人と龍のおまじない
山に入る手前の、小さな集落を通りかかったときのことだ。
時刻表もろくに読めない、錆びついたバス停の古びたベンチに男が座っていた。年の頃は六十前くらいだろうか。日に焼けた肌にうっすら皺が刻まれ、髪には白いものがちらほらと見える。
田舎の風景に溶け込んでいるようでいて、その仕草が妙に目を引いた。
両方の手のひらを真横にして、目と耳を覆うようにべたりと顔に貼り付けている。なんとも奇妙な姿に、思わず私は足を止めた。
ふらふらと街から街へ渡り歩いて、薬やら乾物やらを売りさばく気楽な生業だ。旅先での、ささいな寄り道と好奇心には従うことにしている。私は背負った荷物を下ろして、休憩がてら男の隣に座った。
「やあ、どうも。めっきり日が長くなってきましたね」
汗を拭きながら、西の空に傾いたお天道様を見上げる。
「ええ、まったく」
男は目と耳を覆ったまま答えた。塞いでいても、声は聞こえているらしい。
「ぶしつけですが、旦那。それ、何をなさってるんです?」
「ああ。これですか。おまじないのようなものです」
「おまじない……。河童避けとか、そういった類いの?」
このあたりは田んぼも川も多い。年寄りや子供はひっぱり込まれることもあるだろう。さっき立ち寄った商店でも、注意書きの張り紙があった。
「河童? いえ、そうじゃなくって」
男はかぶりを振った。
「忘れないためですよ。大事なことが頭から消えないようにって。大叔母が亡くなる前、よくこうしていたんです」
覆われていない口だけが、懐かしそうにしみじみと動く。
「大叔母は若い頃は黒髪が見事な別嬪で、持ち込まれる縁談をことごとく断っていた変わり者だったとか……晩年には出入りの職人と一緒になったようですが、きっと、忘れたくないことがあったんでしょう」
「はあ、なるほど」
腑に落ちた。老いの入り口にさしかかれば、誰しも物忘れは多くなるものだ。
いつからここに座っていたものか、男の額には汗がにじんでいる。暑く乾いた空気をかきまぜるように、ぬるい風が渡っていく。
束の間黙った男は、ゆっくり口を開いた。
「……私には、長年離れて暮らしてる連れ合いがいましてねえ」
目隠しをしたまま、男は続ける。
「いろいろ面倒な事情があって、滅多に会えないんですが、お互いにそれでもいいと覚悟の上で一緒になったんです」
「それはそれは……ずいぶんと惚れ込んだんですね」
はは、と男は笑った。どこか湿っぽい笑い声だ。
「そうですね。ええ、本当に……」
唇だけが緩慢に動き、手で隠された表情は読めない。
重そうな音を立てながら、坂の下からバスがやってきて、目の前に止まる。男は乗り込むかと思ったが、身動きひとつせずそのまま見送った。バスは再び唸りを上げて、細い山道に消えていく。
恐らく、今のが今日の最終便だろう。乗らなくて良かったのかと私は男に尋ねようとした。
「……今なら、大叔母の気持ちがよくわかる」
男は独り言のように呟いた。
「ずっと会わずにいると、かすんできちまうんだ」
くたびれた吐息が、懺悔のように零れる。
「あれだけ大事に思っていたのに……。日々の暮らしに追われているうちに、熱も愛着も、どんどんぼやけて、遠くにいっちまう。雨音に耳を傾けようとしても、洪水にかき消されるみたいに……」
男は背を丸めてうなだれた。目と耳を塞いだ指先は、かすかに震えている。
「次に会えるまであと十年。私はその約束さえ覚えていられるか……もう自信がないんですよ」
だからこうして、目と耳に蓋をして、これ以上こぼれ落ちないようにしているのだと男は語った。
強い西日が男と私を照らし、影を長く伸ばしていた。
◇◇◇
その日、私は雨上がりのぬかるんだ山道を歩いていた。しばらく南方を中心に商いをしていたから、この土地に来るのも久しぶりだ。
池のまわりをぐるりと進んでいると、畔に人影を見つけた。
ほっそりとした若者らしき後ろ姿が、岩に腰掛けている。
龍だとすぐにわかった。龍は人の形を取るとき、必ず長い尻尾を残す。その若者も例に漏れず、腰の付け根から青緑に光る尻尾を垂らしていた。
人型とはいえ龍に出くわすのは珍しい。彼らはほとんど水底深くに潜って眠り、地上にはそう現れないため、縁起物のように扱われている。
私は当然声をかけた。そのまま通過するのは、虹を見上げないのと同じくらいもったいない。
「こんにちは。こちらの池の主さまで?」
近づいて、正面の姿が目に入った時、おや、と思った。
龍の若者は両手で顔を覆っていた。目と耳を隠すように、手のひらを貼り付けて。
その特徴的な所作を見て、私はふと思い出した。もう十年ほど前、この山の近くを訪れた時に出会った、目と耳を覆っていた男。彼とそっくり同じことをしている。
「ええと、それは確か……」
龍の若者はこちらの気配にとうに気づいていた。目隠ししているのに、私の方を向いて頷いた。
「おまじないです」
空気が震えるような声が通り抜けた。雨の降る音と同じだと聞いたことがあるが、確かにその通りだった。
「ああ、やっぱりそうでしたか」
あの時の男もそう言っていた。他の町では見かけなかったから、このあたりだけで流行っているのかもしれない。
「効き目はどうですか」
龍があやかるほどのまじないとなれば、効果のほどはやはり気になる。
龍の若者は口元だけで微笑んだ。男とも女ともつかない、優美な口元だ。龍には雌雄がない。
「どうなのでしょうね。私も、初めてやっているものですから……効いてくれるといいのですが」
笑っているのに、霧雨みたいに寂しく響いた。細い雨の声が私に問いかける。
「忘れられる、まじないなのでしょう?」
「え?」
「私には、人間の連れ合いがおりまして。彼がこうしていたのです」
薄い唇が、微笑む形のままゆっくり動く。
「最後に会った時、こんな風に目と耳を覆って……。何をしているのかと尋ねたら、ちょっとしたまじないのようなものだと言っておりました」
『おまじないのようなものです』
いつかの西日に焼かれた男の姿が、私の記憶の中で形を結ぶ。
「彼だけではありません」
龍は、ふ、と短く息を吐いた。
「今より少し前……別の人間と番ったことがあるのですが、思えば、その娘も同じ事をしておりましてね。美しい黒髪の娘でした」
声は、そこで一度途切れた。
澄み切った池の表面が、鏡みたいに龍の若者を逆さに映している。
「……皆その後、もう、会いに来なくなる。約束の日になっても」
再び唇が開いて、雨が降る音がする。
ざあざあ、しとしと。
龍の声は、曇り空が泣き出す時の雨に似ている。
「だから、これは、忘れてしまうおまじないなのでしょう?」
龍は両手を外すと、子供よりもいたいけな瞳で、さっきと同じ言葉を投げかける。
山を抜ける弱い風が池の水面を揺らし、龍の姿を柔く崩していった。
私は何も言うことができず、本当の雨が天から降るのを待っていた。




