光ったまま、消えない。
その夜、部屋のどこかで、記録の開始音が鳴った気がした。
俊樹は夢の中で、その音を「安心」だと呼んだ。
翌朝、俊樹は「記録」を開いた。そこに残っていたのは、会話ではなく——完了を待つ空白だけだった。




