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家族が書き散らかした諸々

もう蹲らない

作者: 佐々木望

一人娘の成長とそれを見守る両親の心情を描いているはず……◆父の母親の文章です。十七回忌の供養にアップします。コンクールに応募するので見てくれと頼まれたけれど、直し様が無かったといっていました。2000年頃に綴られたものです。

セットした時計のベルが鳴るよりも、一時間も早く私が目覚めてしまったのは、外が明いのと緊張していたせいだろうか。周囲の音が押さえ込まれたように響かなかったのは、雪が降り始めた合図だったのだ。当たらないでくれと祈りながら床に就いたのに、願いも空しく予報通りの天気になっている。

  ガウンを羽織りためらいながらカーテンを引くと、雪は身動きもできないぼど何もかも覆い尽くし、映像で見聞きしていた雪害の文字が私の前に大写しになり立ちはだかった。「裕希は寝たか、厳しい寒波の来襲があるとの警報が受信されたのだ。架線が凍るとパンタグラフに電気が送れなくなる危険ありと、車両部が判断した。一晩中電車を走らせておくと係が手配をしていたぞ」

  夫の昭夫は、新型電車の企画が完成に近付き、勤め先から帰ったのは最終電車だ。

  彼は疲れたように肩を回し、「積もっていたら起こせよ」と眠りに就いたが、どうしょう、睡眠不足が続いているのに……。

  私は夫が熟睡しているのを確かめ、部屋だけは暖めておかなければと、二階から降りてストーブに点火した。雪かきなんか私にだってできると、道具を持っと気負って道路に立った。昨日の昼ごろからテレビ・ラジオでくどいほどに大雪注意報を流していたが、まさかこんなに積もるとは、私は驚くより苛立ち、すごすごと茶の間に引き上げるよりなかった。寝ているはずの夫が寒そうな顔で首をすくめ、ストーブに手をかざしている。

「おう、やはり降ったな」

  と、私の身支度を見て彼は微笑んだ。

「お父さん、ごめんね。私にはとても手におえないの」自分のふがいなさが情けない。

「有り難う。それだけでも充分だよ。どれ、どのくらいになったか調べてくるか」

  夫はパジャマのまま外を見に行ったが、妻の言葉に照れたのか、どたどたと大きな足音がわざとらしい。

「普段着ではとても駄目だ。作業着を出してくれないか」

「何処までやる積もりなの? 」

「決まっているさ、配達の終点までだ」

「ちょっと待って、いま探すから」

「なかったらいいよ。スキーのズボンでも」「たしか、お爺さんの野良着があったはずなのよ」私は返事もそこそこに納戸に走った。「三十センチはあるなあ、降り止む様子もないし……アノラックも頼むか」

  慌てて茶箱の底からカビ臭い昔の作業着を引っ張りだし、長靴と一緒に揃えていると、小さな足音が階段を下ってきた。感心に娘の裕希まで声も掛けないのに起きてきた。

「おはよう。お父さんもばかに早起きね。あっ、分かった。だから雪が降ったのよ」

  冗談とも本気とも知れない口振りで言うと、寝ぼけ眼の顔を洗いに廊下の奥に消えた。 私はトースターを出して、二人分のパンを焼く用意を始める。

「パンを焼いてくれるのか、牛乳を沸かして砂糖もたんまりと入れてくれないか。裕希の分も頼むぞ」

「お父さん。一緒に来てくれるの」

  裕希が遠足にでも出かけるように燥いでいると、自動車の止まる音がして「お早うございます」と、あたりをはばかった声がする。朝も明けきっていないのに……誰だろうと不安な思いが過ぎり顔を見合わせた。

「俺が出る。お前たちはここにいなさい」

  夫は竹刀を持つと、玄関ヘ足を向けた。

「あなた。直ぐにドアを開けては駄目よ」

  私は座布団を抱えてあとを追う。裕希がお勝手の窓を開けて心配気に覗いている。あとで考えると平常心を失って、剣道に被る面を持ったと勘違いをしていたのだ。

「やあ、お父さんが手伝ってくださるのですか、恐縮です。大の男が歩くのも難儀な深さですから、電話をする暇も惜しんで急いで来た甲斐がありました。おい、下ろしてくれ」「やあ、有り難う。助かりました」

  笑顔で礼を言う夫に、息子らしい若者がぺこりと不器用にお辞儀をして、新聞の束を玄関の三和土に置いた。裕希が見詰めているのを認めると、頬にさっと紅がさしそれを隠すように顔を背け、早々とジープに乗り込む。「裕希、おじさんが新聞を持ってきて下さったぞ。お礼を言いなさい」

「いいんです。中学生なのにいつも一番はやくに店に来てくれて、私ら喜んでいます」

  間に合ったことに安心した二人が、送りに出た娘に手を振り、車をゆっくりと発進させ、次の家にと向かう。

「親切にして貰って、お前は幸せだ」

  夫は裕希の髪を幼子のように撫でている。「ねぇ、一緒について行ってやるなんて、過保護じゃないかしら」

「お前だって俺より先に雪かきをしようとしたじゃないか」

「お互いに親ばかなのね」

  複雑な思いの絡み合った笑顔で頷くと、夫は裕希の肩を叩いて、「さあ、行くぞ」の勇ましい声を残して父娘は出発した。


  一人娘の裕希は本来、新聞配達をしている時間の余裕などない、中学一年生なのだ。

  入学したてのころだった。五月の連休明のころから、頭が痛いとか目が回るなど、体の不調を訴え学校を休みがちになった。医者に連れて行ったり、大学病院で精密検査を受けさせもしたが、何等の異常は認められなかった。まさか、世間で騒がれている不登校児童になったのだとは……健全な生活を心掛け、何事もオープンに話し合うことをモットーにしている我が家で起きたことに、私たち夫婦は衝撃をうけた。

  集団の中での我慢を知り、他人の予想外の言葉に対応できない人間になったら大変と、宥めたり叱りつけては、夫や私が代わり番こに校門の前まで送って行くのが日課となった。日が経つと、更に病気の範囲は広がり、気持ちが悪くなった。足がつるなどと見え透いた言い訳が増え、保健室には行かず授業半ばでの早退が多くなり、今年も終わろうとしている。出席日数が途絶え始めた頃から、六年間も通っていた習字も書道教室には顔を出さず、通信講座に切り替えた。そして、父親と約束した夜のウォーキング以外は滅多に外に出ることもせず、学校から特別の出席要請のある以外は、在宅生活を続けている。

  昼日中は大人が生活権を握っている世界なのだから、子供たちの騒ぐ振動が伝わらないのは当然だ。その空気の流れを遮断されたような静寂は、裕希のように慣れない者にとっては、胸の中を大きな穴に占領される。そして、やらなくてはならないことから逃げている、という罪悪感に苛まれるのではないだろうか。これに打ち克つのが本人と、それを支える家族の第一の難関だと、夫はいう。

  裕希は、有り余る時間の使い方の解からぬまま、鬱々と楽しまない毎日を送り、万人に公平に与えられている時間は、彼女に関係なく待たずに過ぎて行く。


  私は結婚と同時に、指先の器用さを生かしてこの町にある文化専門学校で手芸を教えて、生き甲斐にもなっている。勤務先の学校が夏休みになって、二日ばかりした夜だった。「相談があるのだが……」と、いつにない深刻な面持ちで夫が切り出した。

「なによ」私は人形に塗る胡粉を乳鉢で擦るのに懸命で、上の空で答えていた。

「今度は何を作るのだ」

「一年の移り変わりを、御所人形の形式で一年を現してみようと計画を立てたのよ。何かに夢中になっているときだけ、裕希のことが忘れられるの」

  義務教育を受けている最中の子供が、一日中家に居るとなると、余所さまの話であれば私も、「お気の毒な」で済ませるだろう。だが、いざ我娘の出来事となると買い物に行くにも気が重く、道を行くときなども顔を上げてなど論外で、スーパーなどで呼び止められると飛び上がって狼狽していた。だから余計に物造りに熱中していたのかも知れない。

「ふうん、十二個って訳か」

  私は本棚のなかからデッサン帳を取り出し、夫の前に広げて得意になって示した。いつもなら、手にとって必ずアドバイスをしてくれるのだが、頬杖をついている彼の視点は、私にもデッサン帳にも注がれていない。

「勤めを辞めないか。家で手芸をするとか」「えっ、だれが何を止すの」

「お前が文化学校を、だ」

  悪い予感が的中した。

「一日中だったのを、午前の授業だけに減らしたのよ。あの子と朝から一緒だと、息が詰まって…」私は、夫に甘えている自分に気が付きたくないのだ。

「だからといって、避けてはいられないのだ。それとも、裕希に頼まれて生んだのか」

  聞いたこともない夫の強い語調が、私を緊張させる。

「嫌なら俺が家に居てもいい。五、六年ぐらい食い繋ぐ貯金はあるだろう」

  残業や取引相手との時間外の打ち合わせで、遅い帰りが日常化していた夫が、娘の不登校を機会に時計で計っように帰宅し、食事のあとに父娘で歩くことを実行している。

「あなたが会社を辞めたら生活できない」

「退職ではない。休職という手がある」

  上司の思惑や残業収入の減った部下の迷惑に目をつぶり、四面楚歌に身を置いているであろうに、立場の不利を承知で定時で退社しているのだ。その上に何年続くか判からない休職に開いてくれるドアはあるのだろうか。「あの子の学校は……このままで? 」

「勉強はその気になればいつでもできる。それまで家族が見守るしかない。今の裕希には一人ではないと、感じさせるのが必要だ」

  夫が覚悟を促してくる。

「好きなことを止めろとは言っていない。家で得意の人形を幾つも作って、何十もだよ。裕希の結婚式の引出物にしたらどうだろう」 私は勤務先に辞表を提出し、家庭に腰を据えると、編みかけのセーターや途中経過のパッチワークが目に入り、どれから手を付けてよいやらと迷っているうちに、新しくやりたいことが頭を持ち上げる。

「お母さん、押し入れの整理をしたいの、手伝って」

  夫が、『甘やかさず、責め過ぎず側に居てやれ』と言った言葉を鵜呑みにして、一人娘にべたべたとまとわりつく日が続いて、一週間ばかり経つた午後だった。屈託した様子でテレビを見ていた娘が、思案顔で押し入れの整理を私に頼みに来た。家出の準備でもあるまいがと少なからずうろたえ、なんと返事をしたか定かではない。

「お婆ちゃんの物がある上の段に、普段の洋服を掛けようと思うの。どれを捨てて良いか死んでしまった人に聞きようもないし、ぎっしり詰め込んであって、ビクとも動かない」 と扉を開けて見せる。ほっとすると同時に裕希を信じきれなかった自分が恥ずかしい。「お婆ちゃんが大事にしていた物ばかりだから、出すだけでも出してみましょうか」

  親子のスキンシップにもってこいだ。

  押し入れの棚が空になったのを機会に、引っ越し荷物が積まれたような場所で中休みのお茶にした。

「へえー、これ伯母さんやお父さんの小さいときの物ばかりなんだ。昭夫幼稚園って書いてある。小学校は二箱もよ。ふぅん、これは中学校だって」

  裕希は父親が中学生時代にはどうだったか、タイムマシンにでも乗った気持ちになったのだろう。一年、二年と、学年別に並べ、同年代の一年生のものが最も興味を引いたらしく、丁寧に一枚ずつ捲っている。

「なによ。『クラブと自分・一年・ 後藤昭夫』だって、ばかに大事にしまってある」

  娘は透明なビニール袋に入れられた作文を取り出し、面白そうに読んでいたが、

「お母さんも一読の価値はあるよ」と薄っぺらな原稿用紙の束を寄越した。

  何十年も昔のことをほじくり返したら、私だって恥ずかしい。夫の下手な文章なんか読んでも仕方がないのに。

「お父さんに、読んだなんて内緒よ」と釘を刺してから裕希の要望に答えることにした。――初めのころは、何をやってもクラブがおもしろくてたまらなかった。しかし、慣れてくると楽しさがどこかにいってしまい、夢中になって自分を引きつけていた興味を探すが、いつまでたっても見つからない。しばらくしてクラブが身震がするほど嫌になった――「やっぱり、お父さんがいたからお母さんは中学校のクラブは剣道部を選んだのね」

「煩いわね。大将で格好が良かったから皆も憧れたの。お願いだから静かにしてよ」

  私は一年生の仲間と、課外授業にどのクラブを選ぶか通りすがりに、苛酷な練習で名高い剣道部に好奇心だけで立ち寄ったのだ。

  クラブの森本先生は県内で一、二と言われる腕前を持ち、他の顧問の諸先生方を圧して面倒見が良く部員の結束も学校一だという。 白の袴と胴着の上に赤色の胴を纏った女子と、紺色の剣道着の男子生徒が、始まりの礼を交わしている。目の前で行われた有様は、杉木立に囲まれた神聖な寺院の庭に清らかな風が吹くような、爽やかさが胸を打った。この世の中にこんなにも美しい挨拶があったのか。見学者は立礼に魅了されてしまった。

「本当にそうよね。お父さんのお辞儀は見事だって皆が言っているもの」裕希は自慢らしく、ねえというように私に同意を求めた。

 ――そう思い始めたのは、一年生の十一月ごろぐらいだ。それからクラブをちょくちょく休み、しまいには学校じたい休むようになった。<クラブを辞めたい>と何度も考えた。あんなに楽しかったクラブが自分を苦しめるものになんでなっているのかを、気が狂いそうになるほど悩んだ。クラブに出るのがどんなに怖かったか。行けばみんなから文句を言われ、先生にも怒られる。最悪だ。とても重苦しく、特に先輩の目線が恐ろしかった。

  そんなある日、休み時間に担任の先生が近付き、『お前どうしたんだ』と言われた。

『お前の目つき、怖いくらいに鋭くなっているぞ』と、顔を覗き込まれ驚いた。

  知らないあいだにクラブの悩みが出ているのが、鏡を見て自分でもわかった。

  このままじゃ駄目だと思い、必死の想いでクラブに取り組んだが、悩みはきえない。クラブを辞めるかとも思った。しかし、それは弱い人間のすることだ、厳しさに勝てば変われると考え、クラブに行くことに決めた。何度もくじけそうになる。毎日が戦いだ――

「本当に、練習は噂に違わず厳しくハードだったわ。授業前の一時間稽古はまだ良かったの。土曜、日曜もない。勿論のこと夏休みは訓練に継ぐ訓練で疲れ果て、食事は見ただけでげんなりしたものよ」

「でも、母さんだけは例外だったでしょう」 無遠慮にも、裕希は肉付きのよい私を見て嘯くのだ。

  あのとき、私を含む肥満形の新部員はきゅつと躰が締まり、男子生徒はズボンを新しくしなければならなかった。空の色が変わり涼しさが増すに従い、躰も慣れたのか食欲が出て、家族が驚くほど食べまくったが、だれ一人として体型は元に戻らなかった。

「あのままでいてくれたら」私はため息まじりの愚痴がでる。

 ――乗り越えなければ駄目だと自分に言い聞かせた。その結果、苦しみの先には喜びがまっているのがわかった。苦しいことや辛いことがあっても、乗り越えれば楽しいことがあると感じた。試合に負ければ悔しい。でも、その悔しさを生かしてどんどん強くなる―

「お父さんは、そんなに強かったの」

「森本先生が、『こんなに伸びた子は始めてだ』って、期待の星だったのよ。そうそう、決戦試合の前にお父さんは足の親指の裂け目に瞬間接着剤を塗ったの」

  夫の宝物に、先生が愛用した胴着のお下がりを頂戴したものがある。彼は一年生の夏休みの間に腕前が格段に上達し、小学校から励でいる仲間の追撃を許さず、先輩を押し退け、レギュラーの一員に組み込まれたと聞く。「なんでそんなおかしなことをするのよ」

「渾身の力を込めて踏ん張るから、大抵の人も裂けるの。でも、テーピングを巻いている。惜しかったなあ。もう少しで、県代表になるところまでいったのに」

「……そんなにしてまでして頑張ったんだ」――クラブを辞めないで良かった。と、今は心の底から思う。――

  冬休みになる前の日、あまりの指導の激しさに音を上げた私たち女子部員は、退部したいと二年生に相談を持ち掛けたのだった。

「誰だって一度は辞めたくなるものよ。あの大将だってそうだったのだから」

  先輩はくるものが来たという顔で笑う。

「信じられない。剣道一直線って感じの大将が、悩んでいる姿なんか想像できません」

  私たち一年生は、思わず抗議をした。

「わたしが、一年生の道徳の研究授業の時間だったわ。教材に配られたのが、後藤君のクラブが厭になったときの作文だったのでびっくりしたけれど、感激だった。わたしも激しいクラブ活動に厭気がさし始めていたころだったから、それから挫けそうになると、読み返しては頑張ってきたのよ」

「私たちにも見せて下さい」

「ごめん。お守りみたいにして、ちょくちょく読むものだからぼろぼろになって、今は行方不明になってしまったの」

  彼女は無念そうに言った。

  大将としての夫は負け知らずで、部員の羨望の的だった。私とは違った苦悩を味わっていたのか。ただ単に、どんな文章だったのかと、皆で残念がった記憶だけしかない。

「お父さんは逃げなかったのね」

  私の懐古談を聞き終わった娘は、大人びたしんみりとした口調でいう。

  夫は四人兄弟の、それも年の離れた末っ子なのだ。今では聞く術もないが、舅、姑はこのときどう対処したのだろう。


  私が主婦業に専念するようになると、夫は毎日のように本を買い込んできた。同時進行でテレビが家中から姿を消したが、裕希はなんの異議も挟まなかった。作文を盗み見たことは秘密にされているのに、父親は娘の抵抗がないのを何と受け取ったのだろう。

  裕希は元々父親っ子だった。それが、同じ過去を持つと知ってから、私が嫉妬を覚えるほどに、更に彼との距離が狭まって行く。そんな日の一日だった。私が買い物から帰ってくると、裕希が腹這いになり本を読んでいる。(本は座って見なさい)と口に出かかるのをぐっと飲み込み、夕飯の支度に取り掛かったが、私は鼻歌を口ずさんでいた。

  テレビのない生活は、自然に話すことがお互いに多くなり、私も話題を提供するために新聞を隅からすみまで丁寧に読む。

「裕希、なんだかこの頃ばかに太ってきたじゃないか」

  デザートのアイスクリームをぺろりと平らげて、まだ食べたそうにしている娘の顔を眺めながら、夫が指摘するではないか。

「私の子供のときは、もっと太っていたわ」 裕希の気持ちを反らそうと話に割り込む。「何か運動をしないと、可愛いお顔が台無しだなあ」と続ける夫に、人の気も知らないでと、私は焦りまくり、とっさにテーブルの下で彼の膝を蹴飛ばしていた。

「何をするのだ。痛いじゃないか」

  いつもの夫に似合わず、余りにも無神経な態度だ。スプーンを投げ付けてやりたい衝動に駆られたが、仕方なく、「お風呂の用意をしてくるわ」と結末を心配しながら、いたたまれない思いで逃げ出してしまう。

  裕希は顔の膨らみを気にして、掌で頬を挟んで太り加減を確かめているようだ。「鏡で見ておいで」と言っている夫の声が、耳を澄ましている私に届き、娘の足音が近付く。

「お風呂は水を入れたばかりよ」

  私はできるだけ明るく言うが、泣きにきたのではと、心臓が破裂するほど狼狽した。

「お母さん。あたし、この位だったら丁度いいと思わない」裕希は、けろりとした顔で口を尖らせて見せる。

「さっ、お父さんが待っているから行こう」 ほっとしている私の手を握り、彼女はスキップをしながら茶の間に戻った。

「おい、鞄を取ってくれ」

  夫は悪びれる様子もなく、しゃあしゃあとしているように私には受け取れた。

「ダンベルを買ってきたぞ。これは、お母さんのだ」と色違いの一組を私の膝の上にドスンと乗せ、「事務所のお姉さん逹も昼休みには、屋上でイチッニッと体重計を見ながらやっている」座布団を足で蹴りながら、「ほれ、こうだ」と、上着を脱いで手本を見せた。 ああそうか、運動をやらせるための布石だったのかと私は自分の早とちりが恥ずかしかった。しかし、彼だって、事前に耳打ちをしてくれたって良いではないか。

「明日ダンベル体操が出ている本を買ってくるが、他に欲しいものはあるか」

  ダンベルをいじりながら返事もしない裕希が、突然立ち上がって最敬礼をした。

「お父さん、新聞配達がしたいの。お願いします」

「えっ、金がほしいのか」

  夫が反射的に問い返した。

  私も絶対に反対だ。なんといったって学校にも行かないのだ。この上に恥の上塗りだけはしてくれるなと、怒鳴りたくなった。親の気持ちも知らないろくでなしと腹立たしい。「この間ね、お母さんに一昨日の新聞を貰ってきてくれって頼まれて」

  と、一気に言って平然としている。

  しまった!。私が原因だったのか。

「うん、それで」夫はその先を促した。

「そのときにね、新聞店のおじさんが、『背が高くて、手足がすっきりと伸びてるね。可愛いよ。残念だなあ、色が白いのに』って、仕事をしながら首を傾げるの。きっと太っているって言いたかったのよ。失礼しちゃう」「本当のことなんだから、仕方がない」

「それ、それなの。『新聞を配達してみないか。朝だけでもいいけれど。夕刊も配ると体が引き締ってすごくスマートになる。格好が良くなること請け合いだよ』なんて言うの」親に相談してきますと帰ってから、いつ頼もうかと考えていたと答えた。

「直接、社会と繋がるのは良いことだ。けれどね。それは責任を背負うということなんだよ。思うことは簡単にできる。『雨が降ろうが槍が降ろうが』と昔の譬があるくらい持続しながら成し遂げるのは大変なのだ」

「そうよ、『眠いから、お母さん代わりに行って』なんて駄目。分かっているの」

「あたしだって、お父さんには負けない」

  やはり、あの作文が利いたのだ。

「お父さんにか? 風邪を引いたりして体調の悪いときもあるのだ。それも毎日だぞ」

「分かってるって、絶対がんばるから夜のウォーキングは勘弁ね」


  私は、戸口に降り込む雪を気にしながら、出たり入ったりして落ちつかない。待ち兼ねていると、手を振りながら笑顔の夫が姿を見せたが彼一人だけだ。

「配達は終わった。汗でびしょ濡れなんだ」「裕希を何処に置いてきたのよ」着替えている夫に、待ちきれない私は強い声で尋ねた。「それがな、裕希はデイト中なんだ」

「男の人となのね、それどういうことよ」

  明るいといっても人通りの少ない時間だ、年ごろの女の子を男性の側に残して心配しない親はいないと、夫に説明を迫る。

  朝刊は早いのが前提であるから、自転車が通れるだけの幅に雪を取り避け進んだのが良かった。予定よりも早く配り終わり、二人でホッとしているところに、自転車を押した若者が白い息を苦しそうに吐いて、新聞を配達しながらやって来た。

「おはようございます」三人の挨拶が、同時に入り交じり笑い声に変わった。

「お父さんに手伝ってもらって、いいなあ」 彼は腕で額を拭い、明るい笑顔を返した。「偉いなあ、君は一人で頑張って」

「親父やおふくろが雪かきをするって言ってくれたのですが、子供じゃあないんだからって断ったのです。これほど大変だとは知りませんでした。これから先は助かります」

  配達の途中で二人は毎日のように擦れ違うが、皆が待ちわびている朝の貴重な時間でもあるし、違う新聞店の人だからと、言葉も掛けずに行き過ぎていたという。

「何かうまがあったのだろう。彼の配達を手伝うと言うのだ。腹の足しになる物でも買えと小銭を渡してきた」

「そんなことまでして、無責任よ」

「付き添って歩けっていうのか。そんなに気になるならお前、これからでも遅くないぞ。行ってやれ」

「そんな、意地悪言って、どんな男の子だったのよ」

「はきはきしてて、自己表現のできる良い若者だ。それに挨拶もきちんとできる」

  時間を気にして、そそくさと会社に向かった父親と入れ違いに、娘が明るい様子で戻ってきた。ジャンバーの緑が雪の下で春を待つ草木のように見える。

「お父さんが、デートだと言うから」

「デートだなんて、古いなあ」裕希は聴きたいのというように悪戯ぽっくニヤリとした。 彼も中学校を、モラルハラスメントで長い間休学をしたが、担任だった先生に勧められ、、現在は高校の定時制に学んでいる。

「その学校では、厭なことを言われないの」「痛みを知っている仲間が多いのだ。でも傷口を舐め合っているのではないぜ。楽しくて一日も休めないよ。それに、今までの分も取り返えそうと、みんな必死なのだ」

  裕希は、大学で勉強に励みながら学生生活を満喫したい。それには、高校卒業の資格がいるが、学区制が障害になる。青春の入り口である中学校を煉獄に変えた、友達と一緒になると再び彼女には不登校の可能性が待つ。「どうやって辛さから抜けられたのよ」

「大抵の人は、他人に起こったことは痛くも痒くもない。それどころか、意気地がない奴だとか、関わり合いを恐れて近寄らない」

「あたしは言われて悲しいから、言い返したら相手が気の毒だと思から我慢しているのに、、安心して余計に攻めて来る」

「僕も何度となく体験している。抗議をしたら大勢の前で『お前は被害妄想なんだ』と余計に僕のダメージをみんなに印象つけられてしまった。悔しいが、彼の言い分を正当化しする手伝いをしたようなものだった」

「それに、友達は人に平気でに酷いことをするのに、自分がされると、恨んで憎むわ」

「相手は黙っていると負かしたと取る。僕らは彼達のストレス解消の標的さ。何を考えているか他人の頭の中身は見えないだろう」

「身体の傷は見えるのに……」

「親父が『意地の悪い人は年を取ると、更に磨きが掛かって、その方の達人になる。余程のことがない限り死ぬまで直らない』と言うのだ。このごろ僕も父親とよく話をする」

  裕希は、近所で誰も仲間外れにされたと聞かない。大人になりさえしたら、悩みを共有できる友達に出会えると信じていた。

「異質な用語に怯まない訓練がいるのだぜ」「あたしは本を沢山読んでいるから、言葉は人より知っているわ」

「自分の中でだと、その人なりの答えしか浮かばないから、現状は打破できない。心の中で反発してるだけでは駄目。数多くの人とのやりとりによって、暴言に対処する態勢が整い、精神が強くなると共に真の優しさが生まれる。ぜんぶ先生の受け売りだけれどもね」 裕希は、私の愚問を封じるように切れ間なくしゃべり、考え深そうな瞳を私に向けた。「大部分の人が大学受験に向けて頑張っているのですって。『様々な境遇に置かれた者の集まりだから経験も豊富だ。理不尽に抹殺されない手立てをここで身に付けるのさ、君も来いよ。僕もそうだったが、家に閉じこもっていると人生が暗くなるばかりだろう。皆と一緒に歩いていこう』と熱心に誘われたの」 裕希に戦友ができたのだ。

「わたし定時制に進学しようと思うの、お父さん許してくれるかなあ」

「新聞の配達は、どうなるのよ」

「続けることに意義があるのよ。あの人が言っていたわ」

  照れたように、「服を着替えてくる」と、二階にかけ上がって行く。

  蹲っていた稚魚が隧道から抜け出し、動き始めたのだ。天から降りそそぐ飛粒は一層大きくなり、なおも続く気配をみせている。

  明日はクリスマスだ。ツリーに本物の雪を飾って。親子三人が入れるだけでいい、裕希と『かまくら』を作ろう。光を覗き見た私には、さっきまでの重苦しい雪の気配は、熟した柳絮りゅうじょと呼ばれるヤナギの白い綿毛を広げ、祝いの舞を披露してくれているように映る。

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