第五章 彼女を狂わせた願望
あの日から、三ヶ月の時が経っていた。
シャロンは鉄格子に切り取られた空を見上げる。
自宅での軟禁を数日経た後、申し渡された処分は存外軽いものだった。
――国王暗殺未遂の罪で、生涯幽閉処分とする。
それが、フォリアが決めたシャロンへの罰だった。
城の端に位置する幽閉塔。貴人用に設えられた部屋は、扉が分厚く物々しいことと、窓に指数本が入る程度の細かな格子がついていることを除けば、快適なものだった。
「甘い考えだこと……」
シャロンは苦笑をもらす。
国王暗殺未遂――、つまりフォリアへの殺害計画を立てたことしか罪に問われていないのだ。
ラシエルの死は、おそらくこのまま病死として片付けられるのだろう。
そこにまで関与していたとなれば、シャロンの刑死は免れないからだ。
いや、フォリアを害したことだけでも、本来なら死を賜ってもおかしくはない。それが幽閉だけで済んでいる。そこには彼女の、シャロンを殺さないという、強い意思を感じた。
「本当に甘い……」
だが、彼女は昔からそうだった。
心優しく純真で、愚かで――。だが、そんなフォリアを愛おしいと思っていた。
彼女の死を願った、後になっても、だ。
アルシェンが生きていた頃は、ただ幸せだった。
あの日々が続けばよかったのに。そんな詮のないことを思った。
シャロンの夫となったアルシェンは、昔から線の細い人だった。
身体もあまり健康とは言えず、寝込んでしまうのも珍しくはない。
正式に婚約することとなったのは、それなりに年を経てからだったが、結婚するのだろうということは、お互いが承知していたように思う。おそらく、シャロンが生まれてすぐの婚約とならなかったのは、彼が成人できるのか確証が持てなかったからだ。
シャロンはアルシェンが好きだった。
いつから好きだったのか。どこから愛するようになったのか。そんなことは分からないほどに以前から、シャロンの心にはアルシェンが住み着いていた。
彼が長く生きられるか分からないと言われても、彼と共に生きることを選ぶのは、当然の帰結だった。
「――シャロン」
やわらかく響く彼の声が愛しくて、その声が紡ぐ自身の名前が宝物だった。
「アルシェン様。今日は起きていても平気なんですか?」
結婚して暫くの彼は、体調も安定しており、いわゆる「普通の生活」を送ることが出来ていた。
「心配いりませんよ」
やわらかく回される腕に身をゆだね、彼の鼓動を聞いて、彼がちゃんと生きているのだと、心に巣食い続ける不安を打ち消す。
「そうだ。今日はハーブティーを自分で調合してみたんです」
シャロンはアルシェンに手招きをして、ソファへと座らせた。
用意をしている間、ゆったりと本を読みはじめたアルシェンに思わず笑みが零れる。
「冷めないうちに飲んでくださいね」
ふわりと湯気をたてるカップを彼の前に置くと、アルシェンは少しだけ視線を上げ、微笑みを浮かべて、また本に視線を戻した。
彼に淹れた茶を自分の中のカップにも注ぐ。それを一口飲んで、ほっと息をつき、じっとアルシェンを見つめた。
幸せだった。何の憂いもなく、ただただその幸せを享受していられる日々だった。
アルシェンがカップに手を伸ばし、それを口にする。
それを飲み下し――、カップが彼の手を滑り落ちた。
「え……」
カップが落下していく。彼の膝に当たって、そこに染みを作りながら床へ。
そして、本も同じように落ちていき、最後にはアルシェンの身体が傾いだ。
「アルシェン様……!?」
彼の身体がテーブルに当たり、食器がガシャンと嫌な音を立てる。
「アルシェン様! ――アルシェン様!!」
彼は床の上で、苦しげに浅い息を繰り返していた。
その日、全ての幸福が崩れ去った。
それまでの健康状態が嘘のように、アルシェンはベッドから出ることが出来なくなってしまったのだ。
自分の淹れたハーブティーが原因かと青くなったシャロンだったが、幸いと言うべきか、それは関係がなかったようだ。
生来の虚弱さが病を招いてしまったのだろうと医者は語った。
アルシェンの容態が緩やかに悪化すると共に、シャロンは次第に焦りを感じはじめた。
彼が死んでしまう。何も残すことなく、この世から永遠に。
その恐怖は、それまではいずれとのんびり構えていた、彼との子がほしいという願望を強烈な執着に変えていく。
だがその頃には、アルシェンの身体も体力も、それを望めるものではなくなっていた。
一日の大半を寝て過ごすようになったアルシェンの傍らに膝をついて、シャロンは細くなった手を握る。
胸が上下するのを見ていなければ、その細く冷たい指は、生きているのかどうかもわからなかった。
「アルシェン様……」
わたしは、あなたの子が――あなたの生きていた証がほしい。
シャロンはアルシェンの手を離した。
立ち上がり、踵を返す。
彼の生きた証を残せるのはわたしだけ。
シャロンはそんな使命感に突き動かされるように、ラシエルの元へ向かった。
『アルシェン様に置いていかれる、って不安なの――』
そう言えば、ラシエルに取り入るのはさほど難しいことではなかった。
出来うる限りアルシェンに近い人物として、ラシエルは容姿こそ似ていなかったが、その身体に流れる血と、声がよく似ていた。
目を瞑れば我慢できる。
それがこの男を選んだ最大の理由だった。
秘匿された手紙のやり取りと、婚約者であったフォリアの目を盗んでの逢瀬。何度目かの夜を超えて、シャロンはようやく念願を手に入れる。
幸い子を孕んだ胎は、服をゆったりしたものにすれば、どうにか誤魔化せる程度の期間が長く続いた。
だが、周囲に子の父親をアルシェンだと思わせるためには、彼が「元気」でなければならない。彼の周囲から人を徐々に排除し、屋敷の奥へ。逆に自身は人々の目を逸らさせるために外へ出る。
幸い、彼が寝込むことはよくあること――だったため、アルシェンの不在を疑問に思う者などいなかった。
妊娠から数ヶ月が経った頃。
ついに隠しきれなくなってきた腹を抱え、シャロンは懐妊の発表することとなった。
その直前、シャロンは眠るアルシェンの部屋に訪れていた。
「アルシェン様……」
すっかりこけてしまった頬を撫でる。
「――シャロン……?」
彼がうっすらと目を開き、シャロンの姿に目を止めた。
「アルシェン様」
シャロンは暫し瞠目する。
彼が反応を返すのは、ここ最近ではもう稀なこととなっていた。
「……今日は綺麗な格好をしていますね」
「えぇ……。これから――、夜会で挨拶をしなければならないんです」
妊娠の発表をするために会を開いた、などと本当のことを言えるはずもない。
「そうですか……。すみません、貴女に負担ばかりかけてしまい……」
「いいえ。愛するあなたのためなら、『負担』だなんて、思っていません」
「……ありがとう。さあ、もう行ってください。皆さんをお待たせしてはいけない」
「……、ええ。行ってまいります」
アルシェンが再び目を閉じたのを確認して、シャロンは立ち上がった
愛する夫の顔をじっと見下ろす。
いつか、彼に腹の子のことがばれてしまうのだろうか。
子供の父がアルシェンでないと知っているのは、シャロンと彼の担当医。それから、アルシェン本人だけだ。
怪しんでいる者は他にもいるだろうが、アルシェンの具体的な病状を知られない限りは確かなことは言えないはずだ。
アルシェンがもし回復すれば――
シャロンは彼から視線を逸らし、踵を返す。
担当医は後で始末する。
だが、当人はどうしようもない。
シャロンは、彼が一日でも長く生きてくれることを祈りながら、心のどこかでは、事が発覚する前に――、と思わずにはいられなかった。
その願いが届いてしまったのだろうか。
その日の夜遅く、アルシェンは眠るように息を引き取った――。
一度狂ってしまった歯車は、歪んだまま回ってゆく。
アルシェンが亡くなった後、シャロンは再びラシエルに近付いていた。
フォリアが成人を目前とし、彼らが結婚する。だがそうなれば、フォリアの子が次の王となるのは明白だ。
産まれた子が男児だったのが、よりシャロンをおかしくさせたのだろう。
フォリアに子がいなければ、「アルシェンの子」が王となる。
ならば、フォリアに子ができる前に、ラシエルを殺してしまえばいい。
アルシェンの担当医たちを亡き者とし、手を血で染めてしまったシャロンにとって、その考えに至るのは難しいことではなかった。
何より、子供の父親に気付く可能性の高い人物を消しておきたかったのだ。
そうして、ラシエルが死に――、次の王は「アルシェンの子」、ではなかった。
フォリアは、ルディスが大きくなるまで、と言っていた。それを信じてみようかと思っていたシャロンの考えを変えさせたのは、フォリアがラシエルの死について、疑問を持っていると知った時だ。
彼らはいつか、「真実」に辿り着いてしまうかもしれない。
フォリアのことを妹のように思っていた、はずだった。
しかしその瞬間、シャロンの目には彼女が目的のための障害としか映らなくなっていた。
ストロファード邸でシャンデリアを落とし、疑いの目をそちらに向けさせたあと、ラシエルにしたのと同じように菓子に毒を混ぜた。
折よく、スレイと仲違いをしったため、彼へも疑いを持つように仕向けた。彼女が自分だけに依存すれば、事件の発覚を遅らせられると考えたのだ。
吐血させてしまったのは、前とは違い彼らが全てに気付くまでにという時間の制約による焦りで、分量を間違えた故の失敗だったが、あれによって腹が決まったとも言えた。
アルシェンが倒れた光景と、一瞬だけ重なって見えた。
それに慄くと同時に、彼を想うならば迷うな、という啓示にも見えたのだ。
だが、それにより、早計な行動をしてしまったのは事実だろう。スレイが気付きはじめている。そのことを理解して焦りが高まっていた。
城の内部に暗殺者を入れれば、そこから辿り着かれるかもしれない。そんなことにも思い至らなくなっていたのだ。
そして全てが発覚し――、アルシェンの次に真実を知られたくなかったルディスに全てを知られ、一時は絶望した。
だが全てが終わり、自由を奪われ、今はは――安堵していた。
これ以上手を汚し続けること。それに、心が擦り減っていたのだと、ようやく気付いたのだ。
「……あぁ」
シャロンはそっと窓辺を離れ、固く閉ざされたままの扉に近付いた。
コツン、コツン、と規則正しい足音が聞こえる。
ヒールが床を叩く音だ。
「フォリア……」
姿を見ずとも分かった。
こんな場所にまで訪ねてくるのはただ一人。彼女しかいない。
扉の小さな覗き窓の外に、想像通りの姿が映る。
最後の記憶にある彼女と同じ、黒いドレスに紗のかかった小さな帽子をつけた姿が見えた。だが、見慣れたそれよりも少し、血色は良く、だがほんの少し――やつれていた。
「信頼していた姉」の裏切り、その女の死を望む声、それらが彼女に心労をかけただろうことは、想像に難くない。
しかしそれでも、シャロンの中に後悔の念は湧かなかった。
最愛の人の死――その恐怖をきっかけに、どこか狂ってしまった自身は、たしかにやり方を間違えたのだろう。
間違えはした。
だがきっと、必要ならば同じ事をすると迷いなく言いきれるほどに、後悔はなかった。
だから彼女が何を言おうとも、詫びも、感謝も、後悔も、何も口にはしない。
「久しぶり、シャロン」
喜び、哀しみ、怒り、安堵――、様々な感情が混ざったような顔をしたフォリアが歩み寄ってくる。
シャロンは口端を上げ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「何のようかしら」
彼女に同情させてはいけない。
ならば、全ての元凶らしく笑うのだ。
シャロンは扉越しのフォリアを、冷たく見下ろした。